には論理的に矛盾があります。以下にて指摘します。
[説明] まず時間に関してですが、ある慣性系から、その系に対してある一定速度で運動している別の慣性系を見ると、
「時間がゆっくりすすんでいるように見える」と特殊相対論では説明します。
時間がゆっくりすすむことの決定的証拠として、従来からあげられてきたものにミュー粒子の寿命の延びの現象があ
ります。宇宙線から高速でふりそそぐミュー粒子は通常のものに比べて寿命が実際に延びるが、これは高速で運動し
ている粒子の系の時間がゆっくりすすんだ証拠であると説明されてきました。
この説明からすると、「時間がゆっくりすすんでいるように見える」というのは、“見える”のみならずその系では実際に
時間がゆっくり進んだからであるということになり、見かけではなく、実質的な時間の遅れがあるということになりま
す(なぜなら、実際に寿命が延びたのですから)。特殊相対論の正しさを示す証拠の一つとして昔からあげられて
きたのはご存知の通りです。
つぎに“長さ”を考えてみます。 ある慣性系から、その系に対してある一定速度で運動している別の慣性系を見ると、「物体の長さが縮んでいるように
見える」と相対論では説明します。
ここで奇妙なことに気付きます。
“長さ”の方は、時間と違って「実際に長さが縮んだ証拠はこれである!」という実例がなぜか一つも報告されて
いないのです(この点は、後藤教授も著書「相対性理論の謎と疑問」の中でたしか指摘していました)。時間で遅れが
あるならば、長さに関しても、「進行方向に縮んだ物体が発見された!」というニュースがあってもよさそうに思いますが、
聞いたことがありません。
これはどういうことでしょうか?
時間は実際に遅れが観測されているのに、長さの方はあくまで見かけで済ませばよいということなのでしょうか?
しかし、これはおかしなことです。 相対論の論理展開を考えると、時間と長さ(空間)は、本質的に区別してあつかっていないので、上のように
一方は実質的に変化があるのに、もう一方は“見かけ”にすぎないなどということは起こるはずがありません。
両方とも“実質の変化がある”かまたは両方とも“見かけにすぎない”ということならば話はわかるのですが、一方
は「実質的・・」といい、もう一方は「見かけにすぎない」などというのは論理的な筋が通っておらず、到底受け
入れることはできません。
相対性理論の教科書等で、時間と空間の説明をそれぞれ独立に読んでいる内には気づかなかったことが、
こうして2つを並べると、重大な問題をふくんでいることがわかるのです。
特殊相対性理論の欠陥がまた一つ露呈したといえるでしょう。
説明終わり
今回指摘したこの矛盾を「時間と長さにおける非対称の矛盾」と名づけ、今後さまざまな場所で議論されることを
希望します。
も相対性理論の時間論には思考上の誤りが存在しています。アインシュタインの時間論はデタラメであるといえるので
すが、重大な点ですので、下記にて指摘しました。
以下詳しく説明します。
[説明] 相対性理論では、光時計が遅れればその系全体の普遍的な時間まで遅れると主張します。光時計が遅れると、その
系内の光時計のみならず、ぜんまい時計などの機械式時計や振り子時計、結晶の振動を利用するクオーツ時計、はた
また砂時計までも遅れ、さらに生き物の心臓の鼓動も成長の度合いまでもなにもかも遅れると説明します。
しかし、そんなことはありません。
光時計の進行がおくれたら、なぜ力学的に動く機械式時計まで遅れはじめなければならないのか?遅れる理由がまっ
たくないのです。
それはただ光時計が遅れているだけであり、それ以上の意味はありません。光時計が遅れた状態というのは、光
(電磁波)が余計な距離をすすむためにより多くの時間がかかった状態をいうのですが、そんなふうに光の運動が変化
したら、なぜ系の普遍的時間まで遅れることになるのか、じつはその根拠がなにもないのです。
光時計に合わせて機械式時計、クオーツ時計まで遅れはじめることなどないし、まして心臓の鼓動までゆっくりになる
こともありません。昔は、水時計、ランプ時計、ロウソク時計、線香時計、香時計などさまざまな時計があったのですよ。
ここで、光時計とはなにかをはっきりさせておきましょう。 「時間、空間、そして宇宙」(戸田盛和著 岩波書店)から引用します。
相対性理論における時間というものが見事に説明されています。 しかし、先にも述べたように上記の内容は間違っています。 「すべての物理現象は、(たとえば歳をとるといった現象も含めて)電磁気の法則につれて、したがって光時計の時間
につれて進行します。」などとなぜ言えるのか?
