誘惑

 

 

 

1.マリア・ワルトルタ

2.トマス・ア・ケンピス

3.スウェーデンボルグ

4.彼はその外なるものの方面では、世の誘惑と虚栄のために、ときとして道を誤ったからである

5.聖母から司祭へ・・・肉の誘惑の苦しみ

 

 

 

 

1.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々1/P141

 

「では罪は?」

 

「試みはだれにでもあり得ます。ただ、そうなりたいと思う人だけが罪人になれます」

 

「イエズス、あなたは罪を犯したことがないのですか」

 

「私は、罪を犯したいと“一度も望んだことはない”これは、私が御父の子だからではない。これを望んだのは、人の子が罪を犯したくなかったから罪を犯さず、人間もそう望むならば罪を犯さないでいられると証できるためでした」

 

「それなら、あなたは誘惑を感じたことがないのですか」

 

「ユダ、私はいま三十歳です。そして、山中の洞穴で生きたのではなく、人間の中に生きました。例え、この世で最も孤独なところにいたとしても、誘惑が全然なかったと思いますか。私たちは皆、自分の中に善と悪とを持っています。私たちは皆、自分と一緒にすべてを持っており、善には芳しい香りのように神の息吹きが感じられ、その香りはますます高くなります。悪の上には、悪魔の息が吹き荒れ、残酷な炎に燃えさせます。しかし、思慮深い意志と絶えざる祈りは、地獄の炎の上に湿っぽい砂をかけるように、それを抑えます」

 

「罪を犯したことがなくて、どうして罪人を理解できますか」

 

「私は人間で、また神の子です。人間として知ることができず、十分に評価できないことは、神の子として知り、判断できます。そのほかに!・・・ユダ、私のこの質問に答えなさい。おなががすいている人は、いま”食卓につく“か、それとも”私のための食べ物がない“と言われるのと、どちらが苦しいですか」

 

「後者の方が、より苦しい。なぜなら、食べ物が全然ないと知っただけで食べ物の匂いを感じるらしく、おなかがぐうと鳴るに違いない」

 

「そうです。誘惑はこの望みのように向こうからかみついてくるものです。ユダ、サタンは実際に行ったことよりも誘惑をもっと鋭い適確な魅力あるものとします。そのほかに行為が満足感を味わわせるが、時として反感を起こさせます。その代わりに誘惑は死なず、剪定された木のようにより強い枝を出します」

 

「あなたは、いままで誘惑に負けたことはないのですか」

 

「はい、一度も」

 

「どうして、そんなことができたのですか」

 

「“御父よ、私を試みにひかないでください”と言いました」

 

「ええっ? 奇跡を行っているあなたが、メシアが、御父の助けを頼んだのですか」

 

「いえ、助けだけでなく、私を試みにひかにように頼みもしました。私は私であるがゆえに、御父なしていられると思うのですか。そんなことはない! まことに御父は子にすべてを与え、それと同時に、子はすべてを御父からもらっているとも言えます。それに、私の

名で御父に頼まれるであろうことは、すべて与えられることもあなたに知らせておきます・・・。しかし、ごらん、早、私は住んでいるゲッセマニに着きました。もう城壁の向こうに、最初のオリーブの木が見えます。おまえは、トフェット区のあちら側に住んでいますね。すぐ夕方になります。向こうまで上る必要はない。明日、同じ所で会いましょう。さようなら、平和がおまえとともに」

 

 

 

 

マリア・ワルトルタ/受難の前日/P24

 

誘惑を受けて、それを払いのけず、頭の中でその成り行きを追いかけることは、自分を誘惑にさらすことになる。サタンはそれを知っているから、誘惑の炎をますます強めて、中に入り込もうとする・・・こうして・・・誘惑されて、罪にはまり込むのは、いともたやすいことになる。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/受難の前日/P23

 

