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展覧会の紹介
(敬称略)
札幌の美術2003 19+1の試み展 |
2003年3月5日(水)〜16日(日) 札幌市民ギャラリー(中央区南2東6) |
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(その1) 本という素材 | ||||
展覧会のスタイルが変わって2年目。 2001年までは、作家と評論家がおよそ180人の作家を選出し、いわば札幌市内の美術のベスト盤という形式だった。 昨年から、6人のキュレーター・評論家が、20人を選ぶというかたちに変更。会場の大きさは変わらないから、公募展などには出品がかなわない大作を出せるようになった。 また、全作家のワークショップやギャラリートークが会期中おこなわれることになり、難解な現代美術系の作品が増えたことをカバーしている。 さらに、作家の住所を、札幌市内にかぎらず、周辺の市町村にも広げた。ことしも、江別や石狩など、一昨年までは見られなかった顔ぶれがそろっている。 ただし、昨年初めて実施された午後8時までの開館は、ことしは見送られた。 入館者が少なかったためだろうか。 |
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竹居田圭子は、本を使った「愛書家たちの奇怪な行動」と題して、本を素材にした5点の立体とインスタレーションを出品した。 いまだから正直に書くけど、彼女の作品で深く感心したのは初めてである。 本をつかっていろいろおもしろい試みにとりくんではいたが、作者の説明がないとコンセプトがわかりづらいことが多かった。 さて、今回はシンプルである。 中央には、百科事典などを天井まで積み上げて、柱状にした「積読(つんどく)主義」。 そのとなりには、市内のコンビニエンスストアなどで配布しているフリーペーパーを焦がしたものを、五つの束に重ねた「唯一(ユニーク)への執着」。 さらに、ショッキングなのは、文学全集などの本を縦に切断して、背が見えるように壁にならべて貼り付けた「標本」である。 筆者くらいの世代までは 「本はありがたいもの」 という固定観念があるから、とりわけ、名作とか古典とか呼ばれているものが、このように無造作にあつかわれている光景を見ると、ギョッとしてしまう。 おなじ文字情報を書いた紙でも、新聞紙が魚屋で包装紙として使われることにはまるで抵抗感はない。絵のコラージュの材料につかわれていてもおなじである。しかし、よく考えてみると、プルーストやショーロホフのほうが、新聞に比べて、常に、だれにとっても内容が豊かで、ありがたがる理由があると決め付けることはできないだろう。とすると、それは単に習慣とか先入観の問題なのだ。 素材になった本は、彼女の住む南幌町民(空知管内)に呼びかけたり、ブックオフで買ったりしてあつめたという。 「積読主義」には用いられている「ライフ/人間と科学シリーズ」について作者は 「カラー写真がふんだんに使われているし、読んでてすごくおもしろいし、ためになるんですよ。でも、ブックオフとかでは100円で売られている。ものの価値ってなんだろうって、考えちゃいますよね」 と言っていた。 |
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価値とはなにか、という問いは、経済学の大問題だった。 そこまで大上段にふりかぶらなくても、本の価値という問題は、いろいろ考えてみるとおもしろい。 たとえば、或る本が好評だったので、しばらくたって文庫化されることになったとする。 最初の単行本が1500円で、文庫化されたら500円と仮定する。それで、この本の価値が3分の1に下がったかといえば、そういうことではない。 むしろ、洛陽の紙価を高からしめたがために、値段はやすくなったのである。 あるいは、スーパーマーケットで、おなじ重さ、品質、産地のキャベツが売られていて、片方が150円で、もう片方が140円だったら、たいていの人は後者をえらぶだろう。 ところで、書店で、「坊ちゃん」と「三四郎」をくらべてみたら、「坊ちゃん」のほうがやすいという理由でそちらを買うという人はあまりいないにちがいない。 かように本は、究極の「多品種少量生産」なのである。 ここでもちいられている百科事典や世界文学全集、日本文学全集のたぐいは、高度成長期の日本の家庭で数多くそろえられたものである。 教養を求めてやまぬ日本人の姿勢のあらわれである−といえば、聞こえは良いが、じつは、インテリアの一種として購入されたという側面があるのは、否定できない。 いま、これらの本は、ブックオフなどで二束三文で売られている。一般の古本屋では、ほとんど相手にされない。 売れないのである。 新刊書店でも、この手の本はあまり見かけなくなってしまっている。 百科事典は、情報が古くなると価値が下がっていくのもやむをえないという面がある。状態良く100年保存されれば、これはこれでまた高値になる可能性はあるだろうが。 でも、文学全集のバルザックやトルストイが、40年かそこらで急速におもしろくなくなって、価値をうしなってしまったのかといえば、そんなことはないだろう(バルザックの「ゴリオ爺さん」を読んでまったくつまらなかったという人がいたらぜひおめにかかりたいものだ)。 ただ、平均的な「教養」の像が崩壊してしまい、多面化しているということだけは、いえるだろう。 価値でふしぎなのは、本だけではない。 美術作品はもっとふしぎだ。 つい先日も、或るオークションで予定価格が1、2万円とされていた油彩が、ゴッホの真作とわかり、じつに6600万円という高値で競り落とされたことは、大いに話題になった。 絵はおなじなのに、作者がわかっただけで価格が6600倍になってしまうふしぎ。 今回の「唯一(ユニーク)への執着」にしても、原材料はタダだが(よく考えると、情報が詰まっており、しかも割引クーポン券がついたモノが無料というのもおかしな話なのだが)、竹居田圭子の作品ということになったらあるいは材料費を大きく上回る価格がつくかもしれない。 すっぱり切り落とされた本は、この情報過多の日本で、ものの価値がどうなってしまっているかを、見る人に考えさせる触媒になっているのだと思う。 |
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調子に乗って本のことを書きすぎた。 さて、今回は、小川智彦も、本を素材にした平面作品(インスタレーション)だ。 |
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「128ページの小径」など3点は、すべて同一の植物図鑑からなりたっている。 それを、コンピュータでスキャンして、短冊状に切り、裏のページと表のページを格子状に組み合わせている。 小学校の工作で、2枚の色画用紙で、平面の果物かごをこしらえた記憶のある人もいると思うが、あれとおなじ原理です。 つまり、裏と表が同時に読めるようになっているのだ。読めないけど。 竹居田さんとおなじく本をテーマにした作品になったことについて 「示し合わせたんじゃないの」 と作者に聞いたら、偶然だと否定していた。 「アトリエがないとか、そういうのを作品ができない理由にしたくない。どこでも、そのときの条件に合わせて、身軽につくれるようにしたい」 と話していた。 だから、とくに一貫したテーマは作者としては「ない」ということだが、筆者はあるとニランでいる。 |
それは 「視覚の変容」 とでもいうべき事態の招来である。 以前、TEMPORARY SPACEでひらいた個展では、同一の場所で1時間おきに撮った24枚の写真を、短冊状にしてばらばらにならべ、24時間を1枚の作品に集約する−ということをやっていた。 それは、今回、1冊の図鑑を解体して、別の書物をつくってしまったのと、どこかで通底するものがある行為だと思う。 つまり、当たり前のように見ている現実というものが、ちょっと手を加えることによって、まったく別の見え方で現出してくるのではないかという問いかけなのだ。 |
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ところで、パンフレットには、昨年ヘルシンキで個展を開いたとか、ヘルシンキのビエンナーレに出品したとか、エストニアの「ビデオ・実験映画フェスティバル」に出たとか書いてあるけど、ぜんぜん知らなかった。 |
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