そう言える根拠を何もあげていないにもかかわらず、強引に日常の普遍的な時間に結び付けてしまっているのがわか
ります(他の全ての教科書でもそうですが)。天体の運行は、なんの力によって運行しているのか?砂時計はなんの力
によって動いているというのでしょうか?
動いている系では下の図Bのように光は進行し(*)、地上からみたらこの時計はゆっくりすすんでいるように見えるで
しょうが、しかしこれが機械式時計、砂時計、日時計、人間の成長等になんら影響を与えるものでないこともまた明白な
ことです。
地上からみても、ロケットの中の機械式時計の進行は地上のものとまったく同じであるし、またロケット中の人の心臓の
鼓動も地上となんら変わりありません。実際は地上からみたら光時計が遅れるというだけのこと、ただそれだけのことな
さい。
上記の本では、図Aの光時計が地上の観測者の時計、図Bの光時計がロケットにのった光時計の運行として説明され
ています。
上記の本ではさらに
「光パルスが鏡の間を往復する間に、地上観測者からみれば鏡はロケットと一緒に横に動きますから、ロケットが止まっ
ているときよりも光パルスは斜めに長い距離を同じ速さでcで進まなければなりません。これは地上の観測者から見ると、
走っているロケットの時計の方がゆっくりと時を刻むことを意味します。これが運動による時計の遅れと呼ばれる現象で
す。これはもちろんロケットに限りません。航空機や電車に乗せた時計も、地上においた時計に比べるとゆっくり時を刻む
のです。」と記述されています。
ごまかされてはいけないのは、「・・地上においた時計に比べるとゆっくり時を刻むのです。」という文です。ここでも、光
時計の時間を、普遍的な時間の流れすなわち時の刻みにこっそりと置き換えようという意図が読みとれることです。
これはすべての相対論の教科書に共通した説明であり、光時計が図Aから図Bのように変わるからその系の時間まで
遅れはじめる、すなわち、光時計が遅れればその系の機械式時計、砂時計から生物の心臓の鼓動、人の成長にいたる
まですべてが遅れると主張する。
まったくむちゃくちゃな説明です。光という電磁波の挙動が系のすべての運動を規定したりしない。相対論の本を読
む際は、この点を十分注意して読んでください。
B図の現象など、地上からみたら「光があのように運動しているのだな」という意味でしかなく、本来的な時間とは全く
無関係な現象であるということが大事なポイントです。
時間とは人間が考えだした概念であり、それは「光でもって定義されなければならない」といった代物ではありません。
光でもって時間というものを定義してしまったがために、時間は光という物理的実体の性質にがんじがらめに縛られると
いう不自由極まりない事態に発展してしまったのです。
相対性理論では時間をまるで実体のようにあつかっていますが、それは光でもって時間を定義してしまったことからの
当然の帰結だったわけです。
現代物理学で系ごとに固有の時間を考えなければならないというおかしかことになっているのも、もとをただせばアイ
ンシュタインが時間を勝手に無理やり光に結びつけたことが原因しています。
光を使うだけならまだ罪は浅かったのですが(それもミスですが)、それを「特殊相対性原理」と「光速度不変の原理」と
いう互いに矛盾した原理の上に打ち立てたものですから、相対性理論の時間は度をこえておかしなものになってしま
った。
さらに、そのおかしな時間概念を用いて、長さ(空間)を定義したものだから、空間の方までおかしなことになり、「こっ
ちでは縮まないが、あっちの系から見れば縮んで見える。」などという奇妙な話がまかり通るようになってしまった。
時間というのは人間にとってわかりにくいものの一つですので、光という一見理にかなったように見えるもので説明
されると、だれも「そんなものか・・・」とごまかされてしまったのも無理はないと思いますが。
ではアインシュタインがなぜ時間を光でもって定義しなければならなかったのか。 1900年初頭当時、エーテルがどうやっても発見されない理由(絶対系がいかなる手段をもちいても見つからない理由)
