分離誘惑

 

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ  分離/参照

3.ルイザ・ピッカレータ

4.マリア・ワルトルタ

5.ヴァッスーラ

6.最も大きな罪は、神の慈悲を諦めること

7.神を信じない者は悪を罪としては認めないし、それでそれに反抗して戦いはしないし、むしろそれに加担する

8.他生では誰もその者が世で行った悪のために刑罰を受けるのではなく、彼がその時行なう悪のために罰せられる

9.サンダー・シング

 

 

 

 

1.聖書

 

 

出エジプト23・7

 

わたしは悪人を正しいとすることはない。

 

 

 

申命記24・16

 

父は子のゆえに死に定められず、子は父のゆえに死に定められない。人はそれぞれ自分の罪のゆえに死に定められる。

 

 

 

エゼキエル18・21−23

 

悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、わたしの掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。 彼の行ったすべての背きは思い起こされることなく、行った正義のゆえに生きる。 わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。

 

 

 

マタイ7・21

 

わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。

 

 

 

マタイ16・27

 

人の子は父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。

 

 

 

マタイ19・16−19

 

 さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」

 

 

 

ヨハネ8・51

 

わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。

 

 

 

ヨハネ1・3・4

 

罪を犯す者は皆、法にも背くのです。罪とは、法に背くことです。

 

 

 

黙示録20・13

 

彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。

 

 

 

黙示録22・12

 

わたしは報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ  分離/参照

 

 

天界の秘義2258

 

主はいかような場合にも地獄には送られはしないで、その人間が自分自身を地獄に送るからである。

 

 

 

天界の秘義2335[]

 

 しかし真理から審判かれることについては以下のようになっている、すなわち、主は何人をも善からでなくては決して審かれはしないのである、なぜなら主はすべての者を、その者たちがいかに多くいようとも、天界に引き上げようと望まれ、実に、もしそのことが可能であるなら、御自身のもとにさえも引き上げようと望まれているからである、なぜなら主は慈悲そのもの、善そのものであられるからである。慈悲そのものと善そのものとは何人をも決して罪に定めることは出来ないのである、しかし自分自身を罪に定めるものは人間である、なぜなら彼は善を斥けるからである。身体の生命の中で彼は善を避けたように、彼は他生でもそれを避けるのであり、従って天界と主とを避けるのである、なぜなら主は善以外のいかようなものの中にもおられることは出来ないからである。同じように主は真理の中にもおられはするが、しかし善から分離した真理の中にはおられはしないのである。主はご自分が何人をも罪に定められはしないし、また何人をも地獄に向って審判かれもしないことを、ヨハネ伝に言われている―

 

 神がその御子を世に遣わされたのは世をさばくためではなくて、御子を通して世が救われるためである、以下のことが審判である、すなわち、光が世に来たのに、人は、その業が悪かったために、光よりもむしろ暗黒を愛したということである(3・17、19)。

 

また同書に―

 

 人がもしわたしの言葉を聞かないし、また信じもしなくても、わたしはその者を審きはしない、わたしが来たのは世を審くためではなく、世を救うためである(12・47)。

 

(この主題については前に言ったことをまた参照されたい、223、245、592、696、1093、1683、1874、2258番)。

 

 

 

天界の秘義2335[]

 

 審判が前に取扱われたところには(2320、2321番)、ヨハネ伝の以下の主の御言葉に従って、審判はことごとく主の神的な人間的なものと発出している聖いものとに属していることが示された―

 

 父はたれをも審かれはしない、審判をことごとく子に与えられた(5・22)。

 

それなのに今、主はたれ一人をも罪に定めることにより審かれはしないと言われているのである。このことから文字における聖言の性質は〔聖言の文字の性質は〕いかようなものであるかが明白である、すなわち、それは他の意義から、すなわち、内意から理解されない限り、それは把握されはしないということである。内意のみから審判はいかようになっているかが明白になっているのである。

 

 

 

 

3.ルイザ・ピッカレータ

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1P133

 

ああ、罪はなんと醜く、有害なものなのでしょう! もし皆がこのことをはっきり理解して、その毒性と苦しい結果を本当に経験することができたなら、そのことを知ったために地獄から這い出してきた恐ろしい怪物のように罪を避けることでしょうに!

