:マルチ商法にもなれず科学にもなれず

 

サイエンスライターが提供する記事の妥当性は経済によって支配されているらしく、かなり早い段階でその質の向上は頭打ちになります(*)。しかし組織ジャーナリズムや、あるいはライターとして有名になった研究者を見れば分かるように、経済的に豊かであってもその質の向上はさほど望めません(*)。

しかし反対にいうとどこまでも際限なく質が劣化するわけでもありません。例えばの話、

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などという文章が新聞や本をにぎわすことは(ジョークでもない限りは)ありません。文法が破壊され尽くされた文章が掲載されることもまずありません。マルチ商法が堂々と掲載されることも、まあ、無いとはいいませんが、少ないですよね。つまるところサイエンスライターだろうが組織ジャーナリズムだろうがあんまりなものはやがて淘汰されてしまいます。

とはいえ、もっと向上できるはずなのに質はある段階で打ち止まり、それ以上向上することもまたありません。なぜでしょう? これはおそらく、淘汰が働かないか、あるいは逆の淘汰が働いている結果かと思います。先のコンテンツではサイエンスライターの中(あるいはジャーナリズムの中)にはほとんどまったくリサーチしないで記事を書いてしまう人がいるという話をしました。

*余談ですが、サイエンスライターに記事を発注しないで、編集部内部で書いてしまう場合もあります。言ってみればサイエンスライターに外注すると発生する出費を編集部内の給料に吸収したということです。本代やリサーチ代などを削る以上の、究極の削減です。もちろんこのような選択が即、記事の内容の劣化につながるものではありえませんが、慣れない分野で知らないことを調べて書く以上、記事の内容がどえらいことになってしまう場合もあります。でも、しょうがないですよねえ。お金も時間も無尽蔵にあるわけではありません。

ライターをシェフに例えるのなら、本や論文、インタビューや取材は野菜や肉、卵などといった原材料に該当するでしょう。ライターだろうが組織に属する記者であろうがそうした原材料を加工して食べやすい料理にする作業をしているのだと言えます。ほとんど材料そのままに出す人もいれば、加工しすぎて原型をとどめていないものを出す人もいます。ですが、以上に上げた「ほとんどまったくリサーチしないで記事を書いてしまう人」はそもそも原材料を仕入れていないわけです。すでに例えたように段ボールで料理を作ってお客に出しているようなものでしょう。

ところがこのような状況にお客が気がつくことはほとんどありません。あるいはほとんどのお客が「材料そのままの記事」も「仕入れはしたが加工しすぎた記事」も「ほとんどでまかせな段ボール料理に相当する記事」も、どれもこれも全部丸呑みにしてしまいます。もちろん、よほど怪しいものには疑いの目を向けますが、それでも例えばマルチ商法にひっかかる人が少数でもいるように、識別できない人は識別しません。

考えてみれば当然だと言えます。私たちはレストランへいく時、スーパーへいった時、そこに置いてあるものを食べられるだろうか、危険ではないだろうかといちいち疑ったりしません。疑うのは何か事件が起きた時ですし、疑う時ですら「これも○○だから危険ではないだろうか」という程度のかなりアバウトな識別です。ハチに刺されたから黄色と黒のしましまは全部避けよう、そんな程度の識別だと言えるでしょう。自然なことではありますが風評被害が発生するのはこのせいかもしれません。

もちろん、常日頃から疑ってかかる人もいますが、疑うことは知っていても識別できる能力をもっていないことがしばしばです。実際、ウンチクを語っているのに頼りない人っていますよねえ? 