をアインシュタインはどうしても単純な原理から導きたかったからと思われます。
当時、エーテルの問題は物理学の大問題であり、エーテルが見つからないこと、また見つからないことに対するうまい
理由付けができないことに物理学者は大きな苛立ちを感じていました。
そこに颯爽と登場したアインシュタインという一青年が、「特殊相対性原理」と「光速度不変の原理」を用い時間の
定義を変更するというひねり技を加えれば、ローレンツが導いたのとは違う方法で、ローレンツ変換が導けることに気
付きました。エーテルというものに直接触れることなく、マイケルソン・モーレー実験の奇妙な結果を、じつにすっきりと
説明してしまったのです。
そのあまりに簡潔で見事(?)な解決のし方に、物理学者がとびついたのは、当時の状況を考えればうなづけます。
しかし、この解決の仕方は、全くの誤りだったのです。アインシュタインは、重大なミスをいくつも犯しました。
そのミスに関しては、
その他で詳しく述べましたのでご覧ください。
ともかく、人類はアインシュタインの巧妙な説明に見事に騙されてしまった。そのごまかしを見抜けなかったわけです。
当時ならともかく、21世紀の今に至ってもアインシュタインの発明した時間を大切に守りつづけているのですから、
この現状には言葉もありません。ごく簡単に言えば、相対論の時間は、「絶対系などない、全ては相対である」を正当
化するために生み出されました。光時計の時間と我々の時間とはなんの関係もありません。
学者は、「相対論の時間こそが本物の時間」のように言わないと体裁がつかないから、いまでもそのように言いつづ
けているだけです。もちろん、ローレンツ収縮も偽りです。
相対論での時間が我々の現実の時間とまったく結びつかないということに気づかずに現代まできてしまった
ことは、物理学の歴史における決定的なミスだったといわざるをえません。
21世紀初頭に至っても、学者はまだ気づかない・・・・。
<1−3.相対論の原理にひそむ理解不可能な論理展開を明らかにする>
ここでは、光時計に関する従来説明の誤りと、相対論の破綻例を示します。 [説明] まずはじめに、特殊相対性理論の原理となっている「特殊相対性原理」と「光速度不変の原理」を記します。 光速度不変の原理 @「真空中の光の速さは光源の運動状態によらず一定である。」 特殊相対性原理 A「物理法則は、すべての慣性系に対して同じ形であらわされる。」 アインシュタインは、この@とAを指導原理として採用し特殊相対論を作り上げました。 ところで、@はAを考慮に入れると、つぎのようにも表現されます。 光速度不変の原理の別表現 B「いかなる慣性系(観測者)から見ても、光の速さは一定値cである。」 さて、「光速度不変の原理」の実験的証拠としてよくあげられるものに、連星からの光の速さの測定があります。 「相対性理論」(中野董夫著 岩波書店)にはつぎのように記されています。
このように光速度不変の原理の証拠があげられているわけですが、しかし少し考えるとわかる通り、これは「光は絶対
空間を直進する」というマクスウェルの考えの正しさを確認したものになっているにすぎないということです。光が絶対系
を基準に進行することを明瞭に示していて(光源の運動に影響を受けないことを示している)、相対性理論の破綻の例
といえるのです。
相対論は、下記の光時計の光進行を見てもわかる通り、一方では光はまるで慣性の法則に従うかのように進行する
と主張する理論(光源の運動に影響を受けて進行するのだと主張)ですので、上の事実が自身の主張を真っ向から否定
していることを考えれば、相対論の内部矛盾に気づくのは容易です。
図の説明は、絶対系の存在を支持しているだけであり、この連星の結果はBの意味の「光速度不変の原理」の証拠
にはなっていない。図では、連星が動き地球が止まっているという形となっていて、これではBを証明することはできま
せん。
Bを証明するには、地球が近づいていく場合と遠ざかる場合の二重星からの光の速さを比べなければならないからです。