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P178

 

 このようなお恵みをお願いしていましたある時、イエスは優しくおっしゃいました。「わたしを侮辱したことをあなたは大変悔やんでいますので、わたし自身があなたを苦しみにたいして準備しましょう。そうすればあなたは罪の醜さと罪がわたしの心にもたらす苦痛のひどさについて理解できるでしょう。そこでわたしといっしょに次の言葉を言って下さい。」 “もし私が海にもぐると、目には見えなくとも海の中にいつもあなたがいます。地を踏みしめると、私の足の下にあなたがいます。私は罪を犯しました・・・”そしてイエスはほとんどお泣きになりながら、低い声でつけ加えられます。“それにもかかわらずあなたを愛し、あなたを守りました。”

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P180

 

 罪を犯すということのうちにいかに多くの悪意がひそみうるか、また、神をあえてつまらない楽しみ以下にみなす人は、なんという悪と大胆さを自分自身のうちに持つようになるかなどについて、愛するイエスがよく私に理解させて下さったとき以来、私はどのような小さな過ちも犯すまいと気をつけるだけでなく、また私の頭の中に望まなくてもちょっとでも思い浮かぶ罪の影をも恐れるようになりました。過去に犯した罪についてあまりの身震いと赤面を感じるため、自分は全ての人びとの中で最も極悪な人間であると信じるようになりましたので、イエスがお現れになる時には、自分の罪にたいするますます深い痛悔を持てることと、約束された私の十字架への釘づけの実現をお願いする以外のことはいたしませんでした。

 ある朝、私の心の中にますます強まる苦しみへの熱望を感じておりますと、愛するイエスがおみえになりました。主は私を私自身の外へお出しになると、私の魂をひとりの男の人の所へお連れになりました。彼は拳銃に撃たれて息を引きとろうとするところでしたが、まさしく地獄の餌食にされようとしていました。イエスは深い憂愁をもって私を主ご自身のうちに浸透させるようになさいましたので、一つの霊魂を失うときに主の御心が感じられるひどい心の苦悩がどのようなものであるかを私に理解させて下さいました。ああ、霊魂の永遠の損失をいかに主がお苦しみになるかということを、もし人類が知ることができたなら! 人びとは少なくとも、イエスにあのような激しいお苦しみを与えないためだけにも、永遠に自分を見失わないためにあらゆる方法を用いるであろうと確信いたします。

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P222

 

けれども、いったい誰がこのような牢獄にわたしを入れ、誰が光を取り去り、誰がますますわたしの呼吸を苦しいものにするのか知っていますか? それはわたしが被造物にたいして感じる愛、そして彼らの罪の闇です。なぜなら一つの罪は、わたしにとって一段と深くなる闇だからです。それはいっこうに反省しない人間の心の頑なさです。真っ黒な恩知らずの心は地獄の怪物のようにわたしの息をあえがせます。それらは全部がいっしょになって底なしの暗い淵、呼吸困難、信じられないほどの苦悩をつくり出すのです。なんという苦しみ!

