遺伝悪

 

原罪遺伝霊魂

 

 

 

1.聖書

2.それは支配を求める愛から成っている

3.非自発的なもの

4.乳母

5.遺伝

6.他生ではたれ一人その遺伝悪のためには何らの刑罰も拷問も受けない

7.遺伝悪の発生

8.教会は、主として遺伝悪が増加するため、衰退し、堕落し、その始めの完全さを失う

9.幼児は、いわば、遺伝悪から作り上げられており、それで彼らは悪以外の何ものでもない

10.実際に罪を犯す者は自分自身に一つの性質を生み付け、またその子供達に植え付けられ、遺伝的なものとなる

11.主は他の人間のように生まれたまい、母からいくたの悪を受けつがれて、それと戦い、それを征服された

12.人間は再生しつつあるときは、その最も近い両親からその内に根をはった遺伝悪は根こそぎにされるが、しかし再生していない者、または再生出来ない者にあっては、それは存続している

13.遺伝悪は絶えず強力になって伝えられる

14.人間は凡ゆる種類の悪に生まれている、再生しない限り、彼はその生まれたようにとどまっているのみでなく、さらに悪くなりさえする、自分自身で行った幾多の悪を加えている

15.自己を導くのは神にも勝って、自己を愛し、天界にも勝って世を愛することの中に在る彼の遺伝悪

16.アダムの罪は人間の遺伝悪の起原であると想像することの誤謬

17.遺伝悪は父から発する

18.悪が他の者に降り掛かる時に感じられる歓び

19.サンダー・シング

 

 

 

 

1.聖書

 

 

創世記8・21

 

人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。

 

 

 

 

2.それは支配を求める愛から成っている

 

 

スウェーデンボルグ/続 最後の審判61/(静思社/最後の審判とバビロンの滅亡P127)

 

 人間はその両親から植えつけられた悪を、または遺伝的な悪を持っていることは知られているが、しかしそれは何から成っているかを知る者は少ない。それは支配を求める愛から成り、これに自由が許されるに従って、それはほとばしり出て、ついには凡ての者を支配し、しまいには神として祈られ、拝まれようとする欲念で燃え上がりさえするものである。この愛がエバとアダムとを欺いた蛇である。なぜならそれは女に次のようなことを言ったからである。

 

あなた方がその木の実を食う日には、あなた方の眼は開いて、あなた方は神のようになることを神は知っておられる(創世記3・4,5)。

 

それゆえ人間が手綱をゆるめられてこの愛に突入するに従って、彼は神に背を向けて、彼自身に向き、無神論者となる。そのとき聖言に属する神的真理は手段として仕えるかもしれないが、支配が目的であるゆえ、その手段は単に彼に役立つためにその心に在るにすぎない。これが支配愛の中間度と究極度に在る者が凡て地獄にいる理由であり、地獄にはこのような性質を持っていて、人が神について語るのを聞くに我慢の出来ない者がいるのである。

 

 

 

新しいエルサレムの教義83

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

真の基督教423

 

 これが仁慈そのものであるのは、仁慈は日々絶えず個人としての隣人のみでなく、集合的な隣人にも善を為すものとして定義され得るからである。これは日々の職業に善を為すことを意味し、而して良き業に携わっていない時でさえも、その業に就いて屡々考え、またその業を欲するのである。このように仁慈を行う者は益々仁慈の化身となる。何故なら、公正と忠信とは彼の心を形作り、その実践が彼の身体を形作り、かくして時の経過につれ、彼はそのようにして得られた形により仁慈を除いては何ものをも企てずまた考えないからである。聖言には、かかる人々は、律法をその心に刻み込まれていると言われる。彼らはその業に何らの功績をも加えない。何故なら、彼らは決して功績を考えず、良き公民として為さねばならぬ義務を考えるに過ぎないからである。然し、人間は自分自身によっては、霊的な公正と忠信より行動することは出来ない。何故なら、彼はその祖先から、善と公正とをそれ自らのためではなく自己と世とのために為す性質を受け継いでいるからである。それ故、主を礼拝し、自己によって行動しつつも主によって行動している者のみが霊的仁慈に到達し、之を行うのである。

 

 

 