この二重星からの光の挙動は、相対論誕生以前に皆がマクスウェル方程式に関して認識していた「電磁波は絶対系
を基準に速さcで走る」という電磁波の挙動そのものとなっていることに注目してください。
@は現代物理学においても正しいものです。これはマクスウェルが電磁気学を完成したときから皆が認識していたこと
で、この@の表現には、なんら相対論的な要素はありません。光速度不変の原理の正しさを証明するには、@ではなく、
Bの方をこそ実証しなければならない。
ここらあたりの@、A、Bのからまり具合をよく理解していないと学者の説明にごまかされてしまいますので十分注意し
てください。
上の二重星の事実は、「光は絶対系を基準に光速cで走る」ということを支持し、絶対系の存在を強力に主張する内容
のものであって、じつは特殊相対論を否定する実例であったのです。
物理学者は、特殊相対論の破綻例を「相対論の正しさの証拠」として教科書等であげつづけ
ているわけです。
結局、物理学者は、相対論において最も本質的なBの場合の証拠をあげようにもあげられず、@の正しさを主張して、
ごまかすしか手がない状態なのです。
ちなみに、光が、光時計のように、慣性の法則に従ったような進行をするものではなく、絶対系を基準に走るもので
あることは、つぎの例でも実証されています。
[光が、慣性の法則に従わず、絶対系を基準に走ることを実証した例]
特殊相対論の原理における奇妙な点をさぐってみます。ここで光時計を持ち出してみましょう。 図Aにおいて、慣性系S′に固定された光源から光が上方向に発せられ往復運動しているとします。もうひとつの慣性
系Sも考え、いま系S′は系Sに対して右方向に速度vで動いているとします。系Sから眺めれば、光は図Bのように斜め
上方の鏡を追いかけるように運動すると相対論では主張します。
ここでもし、慣性系Sを絶対系におきかえればどうでしょうか。マクスウェル方程式によれば光は絶対系を直進すると
教えますから図Bのように斜めには進まず、真上にいくことになり鏡には当たらない事態になって、上の光時計の説明は
おかしいということになります。しかし、現代物理学では、「絶対系というのはありえない」となっていますから、そんな解釈
は許されていません。
ところが、光は絶対系を基準に進行することは、航空機に搭載されているレーザージャイロによって実証されています
し、また上の二重星をみても明らかです。絶対系は実在します。
さて光時計では、結局、光源からの光は次の図1(「相対性理論」(中野董夫著 岩波書店)の図)のように進行すると
いう驚くべきことを言っているのと同じです。
これは、光はボールと同じような進行をすると主張するものですが、はたして光(電磁波)が現実にこんな進行をする
ものなのかどうか。
光は本当にこんな進み方をするのでしょうか?
相対性理論を必死で守ろうとする物理学者は、光は絶対にこのように進行すると主張します。
なぜなら、現代物理学者は特殊相対性原理という原理を頑なに守る必要があるからです。もし、万が一、光が上のよ
うな進行をしないと判明したならば、もし上の方向からちょっとでもズレて進むことが判明したならば、電磁気学だけは系
によって記述が差別化されることになって、「全ての物理理論はどんな慣性系でも同等」という大原理が破れることにな
り、相対論のみならず、現代物理は総崩れしてしまうからです。
光は、じつは、光時計のような進行の仕方をしないのです。
その理由を述べます。
上の二重星での光の挙動を見てください。光は、光源の運動の影響を受けないことが実証されています。
しかるに、上の光時計(思考上の産物!)では、光源の運動の影響を受けて(まるで慣性の法則に従うように)進行する
としている。正反対です。
以上より、光時計の光の挙動は嘘であると断言できるからです。
相対性理論が大嘘の空論であることがわかるでしょう。
光時計こそ、光速度不変の原理と特殊相対性原理を具現化したものであり、特殊相対論の土台であることをしっかり
と認識してください。
そして、それがアインシュタインのとんでもない欺瞞から発明されたものであることを!