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/2巻P163

 

「罪と希望は共にはいられない。霊魂は罪を犯すとただちに、希望の国から出てゆくことになります。人は誰しも自分のものを大切にし、それを育む。自分の所有地で、自分の財産を焼く人はいないでしょう。自分の持物を大切に守らない人は誰もいないでしょう。希望のうちに生きる霊魂も、罪を犯せば「希望」を侮辱することになります。罪は希望が所有している全財産を自分で焼いてしまうので、魂は、全財産を持って外国に逃れる人と同じ災難に見舞われるでしょう。罪を犯した霊魂は、希望という名の優しく憐れみ深い、自らの肉により霊魂に滋養を与えるこの調停者としての母、われわれの希望の第一の目標、つまり秘跡のイエズスの懐を去り、野蛮人つまり悪魔の間に住みに行くようなものです。悪魔たちはごく小さな慰めさえも拒否し、毒、すなわち罪以外の滋養物を与えてはくれない。そのとき、この憐れみ深い母、希望は何をするでしょう。霊魂が自分から離れてゆくのをみて、無関心でいると思いますか。ああ、とんでもないこと。彼女は泣き、祈り、もっとも優しく感情をこめた声で霊魂に呼びかけ、そのそばに行き、自分の国に連れ戻して初めて満足するのです。」

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/4巻P250

 

「我が娘よ、罪は神を侮辱し、人を傷つける。罪は人間によって犯される神への侮辱なので、その完全な償いを得るためには、人間と、それを償う神を必要とした。それで私は、約三十年間ほどの人間としての私の生涯のあいだ、世界の三つの年齢、つまり自然、契約、恩恵という三つの異なった律法の年代を償い、そして少年期、青年期、老年期という人間各自の異なる年代についても償いのわざを行なった。私はすべての人のために償い、獲得し、懇願した。私の人間性は、天に登るための階段として役に立ったのである。もし人間が、自己の徳の修練によってこの階段を登らないならば、それは空しく天に登ろうとするようなものなので、私の働きを自分自身で無益なものとすることになる。」

 私は、罪という言葉を聞きましたので申しました。

「主よ、おっしゃってください。霊魂があなたのお気を悪くした時にそれを悲しむとき、なぜあなたはとても喜ばれるのであるか?」

「罪とは霊魂全体を害する毒であり、霊魂から私の似姿を消してしまうほどそれを変形させてしまう。しかし痛みはこの毒を破壊し、霊魂に私の似姿を返してくれる。だから本当の痛悔は、解毒剤となる。心の苦痛が毒を打ち壊すので、それは霊魂の中に空洞を創り、この空洞は恩恵のよって満たされる。これは私の喜びとなる。私は、苦痛という私の贖罪の働きを通して、霊魂が復活するのを見るからである。」

 

 

 

 

4.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P226

 

 罪人ならば、今まで犯した罪を償う時間が与えられるように、生かしてくださいと願いなさい。それから、女はなぜ来ないのですか。罪を犯していたときには、神の御顔を恐れなかったのに、人の子に会うのを恐れるのですか? あなたたちが行って、彼女に言いなさい。『痛悔すれば、多くのことがゆるされる。永遠なる御者が私を送られたのは、過去を痛悔する人々の罪をゆるすためです』と、そう言いなさい。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P266

 

だからマナエン、心配することはありません。あなたに奉仕して、汗だらけになった一頭の馬をあわれむことは罪ではありません。罪とは隣人に涙を流させることであり、人間のすべての愛にふさわしい神を侮辱する汚れた情欲です。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/受難の前日/P79

 

悪人であることは、それ自体恐ろしい苦しみでしょう・・・

 

 

 

 

5.ヴァッスーラ

 

 

罪の報いは 死

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P232

 

罪を犯した後でも 私は回心を許し与える とも書かれている。 我が大いなる慈悲ゆえに 私は悔い改めという有益な薬を 刷新した霊魂に投与した その霊魂は大いなる熱意と誠実とを 悔い改めつつ示してくれよう。 実に、誰であっても この謙虚な行為がなされた暁には 私との親密さという宝を見いだす。 親密さという宝のうちには 我が友情を見いだす。 悔い改めが 真剣であればあるほど、我が友情も大きい。 誠実に発せられた一つ一つの言葉は 我が友情をいっそう引き寄せる、我が友情は悔い改めの度合いに応じて生じるものゆえ。

 

