■HOME■WORKS■TREATISES■FILMOGRAPHY■ZAREGOTO■about myself■LINKS
■康成サマニ思フ■ |
■康成サマニ思フ■ |
私の母などは、川端康成というと、自殺作家、と思うそうで。リアルタイムで康成様の死を体験した母はどうしてもそういう印象が強くなってしまうのかな、と思いますが、アホな私なぞは、康成様が自殺をされた(と、断定しかねるのか、そこもよくわかりませんが)ことをすっからかんと忘れてしまい、ふとしたことで、そういえば康成様も自殺、されたのだなぁと、思い出して、すごく意外に思ったりして。 不謹慎かもしれませんが、正直、そのことについて、全く興味がわかないのです。どう死のうと知ったこっちゃないさ、とかそういう気では全くないのですが、どうしてだか、関心がわきません。なので「事故のてんまつ」関連のこと、まーったく存じ上げません。なんとなく、あんまり触れたくない部分であるような気も、するのですが。きれいごとを言うようですが、(というかきっと間違っていますが)生きてる間のことを、より考えていたいので、最終的には、自殺、であったかもしれないけれど、作品全部を考える時に、そのことに囚われたくないにゃと。あぁ、キレイゴト。怒られそうだ。 ここで、引き合いに出してよいものか、太宰治にゃんて、私が中高生の頃、多分お友達たちもみんな、何度も心中未遂してる印象が強すぎて、何を読んでも(と言えるほど、私は読んじゃいませんでしたが)全部心中に、結びついてしまって、とりあえず暗い人生だったんだろうなーって感じで、読んじゃいけないような気すらしてました。 便覧なんかの年表を見ると、軒並み自殺・自殺・自殺で、すーごく不謹慎なことですが、自殺をせずに人生を全うされた作家の方の作品は、作品としては弱いんじゃないか、とかすら思ってしまっていたほど、作家と言えば自殺、という先入観が、ずっと、ありました。で、せっかくの作品を、そういう先入観から、誤解してしまっていたなぁと、太宰の作品を読んでいると特に思います。でで、今の文学離れの原因は、こんなとこにもあるんじゃないかにゃと。作家=自殺=暗いって感じで、敢えて、読みたくないし、読んだとしてもそういう先入観から誤解をしてしまっているような。私はめっちゃそうでした。『人間失格』は死のうとしてる人が読むものだと。あんな作品を本屋で手にしてたら、自殺しようとしてると思われる、と。でも実際に読んでみたら泣き笑い。泣きが4で、笑いが6くらい。(これも問題アリな感じですけど) 作品は、作家の後ろ盾がなくたって、面白いものは面白いのだ。どんな作家がどういう状況にあるとき書いたか、知っていた方が面白い場合もありますが、とりあえず、いいもんはいいのだ。作者紹介なんて、かえって失礼だ。いい作品はそれだけで、充分なのだ。あぁ。怒られそうだにゃー。 若者の文学離れが、すごい悲しいなぁと、思っていて。若い時こそ、文学作品をたくさん、読んだ方が良いのに。で、面白いか否かのレベルじゃなくて、文学作品が読まれもしないことが、悲しい事だなあと。って教育委員会の回し者みたい発言をしつつ。 あらゆる文学作品は常に新しいのだ。(例外はもちろんあるけれど) なんか「康成サマニ思フ」のはずが、全然話ずれてしまったな。 |
■康成サマニ思フ2■ | |
一度、「康成サマニ思フ」を書いてみて、あんまり康成サマニ思フことと関係ない事ばかり書いてしまう事に、気付きつつ、また、あんまり関係ない話を書いてしまいます。 康成サマの御姿を思い浮かべてみて、と言われた場合、多くの方が、白髪をオールバックにされた晩年の御姿を、思い浮かべるのじゃないかと、思うのですが。私もそうなんです。 文庫本の作者紹介や、便覧や教科書など、康成サマに限らず、多くの文学者の方のお写真は、得てして、ご高齢を迎えられた、作家・大・先・生って感じのお写真が多く採用されていますよね。やっぱりなにか掟かなにかがあるのでせうか。某大文豪殿は、左側前(でしたっけ?)の横顔の写真しか掲載しないとかなんとかがあったそうですけれど。 突然!ですが
『川端康成全集月報 1969〜74』新潮社 (19巻本『川端康成全集』第十一巻付録 昭和44年6月)に掲載されている、「軽井沢にて」の御写真が好きです。芝生の上に、立膝でくつろがれている御写真なのですが、その笑顔が、普段目にすることができる御写真のものとは、ちょっと違う感じで、好きです。チェックのマフラーをしてらっしゃいます。そうか、お洋服姿なことだけでもちょっと珍しいですよね。 |
■康成サマニ思フ3■ |
康成様にあんまり関係ないですが。なんとなく気になること。 マンガやテレビドラマなんかで、ちょっと曲者風の作家先生、という設定の場合、どうも康成様の風貌を意識されているような気がすること、ありませぬか?だからなんだ、というわけでないですが。 ■例証:『金田一少年の事件簿』露西亜人形館の巻の山之内恒聖。ミステリー作家という設定ですが、風貌がそのものな気が。で、風貌がそうなのは、別に良いのですが、その性格が、無口で何考えてるかわからなくて、じーっとモノを凝視して、表情変えなくて、実は女中さんのお部屋に隠し覗き穴を作って、覗いたりなんかしていたりする、というような人物で。 きっと、そういう人物を描く場合、康成さまをモデル(風貌を、です)に、とかそんな気はなかったのだろうと、思う(思いたい)のですが、そういう風貌の、人物は、えてしてなんかちょっと変態チックな、無表情の裏ですごいこと考えていそうな人物として造形されているなぁと。 2時間物のサスペンスなんかでも、作家じゃなくても、茶道の先生とか画家とか芸術に携わる大先生で、豊かな白髪、痩せ型で眼がぎょろりとしている、ような役はおうおうにして、無表情の裏ですごいこと考えているような、人物だったりしてて。 で、なんとなく、無意識にでも康成様のイメージって、そんな風に受けとめられているのかなぁと、思ったりすると、なんだかねぇ。私は詳しく知りませんが、いろんな話が、ありますよねぇ。それがほんとかどうかは、全然わからんですが。きれいな女の人がいると、周りがドキドキしてしまうくらい、ちーっと見つめてらしたのは、ほんとみたいですね。いろんな方がお話になっておられるし。なにかの本に、吉永小百合ちゃんが主演の「伊豆の踊子」の撮影を、ご覧になっている康成様のお写真が掲載されていたのですが、それはそれは小百合ちゃんを凝視されていました。なにか吸い取っているんじゃないか?と思えるくらい、ものすごい視線を投げかけられてました。というか、小百合ちゃんがいたらきっと私もじぃっと凝視すると思うけど。小百合ちゃんかわいー。康成様が、じーっと凝視されるのは、『掌の小説』の「日向」に表現されています。大好きなお話。 |
■HOME■WORKS■TREATISES■FILMOGRAPHY■ZAREGOTO■about myself■LINKS