遺伝

 

 

天界の秘義3469[3]

 

 たれでも自然的な善の何であるかを、すなわち、それは人間がその中へ生まれてくる善であることを知っているが、しかし真理の自然的な善の何であるかを知る者は、たとえ若干いるにしても僅かしかいない、自然的な善には、すなわち、人間のもとに生まれている善には四種類のものがある、すなわち善の愛から発している自然的な善、真理の愛から発している自然的な善、また悪の愛から発している自然的な善、誤謬の愛から発している自然的な善が在る。なぜなら人間がその中へ生まれてくる善は、かれはその両親から、父か、母か、その何れかから取得するからである、なぜなら両親がひんぱんな実行と習慣とにより自ら招いたところの凡ゆるものはまたは実際の生活により肌にしみ込んで、ついにはそれが生まれつきのものであるかのように見えるほどにもかれらにしたしいものとなったものはことごとくその子供たちにつたわって、遺伝的なものになるからである。もし善の愛の中に生きて、この生活に己が歓びと祝福とを認めた親がその状態において子供をみごもるなら、その子供はそこから同じように善に向う性向を受けるのであり、もし真理の愛の善の中に生き(この善については3459、3463番を参照)、その生活に己が歓喜を認め、子供をみごもるときにも、その状態の中にいるなら、子供たちはそこから類似した善への傾向を受けるのである。

 

 

天界の秘義3469[4]

 

 悪の愛の善と誤ったものの愛の善とを遺伝的に受ける者らの場合も類似している。この後のものも、それらは善とは裏腹なものそのものではあるけれど、それらがその中にある人物の中では[それらをもっている人物の中では]外なる形では善として現れているということから善と呼ばれている。自然的な善がその中に現れている極めて多くの者はこのような善を持っている。悪の愛の自然的な善の中にいる者らは凡ゆる種類の悪になびき、また傾くのである、なぜならかれらは自分自身が容易に迷わされるのに甘んじており、この善からとくに忌まわしい快楽に、姦淫に、また残酷になびいており、誤謬の自然的な善の中にいる者らは凡ゆる種類の誤謬に傾き、この善からそれを説得させるものをむさぼるようにして特に偽善者や狡猾な人物から学ぶのであるが、これらの者は[偽善者らは]いかにして心を捕らえるかを、いかにして(他の者の)情愛の中に自らを入り込ませるかを、また無垢を装うかを知っているのである。現今基督教界の中で自然的な善の中にいる大半の人々はこれらのいわゆる悪と誤謬との善の中へ生まれているが、それは彼らの両親が実際生活により悪と誤謬との歓喜を身につけ、かくてそれをかれらの子供たちに植えつけ、そのことによって子孫にも植えつけてしまったからである。

 

 

 

結婚愛246

 

内なるものはその起原を宗教意外のいかような源泉からも得ていない。なぜなら宗教は霊魂に植えつけられ、霊魂を通して子孫へ最高の性向として伝えられるからである。