こう書かれている、「私は口をもって神に呼び求め、舌をもって神をあがめた。 私の心に邪があったなら、主は聞き入れられなかったであろう。 まことに神は聞き入れて、私の祈りの声を心にとめられた(注)。」

 

救いを願う人は誰であっても 悔い改めの必要を感じよう そのときはその悔い改めの声に 私は耳を傾ける。 罪の報いは 死。 罪はあなたの中に入った毒に似て 長くうちに留まれば留まるほど、病が重くなり 死へと近づける。 体の中から吐き出さないならそれだけ 死ぬ危険がます。 罪を清めるには自らへりくだり 悔い改めるしかないと気づくなら 罪のもたらす毒から解き放たれ 癒されよう。

 

教えてほしい、毒を飲み込んでしまったのが分かったなら いのちを危険にさらしたまま放っておき 何もしない人がいようか? この死に至る一服から癒されるには 頭を低くして自分が罪人だと認め、私に悔い改めを捧げなければならない、そのとき毒の苦みはすっかり取り除かれ 生涯にわたって臓腑に飼っていた 毒蛇も含めて追い出せよう(注1)、そして解放されたあかつきには こうした悪を 私の甘美に置きかえる・・・そう、ひとたびそのような悪が出ていったなら、あなたは回復する、そしてひとたび回復したなら 私の掟と相容れない者ではなくなる。 あなたは 喜んでこの世に背を向けよう 目前に、我が栄光と荘厳を見るがゆえ。 私の輝ける現存が あなたの内にも外にも輝き出る。

 

こう書かれている、「あなた方は自分たちの罪の業と その罪によって死んだ者でした。 あなた方は、かつて、この世の流れに合わせ、中空にあって支配権を握っている権威の霊(注2)すなわち、神に従わない者たちのうちに現に力を奮っている霊に従って、罪のうちに生活していました・・・(注3)」 しかし今や悔い改めとあなたに示された恵みによって 私は我がうちなるいのちを あなたにもたらした・・・

 

次には 我がほほ笑みのうちに、いのちの小道を示そう。 あなたはもはや 熱した石炭の上ではなくサファイアの上を 歩こう。 かつてはとらえがたく 達し得ないと思われた神は、計り知れない歓びを心にもたらす一方 御自らの歓びもあなたに表わす、「かつてのあなたは いばらやあざみが生え、人も住まず のろわれた畑のようでした。 しかし今やあなたは、共にいて、我が選びの畑のように、聖霊の泉より水を注がれ 私にとって有用な作物を作り出すようになります(注4)。」

 

 

注: 詩篇66・17−19。

 

 

注1: うちなる「毒」と「大蛇」あるいは悔い改めによる清めというイメージ全体から、私は 抜魔式の際、悪霊に憑かれていた人が釘や、ときにはガラスの破片、ワイヤなどを吐き出すのを思い出しまします。

 

 

注2: サタン。

 

 

注3: エフェソ書2・1−2.

 

 

注4: ヘブライ人への手紙6・7−8。

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P246

 

私は復活 そして私を通してあなた方皆を 復活の息子 娘たちとした。 あなたが罪にとどまり、隣人を許さず、心を恨みで満たして硬直したままなら、至高なる神をその目で見るのを拒まれる。 罪の負債があるなら 全き聖である霊はご自分を現わさない、悔い改めの行為を そして愛の行為を、意識的に拒んだゆえに・・・

 

この罪にとどまっているなら 私にこう言ったと同じ、「師よ、私は自分の墓にいるほうがいい。 死んだまま 死人の間で生きるほうを選びます。」肉がすでに腐り始め、朽ちかけていながら、まだいのちを拒むのか? あなたが自分の罪を否定するのは いのちを否定するのと同じ。 それよりも私のそばに来なさい そして聖人たちや 地上でも完徳に達そうとしている人たちのそばに 近よりなさい、私を観想している間 心が済みきっているこの者たちを、私は 神聖なる富と天上の神秘のうちに浸している。

