性格
1.目的・習慣
2.ただ一つの観念から人物の性格は知られる
3.国民性
1.目的・習慣
真の基督教563
性格を決定するものは心に認められる目的であり、そこから生ずる習慣である。
2.ただ一つの観念から人物の性格は知られる
天界の秘義301
思考のなんらかの観念の中に、その観念に連結している結果現存しているものはことごとく、他生では、霊たちの世界の霊たちによってすら極めて精妙に認められており、天使的な霊によっては遥かに精妙に認められており、実にただ一つの観念から人物の性格が知られるほどにも精妙に認められている。
天界の秘義1008[3]
更に、黒いものが僅かでも水の中へ落ちると、その水全体が黒くなってしまう時のように、一つの物の観念が他の物の観念の中へ流れ入って、それを変色するのである。このようにその霊はその者の観念[考え]から知られていおり、驚嘆すべきことには、その観念の各々の中にその者自身の像が、またはその者自身に似た形のものが存在しており、それが目に示されると見るも恐ろしい醜悪なものとなっているのである。
天界の秘義1048
「虹が雲の中に見られるであろう」。
これは、それでも人間は再生することができるようなものであるとき、を意味していることは『雲の中の虹』の意義から明白であって、それは前に言ったように、再生のしるしであり、または再生を指示するものである。『雲の中の虹』についてはその実相はさらに以下のようである。人間の性質は、または身体の死後の霊魂の性質は直ちに知られている、すなわちそれは主により永遠から知られており、またそれが永遠に如何ようなものになるかも知られている。かれの性質は天使たちによりかれが近づくその瞬間に知られている。或るスフィア[霊気]がかれの性質からまたはかれの中の凡ゆる物から―いわば―発散しており、このスフィアは、驚嘆すべきことには、そこからその人間が如何ような信仰にまた如何ような仁慈にいるかを認められることができるといったものである。主がよしとされるとき、虹として見られるのはこのスフィアである。(このスフィアについては、主の神的慈悲の下に今後述べよう)。ここから雲の中に見られるときの虹によりここに意味されていることが明白である。すなわち、人間が再生できるとき、が意味されているのである。
真の基督教778
人間各自は自らの愛と自らの理知であり、彼から発するものは凡てその性格をその会話から極めて速やかに知るのである。すなわち彼の声の調子は彼の愛を示し、彼の言葉は彼の理知を示している。人間の生命には二つの普遍的なもの、すなわち意志と理解がある。意志は彼の愛の受容器官、住居であり、理解は彼の理知の受容器官、住居である。それ故人間から発する行動と言葉はその人間自身を構成する。
霊界日記6033
人間の性質はその者を支配している愛の歓喜である。
3.国民性
天界の秘義4750[6]
ユダによりその対立した意義において表象されている者らの性質はこのようなものである。ユダヤ民族は最初からでさえもこのような愛の中にいたのである、なぜなら彼らは全世界の凡ての者を最も卑しい奴隷として見なし、また自分自身に較べては無価値な者として見なし、また彼らを憎み、あまつさえ、自己と世を求める愛から相互に連結しないときは、自分の交友と兄弟たちさえも同じ憎悪をもって迫害したからである。こうした気質は依然としてその民族のもとに残っているのである、しかし彼らは今は外国の土地で黙認の下にお情けで住んでいるため、それを隠しているのである。
上述の記事に私は以下の神秘な事実を附加しよう。父親から来る霊魂は真の人間であり、母親から来る身体はそれ自身においては人間ではなく、人間から得られるものである。それは霊魂の衣服であり、自然的な原質から成っているに反し、霊魂は霊的な原質から成っている。人は凡て死後、その母親から得た自然的なものを脱ぎ棄て、父親から来ている霊的なものを、その周囲に在って、自然の最も純粋なものから発している所の一種の縁(limbus)と共に保有する。しかしこの縁は天界に行く者にあっては下にあり、霊的なものは上にあるに反し、地獄に行く者にあっては上にあって霊的なものは下にある。この理由から天使的な人間は天界から語り、かくて善であり真であるものを語り、地獄の人間はその心から語る時は地獄から語りその唇から語る時は恰も天界から語るかのように語るのである。彼は後者を他と交わっている時に行い、前者をただ一人家に在る時に行うのである。人間の霊魂は真の人間であり、その起原において霊的なものであるから、父親の愛の心、気質、性癖、傾向、情は後の子孫の中に止まり、代々再起し、容易に認められる理由は明白である。このゆえに多くの家族は、実に国民すらもその最初の父によって認められるのである。民族の各々の容貌の中には共通の相似が現れており、そしてこの相似は教会の霊的なものによらない限り変化しない。ヤコブとユダに対する共通の相似は依然彼らの子孫の中に止まり、彼らはそれによって他から区別される、それは彼らはその宗教に確乎として固執しているためである。何故なら凡ての者がそれによってみごもるところの精液の中には、父親の霊魂の接木または芽がその完全な状態を以て、自然から来る原素によって形成された一種の皮覆に包まれて存在し、これによって人間の身体は母親の子宮内に形成され、父親から或は母親か何れかに似るのであるが、父親との相似は依然内部に止まり、それは絶えず表面に現れようと努めているからである。若しそれがこれを第一代に為すことが出来ないならば、後代になすのである。父親との相似は精液の中にその完全の状態にあるのである。何故なら、既に述べたように、霊魂はその起原において精神的であり、精神的なものは空間と何らの共通点を持たないからである。従って相似は大きな範囲でも、小さな範囲でも依然同一である。主について言えば、彼は、世に在し給うた時、母から得給うた人間性を凡ての贖罪の行為により脱ぎ去り、神的人間性なる父から来った人間性を着け給うたのである。それ故彼においては人は神であり、神は人である。