真の基督教755

 

不法は一度び根を張ると、性向の方面で子孫へ遺伝し、それは主によって行われる再生によってのみ根絶されることが出来るのである。

 

 

 

 

3.非自発的なもの

 

 

天界の秘義3603[5]

 

人間は自分にこうした非自発的なものがあることを知っていない。なぜなら彼は彼自身のものであるものを除いては、すなわち、自発的なものを除いては自分自身の中には他の何ものをも認めないからである。この非自発的なものは二重性のものとなっており、一つは彼がその父と母から得ている彼の遺伝性であるが、他方のものは主から天界を通して流入してくるものである。人間は成長するにつれ、もし彼らが自分自身が再生することに甘んじない底のものであるなら、彼らがその両親から遺伝的に持っているものは益々それ自身を明らかに示して来るのである。なぜなら彼らはそこから幾多の悪を取って、それらのものを彼自身のものにし、または自分自身に固有のものにするからである。しかし再生しつつある者たちのもとでは、天界を通して主から発しているものは成人期にそれ自らを明らかに示すのであり、それまでは、たとえ目には見えなかったものの、彼らの思考の、また彼らの意志の一切のものを処理し、統べ治めていたのである。

 

 

 

 

4.乳母

 

 

天界の秘義4563

 

遺伝悪はその最初期の幼児の時代から新しい幼児の時代までも乳母として働いていることが明白であり、ここから「乳母」により遺伝悪が意味されており、また「乳母」により天的な霊的なものにより無垢を導き入れることも意味されているのである。

 

 

 

5.遺伝

 

 

天界の秘義6716

 

子供たちは父の気質の中へ生まれてきており

 

 

 

天界の秘義4644

 

人間はことごとく悪の中へ生まれており、すなわち、父から発した内的な悪へ、母から発した外的な悪へ生まれていることを知らなくてはならない。なぜなら人間各々の遺伝性は悪であるから。

 

 

 

6.他生ではたれ一人その遺伝悪のためには何らの刑罰も拷問も受けない

 

 

天界の秘義966

 

他生ではたれ一人その遺伝悪のためには何らの刑罰も拷問も受けないのであって、ただその者自身が犯した実際の悪のためにそれを受けることに注意しなくてはならない。

 

 

 

天界の秘義1608[3]

 

仁慈を持たない信仰の中にいる者に、即ち、自分は信仰を持っていると言いはするものの、隣人を憎悪している者には天界の王国[天国]は与えられる筈はないことは、たれからでも、もしその者が進んでそのことを反省しさえするなら、認められることが出来よう、なぜなら憎悪が、即ち、地獄が生命を構成している時は、かかる信仰の中には生命は有り得る筈はないからである。なぜなら地獄は憎悪以外の何ものからも構成されてはおらず、それは人間が遺伝的に受け継いだ憎悪からではないが、人間が実際の生活により得た憎悪から構成されているからである。

 

 

 

天界の秘義1667[]

 

彼らがそのとき服従して仕えている理由はその人間がまだ欲念と誤謬とのスフィアを自分自身に得ていないということである。なぜなら悪霊と魔鬼とは人間が自分の行為により自分自身のものとしてしまったもの以外のものに働きかけることは許されていないのであり、また遺伝から発しているものに働きかけることは許されていないのであり、それでその人間がそうしたスフィアを自分自身に取得しない中は悪霊は仕えているが、しかし彼がそのスフィアを取得するや否や、彼らは彼に彼ら自身を注ぎ込んで、支配しようと努めるからである、なぜなら彼らはそのとき彼のスフィアそのものの中にいて、そこに一種の歓喜を、または彼らの生命そのものを見出すからである。屍のあるところには、鷲がいるのである。

 

 

 

 

7.遺伝悪の発生

 

 

結婚愛245

 

ここから内なる分離にも拘わらず霊魂は繁殖するが、しかしそれが下降して、精となりつつある間に、それは彼の自然的な愛に属した底のものによって覆われるのである。ここから遺伝悪が発生している。

 

 

 

 

8.教会は、主として遺伝悪が増加するため、衰退し、堕落し、その始めの完全さを失う

 

 

天界の秘義494

 

エレミヤ記には―

 