私が以前から心の底で、ばくぜんと疑問に思っていた問題があります。どの教科書でも議論されておらず、また今回
明快な言葉としてとり出すことができましたので、ここに新しいパラドックスとして提示し、皆様の意見を問いたいと思い
ます。以下で単に”系”と言った場合は、すべて”慣性系”を意味します。
[パラドックスの提示] いま、ある一つの慣性系M内で光が右向きに速さcで進んでいるとします。 物体Aは右向きに速さvで進んでおり、また物体Bは左向きに速さvで進んでいるとします。 いまAとBは慣性系Mの中の物体ですから、物体Aに対する光の速さはc−vであり、また物体Bに対する光の速さ
はc+vとなります。Mという一つの慣性系の中で議論していることですから、当然こういう計算となります。
これは、物体Aに対する光の相対速度がc−vになり、物体Bに対する光の相対速度がc+vとなるということです。
この場合を状況@としましょう。
いま、物体Aと物体Bをそれぞれ観測者A、観測者Bに置き換えるとします。すると、途端に状況が変わってきます。 観測者をある別系の代表者と考えると、光速度不変の原理の適用できる所となり、観測者Aにとって光の速さはcに
見え、また観測者Bにとってもcとなります。この場合を状況Aとしましょう。
さて状況@と状況Aを比べた場合、非常に奇妙なことに気づきます。 状況@では、AとBをある一つの慣性系の中にある物体として考察しました。一方、状況AではAとBを観測者という
立場で考えました。どちらも、物体であるには違いなく意識をもっているかもっていないかの差にすぎません。
状況@では物体Aから見たら光はc−vで走ってくるように見え、物体Bではc+vでくるように見える。ところが、状況A
のように物体を観測者としてとらえた途端、どちらの観測者にも光はcでやってくるように見える。
まったく不可解な話です。
到底納得できる話ではありません。「物体から見た・・」も「観測者から見た・・」も本質的に同じであることは明らか
だからです。
ここで、相対論者はつぎのように反論するかもしれません。 「いや、上の議論は間違っている。相対性理論によれば、どんな物体からみても光の速さはcに見えるのだ!」と。 しかし、そうでしょうか。 状況@は一つの系内における物体と光の運動の関係と考えていますので、光に対する物体の相対速度は、物体A
の場合、当然c−vとなります。「その物体の立場から見たときの速度(物体から見た速度)」というのが、物理学におけ
る相対速度の定義だからです。よって、状況@で相対速度がc−vやc+vになるのは、まったく自然な議論なのです。
しかし状況Aのように、光と慣性系(観測者)の間の関係としてとらえたとき、相対論の光速度不変の原理によれば、
状況Aは(観測者を別のある系の代表者と考えると)観測者AにもBにも光はcで進んでくるように見えることになる。
注意:相対論で”観測者”と言った場合は、”ある慣性系の代表者”(あるいは「ある慣性系に静止する座標の原点」と言ってもよい)という
意味をもちます。
「一つの系内の物体としてみればc−vとなり、その物体を観測者(別系の代表者)と見方を変えただけでcになる」など
というのは、まったく矛盾した話ではありませんか。「真実はどうだった?」と後で物体君に聞いたらどう答えるのでしょう?
まさにパラドックスが発生しているのです。
(言わずもがなの注意ですが、状況@も当然相対論を使っての議論ですので、この点は誤解しないでください) 同じ一人の人が、一つの物理現象をc−vと見たり、また同時に(!)cと見たりする。この奇妙さはなんなのか、相対論
は幻覚症状の理論なのでしょうか?こんなことになるのは、理論が根本的におかしいことの証拠でしょう。
相対論においては、物体、系、観測者の三つがじつにあいまいに使用されてきたように思われてなりません。 こんなおかしな話になるのも、「どんな観測者にも光の速さはcである」という光速度不変の原理が間違っているから
です。みなさまはどう思われますか?
さらに、合成速度の観点からも新しいパラドックスも見出しました。今回のパラドックスと合わせて考えてみてください。
[追記]2002/11/9
上のパラドックスの物体A、物体Bを、人A、人Bとする方がより分かりやすいパラドックスになることに気付きました。
もちろん、上記のままでもかまいませんが、物体A、物体Bを、人A、人Bに置き換えて考えてみてください。
相対論の矛盾がより鮮明にあぶり出されることでしょう。
2001/9/14
<1−5.光速度不変の原理は、絶対空間を前提にしたものである> 今回は、光速度不変の原理は、絶対空間を前提としなければ解釈できないものであることをまず示します。 さらに、「特殊相対性原理」と「光速度不変の原理」は互いに矛盾するものであり、その二つを融合させることはできない
