チェコ

Sadaoの東欧紀行


チェコ
プラハ城

←プラハ空港

  シャルルドゴール空港でバスにのり、飛行機のところまで移動する。 18:15のエールフランスAF-2482に搭乗する。チェコのプラハに向け 中型機だろうか、予定所用時間1時間45分の旅である。 ものすごく揺れる。それでも無事現地時間20:00ごろプラハ空港に到着した。 思えば遠くに来たものだ。疲れも頂点に達する。 ヨーロッパの夜は遅くまで明るいが、さすがに暗くなってきた。 写真はバスに乗り込む時に空港を撮影したものだ。 IBIS PRAHA KARLIN(ホテル名)に到着した。本当にお疲れさまだ。 ゆっくりとするが、明日は8時30分にホテルをでる。

プラハ城→

よいよ観光を開始します。バスで「プラハ城」に向かいます。 この城の中には「聖ビート大聖堂」「旧王宮」「黄金小路」などがあります。 初日はあいにくの雨です。城門の前で聖ビート大聖堂の巨大さがわかります。 930年にロトゥンダ(円筒形のシンプルな教会、ロマネスク様式の典型) から始まり、14世紀にカレル4世の時代に改築を始めて、1420年に 完成した。その後も手を加え現在のような堂々たるゴッシク様式の建築に なったのは19世紀に入ってからだそうだ。

城門前
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←プラハ城・城門入り口

プラハ城の門の両側には、儀礼服で身を固めた城の衛兵が直立不動で立っている。 観光客の写真の被写体になっており、美男子が多いと評判だそうだ。 衛兵の交代式は毎正時に行われ、特に正午のセレモニーは音楽隊のファンファーレ をともなった大々的なものだそうだ。 写真は片側だけ撮影した。

プラハ城(旧王宮)→

聖ビート大聖堂を左手に見ながら第3の中庭に立つと正面にあるのが旧王宮で ある。実際に歴代の王が使用していたのは、16世紀まであった。 かっては戴冠式、騎士の馬上競技など国際的な行事にしようされ、1934年から はここで大統領選挙が行われている

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←プラハ城(聖ヴィート大聖堂)

前述のごとくプラハ城内には「聖ヴィート大聖堂」が聳え立っている。 930年にロトゥンダ(円筒形のシンプルな教会、ロマネスク様式の典型) から始まり、14世紀にカレル4世の時代に改築を始めて、1420年に 完成した。その後も手を加え現在のような堂々たるゴッシク様式の建築に なったのは19世紀に入ってからだそうだ。 この大聖堂は、奥行き124m、幅60m、塔の高さ96.6mだそうだ。

プラハ城(黄金小路)→

プラハ城内の一角に「黄金小路」と言われている場所がある。 色とりどりの小さな家が並んでいる。1957年に完成し、城内に 仕える召使などが住んでいたが、やがて錬金術師たちが住むように になった。No.22と書かれた青く塗られた家には、作家フランツ・カフカ が住んでいたとか。 現在、黄金小路の2Fはすべてつながっており、中世の武器や甲冑など が展示されているとか。

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←プラハ・・カレル橋

15世紀初頭カレル4世により建造された。長さ520mと30体の聖像がある。左右の欄干に15体づづの聖人像がある。

カレル橋の橋塔→

1500年にぺトル・バルレーシュにより建造された。
下を流れる川はモルダ川である。

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←プラハー旧市街(ティーン教会)

プラハ城を出て、カレル橋を渡って旧市街に出る。 旧市街広場はプラハの心臓部だそうだ。数々の歴史的事件の舞台となった。 またこの広場を囲む建築群は、ゴシック様式、ルネッサンス様式、バロック 様式など混在している。 今回はその一つティーン教会をご紹介する。 広場の東面に立っており、二本の塔が目を引く。 一般に「ティーン教会」と言われているが、正式名称は「ティーン(税関)の 前の聖母マリア教会」だそうだ。 この近くのカフェでお茶を飲んだ。雨は相変わらず降り続いている。

プラハ-旧市街(天文時計1)→

旧市庁舎の壁に天動説にもとづいて作られた天文時計がある。 天体の動きと時間を表している。 時計の文字盤が上下に2つある。 上が地球を中心に回る太陽と月、その他の天体をあらわしており、年月日 と時間を示しながら、1年かけて1周する。 プラネタリュウムと言われている。 下は黄道12宮と農村における四季の作業を表した暦で一日に1目盛り動く。

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←プラハ-旧市街(天文時計2)

9時から21時の正時なると、この時計の名を高めている仕掛けが動き出す。 二つある円盤の上には天使の像が置かれ、その両側にある窓があき、死神が 鳴らす鐘の音と共にキリストの12使徒が現れては消え、最後に時計の1番上 に現れる鶏が鳴いて終わる。我々が行った時はちょうど11時で仕掛けを 見ることが出来た。

プラハー新市街(ヴァーツラフ広場)→

バスに乗り次の観光地に向かう途中でプラハ随一の繁華街にあり、かって 馬市場だったところだ。おりて観光することはない。 この大通りはチェコ独立の歴史を語る上で欠かせない場所である。 1968年、チェコの自由化路線を弾圧するためにワルシワ条約機構軍が ヴァーツラフ広場に戦車を乗り入れ「プラハの春」は挫折した。 その20年後プラハ市民100万人がこの広場に集まり、無血の革命を 果たした。「ビロード革命」と言われている。 これは広場をバスの車中から撮影した。 これから145km、3時間のバスの旅だ。今日で3日目である。 チェスキー・フディヨビッツエへ向かう。

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←チェスケー・ブディヨヴィツェ・・広場

プラハを出発して、約3時間ほどでチェスケー・ブディヨヴィツェに到着した。 旅も3日めとなった。相変わらず天候はすっきりしない。 ここはホヘミア王国の勢力拡張に努めたブジェミスル・オタカル2世が、南ホヘミア地方の貴族に対抗すべく、1265年に王立都市として建設した。 ここはそれ程の見るべきものはない。 しかし、美しい広場を見学した。広場の名前はブジェミスル・オタカル2世広場と言う。旧市街の中心である。1辺が133mの正方形で中央に「サムソンの噴水」がる。

チェスキー・クルムロフ城(1)→

23Km、約30分ほどでチェスキー・クルムロフへ到着である。 ここには世界遺産チェスキー・クルムロフ城がある。 13世紀に南ボヘミア地方の豪族ヴィートコク家が築城した。 14世紀初頭にヴィートコク家が断絶し、以後ロジェンベルグ家が支配した。 18世紀にはシュバルツェンベルグ家が支配した。

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←チェスキー・クルムロフ城(2)

城の入り口である。手ブレか写真がぼけている。

チェスキー・クルムロフ城(3)→

城の内部撮影禁止である。ここは城専属のガイドが英語で案内してくれた。1部屋ごとに鍵を開け 終わると鍵をかける。約1時間も掛かったと思う。 そのご旧市街を観光した。 観光後チェコーオーストリアの国境を超え、ザルツブルグへの旅である。 232Km、約4時間30分かかる。3日目だけで約400Kmの移動で ある。ドライバーさんもご苦労様だが乗っている方も疲れる。写真は城の窓から 市街地を撮影したもので町並みが美しい。

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