わたしはあなたを生んだあなたの母をあなたらがそこで生まれなかった他の所へ追いやるであろう、そこであなたらは死ぬであろう(22・16)。

 

ここでは母は教会を意味している。なぜなら私たちが言ったように、教会は、主として遺伝悪が増加するため、衰退し、堕落し、その始めの完全さを失うということがその実情であるからである、なぜなら続いて起ってくる親は尽くその受け継いだ悪に新しい悪を附加するからである。両親が実際に犯す罪は凡て一種の性質を取り、それが屡々再発すると、彼らには生来的なものとなり、遺伝悪に附加されて、その子供に伝わり、かくて子孫に伝わるのである。このようにして遺伝悪は子孫の中に無限に増大して行く。それがそうであることは子供達の悪い性向は正確にその父祖のそれに似ているという事実から明白である。我々の中にアダムから植えつけられていると主張されている遺伝悪以外には何ら遺伝悪は存在しないと考えている者の見解は全く誤っているのである(313番)。真理は各人がその者自身の実際の罪によって遺伝悪を生み出し、それをその受け継いだいくたの悪に附加し、かくてそれは累積されて、凡ての子孫の中に存続し、主により再生しつつある者を除いては何人の中にも減退はしないということである。各教会においてもそのことが堕落の主要な原因であり、最古代教会も例外ではなかったのである。

 

 

 

 

天界の秘義2910[]

 

 これらの教会の他にそれ程充分に記されてはいない極めて多くの教会が在ったのであり、それらも同じように衰退して、自らを滅してしまったのである。このような衰退と自己破壊には多くの原因が存在している。一つは両親たちが幾多の悪をつみ重ね、再三それをやってのけることにより、ついには習慣により、それらを自分の性質に植え付けてしまい、かくて遺伝によってそれらを子孫に書き写してしまうということである。なぜなら両親がひんぱんにやってのけることにより実際生活から獲得するものは彼らの性質に根を張って、遺伝により子孫に伝えられ、それでその子孫が改良されない限り、または再生しない限り、それは次々と代々の者に継続して、絶えず増大して行き、かくて意志は悪と誤謬にさらに傾き易くなって行くからである。しかし教会が終りに至って、死滅してしまうと、主は常にどこかに新しい教会を起されるが、しかしそれは前の教会の人々からは、たとえ起されるにしても、そうしたことはめったに起こらないのであって、それは何ごとも知らなかった国民から起こされるのである。これらの者については以下の記事に述べよう。

 

 

 

 

9.幼児は、いわば、遺伝悪から作り上げられており、それで彼らは悪以外の何ものでもない

 

 

霊界日記3547

 

幼児は、いわば、遺伝悪から作り上げられており、それで彼らは悪以外の何ものでもないものの、それでも親から絶え間なく伝えられてきている悪に従って、多少相違しており、それが絶えず迸り出て、欲念の悪となって、絶えず誤った考えを思い浮かばせるのである。それで彼らは永遠に決して完全なものになることは出来ないのであり、または絶対的な相応は与えられることは出来ないのである。なぜなら悪の根幹が絶えず芽を出し、そこから遺伝悪によりかき立てられて、身体の生命における現実の悪が生まれており、その悪の多様なものは、絶えず伝えられてきた両親の現実の悪に応じて生まれているのである。ここから或る家族の悪は他の家族の悪とは区別されることが出来るのである。それで善は(この源泉からは)決して幼児の中に植え付けられることは出来ないのである。

 

 

 

天界の秘義4563

 

 それはその人間が成人して、その理解とその理解から派生してくる意志から行動するまでは、それ自身を明らかにはしないのであって、それまでそれは隠れており、とくに幼児の間は隠れているのである。それでも遺伝悪は彼らが行っている凡ゆる事柄の中に潜んでいるのである(2300、2307、2308)。この遺伝悪は彼らが彼ら自身で判断する時までは、彼らに栄養を与えており、または乳母のようなものとなっており(4062)、そのとき[彼らが彼ら自身で判断するとき]もし彼らが再生しつつあるなら、主により新しい幼児の状態の中へ連れて来られ、ついには天界の知恵の中に連れて来られ、かくて純粋な幼児の状態の中へ、すなわち、無垢の中へ連れて来られるのである。

