み や ご 弁 カ ル タ について  出 版 記 念 祝 賀 会・ 同 窓 会 報 に 寄稿 
「みやご弁カルタ」について
出版記念祝賀会に招待されました

宮古第一中学校同窓会報に寄稿
          2008/1/9  new
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    出版記念祝賀会に招待されました    
拡大します






 「みやご弁カルタ」が、出版されて配達が始まったのは7月27日、その後9月末までに2100個
が販売されました。 その後もじわじわと売れています。宮古の世帯数はおよそ2万世帯と言わ
れていますので、10軒に一軒は持っている、と言うわけです。市内での出版物は300個から
400個が上等と言われていますので、みやご弁カルタがどんなに人々に喜ばれたかを物語って
いると思います。
 ある日「宮古市芸術文化協会」の事務の方から電話が入りました。「今年の出版記念祝賀会」の
御招待でした。勿論「みやご弁カルタ」の出版に関してでした。 「宮古市芸術文化協会」とは、
短歌の会、お能の会、合唱の会、写真クラブなどなどの各界の代表で協会を作って、25年前に
設立されたのだそうです。一年に一回、市内在住で、著作のあった人を顕彰しようというのが出版
記念祝賀会の目的なのだそうです。
「みやごのごっつおサイト」の掲示板で呼びかけました。主催者のOCCOさん、絵札の殆どを描いた
海猫屋さんに出席を呼びかけました。12月21日、今年宮古に初めて雪が降った日、会場で三人が
顔をそろえました。
会場には著作者を含めておよそ60人が出席していました。
会長の菅原淳さんは「貧しかった25年前には、この会は意味があったが、もう役割は終わったと思う。」
と話されましたが、まだまだ必要なのでは、と感じました。

  
  










    宮古第一中学校同窓会 から 原稿依頼    
       みやご弁カルタ出版についてもうひとつ話題があります
ある日宮古第一中学校(出身中学)の同窓会事務局から電話が入りました。
「宮古第一中学校の創立60周年の同窓会報」に特別寄稿を依頼する、と言うものでした。
このあわただしかった一年をふり返るのも意味のあることだと思いましたので、ひきうける事に
しました。原稿は12月10日には仕上がりました。そしてこの同窓会報は、12月30日の「岩手日
報」の折り込みちらしに入りました。岩手日報をとっていない人には届きませんが、たくさんの人
に届いた事は確かでしょう。ご紹介いたします。

           「みやご弁カルタ を作りました」  
  一中に在学しましたのは昭和28年春から、昭和31年春までです。
当時まだ戦後であり、みんなが貧しく、しかしなぜか教師も生徒も未来を築くのだ、という
気概に燃えていた時代でした。その時代の先生方からの熱意は、何か事あるごとに、半世紀
たった今も情景と共に思い浮かんできます。例えば坂口忠先生からは理科を教わりましたが、
今で言えば総合学習であったと思います。目標を定め、計画を実行し、文と表・図で表現し、
まとめて、自分の判断を結語として示す。これは今回のカルタ作りにもつながるものでした。
 又川目英雄先生は3年の時の担任でしたが、多数の人の前で意見を述べることを教わりまし
た。英語のスピーチコンテストも日本語のそれも、まず心が第一である事、次が表現の仕方
である事など、他人への訴え方を教わりました。今回のカルタ作りはインターネット上で始
まったものですが、先生から教わったことはずっと生きていました。 それから、増坂先生
からは、美しいものを感じ取る感性のみがき方を、教わったように思います。今回のカルタ
の絵札49枚中47枚を描いた海猫屋さん(ハンドルネーム)も、河南中学時代に増坂先生から
美術を教わったのだそうです。何十年かたった今も師の教えが心の中に生きていると言うこ
とは素晴らしいことではないでしょうか。
  前置きはこのぐらいにして本題に入ります。
22年前は盛岡赤十字病院の小児科医師として勤務していましたが、当時パソコンを持っている
人は院内で2,3人に過ぎません。そばで見ていても難しくて、「一生やることは無いだろう」
と諦めていました。その後宮古駅前に開業しまして、どうしてもメールができなくてはならな
い状況に陥りました。詳細は省略。一週間に一回ずつ家庭教師の先生に来てもらう事にしまし
た。 半年たって気付くと、うちだ小児科クリニックのホームページを開設しておりました。 
年を重ねるほど、「人生の残り時間」を考えるようになり、「伝えておきたいこと」がある
ことに気付くものらしいのです。表現することはとても楽しく、全く知らない人がHP(ホー
ムページ)のファンであったりします。又時折よそのHPも覗くようになりました。昨年から
「農家の嫁の事件簿」と「みやごのごっつお」サイトのファンになりました。「みやごのごっ
つお」サイトは、宮古出身者で、大体は都会で仕事について活躍している人たちで、しかしそ
ろそろ宮古が恋しくなった人たちが、掲示板に投稿しているのでした。
  昨年9月15日のことです。海猫屋さんの投稿です。「みやご弁カルタを作りませんか?」
そして例として【あ】「あんまりげーだ、娘のパンツはぐな、かーやん」という読み札が載り
ました。もうおかしくてお腹が痛くなるくらい笑ってしまいました。毎日、面白い読み札が続
きました。毎晩、あたかも晩酌のように、楽しみました。そのうちecoちゃん(私)もむずむず
してきました。ついに我慢できなくなり9月20日に投稿しました。【す】「すっとぎは みやご
の ずまんのごっつおだ」それからもうひとつ 【せ】「せっこぎーすねーで かせげー!」
の2枚です。毎日毎日いろんな人が投稿しました。気が付いたら私は21枚も投稿していました。
OCCO(中居)さんが19枚です。実はこの方がみやごのごっつおサイトの主催者です。
一枚につき、4通り5通りの投稿が重なるものもありました。10月30日にはすべて終了しました。
あがりの【京】「京の都より 岩手のみやご」は海猫屋さんの投稿でした。