 

 

 

 

6.最も大きな罪は、神の慈悲を諦めること

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/340.3−4/5巻中 P207

 

「最も大きな罪は、神の慈悲を諦めることです・・・ユダ、私は言った、『人の子に対するどんな罪も赦されるだろう』と。人の子は赦し、救い、癒し、魂を天国へ導くために来ました。なぜあなたは天国を失いたいのですか? ユダ! ユダ! 私を見なさい! 私の目から発する愛であなたの魂を洗いなさい・・・」。

「私を見て、むかつきませんか?」。

「ああ・・・でも、愛はむかつきよりも強い。ユダ、かわいそうな癩病人、イスラエル一の癩病人、ここに来て、あなたに健康を与えることのできる人から健康を引き出しなさい・・・」。

「それを私にください、先生」。

「いいや。それはいけない。あなたの中には真の痛悔や強固な意志がない。私の愛と、あなたの過去の召命にしがみつく、かすかな努力だけです。痛悔の欠片(かけら)はある。けれども、それはまったく人間的なものだ。それはまるきり悪いわけではない。いや、それは善への最初の一歩だ。それを養い、成長させ、超自然的な痛悔へと結びつけ、私への本当の愛に変化させなさい。私のところに来たときのあなたに、本当に立ち戻りなさい。少なくともそこまでは! 一時的で消極的な、感情的興奮にとどめるのではなく、あなたを善に引きつける真の積極的な意識に高めなさい。ユダ、私は待とう。待つことができます。祈ろう。あなたに愛想を尽かした天使の代わりになろう。私の憐れみ、忍耐、愛は完全です。だから、天使の憐れみ、忍耐、愛よりも大きい。そして、私はあなたのそばにいることができます。あなたの心の中で発酵している、むかつくような悪臭の中で。あなたを助けるために・・・」。

 ユダは感動している。本当に感動している。見せかけではない。感情で唇も声も震え、顔を青くして尋ねる、「私がしたことを本当にご存じなのですか?」。

「私は何でも知っています。ユダ、言ってほしいのか? それとも恥をかかせないでおこうか?」。

「ま・・・まさか・・・」。

「それでは、ここ数日前に戻って、疑う使徒に真実を話そう。今朝、あなたは数回嘘をついた。金に関して、あなたが夜を過ごした場所について。昨夜、あなたは、感情、憎しみ、自責を、情欲で抑えこもうとした。あなたは・・・」。

「やめてください! やめてください! お願いですから、もう言わないでください! 私はあなたの前から逃げ出したい! 」。

「それよりは、私の膝にすがって、赦しを願うべきでしょう」。

「はい! 赦してください! 先生! 赦してください! 助けてください! 私の力では及ばないのです。何もかも、私よりも強いのです」。

「あなたがイエズスに対して抱くべき愛を除いては・・・いいから、ここへ来なさい。あなたが誘惑に逆らうのを助け、あなたをそこから救うことができるように」。そして、ユダの腕を抱きしめ、漆黒の髪に静かに涙を落とす。

 

 

 

 

7.神を信じない者は悪を罪としては認めないし、それでそれに反抗して戦いはしないし、むしろそれに加担する

 

 

仁慈の教義203

 