 

 

 

神の愛と知恵269

 

悪は両親から継続的に来ており、それは一人の親が他の親の上にそれを積み重ねて行くことにより増大して、遂には人間は生来悪以外の何物でもなくなり、また悪の邪悪さは霊的な心が閉じ込められる度に応じて増大し―何故ならかくして自然的な心の上部もまた閉じられるからである―遂には子孫は、主のお助けにより悪を罪としてそこから逃れることによらない限りそこから回復されなくなっているが、しかしその方法によってのみ[主の御助けにより悪を罪としてそこから逃れることによってのみ]霊的な心は開かれ、かく開かれることによって自然的な心は相応した形へ回復されるのである。

 

 

 

 

10.実際に罪を犯す者は自分自身に一つの性質を生み付け、またその子供達に植え付けられ、遺伝的なものとなる

 

 

天界の秘義313

 

 ここに最初の人について言われていることから、現今存在している遺伝悪は凡て彼から来たと想像されているが、その誤りであることが明らかである。なぜなら『人』の名の下にここに取扱われているのは最古代教会であって、それが『アダム』と呼ばれているときは、それは人が土地から発したことを、彼は主からくる再生により人間でないものから人間になったことを意味するからである。これがその名の起源と意義である。しかし遺伝悪に関わる事実は以下のものである。実際に罪を犯す者はことごとくそのことにより自分自身に一つの性質を生み付けるのであり、そこから発したその子供達に植え付けられ、遺伝的なものとなるのである。かくてそれは凡ゆる両親から、父から、祖父、曽祖父、その継続した祖先から降っており、かくて降ってくる各々の子孫の中に増大し、加重されて、各々の者の許に止まり、またその者が犯す実際の罪によりその者の中に増大しており、主により再生している者を除いては、何人の中にも無害になるほどには決して消滅していないのである。両親の悪い性向は明白にその子供達の中に残っており、かくて一つの家族は、実に一つの種族全体さえも、そのことにより他の凡てから区別されることが出来るという事実の中に注意深い観察者はこの真理の証明を見ることが出来よう。

 

 

 

天界の秘義3469

 

ことごとくその子供たちに伝わる

 

親がその状態において子供を身ごもるなら

 

 

 

 

11.主は他の人間のように生まれたまい、母からいくたの悪を受けつがれて、それと戦い、それを征服された

 

天界の秘義1444

 

 「カナン人がそのときその地にいた」。

 

これは主の外なる人における、母から遺伝したものを意味していることは主により受けつがれたものについてすでに言われたことから明白である、なぜなら主は他の人間のように生まれ給い、母から幾多の悪を受け継がれて、それと戦い、それを征服されたからである。主は最も痛ましい幾多の試練を受けられて、それに堪えられ(この試練については今後主の神的慈悲の下に述べよう)、主はただ独りで、また御自身の力により地獄の全部と戦われたほどにも大きな試練を受けられ、それに堪えられたことは良く知られている。たれ一人悪が自分に密着していない限り、試練を受けることはできない、悪を何ら持たない者は試練をいささかも持つはずはない、悪は奈落の霊どもがかき立てるものである。

 

 

 

天界の秘義1444[2]

 

主の中には凡ての人間の中にあるような、実際のものであり、または御自身のものである悪は何ら存在しなかったが、しかし母から来ている遺伝的な悪が存在したのであって、それがここに『その地にそのとき居たカナン人』と呼ばれているのである。このことについては、前の節に言われたことを参照されたい(1414番)、すなわち、人間には二つの遺伝悪が内在していて、一つは父から、他の一つは母から来ており、父から来ているものは永遠に存続するが、母から来ているものはその人間が再生しつつある間に主により消散させられるのである。しかしながら主の父から来ているその遺伝的な性質は神的なものであったのである。母から発している主の遺伝的なものは悪であり、それがここにとり扱われており、それを通して主が試練を受けられたのである(マルコ1・12、13、マタイ4・1、ルカ4・1、2)。しかし、すでに言ったように、主は現実のものであったところの、または主御自身のものであった悪は持たれなかったのであり、またいくたの試練により地獄を征服された後は、母から来ている遺伝悪を何ら持たれもしなかったのであり、それでここにその時こうした悪があった、すなわち、『その時カナン人がその地にいた』と言われているのである。

