:巨大組織で経済的に安定でも質の向上は頭打ちになるんじゃね?

 

さて、幾人かの人に同じような質問をされたので、一応、北村としての答えを書いておきます。

 

Q:日本の組織ジャーナリズム(テレビや新聞のこと)はパワーが失われていると思いませんか?

A:別にいいんじゃないですか? 組織の中にいて一番利益を上げる方法は危険なことをしないことです。つまりそれは安全牌を選んだ結果でしょうし、別にいいじゃないですか。

 

 当たり前の話ですが、こういう真面目な質問をする人は、大抵の場合、こんな答えに満足したりはしません。より詳細に説明するとこうなります。

:ジャーナリズムは正しい報道をしなければならない、というのは単なる理念でしかない

:理念は理念それ自体を正当化できるが、その正当化は循環論法みたいなもんで、それ自身では意味がない

:つまるところ理念は意味をもたない

:人間はコストを避けて、利益(ベネフィット)を最大にしようとする動物であると仮定する

:以上を仮説として、この仮説が人間の行動や動態を説明できるとする

:組織ジャーナリズムは「高い賃金と将来の出世が約束されている安定的な環境」であると仮定する

:このような安定的な環境では、成功すれば利益が出るが、失敗すれば代償を支払わねばならないという選択肢を選ぶ必要はない

:高くて十分な給料が保証されているのであれば、決まりきった道という安全牌をとれば良い

:代償を支払う可能性はあるが、それでもなお新しい何かを見つけること、これを活気やパワーと呼ぶのであれば、安全牌を取ることは活気やパワーが失われたということとほぼ同じである 

ようするにこれを書いている、このように回答している北村は、組織ジャーナリズムから活気やパワーが失われたとしても、それは巨大で安定的な組織としての必然でしょう、と言っているわけです。もちろん理念としてそれでいいのか? と問うことはできますが理念それ自体は無意味なので、それを問うこと自体は無意味であると言えます。

理念として言えば「そりゃあ駄目でしょ」なんですが、「理念からすれば駄目だって言ってもみんな聞かないのが現実だよね」ということ。

では理念が無意味とはなんぞいや?

理念という言葉をどう解釈するのか、という問題もありますが。ここでは次のような例え話をしましょう。人殺しは悪である。そのような理念があるとします。これを人殺しは絶対的に禁止されるべき行為である、と解釈する人もいます。そうした解釈に立つと死刑や戦争はいかなる場合であれ禁止されるべき行為と言うことができるでしょう。

:人殺しはすべて絶対的に禁止である

:戦争と死刑は人を殺す行為である

:ゆえに戦争と死刑は絶対的に禁止である

これはまったく論理的であると言えます。ところが人は残忍な犯罪を目の当たりにすると、犯人を死刑にしろ、と言います。敵から侵略されると例え防衛のためであっても戦争をしてはならないと言っても、まあ皆そんな言葉を聞きそうにありません。占領軍の首を自転車ですれちがいざまにかっさばく人だっています。人によっては人間のこうした行為を見ておかしいと言います。それはそうでしょう。人殺しは絶対してはいけないと誰もが言うのに、場面によっては人は人殺しを正当化するからです。以上にあげた論法を真に受ける人物であれば、人間のこうした営みは論理的ではないと言うでしょう。

では北村はどのように受け止めるのかというと次のように考えます。人間の行動を見る限り、人間のほとんどは「いついかなる場合であっても人殺しは絶対にしてはならない」とは思っていないんじゃないの? 

言い換えれば人殺しは絶対的に禁止であるという理念は、人間の行動を説明することに失敗しているということですし、事実、説明に失敗しています。

考えてみれば当たり前ですね、理念は目指すべき状態、するべきことを述べたものですが、何かのメカニズムを説明するものではありません。例えばの話、道徳は人間のすべきことを示していますが、人間の行動を説明してはくれません。サクラの枝を折ることは道徳が禁ずることでしょうが、道徳はなぜその人がサクラの枝を折ったのか、その動機や理由、そこまで至った過程を説明してはくれません。

理念は人間が何らかの理由で提案した約束事なのでしょう。でもそれ以上のものではありません。ようするに理念はそれ自身ではまったく無力です。もちろん理念であれ理想であれ、宗教であれ何らかの確信であれ、これらはすべて敵を討ち滅ぼし、相手を皆殺しにしたり奴隷化することさえ正当化できますし、事実そのように使われてきた強烈な兵器でもあります。しかし理念それ自体に相手を殺す力はありません。理念は何らかのメカニズムを理解し、それを用いて敵を殲滅する力と動機を持った者に、正当化というさらなる力を与えるものであって、別に理念自体は何も語ってはくれません。こんな物騒なものをなんで世の中の人がありがたがるのか私にはよく分かりませんが、逆に言えばここまで物騒なものだからありがたがるのだ、とも解釈できます。