  その後が大変でした。絵札は簡単にはできないのです。海猫屋さんがせっせとパソコンの ペイントと言うソフトで描いては投稿します。11月、12月は、夜と・休日を費やして張り切って くださいました。49枚中47枚が海猫屋さんで、2枚がけむぼーさんの作品となりました。 複数の読み札があったときは絵になりやすい題を選んだそうです。そうしてついに12月下旬には、 A4に10枚の名刺を作るパソコン用印刷紙が10枚あれば、絵札と読み札が一組出来上がるという 作品が仕上がりました。これはみやごのごっつおサイトの主催者OCCOさんの仕事でした。 用紙は前もって準備してあったので(コクヨ、エーワンetc.)、12月28日の夜は印刷やさんに変 身して、プリンターに命令を出し続けました。年末で疲れているはずなのに、興奮状態でした。 そして盛岡の100円ショップで買った透明なプラスチックの箱(仕切りがあり、きっちりバネで 蓋が閉まる)に収めてはうっとりと眺めました。多分100個以上のカルタをプリントしたような 気がします。それをどうしたのでしょうか? 沢山の方に差し上げました。元気のでる言葉と 絵が、沢山あったからでした。病気で臥せっている方に、肉親を亡くして悲しんでいる方に...。 差し上げると皆さんが心から喜んでくださるのでした。介護施設、老人施設などで働いている方 にもあげました。ある日のことある女性が尋ねてきました。「先日カルタを頂きました。父が とても喜んでいます。」と言いました。その方のお父さんは、治らない病気で盛岡の病院に入院 していること、なつかしいみやご弁のカルタを毎日みては、笑顔が浮かんでくることを話して くださいました。話しながらその方は涙に声を詰まらせました。聞いているこちらも胸がいっぱ いでうなづくのが精一杯でした。   今年1月のある日、「カルタを2個売ってください」とクリニックに来られた方がいました。 どうもうわさを聞いていらしたようでした。売っているのでは無いことを伝えて、後日印刷した ものを差し上げました。欲しい方が何人も出てきました。日中は消毒綿で指を痛め、夜は印刷や さんで手が擦り切れてきました。そろそろ本当の印刷やさんにしてもらった方が良いのでは無い か、と考え始めました。このカルタが欲しい人はおそらく年配でパソコンとは縁が無い方が多い だろう。年配の方にはもっと紙が大きく、絵や文字が大きい方が良い。多少水に濡れても痛まな いしっかりした紙質が欲しい。できれば年金生活をしていても買える料金が望ましい。などなど カルタ出版のことが日夜頭から離れなくなりました。ついにみやごのごっつおサイトの掲示板に 意見を出しました。主催者のOCCOさん、絵札担当の海猫屋さんと何度も意見を交換しました。 「出版しよう!」と言う決定打はなんだったのでしょうか? ひとつは欲しい方々がたくさんいると感じたこと、もうひとつは事業として信頼できる仲間であ ると感じたことでした。(一部省略)