 

 

 

天界の秘義1444[3]

 

カナン人はモーセの書に明白なように、海辺の、ヨルダンの川岸に住んでいた者らであった。偵察者たちは返って来ると言った―

 

  わたしたちはあなたがわたしたちをつかわされた地へ来ました、たしかにそこには乳と蜜とが流れており、これはその果実である。しかしながらその地に住んでいる民は強く、その都はかこいをされていて、非常に大きい。さらにわたしらはそこにアナクの子供らを見ました。アマレクは南に住み、ヒテ人とエビス人とアモリ人とは山に住み、カナン人は海の傍の、ヨルダンの川岸に住んでいます(民数記13・27−29)。

 

 カナン人が海のそばに、ヨルダンの川岸に住んでいたことは母から来ている遺伝的なものといった、そこから発している外なる人の中にある悪を意味したのである、なぜなら海とヨルダン川とは境界であったからである。

 

 

 

天界の秘義1444[4]

 

こうした悪が『カナン人』により意味されていることはまたゼカリア書に明白である―

 

  その日万軍のエホバの家にはカナン人はもはやいないであろう(14・21)。

 

 ここには主の王国がとり扱われていて、主がカナン人により意味されている悪を征服され、それをその王国から斥けられるであろうということが意味されているのである。凡ゆる種類の悪がカナンの地の偶像崇拝の諸国民により意味されていて、その中にカナン人が含まれていたのである(創世記15・18、19、21、出エジプト記3・8、17、23・23、28、23・2、34・11、申命記7・1、20・17、ヨシュア記3・10、24・11、士師記3・5参照)。各々の国民によりいかような悪が特定的に意味されているかは、主の神的慈悲の下に他の所で述べよう。

 

 

 

 

12.人間は再生しつつあるときは、その最も近い両親からその内に根をはった遺伝悪は根こそぎにされるが、しかし再生していない者、または再生出来ない者にあっては、それは存続している

 

 

天界の秘義4317[4]

 

人間は再生しつつあるときは、その最も近い両親からその内に根をはった遺伝悪は根こそぎにされるが、しかし再生していない者、または再生出来ない者にあっては、それは存続しているのである。これが遺伝悪である。

313、494、2122、2910、3518、3701

 

 

 

天界の秘義4317[5]

 

それは悪を意志して、そこからそれを考えることに在り、遺伝悪は意志そのものの中にそこから派生している思考の中にあり、内に存在しているところのコナトスまたは努力そのものであり、それはその人間が善いことを為している時でさえもそれ自身を接合させているのである。それは悪が他の者に降りかかるときに感じられる歓びにより、知られている。この根は深く隠されている。なぜなら天から(すなわち、主から天界を通して)善い真のものを受ける内なる形そのものは腐敗しており、いわば、歪められており、そのため善と真理とが主から流れ入ると、それらははねかえされるか、歪められるか、または窒息させられるかするからである。現今では善と真理の認識は[善と真理を認識すること]全く存在しないで、代って、再生した者のもとには、両親や教師から学ばれるものを善い真のものとして承認する良心が存在しているのは、そうした原因から発しているのである。自己を他の者にもまさって愛し、もし他の者が自分たちを尊敬しないなら、その者に悪を欲し、復讐に歓びを認め、また世を天界にもまさって愛することは遺伝悪から発しており、またその同じ源から凡て派生的な欲念または悪い情愛が発しているのである。人間はこのようなものが遺伝悪の中に在ることを知ってはいないし、ましてそうしたものは天界の諸情愛に対立していることを知ってはいないが、それでも他生では人間各々は遺伝的なものからどれほど悪を実際の生活により自分自身に引き寄せたか、またどれほど彼はこの源泉から悪い情愛により天界から自分自身を遠ざけたかが明らかに示されるのである。

 

 

 

 

13.遺伝悪は絶えず強力になって伝えられる

 

 

天界の秘義10134

 

(教会の「夜」の状態に関し)

