原罪

遺伝悪自己愛

1.遺伝悪

2.蛇(自己愛)

3.他生ではたれ一人その遺伝悪のためには何らの刑罰も拷問も受けない

4.聖母から司祭へ

 

 

 

 

1.遺伝悪

 

 

天界の秘義313

 

 ここに最初の人について言われていることから、現今存在している遺伝悪は凡て彼から来たと想像されているが、その誤りであることが明らかである。なぜなら『人』の名の下にここに取扱われているのは最古代教会であって、それが『アダム』と呼ばれている時は、それは人が土地から発したことを、彼は主から来る再生により人間でないものから人間になったことを意味するからである。これがその名の起源と意義である。しかし遺伝悪に関わる事実は以下のものである。実際に罪を犯す者はことごとくそのことにより自分自身に一つの性質を生みつけるのであり、そこから発した悪がその子供達に植え付けられ、遺伝的なものとなるのである。かくてそれは凡ゆる両親から、父から、祖父、曽祖父、その継続した祖先から降っており、かくて降ってくる各々の子孫の中に増大し、加重されて、各々の者の許に止まり、またその者が犯す実際の罪によりその者の中に増大しており、主により再生している者を除いては、何人の中にも無害になる程には決して消滅していないのである。両親の悪い性向は明白にその子供達の中に残っており、かくて一つの家族は、実に一つの種族全体さえも、そのことにより他の凡てから区別されることが出来るという事実の中に注意深い観察者はこの真理の証明を見ることが出来よう。

 

 

 

 

2.蛇(自己愛)

 

 

天界の秘義257

 

『蛇の頭』により全般的に悪の主権[支配]が、とくに自己愛の主権[支配]が意味されていることはその性質から明白である、それは単に主権を求めるのみでなく、地上の凡ゆるものを治める主権をさえ求める程にも恐るべきものであり、それはそれにもまた満足しないで、天界の凡ゆるものを支配しようとさえ渇望し、さらに、それにも満足しないで、主御自身をさえ支配しようと渇望し、しかもその時でさえも満足しないのである。これは自己愛の一閃光の中にさえそのことごとくに潜んでいるのである。もしそれがほしいままにされて、拘束から解放されるならば、それはすぐにも爆発して、その渇望している高きにさえも成長することを我々は認めるであろう。かくて『蛇』はまたは自己愛の悪は主権を行使しようといかに望んでいるか、その支配を拒む者を凡ていかに憎悪するかが明らかである。これがそれ自身を高める『蛇の頭』であり、直ぐ前の節に記されているように、主から地にまでも『踏みにじられ』かくて『腹ばって行って塵を食う』蛇の頭である。イザヤ書に『ルシファ』と呼ばれている『蛇』または竜もまたそのように記されている ―

 

ああルシファよ、おまえは心の中で言った、わたしは天に登り、わたしの王座を神の星の上にも上げ、北側の集会の山の上に坐り、雲の頂きの上にも登り、至高者に等しいものともされよう、と。しかしおまえは地獄へ、坑の側へ落とされるであろう(14・12−15)。

 

 

 

神の摂理211

 

神的摂理は何人もその存在を殆ど知らない程に秘かに働く理由は人間が滅びないためである。なぜなら人間の意志である人間の自己性は神的摂理とは決して共力せず、人間の自己性はそれに対して生れ乍らの敵意を持っているからである、なぜならこれが最初の両親を誘惑した蛇であって、それについては、『私はおまえと女との間に、おまえの裔と女の裔との間に敵意をおこう、彼はおまえの頭を砕くであろう』(創世記3・15)と言われているから。

蛇は凡ゆる種類の悪を意味し、その頭は自己愛であり、女の裔は主であり、人間の自己性と主の間には、それ故また人間の深慮と主の神的摂理の間には敵意が置かれている、なぜなら人間自身の深慮は絶えずその頭をもたげ神的摂理は絶えずそれを押さえつけられているからである。もし人間はそれを感じるなら、彼は神に向かって怒り、憤激し、滅びるであろう、しかし彼はそれを感じないため、人間に対し、自分自身に対し、運命に対し怒り、憤激することは出来るが、しかしそのために滅びはしないのである。この理由から主はその神的摂理により絶えず人間を自由の中に導かれ、この自由は人間には全く人間自身のものとして見えている。

 

 

 

 

3.他生ではたれ一人その遺伝悪のためには何らの刑罰も拷問も受けない

 

 

天界の秘義966

 

他生ではたれ一人その遺伝悪のためには何らの刑罰も拷問も受けないのであって、ただその者自身が犯した実際の悪のためにそれを受けることに注意しなくてはならない。

 

 

 

天界の秘義1608[3]

 

仁慈を持たない信仰の中にいる者に、即ち、自分は信仰を持っていると言いはするものの、隣人を憎悪している者には天界の王国[天国]は与えられる筈はないことは、たれからでも、もしその者が進んでそのことを反省しさえするなら、認められることが出来よう、なぜなら憎悪が、即ち、地獄が生命を構成している時は、かかる信仰の中には生命は有り得る筈はないからである。なぜなら地獄は憎悪以外の何ものからも構成されてはおらず、それは人間が遺伝的に受け継いだ憎悪からではないが、人間が実際の生活により得た憎悪から構成されているからである。

 

 

 

天界の秘義1667[]

 

彼らがそのとき服従して仕えている理由はその人間がまだ欲念と誤謬とのスフィアを自分自身に得ていないということである。なぜなら悪霊と魔鬼とは人間が自分の行為により自分自身のものとしてしまったもの以外のものに働きかけることは許されていないのであり、また遺伝から発しているものに働きかけることは許されていないのであり、それでその人間がそうしたスフィアを自分自身に取得しない中は悪霊は仕えているが、しかし彼がそのスフィアを取得するや否や、彼らは彼に彼ら自身を注ぎ込んで、支配しようと努めるからである、なぜなら彼らはそのとき彼のスフィアそのものの中にいて、そこに一種の歓喜を、または彼らの生命そのものを見出すからである。屍のあるところには、鷲がいるのである。

 

 

 

 

4.聖母から司祭へ

 

 

聖母から司祭へ1993.2.11

 

わたしは、罪の影、みなもととしての罪の影すら受けたことはありません。でも、すべての人は、人間としてやどるその瞬間から原罪の結果をうけつぐのです。