  始めるにあたって、元手に相当する資金はどうするか、もめにもめました。 ある方の発案で、「1口1万円、30口集めると30万円。それで600個分の仕入れではどうか?」 を、検討しました。もし全く売れなかった場合も考えました。 こっそりと決断していたことがあります。最悪の場合はこの方々への返金は私が担当しようと…。 ひと月1万円のお小遣いを30か月分と考えれば、大きな夢を見たことになります。大きな夢もま た良いのではないか…….。と。そうこうしている内に、みやご弁カルタは宮古市観光協会の皆 さんにも伝わりました。特にNさん、Yさんに支持されました。 3月24日に浄土ヶ浜レストハウスで、カルタ会を開催してくれました。手の平くらいの大きい ものです。裏表に絵があるように、又読み札には半分が文字、半分が絵であるようにしたもの です。発売しているわけではないのに、午前中は20人、午後は13人集まったそうです。読み手は、 クリニックに買いにいらした78才のおばあちゃまのS先生だったそうです。さらにこの事は 「宮古民友」という地元新聞でも取り上げてくれました。 掲示板上で、上記の資金集めが了承されたのは4月中旬でした。 4月30日、宮古観光協会主催、浄土ヶ浜祭り・第一回みやご弁カルタ大会が水産科学館で開かれ ました。会場には50人以上の人が集まりました。例のS先生のユーモアのある、かん高い声は 会場に笑いを誘います。通訳(共通語訳?)は協会のNさんです。この方の冷静な声と、そし て二人の微妙なバランスが、なんとも不思議な雰囲気をかもしだすのでした。さてこの席の最 後に、OCCOさんと私が挨拶の時間をもらいました。ここで初めて「寄付を集めてみやご弁 カルタを出版しましょう!」と提案しました。カルタ大会には何人かマスコミの方がいました。 5月1日、[岩手日報」にカラーで大きな写真が載りました。取り手が、生き生きと写って、後ろ にOCCOさんと私、友人達も写っていました。この後、海猫屋さんは印刷用に絵札を再び描 きなおし始めました。画面が大きくなると色数、画素数も大きくしなければならないのだそう です。   さて寄付は順調に集まったのでしょうか? 5月中旬まで動きませんでした。下旬に入ってどんどん集まりました。38人39万円のところで終 了としました。 寄付してくださった方への約束事として、カルタが印刷された時に3個のカル タを差し上げる事、収益が出た時に7000円を返金する事、カルタケースの中に説明書を入れて 寄付された方の名前を表示する事、その説明書にはカルタ出版までの経緯を記すこと、としま した。OCCOさん、私、海猫屋さんとの間で、何度も厳しい意見交換がありました。寄付集 めをしていた時のエピソードをひとつお話します。坂口先生、川目先生、増坂先生のところに は「恩師と一緒の事業をして、共通の思い出を、作りたい」という考えから伺いました。お三 方とも賛成してくださいました。増坂先生が「おめさんがどーは、てえすたもんだがねー。う そこのひたづど、なあすて共同作業がでぎるんだーべー」とおっしゃった事が印象的でした。 また後日坂口先生には、全体の、ことば使い他のミスが無いか見ていただきました。  又予想もしなかったこともありました。 観光協会のNさん、Yさんから、カルタ読み上げCD30個(後に合計39個)が、寄付されまし た。これは後日カルタ3個と一緒に、寄付された方へ差し上げました。 6月、いよいよ印刷開始か、と言う時になって、絵札のパソコン上の様式が印刷やさんの機械 には合わないのだ、と言うことが判明しました。(今でも私には理解できないことですが。) そのため、海猫屋さんは再々度、別のソフトで、三度目の絵を描く作業に突入しました。筆で 描くのではなく、マウスを使って描くのです。気の遠くなるような作業であったと思います。 特にこの夏は猛暑でもありましたし…。