悪が日増しに増大し、それが増大するにつれて、一人の人物は伝染病のように他の人物に感染し、とくに両親はその子供たちに感染するが、さらに遺伝悪は絶えず強力になって伝えられるのである。

 

 

 

新しいエルサレムの教義175

 

 人は各々自己と世への愛の諸々の悪の中へその両親により生まれている。習慣からいわば性質となった悪の各々はその子孫に遺伝し、かくてそれは、両親から、祖父から、曽祖父からと、長く連綿とさかのぼって絶えず遺伝しており、かくて悪の遺伝は人間自身の生命の凡てが悪以外の何ものでもないほどに大きなものとなっている。このように絶えず遺伝してきた悪は主から発している信仰と仁慈との生活によらない限り、破られはしないし、変更されもしない。

 

 

 

 

14.人間は凡ゆる種類の悪に生まれている、再生しない限り、彼はその生まれたようにとどまっているのみでなく、さらに悪くなりさえする、自分自身で行った幾多の悪を加えている

 

 

仁慈の教義2

 

人間は凡ゆる種類の悪に生まれている。彼の意志は―それは彼の固有性であるが―悪以外の何ものでもない。それで人間は改良されて、再生しない限り、彼はその生まれたようにとどまっているのみでなく、さらに悪くなりさえするのである。なぜなら彼は遺伝的に受け継がれた幾多の悪に惹かれ、自分自身で行った幾多の悪を加えているからである。

 

 

 

新しいエルサレムの教義176

 

 人間は遺伝から取得しているものに傾き、またそれに陥っており、かくて彼はその悪を確認し、またそれに自分自身から更に多くのものを附加している。これらの悪は全く神的生命に反しており、それを破壊している、それで人間は主から霊的生命である新しい生命を受け入れない限り、かくて彼は新たにみごもり、再び生まれ、新たに育てられない限り、即ち、新たに創造されない限り、地獄に堕ちるのである。なぜなら彼は地獄にいる者らのように、自己と世に属した物以外の何一つ欲しないし、そこからそれ以外の物は何一つ考えもしないからである。

 

 

 

 

15.自己を導くのは神にも勝って、自己を愛し、天界にも勝って世を愛することの中に在る彼の遺伝悪

 

 

真の基督教400(6)

 

 天界的な愛の中にある者、即ち、善を為すことと他に役立つことを喜ぶ者は、主によって導かれる。何故なら、主はこの愛の中に住み、その愛を御自らの周囲に注ぎ給うからである。しかし、自己への愛に取り憑かれている人間は自己自身によって、或いは悪以外の何ものでもない自己によって導かれる。何故なら、それは神にも勝って、自己を愛し、天界にも勝って世を愛することの中に在る彼の遺伝悪であるから。

 

 

 

 

16.アダムの罪は人間の遺伝悪の起原であると想像することの誤謬

 

 

真の基督教520

 

凡ゆる人間は悪の傾向をもって生まれる故に母の胎にいる時から、悪以外の何ものでもないことが教会内に良く知られている。何故なら、諸々の会議と種々の教会の管長たちは、アダムの罪はその凡ての子孫に伝えられており、この理由のみによって、その凡ゆる子孫は生来その最初の呪詛の中に含まれていると宣言してきたからである。更に、他の幾多の教義がその宣言の上に基礎づけられている。例えば、潔め即ち再生の洗礼はその罪を除去するために主によって定められた、これが主の降臨の原因であった、主の功績に対する信仰はそれを除去する手段である等の教義である。しかし、上述したように(466番以下)この起原からは何らの遺伝的な悪も生じて来なかったし、またアダムは人間の最初ではなかったのである。彼と彼の妻とはこの地上の最初の教会を意味し、エデンの園はその知恵を意味し、生命の木は、来たり給う主を見上げることを、善悪を知るの木は、主の代わりに自己を見ることを意味している。最古代の教会が創世記の最初の数章に象徴的に示されていることは「天界の秘義」の聖言から証明されている。凡てこの事はアダムの罪は人間の遺伝悪の起原であると想像することの誤謬を示している。自由意志に関する章に、生命の木と善悪を知るの木とは凡ゆる人間の中に在り、両者がエデンの園の中に在ったことは、主に向かうか、或はこれに背を向けるか、その何れかを為し得る人間の自由意志を意味することが示されている。