ことを明らかにします。(二つの原理が矛盾することは窪田氏が著書の中で言及されていますが証明までは記されていなかったと思います
ので、ここでは私が見出した証明を記しました)
[説明] まず「光速度不変の原理」と「特殊相対性原理」をはじめに書きますとつぎのようになります。
光速度不変の原理T
@「真空中の光の速さは、光源の運動状態に無関係な一定値cである。」 特殊相対性原理 A「たがいに等速度運動をしているすべての慣性系において、すべての基本的物理法則は、まったく同じ形で
表され、それらの慣性系のなかから特別なものを選び出すことはできない。」
アインシュタインは、この@とAを基本的な原理として採用し特殊相対性理論を作り上げました。 ところで、Aを考慮に入れると、@の光速度不変の原理はつぎのようにも表現されます。 光速度不変の原理 U B「いかなる慣性系(観測者)から見ても、光の速さは一定値cである。」 (*)上の@〜Bは「相対性理論の考え方」(砂川重信著 岩波書店)を参考にしました。 以下、これらの原理をくわしく見ていきます。 我々はいま相対論の誕生する直前1904年に立っているとしましょう。そしてアインシュタインの考察を冷静に追って
いき、相対論における考察の誤りをみたいと思います。
“速さ”というときは、いつも「何に対する速さか?」ということが問題になります。道を時速5km/hで歩く、というときは、
地面に対しての速さをいっているわけです。ですから、@は、「光源の運動状態に無関係に、速さが一定値cとなるよう
な特別な系が存在するのだ」ということを強力に主張していると言いかえることができます(これは、相対論誕生以前の
マクスウェル方程式の解釈そのものです!)。
もしそのような系が一つもないならば、@の主張をすること自体無意味ですから、@はそういう意味なのです。その
系の数は、一つか二つか・・あるいはもっとたくさんあるのか知れないが、とにかくそのよう特別な系の存在を@は主
張している。
しかし、もし存在するとすれば、その特別な系はじつは一つだけなのだ、ということを以下に証明します。 [証明] いま仮に、光の速さが一定値cとなるような特別な系として系Aが存在したと仮定しましょう。 いま系Bは系Aに対し、ある一定速度vで動いているとします。 仮定により、系Aの座標に静止した人から見ると光は一定値cで進んで見えるのは明らかです。さて、系Bは系Aに対
して一定速度で動いているのですから、系B内に静止した人から光をみると、その速さは当然cとはなりません。よって
系Bは特別な系とはなりえないことがわかります。
系Aに対する速度が0以外の様々な値をとる他の系を考えても、それらのいかなる系も「特別な系」となることはない
ことはすぐにわかります。
よって、特別な系が二つ以上存在することはありえない、もしあるとすれば、それはただ一つである、ということが証明
されました(言うまでもないことですが、その絶対系に静止した数学的な座標系は無数に設定できます)。
終わり。
@は、「だた一つの特別な系がこの世にあるのだ」と、その存在を積極的に主張している。 当時、その特別な系は、絶対空間または絶対系と呼ばれていましたから、ここでもその呼び方にならいますと、@は
絶対空間の存在を強力に主張している。
@は、絶対空間の存在を主張している。 Aは、絶対空間の存在を否定している。 このように言えることは、だれの目にも明らかになりました。@とAは全く正反対のことを主張している。 さて、当時の立場で考えると、このようにまったく折り合わない二つの原理を採用して理論を構築しようなどだれも
思わないことなどすぐにわかります。@とAは矛盾しているのですから。
ところが、一人アインシュタインだけが違いました。 彼は、簡潔かつ統一的な形式というものが異常なほど好きだったのでしょう。@とAをなんとか融合させたかった。 @はマクスウェル方程式の性質を表現したもの、Aはニュートン力学を意識したものといえますが、単純な原理
のところで、この2つを形式の上で統一的に表現したかったのです。形式というものに異常にこだわったのがアインシュ
タインでした。
@とAの融合から生まれたBなど、だれが見ても誤りなのはあきらかです。しかし、アインシュタインは「力学の法則は
すべての慣性系に・・」ではなく、「すべての物理法則はすべての慣性系に・・・」とどうしてもしたかった。
@とAなどだれが見ても矛盾しているし、Bなど小学生がみても嘘とわかります。 しかし、Bをなんとか成立させたい。どうすればいいか・・・。 「困った。いや、待てよ。そうだ。時間とはそもそも光という手段でしか表現できないのではないか?時間を、「特殊相
対性原理」と「光速度不変の原理」を基礎とし、光を使って定義し直してみると・・・
