ボルネオ島は世界で3番目に大きな島です。面積は日本の2倍。
島はマレーシア・ブルネイ・インドネシアの3カ国に分かれていてインドネシアはカリマンタンと呼ばれています。
ボルネオ島の民族状況はかなり複雑。イギリス人がこの地にくる前は、民族名とは社会の中での役割を示すものでした。
考え方や言語の違いからいくつもの民族にわかれています。
コタ・キナバルのサバ州立博物館に行くと、民族ごとの生活様式や衣装、中国との交易、イスラム教の到来etcが詳しくわかります。
立ち寄ってみる価値大!!


★「海の民」と「内陸の民」★

イギリス領になる前は、民族名とは社会の中での役割を示すものでした。
かつては北部の沿岸部にイスラム教徒、内陸部の川沿いに非イスラム教徒が住んでいました。

●「海の民」
沿岸部に住んでいたのがブルネイ族(サラワクからサバの西海岸)とバジャウ族(サバの東海岸)。
舟の操作にすぐれていたことからボルネオの特産物を求めてやってきた中国人や西洋人と内陸部の非イスラム教徒の仲介をし、 軍事や経済を独占していました。

●「内陸の民」
内陸部の特産物を提供していたことから「ダヤク(内陸)の民」と呼ばれていました。
人々はお互いに言葉が通じても見方だとは思わないという考えから、似たような言葉を話す人々がいくつかの小集団に分かれて 生活していました。
そのため、場所によっては「内陸の民」ではなく「ダヤク(丘)の民」「ドゥスン(田舎)の民」と呼ぶところもありました。


★19世紀半ば以降★

この頃から蒸気船の発明によってイギリス人は海の民を追い払い、内陸の民と直接やりとりをはじめました。
そこでイギリス人は民族名を科学的につけて分類を試みたのです。

●サクラワ
ダヤク族は「海ダヤク族」のちの「イバン族」と「陸ダヤク族」のちの「ビダユー族」に分けられ、さらに丘陵部のさまざまな集団は 「ウル(奥地)の民」のちの「カヤン族」「ケニャー族」「プナン族」などと呼ばれるようになったのです。

●サバ
ブルネイの領土の一部がサバに組み込まれたため、内陸の民として「ドゥスン族」と「ムルト族」がいました。
両民族は言語や生活様式で共通点が多く、本来ひとつの民族ではないかという見解もあったのですが、最終的にはふたつに分けられたのでした。
そして、早くからイスラム教を受け入れて独自の生活様式をもっていた人々は、独自の民族とみなされ、地方によって「イダハン族」 「ティドン族」などと呼ばれていました。


★独立以降★

サバとサラワクが独立してマレーシアの一員となると、国民の代表は民族語とに出すという発想から、民族は大きいほうが他の 民族に対して交渉力が大きくなるという考えと、小さく区切ってでもその中で自分がトップになりたいという考えを持つ人が現れ、 様々な思惑によって民族区分が唱えられました。

独立直前のサバでは、もともと内陸の民と呼ばれていたドゥスン族が、民族名の意味が「田舎者」という見下したニュアンスがあるのを嫌がり 「カダザン族」と言い換えました。
しかし「カダザン族」と呼ぶことに内部からの反対も多かったため、同様に内陸の民と呼ばれていた「ムルト族」が「カダザン族」に 含まれるのかは曖昧なままとなっています。

コタ・キナバル周辺以外では「カダザン族」より「ドゥスン族」の方に愛着がある人も多く、現実には以前の「ドゥスン族」を名乗る人も たくさんいました。
民族名がどちらかで対立することがないように、1989年以降は公式の場では「カダザンドゥスン族」と呼ぶようになっています。


以上のように「民族とは何か」という考え方が様々なため、ボルネオの民族状況はかなり複雑になっています。
この民族状況は「サバ州立博物館」にいくとよくわかります。
民族語との生活様式や民族衣装も公開されています。
ボルネオ島に行ったら、まずはここを訪れてみると滞在中の見方もかわるのではないでしょうか。

サバ州立博物館は9:00〜17:00・金曜は休館日です。




参考文献:「地球の歩き方」株式会社ダイヤモンド・ビッグ社



RM1=約30円(2001.8現在)



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