お前は、私が誘惑されて、罪に落ちたことはないかと聞いたが、私がたとえ誘惑されても、それに負けることはないと、お前には理解できなかった。“みことば”にとって誘惑はふさわしくないし、“人間”ならば罪を犯さずに生きることは不可能だと、お前は思っていた。しかし、人は誘惑されても、その誘惑に負けたいと思う人だけが罪を犯すのだ。

(中略)

もはやそれを理解するに値しない人間になっているにしても、私はもう一度、お前に繰り返そう。追い返された誘惑が姿を消さなかったのは、お前に責任があるのであって、私ではない。お前はそれを徹底的に追い返さなかったからだ。お前はその行為をしなかったとしても、その考えを引きずっていた。今日はこうだが明日・・・明日は本当の罪に落ちる。だから、あの時、誘惑の試みに陥らないよう、御父の助けを請えと教えた。

 神の子である私はすでにサタンに打ち勝っていたが、それでも御父の助けを請うた。私はへりくだって神の助けを願ったが、お前はそうしなかった。神に救いも、予防も願ったことがない傲慢な男だ。ユダ、だからますます深みに沈む。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/受難の前日/P24

 

淫乱のことだけを言うのではない。誘惑を承知しなければ、そこには罪はない。その行為の行き着くところまで行かないまでも、誘惑に乗って楽しめば、それはもう罪である。それだけでは、たいした罪ではないかも知れないが、そのようにして心に大きな罪を育てていくのだ。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/受難の前日/P94

 

「そうではない。サタンが近づいて誘惑し、あなたを試した時、あなたはサタンを迎え入れました。初め、サタンの誘惑を受け入れなければ、サタンに取りつかれることはない。心の小さい透き間から忍び込もうとするサタンに、人間の方からその透き間を広げることをしなければ、サタンは人間に入り込むことはできない。眺め、聞き、そして従う・・・サタンの誘惑の姿、誘惑の手はそれです。透き間を広げた時、すぐさま人間は、その自由な意志をもって、サタンの言いなりになります。(後略)」

 

 

 

 

2.トマス・ア・ケンピス

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・13・1−

 

誘惑に抵抗すること

 

[]この世に生きている限り、私たちは患難(なやみ)や誘惑(いざない)を免れることはできない。

 ゆえにヨブ記にも「この世にいる人の生涯は戦闘(たたかい)である。」(ヨブ記7・1)としるしてある。

 

だからどの人も誘惑に注意し、悪魔にあざむく隙を与えないよう用心して祈るがよい。

 悪魔は決して眠らず、「喰い尽くすべき者をさがしつつうろついて」(ペトロ前書5・8)いるからである。

だれも時として誘惑に会わないほど、完全で聖なる人はいない。それゆえ私たちがこれを全くのがれることはとうていできないのである。

 

 

 

[]誘惑はうるさくつらいものではあるが、またしばしば人のためになる。それはこれによって謙遜にされ、清められ、教えられる所があるからである。

 

すべての聖人は多くの患難と誘惑を通りぬけて、いっそう徳を積んだ。

そして誘惑に耐えることのできなかった者は、悪とされて滅びてしまった。

どれほどとうとい修道会でも、どれほど世間をはなれた場所でも、誘惑や患難のないことはない。

 

 

 

[]この世に生きている限り、人はまったく誘惑の心配がないというわけには行かない。なんとなれば私たちは邪欲によって生まれ、誘惑の原因(もと)をわが身にもっているからである。

 

一つの誘惑(いざない)、一つの患難(なやみ)が去れば、また別の誘惑や患難があとからあとからやってきて、私たちはいつも何かを辛抱しなければならぬ。これは私たちが原始(はじめ)の幸福を失ったためである。

 

多くの人は誘惑を避けようとして、かえっていっそう深くこれに落ちこんでしまう。

 

ただ逃げるだけでは勝つことができない。忍耐と真の謙遜とによってこそ、私たちはすべての敵よりも強くされるのである。

 

 

 

[]ただうわべだけで誘惑をさけても、その根を抜き去らぬならば、ほとんど進歩しない。誘惑はたちまちまたもどってきて、いっそうひどくかれを悩ますだろう。

 