メディアは真実を伝えるべきであるという理念はそれ自身ではまったく意味をなしません。そして無意味な理念を取り除いてしまえば、マスメディアの挙動は単純にコストとベネフィットで説明できるんじゃないですかね、安全牌をとればそうなるのは当たり前だし、人間ならそうするのが当然でしょ、というのが北村の意見です。

また、組織ジャーナリズムは時間的に非常に厳しい条件に置かれています。例えばの話、もし私たちが赤道ギニアの経済の問題を洗い出して、状況説明とそれなりなコメントを800字にまとめて提出しろ、1時間以内、と言われたらどうするでしょう? ネットで調べるでしょうか? 海外の記事を幾つか見つけてきて、それを切り貼りしてらしくするでしょうか。あるいはとにかく人に電話してコメントをとるでしょうか。でもそのコメントが本当に正しいのかどうか、それをどう調べたらいいでしょう? これは極端な例え話かもしれませんが、そんな場合どんなことが起こるのか大体予想はつくというものです。

ともあれ、ここで一番問題になるのは次のようなことです。組織ジャーナリズムがパワーを失ったのなら、そしてその原因は安定的で将来を保証された環境において人間が安全牌を選ぶからだ、この結論と予測が正しいとした場合、

:経済的に保証されて安定しても、ジャーナリズムが提供できる記事の質はある段階で頭打ちになるんじゃねーの?

とまあ、このようなことが言えそうです。先のコンテンツでは経済的な選択圧がサイエンスライターの記事とその内容に上限をつけるだろう、という予測を話しました。しかし、以上のような事柄は経済的な選択圧が弱まってもサイエンスライターを含めたジャーナリズムの記事と、その質はさほど向上しないことを示しています。

実のところ「経済状態が改善されても記事の質はさほど向上しないか、あるいは意外と早く頭打ちになる」というイヤな予測には、それを裏付けそうな事例が他にも幾つかあります。

例えば世の中には研究者でありながらこの人はサイエンスライターに転職したのか? と思えるほど副業に手を出す人がいます。確かに科学というのは長い目で見ないと成果は出ません。国際誌に通るだけの論文を書く時間(数年?)より、本を書く時間(3〜4ヶ月)の方が明らかに短いでしょう。ですから論文に対して啓蒙書の方が多くなりうるというのは理屈の上では分かります。ある程度の立場になった研究者は組織を束ねる必要がありますから、必ずしも昔のようにファーストオーサーで論文を書けるわけではないでしょう。それにこうした啓蒙書で文字通り啓蒙活動として大きな成果をあげた研究者もいます。北村自身も研究者が書いた幾つかの啓蒙書(教科書や論文集を抜かす)を重宝しています。

しかし本業があまりにもおろそかすぎやしませんか? という人もいますし、いやむしろこういう駄目な人の方が多いんじゃないでしょうか? あるいはそういう人がやたら目立つと言えます。先のコンテンツでは

年収=(t1-t2)×本業の単位時間あたりの収入+t2×副業の単位時間あたりの収入

*t1,t2はそれぞれ本業と副業にさく時間のことで、t1+t2が年間あたり自分が働ける時間となる。自分が働ける時間は有限なので、副業の時間を増やすと本業にさける時間が減ってしまう。年収を増大させるには本業の単位時間あたりの収入を増大させるか、あるいは副業の単位時間あたりの収入を増やすしかない。ただし、t2×副業の単位時間あたりの収入が充分に大きいと、転職が可能になってジョブチェンジが発生する。なお、サイエンスライターの抱える問題をブログで書いた方がいて、そのブログに対してあるブロガーが「ライターは副業をしてもいいんじゃないか?」と書いていましたが、そういう提案を聞いて「それは目からウロコ!!」と感動するライターはいないでしょうね。

という風に示しましたが、以上のような人をこの式で考えると「t2×副業の単位時間あたりの収入」が充分に増大したので事実上転職してしまったのだとも言えるでしょう。研究者という職業の性質上、年収を増大させるにはそれしか(あるいはそれ以外にあまり)方法がないとも言えるわけで、しょうがない結果であるとも言えます。もっともそんな選択肢をとる必要が科学者として本当にあったのか、という問題はありえますが。

しかも問題はそれだけではありません。弱ったことに、本業がおろそかだ、というのならまだしも、本業からしてガタガタだし、副業の内容だってあんたこれ駄目じゃんよ、という場合がままあるということです。ようするに本は売れているけども科学の啓蒙活動にまるでなってないという場合です。

研究者は経済的に比較的安定的な立場ですが、こうした事例を見るに、やはり経済的な安定は記事の妥当性を保証してくれるわけではないようです。

また、このことは記事の妥当性は経済によっても支配されるが、別の要因によっても支配されていることを示しています。ではそれはなんでしょうか?

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