1.霊魂は父親から来る
2.この相似は教会の霊的なものによらない限り変化しない
3.男の精の中に完全な人間の形を持った人間の霊魂が在る
4.理解
5.人間自身の死後生きる霊の方面、死後の人間の霊の生命
6.マリア・ワルトルタ・・・霊魂は不滅
7.ヴァスーラ・・・霊魂は女性名詞
8.マリア・ワルトルタ・・・子は父に似ている
9.人間の霊魂はただ目的を顧慮するのみであって、その目的の総合体
1.霊魂は父親から来る
上述の記事に私は以下の神秘な事実を附加しよう。父親から来る霊魂は真の人間であり、母親から来る身体はそれ自身においては人間ではなく、人間から得られるものである。それは霊魂の衣服であり、自然的な原質から成っているに反し、霊魂は霊的な原質から成っている。人は凡て死後、その母親から得た自然的なものを脱ぎ棄て、父親から来ている霊的なものを、その周囲に在って、自然の最も純粋なものから発している所の一種の縁(limbus)と共に保有する。しかしこの縁は天界に行く者にあっては下にあり、霊的なものは上にあるに反し、地獄に行く者にあっては上にあって霊的なものは下にある。この理由から天使的な人間は天界から語り、かくて善であり真であるものを語り、地獄の人間はその心から語る時は地獄から語りその唇から語る時は恰も天界から語るかのように語るのである。彼は後者を他と交わっている時に行い、前者をただ一人家に在る時に行うのである。人間の霊魂は真の人間であり、その起原において霊的なものであるから、父親の愛の心、気質、性癖、傾向、情は後の子孫の中に止まり、代々再起し、容易に認められる理由は明白である。このゆえに多くの家族は、実に国民すらもその最初の父によって認められるのである。民族の各々の容貌の中には共通の相似が現れており、そしてこの相似は教会の霊的なものによらない限り変化しない。ヤコブとユダに対する共通の相似は依然彼らの子孫の中に止まり、彼らはそれによって他から区別される、それは彼らはその宗教に確乎として固執しているためである。何故なら凡ての者がそれによってみごもるところの精液の中には、父親の霊魂の接木または芽がその完全な状態を以て、自然から来る原素によって形成された一種の皮覆に包まれて存在し、これによって人間の身体は母親の子宮内に形成され、父親から或は母親か何れかに似るのであるが、父親との相似は依然内部に止まり、それは絶えず表面に現れようと努めているからである。若しそれがこれを第一代に為すことが出来ないならば、後代になすのである。父親との相似は精液の中にその完全の状態にあるのである。何故なら、既に述べたように、霊魂はその起原において精神的であり、精神的なものは空間と何らの共通点を持たないからである。従って相似は大きな範囲でも、小さな範囲でも依然同一である。主について言えば、彼は、世に在し給うた時、母から得給うた人間性を凡ての贖罪の行為により脱ぎ去り、神的人間性なる父から来った人間性を着け給うたのである。それ故彼においては人は神であり、神は人である。
天界の秘義6716〔2〕
このことから主の人間的なものは生来神的なものではなくて、主はそれを主御自身の力により神的なものになされたことが明白である。主はそのことを主御自身の力により為されたことは、主はエホバにより身篭られ給い、そこから主の生命の最も内なるものはエホバ御自身であられたためである、なぜなら『霊魂』と呼ばれているところの、人間各々の生命の最も内なるものは父から来ているが、『身体』と呼ばれているところの、この最も内なるものが(自らに)着けるものは母から来ているからである。父から発している生命の最も内なるものは、母から発している外なるものの中へ絶えず流れ入って、働きかけており、胎内の中にあってすら、その外なるものを最も内なるもの自身に似たものにしようと努力していることは、子供たちから、即ち、子供たちは父の気質の中へ生まれてきており、時には孫やひ孫が祖父や曽祖父の気質の中へ生まれてくるということから認めることが出来よう。このことの理由は、父から発している霊魂は、母から発している外なるものを、霊魂自身に似たものに、霊魂自身の映像になそうと、絶えず欲しているということである。
天界の秘義6716〔3〕
それが人間の事実であるため、主にあっては特にそれが事実であったことを認めることが出来よう。主の最も内なるものはエホバ御自身であったため、それは神的なものそれ自身であったのである、なぜなら主はエホバの独り児であられたからである。
新しい教会の教典P79
1.子供の霊魂は父から来ており、母胎の内でそれはそれ自身に母の原質から身体を着せているが、それは地中の種子の場合に、また(それが)他の原質から(それ自身に身体を着せるのに)類似している。
2.ここから父の映像が身体の中に植え付けられ、最初は明確ではないが、その後その子供が父の勉学、努力と任務とに自らを適用させるにつれて[携わるにつれて]益々明確に植え付けられるのである。