「人間は悪を罪としてそれを恰も自分自身から避けるかのように避けなくてはならないもの、それでも主からそれを避けなくてはならない。」聖言を読み、何らかの宗教をもっている者であって、たれが悪が罪であることを知らないか。聖言はそのことを初めから終りにかけて教えており、それが宗教のすべてである。悪はそれが聖言に反し、宗教に反しているというそのことから罪と呼ばれている。たれ一人悪を罪として自分自身から避けない限り避けることは出来ないことをたれが知らないか。人間は自分自身の中で、このことは私は行わない、そのことを行うことは私は慎もう。そうだ、その悪が帰ってくる時はいつでも私はそれと戦って、それを征服しよう、とは言わないか。それでもたれ一人神を信じない限り自分自身の中ではそのように話しはしないのである。神を信じない者は悪を罪としては認めないし、それでそれに反抗して戦いはしないし、むしろそれに加担するのである。しかし神を信じる者は、また、その者自身の中に、神を通して私はそれを征服しよう、とも言うのである。そして彼は懇願して、征服するのである。このことはたれにも拒まれてはおらず、凡ての者に与えられている、なぜなら主は人間を改良し、再生させ、彼を幾多の悪から清めようと、その神的な愛から、絶えず努められているからである。そしてその人間がまたそれを欲し、意図するとき、主のこの不斷の努力は行為となるのである。

 

 

 

 

8.他生では誰もその者が世で行った悪のために刑罰を受けるのではなく、彼がその時行なう悪のために罰せられる

 

 

天界と地獄509

 

しかしそれでも他生では誰もその者が世で行った悪のために刑罰を受けるのではなく、彼がその時行なう悪のために罰せられるのである。しかも人間的は世で行ったその悪のために罰を受けると言うも、他生で行う悪のために罰を受けると言うも、結局同じことになりまた同じことである。なぜなら各々の者は死後その者自身の生命に、引いては類似の悪へ帰り、その性質は身体の生命の中にあった時と同一のままに残るからである(470−484)。

 

 

 

 

9.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P156

 

接吻は子に対する母の愛の外的しるしだが、子が伝染病にかかれば母は接吻を控えるだろう。それでも、苦しむわが子に対する母の愛は、少なくなるどころかますます燃え上がる。子は、母の愛と気遣いをいつも以上に必要としているからだ。同じように、神は、罪という伝染病にかかった人々を見捨てているようにみえても、彼らに向けられる神の愛は、子に対する母の愛よりも限りがない。神の忍耐もまた限りがない。人はちっぽけなヤカンのように、ごくささいなことにもすぐに湯気を立てるが、神はそうではない。神がそんなに短気だったら、この世はとっくの昔に灰と化していただろう。

 

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P177

 

人の体内には、健康に役立つ細菌(食細胞)とが住んでいる。何らかの原因で病原菌が数を増し、健康な細菌の数を上回ると、人は病に倒れ、正しく治療されなければ死ぬことすらある。しかし、健康な細菌が強ければ病原菌を殺してくれるので、人は完全な健康を楽しめる。同じく、健康な想念は邪悪な念に打ち勝ち、罪の破壊を免れる安全な健康状態を楽しませてくれる。このような勝利は、聖霊の助けなくして手にできるものではない。聖霊は、あらゆる善と歓喜、安全なる生命の源である。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P178

 

4.利己主義もまた、ある意味での自殺である。神は人助けに使える何らかの素質や能力を誰にでもお与えになっているからだ。われわれは、人助けをしているときに新しい歓びを知り、また自分自身をも助ける。これは内なる存在の法則である。他を助けなければ、この歓びを失うことになる。自分と同じように隣人を愛することがなければ、神に背いていることになる。このような背きによって、霊魂の糧そのものである歓喜が失われ、霊の飢えによってわれわれは自分を殺すことになる。利己的人間は自分の益のために働いていると思い込んでいるが、知らずに自分自身に大きな損失を加えているのである。誰もが心を改めて利己主義を捨て去れば、この世のすべての紛争や諍(いさか)いはなくなり、地球も天国と化すだろう。すべて罪は利己主義からくるのである。「自分を捨て、わたしについてきなさい」と主がご命じになった理由はここにある。

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P288

 

硬材を食い、海の岩をも穿(うが)つほどの虫が、非常に柔らかで傷つきやすい体をしていることが知られている。しかし、そんな柔らかで傷つきやすい小さな虫が、ついには硬い材木、岩石までも滅ぼしてしまうのである。それと同じように、よく目を覚まし神の助けを借りて根絶しておかなければ、ささいにみえる悪念や悪習慣が、岩を穿つ虫のごとくに、われわれの霊的生命を食い荒らすことがある。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P289