 誘惑に対しては、無理に急いでやるよりも、神のお助けを仰いで、気長に辛抱してゆるゆるやる方が、たやすく勝つことができる。

 

誘惑に出会ったら、努めて他人の意見を聞くがよい。そして誘惑に苦しんでいる者に情(つれ)なくしてはならぬ。自分もそうしてほしいと思う通りに、その人を慰めてやるがよい。

 

 

 

[]すべての誘惑の端緒(いとぐち)は、心がグラグラしていることと、神に対する信頼が足りないことである。

 

ちょうど舵のない舟が波のまにまに漂うように、心が定まらず、決心を守れぬ人も、いろいろな誘惑に苦しめられるのである。

 

火は鉄を試み、誘惑は義人を験(ため)す。

 

私たちはしばしば自分の力量(ちから)を知らない。けれども誘惑は私たちの値打ちを示してくれる。

 

しかし誘惑は、わけてもその始めに用心しなければならぬ。なんとなればこの敵が心の門内にはいられず、まだ敷居の外で戸をたたいている時、すぐにこれを追い返せば、打ち勝ちやすいからである。

 

それゆえ古人も言っている、「始めに抵抗せよ。グズグズして永くたち、病勢が募ると医薬を与えてもすでにおそい。」と。

 

すなわち(誘惑の過程を考えてみると)始めはただ心中わずかにある思いが兆し、次に強い想像が起こり、後これを楽しみ、悪い情欲が動いて、ついに実行しようという気になるのである。

 

かように悪い敵(誘惑)は、最初に抵抗しなければ、だんだん私たちの霊魂に忍びこんで、全くこれを占領してしまう。

それゆえこれに久しく抵抗しないでいればいるほど、人は日に日に弱くなり、敵はかれに対しますます強くなるばかりである。

 

 

 

[]ある人は発心の始めに強い誘惑に会い、ある人は終わりにこれに会う。

 

またある人は一生涯これに苦しめられ、ある人はきわめて軽い誘惑しか受けない。これは神がみ摂理の知恵と公平とによって、人々の立場や功勲(いさおし)をよく考え、その選みたもうた者の救霊のため、あらかじめ万事を定めておおきになるからである。

 

 

 

[]ゆえに私たちは誘惑に会っても落胆してはならない。かえってあらゆる患難(なやみ)の時に神が私たちを助けてくださるようますます熱心に祈るがよい。主は生パウロの言葉通り「試練(こころみ)とともに勝つべき方法をも与えてくださる」(コリント前書10・13)に相違ないからである。

 

だから私たちは誘惑の時、苦しみの時、いつも神のおん手の下に、自分の霊魂を謙遜にしよう。というのは、主は心の謙遜な者を救い、かつこれを引き立ててくださるからである。

 

 

 

[]誘惑や災難に会うとき、人の善徳の進歩がどの程度であるかが明らかになる。そしてそれによって、その功勲(いさおし)はいっそう大となり、その徳はますますあらわれるのである。

 

少しも心配のない時、信仰厚く熱心であっても、別に感心することはない。しかし不幸な時よく辛抱する人は、大いに進歩する見こみがある。

 

ある人々は大きい誘惑にはかからぬくせに、日常(ふだん)の小さいのにはしばしば負ける。これはかれらがかように小さいことに弱いので、大きいことに対して決して自分を頼みとせず謙遜になるためである。

 

 

 

 

3.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義4496

 

「彼らが痛みをおぼえていたとき」。これは幾多の欲念を意味していることは割礼の後の『痛み』の意義から明白であり、それは欲念である。この痛みが欲念を意味している理由は、割礼は自己と世を求める愛から浄められることを意味しているということであり(2039、2044、2049、2632、3412、3413、4462番)、肉の欲念はことごとくこれらの愛から発していて、それでこの『痛み』により意味されているのである、なぜなら人間が再生しつつある場合のように、人間がこれらの愛から清められつつあるときは、彼らは痛みを覚え、苦しみ悶えるのであり、痛みを覚え、苦しみ悶えるものはそのとき遠ざけられつつある幾多の欲念である。