真の基督教103
このゆえに多くの家族は、実に国民すらもその最初の父によって認められるのである。民族の各々の容貌の中には共通の相似が現れており、そしてこの相似は教会の霊的なものによらない限り変化しない。
天界の秘義4750[6]
ユダによりその対立した意義において表象されている者らの性質はこのようなものである。ユダヤ民族は最初からでさえもこのような愛の中にいたのである、なぜなら彼らは全世界の凡ての者を最も卑しい奴隷として見なし、また自分自身に較べては無価値な者として見なし、また彼らを憎み、あまつさえ、自己と世を求める愛から相互に連結しないときは、自分の交友と兄弟たちさえも同じ憎悪をもって迫害したからである。こうした気質は依然としてその民族のもとに残っているのである、しかし彼らは今は外国の土地で黙認の下にお情けで住んでいるため、それを隠しているのである。
結婚愛183
しかし用とともになった愛と知恵は人間を作るのみでなく、また人間でもあります。実際、恐らくあなた方を驚かせることでしょうが、それらは人間を繁殖させるのです、なぜなら男の精の中に完全な人間の形を持った人間の霊魂が在って、それは自然の最も純粋な物から来ている原質で蔽われており、それによって身体が母の胎内に形作られるからです。この用は神的知恵による神的愛の究極的な用です。
天界の秘義3570[4]
人間の霊魂は母の卵細胞の中に始まり、その後彼女の子宮の中で完成され、そこで柔かい身体で身を包まれ、しかもそれはその身体を通してその霊魂がその生まれて入って行く世に適したように活動することが出来るといった性質を持っているのである。このことは人間が再び生まれる時も、即ち、彼が再生しつつある場合も同じである。彼がその時受ける霊魂は善の目的であって、それは合理的なものの中に初まり、最初はそこに卵細胞におけるように初まり、後にはそこで子宮内におけるように、完成され、この霊魂が身を包むそのか弱い身体は自然的なものとその自然的なものにおける善であり、それは、霊魂の目的に順応して従順に活動するようなものとなるのであり、その中に在る諸真理は身体の中の繊維のようなものである、なぜなら真理は善から形作られるからである(3470番)。ここから人間の改良の映像は子宮の中で人間が形作られる経過の中に示されていることが明らかであり、そしてもしあなたたちが信じられるなら、人間を形作り、それから主から発している天的な善と霊的な真理との各々を継続的に受け入れる力を与え、しかもそれが性質と量においては正確に人間が獣として世の目的を注視しないで、人間として天界の目的を注視するに順応していることもまたその主から発している天的な善と霊的な真理なのである。
神の愛と知恵383
理解は肺臓に相応し、理解から発した思考は肺臓の呼吸に相応しているため、聖言では『霊魂(ソウル)』と『霊』とは理解を意味している。例えば、
あなたはあなたの神である主を心(ハート)を尽くし、魂(ソウル)を尽くして愛さなくてはならない(マタイ22・37)。
神は新しい心と新しい霊とを与えられるであろう(エゼキエル36・26、詩篇51・10)。
『心(ハート)』は意志の愛と意味することは前に示した。それ故『霊魂(ソウル)』と『霊』は理解の知恵を意味している。聖霊とも呼ばれている神の霊は神的知恵を意味し、それ故人間の光である神的真理を意味することは「新エルサレムの主の教義」(50、51)に見ることが出来よう。それ故、
主はその弟子たちに息を吹きかけて、言われた、あなたがたは聖霊を受けよ(ヨハネ20・22)。
同じ理由から以下のように言われている。
神エホバはアダムの鼻の孔に生命の息を吹き込まれた。それで人は生きた魂(ソウル)となった(創世記2・7)。
また彼は予言者に語られた、
息に向って予言し、風に向って言え、ああ息よ、四方から来て、これらの殺された者の上に吹け、彼らは生きるであろう(エゼキエル書7・9)。
(中略)
この凡てから『神を心を尽くし、魂を尽くして愛する』ことは神を愛を尽くし、理解を尽くして愛することを意味し、『新しい心と新しい霊を与える』ことは新しい意志と新しい理解を与えることであることを認められることが出来よう。『霊』は理解を意味する故、ベザレルについて、
彼は知恵、理知、知識の霊に満たされた(申命記34・9)
と言われ、ネブカドネザルはダニエルについて、知識、理知、知恵の優れた霊は彼の中にあった(ダニエル5・11、12、14)と語り、イザヤ書には、
霊で誤る者は理知を学ばなくてはならない(29、24)。
と言われ、他の多くの所にも同じことが言われている。
天界の秘義7021