 

 

 

 

 

真の基督教521

 

 親愛なる読者よ、人間の遺伝悪の起原は彼の両親の中に在るのである。実に人間の犯す罪ではなく、悪への傾向がその両親の中に在るのである。これは理性と経験とによって示される。何故なら、子供たちは顔、作法、性質において、一般的にその両親に、その祖先たちにさえ似通って生まれ、かくてアフリカ人はヨーロッパ人から、イタリア人はドイツ人から、イギリス人はフランス人から区別されるように、異なった家族と国民とは相互に容易に区別されるからである。誰がユダヤ人をその顔、眼、言葉、身振りによって認めないであろうか。そしてこの凡てはもし諸君が各人の人格から発する生命的なスフィアを感ずることが出来るならば、更に明白となるであろう。この事から、人間は悪そのものを受け嗣ぐのではなく、単に悪への一般的傾向を、或る悪に対する特殊の傾向と共に受け嗣ぐに過ぎないことが推論される。それ故、死後何人も何らかの遺伝悪の為に審判され或は罪に定められることはなく、単に彼が実際犯した罪のために審かれ、罪に定められるに過ぎない。これは以下の神的法則によって明白である、「父はその子の故に死ぬべからず、子もその父のために死ぬべからず、各人は己の罪によりて死ぬべし」(申命記24・16)。この事実の証明が霊界に私に与えられた。何故なら幼い時に死に、悪の傾向を持ってはいるものの、決して如何なる悪も犯さなかった者たちは、主の庇護のもとに育てられ、救われるからである。

 両親によってその子孫に伝えられる上述の悪への傾向と性向は、再生と呼ばれる主による新しい誕生によってのみ阻止されることが出来る。これが無ければ悪への傾向は妨げられないで継続するのみではなく、後続する凡ての世代の者の中に増加し、拡大し、遂には凡ゆる悪への普遍的な傾向となる。ユダヤ人は、カナンの女を妻とし、義理の娘のタマルと姦淫をなし、三つの分れの家族を生んだ彼らの父祖ユダに似ており、時の経過と共にその遺伝的な気質は増大して、遂に、快く基督教を受け入れることが出来ないのはこれによるのである。私は彼らは受け入れることは出来ないと言う、それは彼らの内部の状態は決定的な不可能にさえ達しているからである。

 

 

 

 

17.遺伝悪は父から発する

 

 

神の愛と知恵269

 

人間は悪の中へ生まれ、彼はそれを両親から遺伝により得ていることは知られている。彼はそれをその両親から受け継ぐのではなく、アダムから両親を経て受け継ぐのであると或る者により信じられているけれど、しかしそれは誤りである。彼はそれを父から得ており、父から霊魂を得、その霊魂が母の中に身体を着せられるのである。なぜなら父から発する精液(スィード)は生命の最初の容器であるが、しかしその容器は父の中にあったような容器であるから。何故なら精液は父の愛の形をとっており、各人の愛は、最大な物の中にも最小の中にも、それ自身に類似しており、そして精液の中には人間の形に向かう努力が在り、継続的な段階によりその形へ向かって進むからである。ここから、遺伝的なものと呼ばれている悪は父から発し、引いては祖父から発し、曽祖父から発し、継続的に子孫に遺伝することが推論される。

 

 

 

 

18.悪が他の者に降り掛かる時に感じられる歓び

 

 

天界の秘義4317[5]

 

それは悪を意志して、そこからそれを考えることに在り、遺伝悪は意志そのものの中にそこから派生している思考の中にあり、内に存在しているところのコナトスまたは努力そのものであり、それはその人間が善いことを為している時でさえもそれ自身を接合させているのである。それは悪が他の者に降り掛かる時に感じられる歓びにより、知られている。この根は深く隠されている。なぜなら天から(即ち、主から天界を通して)善い真のものを受ける内なる形そのものは腐敗しており、いわば、歪められており、そのため善と真理とが主から流れ入ると、それらは跳ね返されるか、歪められるか、または窒息させられるかするからである。現今では善と真理の認識[善と真理を認識すること]は全く存在しないで、代って、再生した者のもとには、両親や教師から学ばれるものを善い真のものとして承認する良心が存在しているのは、そうした原因から発しているのである。