おお、あのローレンツ変換式が出てくるではないか!ローレンツらのように人工的な仮説を設けて導く方法より、こちら
の方がよほどすっきりしている!説得力もありそうだ。」
と、このような経緯をへて、有名な「動いている物体の電気力学」を1905年に書いたと想像されます。 時間とはわかりにくいものです。 そのわかりにくいものを、光でもってあのように表現されると、だれも「時間って・・そんなものなのか・・・」となってしまって
もおかしくありません。
相矛盾した@とAをどうしても理論の基礎におきたいために、アインシュタインは矛盾した原理同士の上で、その矛盾
の論理を用いて時間というものを再定義したのです。
時間を徹底的にねじ曲げるることで、なんとかつじつまを合わせ、できあがったのが相対論です。原理という土台で無理
をしているのですから、どこかにそのしわ寄せがくることは当然のことだったのです。
どのように辻褄を合わせたかについては、下記を参照ください。
ボーアやマイケルソンなどは相対性理論に大反対だったようですが、「大天才現る!ニュートン以来の大革命!」と
いう、マスコミを含めての世間の大合唱がそれらを押し切ってしまったのでしょう。私が相対論をよく「つじつま合わせ
の理論」と呼ぶのは以上のような理由からです。
アインシュタインは歴史的論文「動いている物体の電気力学」の中で、「光速度不変の原理」と「特殊相対性原理」
が矛盾していないことの証明を与えているのですが、その証明が全くの偽りであることを、
で示しました。
それは驚くべき欺瞞の証明となっています。
以上の議論から、特殊相対性原理と光速度不変の原理は矛盾したものであることが判明しました。
物理の教科書ではよく「相対論の理論形式の簡潔さ、美しさ」ということが強調されます。
たしかに、物理学においてそれも一つの重要な要素ではありますが、しかしいくら簡潔であろうと基礎においた二つ
の原理が矛盾しているのですから、その上に構築された理論が正しいものとなることは絶対にない、ということを認識
することが大切です。
相対論の誕生がニュートン以来の大革命などといわれるのは、「時間・空間」の概念を根底から変えてしまったから
ですが、アインシュタインの時間に対する考察が間違っていたのは、他の様々な箇所で示したとおりです。じつは、時間
は、宇宙全体に共通に流れていると約束する、という性質のものだったのです。
物理学者はいつ気づくのでしょうか・・・
相対論で、私がいつも思っていることがあります。それは”光速度不変の原理”に関してのことです。
特殊相対論のことになると、「光速度不変の原理がこうだ、光速度不変の原理はああだ」といろいろな人が主張する
のですが、そんなことを言ってるから、核心部分がいつも不確かな状態になっている気がします。
みな光速度不変の原理という原理をいまひとつあいまいにしかつかめていないのでないでしょうか。
特殊相対性理論は光速度不変の原理だけから構成されているのではありません。
「光速度不変の原理」とともに、もう一つの柱である「特殊相対性原理」を合わせて構成されています。
すなわち、特殊相対論は、
@光速度不変の原理
A特殊相対性原理
という二つを指導原理として作られているのです。
アインシュタインの誤りをはっきりと認識するには、ズバリA特殊相対性原理にこそ注目しなければならい。
光速度不変の原理ばかり見ていてはダメです(本質がぼやけてしまう)。
上の<相対論の原理にひそむ理解不可能な論理展開を明らかにする>でも説明しましたが大事な点ですので、こ
れまでの記述をまとめる形で再度説明します。
相対論の教科書によく出てくる@、A、Bをもう一度書きます。
光速度不変の原理@「真空中の光の速さは光源の運動状態によらず一定である」
特殊相対性原理A「物理法則は、すべての慣性系に対して同じ形であらわされる」 @はAを考慮に入れると、つぎのようにも表現されます。
光速度不変の原理の別表現B「いかなる慣性系(観測者)から見ても光の速さは一定値cである」
はっきり言います。
@は正しいが、AとBが間違っているのです。
上の@は、昔から今日まで完璧に正しい。しかし、Aが間違っているのは、次でも指摘した通り多くの実例で明らか
です。
Aは完全に誤った原理です。よって、@にAを融合させたBが誤りとなるのは当然であります。
Aのような原理をいつまでも絶対的原理として信奉しているから、現代物理はどこまでもおかしなことになっていくの
です。
特殊相対性原理のような間違った原理など、早急に捨て去らなければなりません。学者ははやく気付かなければ
ならない。
そして、そのことに気付いたとき、捨て去る勇気をもったとき、ゆがんだ現代物理はまともな状態へと帰ることができ
ます。
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