聖言では『魂』により生きた物各々が意味されて、それは動物にも帰せられているが、しかし『魂』は元来人間について述べられており、そしてその言葉が人間について述べられている時は、それは色々な意味で用いられており、また特に彼の知的な生命が、または理解がそのように呼ばれ、同じく彼の意志的な生命〔意志の生命〕または意志もそのように呼ばれているためである。
5.人間自身の死後生きる霊の方面、死後の人間の霊の生命
天界の秘義7021〔2〕
しかし霊的な意味では『魂』により信仰に属した真理と、仁慈に属した善の生命が意味され、全般的には人間自身の、死後生きる霊の方面が意味されており、以下の記事ではそうした意義で用いられているのである―
身体を殺すことは出来るが、魂を殺すことが出来ない者らを恐れてはならない(マタイ10・28)。
もし人間が全世界を得ても、その者自身の魂を失うなら、それはその者に何の利益があろう、または人はその魂を贖うに充分ないかほどの価を与えようか(マタイ16・26)。
人の子は人々の魂を破壊するために来たのではなく、それを救うために来たのである(ルカ9・56)。
あなたらはわたしの民の間でわたしを汚し、死んではならない魂を殺し、生きてはならない魂を生かしている(エゼキエル13・19)。
これらの記事では『魂』は人間の霊的な生命を意味しており、その生命は死後の人間の霊の生命である。『魂を殺すこと』、『魂を破壊すること』は霊的に死ぬことを、即ち、地獄に堕ちることを意味しているのである。
6.霊魂は不滅
マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々2./P163
プラウティーナ、霊魂は獣ではない。胎児がそうです。霊魂が与えられるというのは、胎児も完成しているからです。霊魂は神に似ているもので、永遠に霊的です。霊魂は創造された時から不滅です。・・・・・
霊魂は完成に至るまでに三つの段階を通ると言ってかまいません。
第一の段階は創造、第二は再生、第三は完成です。創造はすべての人間に共通であり、再生は己の意思によって、己の善業を神の御業に合わせ、霊魂をより完成させる義人たちについて言えます。完成は、完全を達成した聖人について言えます。この人たちは、人間の最初の段階を、神のもとに休めるにふさわしいものに至ったのです。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P148
2000・1・20
愛する者よ、来なさい、あなたにとって不変の故郷、霊魂の唯一まことの住まい そして唯一まことの安息の地に向う小道に入ってきなさい。 来て 我が心の寝所に足を踏み入れなさい。 私へと続く美徳の道を歩むように 招いている。 優しい花婿として、我が宝で霊魂を飾ろう、しかし真っ先に、我が神性をもって 霊魂を飾ろう。 女王(*)のように、あなたを我が名と現存そのものによって 荘厳に飾る。 あなたの霊魂を生ける祭壇、神なる私に向ってとこしえに歌われる賛美の歌とする。 偉大な王、自然界を越える存在である私は あなたの霊魂と交わり あなたと私は一つになる。
あなたはひとりでは何もできない、それゆえ、あなたの全身を恵みによって照らすには 純粋な光である、私の現存が不可欠。 そして我が天使たちに私自身を顕しているように この光を通してあなたにも 私自身を顕そう、こうして初めて
<私は見える・・・>
とあなたは言えよう。 そのときは、私自らをあなたに知らせる。 あなたと会話し、あなたも私と会話する。 三位一体の本来の神が はるばる身を屈めて 私が造り直し 恵みによって私より生まれ出て 神となった者と会話する。 養子となった我が王国の跡継ぎと 会話するために。 弱々しく、堕落しやすいあなたが 自分のどうしようもなく悲惨な霊魂を見て 真に悔い改めるなら、あなたを私の全き肖りに似た者とすることができる。
*キリストが霊魂に言及されるときは、女性名詞として話されます。「女王」という表現も そのように説明できます。
8.マリア・ワルトルタ
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/8卷上P61/506・2
わたしは世の光です。なぜなら、光の父である御父の子だからです。子は常に父に似ます。親子は同じ性質を持ち、似ています。同じように、わたしは、わたしを生んだ父に似ています。
9.人間の霊魂はただ目的を顧慮するのみであって、その目的の総合体
霊界日記801
目的が人間を処理し、人間の生命はその目的の中に在り[その目的から成り]、その目的の大半は人間の愛であり、その目的が共に合して、いわば人間の霊魂となり、そのようなものにその霊魂はなるのである。なぜなら人間の霊魂はただ目的を顧慮するのみであって、その目的の総合体であるからである。かくて人間はその身体の生命の間に自らのためにその霊魂を形作るのであり、その霊魂とは彼の気質と本能である。