識別できる能力、例えばアワビと称する肉を食べながら「これってあっこの巻貝の肉だろ? 本当はアワビでもなんでもないよね。この前調べたら歯舌の形があの系統群で、明らかにアワビなどではなく、、、」と発言する能力と知識を持っている人はごくわずかです(そういう人に限って分かった上で食べたりしますが)。

同じことが科学にせよ、報道一般にせよ言えるでしょう。例えば人間を次の3つに分けるとします。

A群:読んだ本や記事をほとんどの場合、鵜呑みにする。正しいかどうかはいちいち調べない

B群:鵜呑みにしないで考えるが、リサーチが不十分で正しい答えに辿り着けない

C群:鵜呑みにせず、考えてリサーチし、自力で正しい答えに辿り着ける

そして人間の集団においてA群、B群、C群が占める割合をグラフっぽく示せばこうなるでしょうか。

    □

    □

    □

   □□□

   □□□

  □□□□□

    ABC

ざっと言えば集団の中ではA群が平均的であり、圧倒的に数が多いでしょう。私たち(の大部分)の日常の行動はまさにそれです(なおA群より左の集団はここでは取り上げません)。

一方、B群は少数です。実際、本や記事を鵜呑みにしないのはいいけども、論文や教科書を読むところまではいかずに独自の仮説を唱えたり、新説を思いつく(思いついちゃう)人は結構いますが、絶対的な数はA群よりも小さくなります。

C群はB群よりもさらに少数です。実際、鵜呑みにしないのみならず論文や教科書を読み、科学の世界で現状スタンダードとなっている解析手段を理解し自力で妥当な答えに到達できる人は極わずかです。こういう人々が訓練を受けると科学者になれるのだとも言えるでしょう。実際、記述を鵜呑みしたり、自力で答えを探索できない人間が科学者として業績を残せるかというと、それは不可能ではないけども、いろいろと無理がありますよねえ、明らかに。

さて、人間がこのような集団から成り立っている、あるいは、

鵜呑みにする/しない

答えを探索する/しない

答えの探索にエネルギーを充分以上に投入できる/そこまでできない

答えの妥当性を適切に評価できる/できない

をざっくりとX軸に取り、人間の数をY軸にしてその分布を図示した場合、以上のようになると簡単に仮定します。

ここからサイエンスライターや組織ジャーナリズムの動向を予想するに、彼ら(私も)は記事を売るのが仕事ですから、一番大きな消費者層に適する商品を提供するでしょう。ようするにA群向けのものを販売するわけですね。これ自体は悪いことではありません。問題はA群は示された情報の妥当性をいちいち確認しないということです。このことは記事の妥当性には淘汰があまりかかっていないことを示しています。

おそらくサイエンスライターや組織ジャーナリズムにかかる「記事の妥当性に関する淘汰圧」は大きなものではありえないでしょう。A群はそもそも妥当性を調査したりしませんし、B群は情報の妥当性を確認しますが、リサーチが不十分なのでしばしば間違った突っ込みを入れます。これでは適切な淘汰になりません。C群だけが適切な淘汰を加えることができますが、極少数派なので淘汰はあっても淘汰圧として作用しません。

このような予想はサイエンスライターや組織ジャーナリズムの妥当性が早々と頭打ちになってしまうことを説明してくれると思います。先に高い給料と安定的な将来を約束された場合、利益を最大にするにはコストを最小限にすること、ルーチンワークだけして妥当性の向上をそこで打ち止めにすればいい、そのように説明しました。しかし実のところ、これが成り立つのは妥当性の放棄、あるいは向上の放棄がコストにならない場合です。言い換えれば、人間の集団においてA群が絶対多数である限り(ついでにいうと鵜呑みにせずに考える人間の多数が実はB群である限り)、妥当性の放棄はコストになりえません、だから妥当性の追求それ自体をコストとして放棄できるので、向上は頭打ちになるということです。

これにはジャーナリズムが売り物にしている商品の特殊性に原因があるのだとも言えるでしょう。レストランで有害なものを出せば一発で指導が入りますし、閉店ということもありえます。無害でもまずいものを出せば、まあその運命はおよそ決まっています。これは人間は有害なもの、まずいものを感じ取る力があるからです。この場合の感じ取る力には死んでしまうという結果まで含まれていますが、それだけに人間は食べ物に対して敏感です。ですから淘汰が強烈に働きます。先のA群、B群、C群の話も、こと食べ物に関しては加える淘汰圧がずいぶん違ってくるはずです。

しかし記事にはそういうことがあまりありません。言ってしまえばサイエンスライターも含めてメディアの商品である情報には嘘もあれば勘違い、思い込みさえ混ざっていますが、実のところ実生活においてはどれもほとんど無害です。恐竜の絶滅が隕石であろうが、あるいはマントルプリュームの周期的浮上であろうが日常生活には関係ありません。命に関わることでないから淘汰が弱いですし、淘汰が弱いからこそ妥当性とは関係のないぶれが発生します。