 

 

 

天界の秘義6203

 

 地獄から発している悪の流入の起原については、実情は以下のようになっている。人間が最初は同意から、次に意図から、最後に情愛の歓喜から、自分自身を悪に投げ込むと、そのときそうした悪の中に在る地獄が開かれて―なぜなら地獄は悪とその多様性とに応じて互に他から明確に区別されているからであるが―その後その地獄からは流入が起るのである。人間がこのようにして悪に入ると、それは彼に密着するのである、なぜなら地獄は―そのスフィアの中に彼はそのときいるのであるが―その悪の中にあるとき、その歓喜そのものの中にあり、それでそれは後退などしないで、頑強に押し入り、その人間にその悪について、最初は時たまではあるが、後にはその悪に関連した事柄が起る度毎に考えさせ、遂には彼のもとで彼を遍く支配するものとなるのである。こうしたことが起ると、そのとき彼は、それは悪ではないと確認させるようなものを探し求め、遂にはそれは悪ではないと自分自身に全く説きつけるまでも求め続け、かくて能う限り、外なる束縛を除去しようと努め、悪を―例えば姦淫、術策と詐欺で行われる窃盗、色々な種類の傲慢、誇り、他の者に対する軽蔑、もっともらしい口実をつけて悪しざまに罵り、迫害するといったようなことを―許されること、悧口なこととし、最後には似つかわしい、尊いことにさえするのである。こうした悪は徹底した窃盗の場合に似ており、それが二、三度確乎として意図から行われると、そこから遠ざかることは出来ないものとなるのである、なぜならそれはその人間の思いに絶えずまつわりつくからである。

 

 

 

天界の秘義6204

 

 さらに悪は地獄から絶えず注ぎ入れられており、またそれは絶えず天使たちによりはね返されているため、思考に入ってくる悪は人間に何ら害を与えはしないことを知られたい。しかし悪が意志へ入ると、そのときはそれは害を与えるのである、なぜならそのときはそれは、外なる束縛により抑えられないときは、常に行為へと進むからである。悪はそれが思考の中に留めおかれることにより、同意により、とくに行為とそこから生まれてくる歓喜により意志の中へ入るのである。

 

 

 

 

4.彼はその外なるものの方面では、世の誘惑と虚栄のために、ときとして道を誤ったからである

 

 

結婚愛48

 

しかし悪い人間は内なるものの中では狂っているのである。こうした変化を通して彼は自分の狂っていることを認めて、これを悔いることが出来るようにされている。しかしもし彼が世でそれを悔いなかったなら、彼はその狂っていることを愛し、その中に止まることを願っており、それでその外なるものをも同じく狂気へ駆り立てるため、その後悔いることは出来ない。かくて彼の内なるものと外なるものとは一つのものとなり、そしてそのことが行われると、彼は地獄に向って備えをなしたのである。しかし善良な人間にあっては、それは正反対である。世で彼は神を見上げ、悔い改めたため、その外なるものにおいてよりもその内なるものにおいて、さらに賢明である。なぜなら彼はその外なるものの方面では、世の誘惑と虚栄のために、ときとして道を誤ったからである。それで、彼の外なるものもまた、すでに述べたように、賢明なその内なるものに順応するようにならねばならない。このことが行われると、彼は天界に対して備えがなったのである。

 

 

 

 

5.聖母から司祭へ・・・肉の誘惑の苦しみ

 

 

聖母から司祭へ1976.7.31

 

 子らよ、あなたがたの生活が私の個人的な影響によって、本当に変わりつつあることに気がつきませんか?

 内的な困難はあなたがたをいっそう苦しめます。あなたがたは、私のものですが、まだ世に引かれています。私の清さを着ていますが、まだ肉の誘惑の苦しみを感じています。あなたがたの中のある人々は、歎きながらそれから解放されたいと望んでいます。

 

・・・(霊的な者の苦しみ/参照)