 

 

 

19.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P154

 

子が親の性格を大きく受け継ぐというのは事実である。子はまた、親の習慣やその仲間といった環境の影響も受ける。悪しき環境に生きる親の子が悪くなるのも無理からぬことで、あらゆる状況が善くなることを阻んでしまうのである。こんな子供が善くなったとしたらまさに奇蹟であろう。しかし、このような奇蹟は多かれ少なかれどこででも起こっていることである。こうした奇蹟は、枷(かせ)を断ち切り、罪の呪縛から人を解き放ち、罪人を新しい存在に変える大きな力が秘められていることを証明する。新生とはこのようなものだ。秘められた大きな力とは、悔い改めた者たちの救済のために働く聖霊である。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P154

 

政府から厳罰を与えられてもいっこうに更生しない犯罪者たちが多くいる。肉親や友人の愛も勧告も何ら効き目を表さず、彼らを更生しようとありとあらゆる手を尽くしても無駄に終わる。ところが、彼らがキリストに導かれるや、たちどころに全的変化を起こして新しい人間になり、利己的で罪にまみれた生活を根底から変え、人助けと奉仕に生き始めるようなことが起こる。それまで、人を迫害しては殺していた彼らが、今度は人のために迫害され、殺されることをも辞さなくなる。新生とはこのようなものである。これこそ、キリストが人類の救い主であり、人の病を正しく診断して癒やす偉大な医師であることの証拠である。人の心のそもそもの造り手であるキリストを除いて、誰が心の病を癒やしえよう。主を除いて誰が罪人を聖人に変ええようか。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P173

 

親の病が子に遺伝することはあり得ても、親が怪我により手足、目を失ったからといって、子まで手足を損ない、目が不自由になるようなことはない。原罪にも同じことがいえる。善かれ悪しかれ、親の性質すべてが子に受け継がれるわけではない。子の性格の大半は、意識して行動した結果である。子が親の性質を何もかも受け継いでいるということになれば、自分の行動への責任は負えなくなるだろう。能力や性格はほんの僅か受け継がれるにすぎない。成長と成熟は、大部分自分の努力によるのである。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P174

 

光の前に何かをおけば影ができる。月食は、太陽と月との間に地球が入ることによって起こる。何かがわれわれに影を投じた場合、影の原因は外のものにあるので、われわれには責任がないことになる。影の影響は受けても、影への責任はない。だが、自分の心から雲のように立ち昇り、天を覆って闇を作り出すような悪念に対しては、われわれは責任がある。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P174

 

罪とその結果は、どれほど危険であっても、われわれの外にはない。神と神から不滅性を授けられた者たち以外、外のものは何一つないのだ。別なものが神から離れて独自に存在できるとすれば、神と同じ無限の属性をもっていることになるが、絶対者はただ一人であるから、これは不可能である。

 神の存在は、理想的な秩序が永遠に保たれることを保証する。神の性質に対立するものは神の前でいつまでも存在はできない。悪と虚無に服しているためうめき苦しんでいる被造物すべてが、滅びの束縛から神の子らの栄光の自由へと永遠に解放される、というのはこのためである(ローマ8・20−22)。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P286

 

中国の哲学者朱氏はこう書いている。「人の誕生は清流の泉に似ている。清流は山や平地を流れるにつれて、土や泥をとらえて濁り出す。だが、どこかで塞ぎ止められれば泥は沈殿し、またきれいな水になる」。孟子によると、霊魂は麦粒のようなもので、それ自体は悪くなく、ただ播かれる土地と水、肥料、周囲の環境に左右されるという。換言すれば、人は本来は善だが、環境が彼を悪くするというのだ。

 一面からみれば、確かにこの見解は正しいが、罪の遺伝的形質、悪になびく人間の傾向を否定することはできない。「純真無垢」と呼ばれる子供を例にとってみよう。ハーバート・スペンサーはいった。「子供が無垢だという考えは、悪の知識という点では本当でも、悪の衝動という点ではまったく誤っている。子供部屋で三十分も観察していればすぐにわかることだ」