例えば、もし私が「恐竜絶滅は隕石衝突が原因ではないし、地球上で起きた大量絶滅はすべてマントルの活動で説明できる」と言ったとしましょう(そういう仮説自体は一応あります)。それを聞いても多くの人は、あーそうなんだ、と思うだけでしょう。つい先頃、恐竜の絶滅はもう隕石衝突で決まりでいーじゃん、という論文が出ましたが、まあ、ほとんどの人はこんなことまでいちいち調べないでしょう。確かに関心を持って調べた人なら、「あれ? 北村の言っているプリュームなんとかっておかしくないか?」と違和感を覚えるでしょうが、調べない人は気がつきません。

*恐竜絶滅は隕石衝突でよくね? という状況を知りたい人は例えば「白亜紀に夜がくる」「恐竜学 進化と絶滅の謎」を読んでください。KT境界での大量絶滅イベントに関する北村自身の実際のスタンスを説明した書籍はこちら→   ちなみにここで私が言っていることは「北村のチョイスが絶対的に正しい」ではありません。北村はこの仮説が研究者の間で最も支持されており、かつまた妥当なものであると認識し、これを選択した、その内容と妥当性の根拠はこういうところを見れば解説されています、というだけのことです。

このように科学記事の妥当性に関して作用する淘汰圧はごく弱く、正直なところ浮動状態にあるとさえ言ってもいいでしょう。以前、話題になった「発掘!あるある大事典」の問題などはまさにこうしたことを反映していると私には思えます。番組の内容は明らかにおかしいにも関わらず、無害であるということから問題は表面化しませんでした。というか一部の人は前々から「これ、明らかにおかしくね?」と思っていたけども、それは問題を表面化させるほどの淘汰圧には(最低限、直接には)ならなかったわけです。番組打ち切りの理由もデータが虚偽であったこと、とされています。

端的に言ってしまえば、

:どんなデータをどう解析して、どうやって因果関係を出したの?

:本当にそんな因果関係があるの? 

:その結論はどの程度の確からしさで言えるわけ? 

:それ、論文にできる? 

という妥当性の保証それ自体は問題にされなかったということですね。

サイエンスライターであろうが、組織ジャーナリズムであろうが、それがマルチ商法にまで劣化してしまうことはまれです。しかし、科学の域にまで妥当性を向上させることもまたありません。そのはるか手前でストップしてしまうでしょうし、事実そのように振る舞っているように見えます。

サイエンスライターは記事と情報を売っています。お客さんの大半はレストランの料理やスーパーの生鮮食品と同様の”誠意”を、自分が買った記事と情報に期待しているではないでしょうか? 

嘘はついていない、勘違いはない、間違いもない。まあ世の中には誤植とかがあるのですから、勘違いは最小限、間違いも最小限である、当然そういう期待を抱いているものと思われます。それは当たり前ですし、それを保証するのはサイエンスライターや組織ジャーナリズムの職業的な倫理であると言えます。しかし、先に述べたように理念それ自体はまったくの無力ですし、当然、妥当性を保証してはくれません。

科学の世界では仮説を検証することで妥当性を判断します。食べ物もそうでしょうし、車もそうでしょう。個人的に思うに、科学者や主婦、技術者、あるいはジャングルのハンターも妥当性の経験的な追求という点では同じ世界にいるのでしょう。ですから誰もがサイエンスライターや組織ジャーナリズムに妥当性を求めるのは当然だと考えますし(実際、当然なんですけどね)、それを期待します。

しかし残念ながらサイエンスライターや組織ジャーナリズムはそういう世界に所属する者達ではありません。もはやほとんど異界の住人と化している、あるいはいつ異界の住人になってもおかしくない、そういう者達だと言うことさえできるでしょう。

「読者が知って得をした」そういう満足感を与えればそれで成り立つ、妥当性の追求や確からしさは問われない呪われたカテゴリー、それがサイエンスライターです。

 

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