  6月14日、「宮古民友」紙上で、取り上げてくれました。7月上旬発売予定と。 6月26日、「そげーのわらす 水着のままで 海さいぐ」の図柄で、A3のポスターがどさっと 届きました。150部です。毎日々々配って歩きました。 友人知人にも依頼しました。東京の分 は、OCCOさんに30部送りました。大事なのは本屋さんですが、品物も持たずに言葉だけで説 明するので、なかなか理解してもらうのは困難でした。今は昔ですが…。 6月30日、海猫屋さんが最後の絵札を仕上げました。待ちに待った印刷開始です。 「紙質を見に行ってください」とのミッションで、友人Kさんと見に行きました。やっぱり厚み のあるしっかりしたものに食指が動くのはやむを得ません。この後のカルタ印刷というのも大変 でした。機械に色を入れてしまうと、洗わない限り、よその印刷業務ができないのだそうです。 カルタ部分刷りの大きな紙が、何度かクリニックに届きました。誤字脱字を見つけるのは大変不 得意なのですが、宮古在住の私が、やむを得ず点検係をしました。印刷が終りますと、ラミネー ト加工が宮古の印刷やさんではでは無理と解りました。最後は仙台の印刷やさんに依頼したのだ そうです。7月5日「カルタを5個売ってください」とクリニックに来客がありましたが、待って もらいます。6月以来、友人の本屋さんKさんは、市内一帯に予約を取る作業をやってくれまし た。すでに300個予約済みです。  まだかまだかと各本屋さんから催促があった後、7月27日夕方に500個が届きました。カナカナ と鳴く、セミ達の合唱に包まれながら配達に歩いた感激は、一生忘れることは無いと思います。 さらに7月30日250個、31日250配達しました。絵札49枚、読み札49枚をケースに詰めて封をする 手作業は思ったより大変で、隣近所・親戚総動員して仕分けをしたそうです。 この3日間で、 1000個すべてを配達しました。各本屋さんは「予約分完売です」との事でした。その後も印刷・ 販売を続けるかの意見交換の後、お盆から9月いっぱいかかって、2100個を完売しました。始め は1個1000円の小売り値としましたが、それではどんどん赤字になるので、やむを得ず1300円に 値上げをました。これは当初より、紙質の良いものを選んでしまったからでした。でも長い目 で見ると、これで良かったのではないでしょうか。  印刷やさんへの支払いは勿論終了です。ほっとしました。その後もカルタはぼちぼち動いて おります。お正月とお盆の帰省客の多い時期がちょっと動くかな、と予測します。現在も市内 各書店と、クリニックには在庫がございます。  8月上旬、寄付してくださった方一人一人にお会いしました。 約束のカルタ3個、返金7000円、それからおまけのカルタ読み上げCDを無事に差し上げること ができました。「返さなくても良いのにー」とおっしゃる方、「おめさんさ、なにがごほうび ーけってーがー」とおっしゃる方もいました。「母が90才で寝でんだども、毎日読み札を全部 読みあげで、全部の絵札をとってそのたび笑っておれんすんが。ありがとうごぜんすた。」と も言われました。   8月15日、浄土ヶ浜レストハウスで、関係者一同でカルタ大会をしました。 Nさん、Yさんに大変お世話になりました。それはテレビ岩手の取材、岩手日報の取材を兼ね ていました。8月16日と17日の岩手日報には、大きな顔写真と共に「方言カルタ大反響」という 記事が載りました。  9月5日の夕方、テレビ岩手の「5きげんテレビ」と言う番組で、8分間にわたって、みやご弁 カルタが大きく報道されました。これは大きな反響を呼びました。オムツをしているモモちゃ んが「しぇんしぇー、テレビに写ってた!可愛かった!」と褒めてくれました。   この一年、不思議で素晴らしい体験をしましたので報告いたしました。 宮古市内の皆様、遠くに離れて宮古が恋しい方々、お力添えを頂きましてありがとうございま した。何よりもカルタ出版を決断してくださったOCC0様、50枚弱×3=150枚弱の絵札を描 かれた海猫屋さま、この出会いの不思議に心から感謝いたします。