 

青い実に穴を開けて中に卵を産みつける特殊な虫がいる。実が熟すにつれ、表面にあった穴は塞がれる。のちに卵が孵化し、小さな幼虫が実を食べ始めるが、外からは何の変化もないようにみえる。外は熟して魅惑的にみえるが、実は空洞で役に立たないものになっている。同じように、幼少期や若い頃に培った悪い考えや習慣は、確実に増大して内なる霊魂に働きかけ、人の倫理性を腐らせる。そこで、われわれはなるべく早いうちから、自分の性質を悪に導く罪に対して目を光らせなければならない。

 メキシコには、陽の光が当たると身をくねらせ、岩や茂みに届くまで倒れ続ける「ジャンピング・ビーン」(燈台草)という豆がある。この奇妙な現象の説明はこうである。ある昆虫が豆に穴を開けて入り込み、莢(さや)が空になるまで中身を食べて育つ。太陽の光が当たると、この虫は逃げようとして日陰に届くまで莢を倒し続け、涼しい日陰に落ち着くというのだ。同じように、悪い思いと欲望は人の心に入り込む。そして、義の太陽が罪深い生活に光を当てると罪人は落ち着かなくなり、光の届かぬ暗がりに逃げようとする。こうして、彼は外の暗闇に生き、神の光と熱とを失ってしまうのである。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P290

 

神は人をご自身の似姿にお造りになったので、自由意志を使う際に罪を犯さぬという条件を満たしさえすれば、人を傷つけられるものは何一つない。人間が罪を犯したところで、神が傷つくわけではない。人は自分自身と自分に関わる人をのみ傷つけるのである。愛の神は、われわれが神との交わりを楽しめるよう、どのような形の罪からも救われることを願っておられるが、罪が、このような神との聖なる交わりからわれわれを外してしまうのである。

さらに、人と人との間には、こちらの傷があちらの傷となり、あちらの傷がこちらの傷となるがごとき密接な関係がある。他を傷つけずに悪事を働けるなどということは、今までもこれからも決してありえない。われわれの行なう善と悪とに、周囲の誰しもがある程度影響を受けるのである。そこでこれから先、自分と人とを傷つける行為から身を引き、神の助けと恵みによって、ザアカイのように自分のしたことへの償いをするということが、悔い改めの意味である。

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P255

 

『神によって生まれた者は、誰も罪の中に生きない』との聖句にはいつも当惑させられたが、今はその意味を理解している。罪は、概して、享楽を得ようとの欲望の所産なのである。だが、神を愛する人間は、自分の中に深く、尽きない歓びの泉を持っているため、それ以外のどんな楽しみにも引かれることはない。それがため、罪を犯すこともないのだ。それは、ソヴリン金貨を持っている人が、擦り減った銅銭に心を引かれたりしないのと同じである。

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P312

 

主の御恵みによって、わたしたちは豊かな生命を受けるのです。歓びを受けるのです。歓びこそ、わたしたちが豊かな生命を受けている証です。クリスチャンの多くは、生命はあっても、病にかかっています。病人は健康ではないため、生命があっても歓びがありません。「豊かな生命」の中にしか、健康はないのです。死ねば天国に行けると思っている不幸なクリスチャンが多くいます。しかし、天国はこの地上において始まります。霊魂が神にふれ、主の臨在を実感するときに、わたしたちは天国とは霊魂の完全な平和のことであり、そこにこそ地上天国があることを理解するのです。

 イエス・キリストの中にあるこのような平和を得た人は、罪を犯したいとは思わなくなります。新生を得ていない人々は、このような平和を得ることはできません。彼らは、神の聖心に逆らうありとあらゆる罪を犯して、平和を見つけようとします。