性質

 

 

 

天界の秘義1414

 

人間には二つの遺伝的な性質が内在しており、一つは父から、他は母から来ている。父から来ている主の遺伝的なものは神的なものであったが、母から来ているその遺伝的なものは脆い人間的なものであった。人間がその母から遺伝的に取得するこの脆い性質は、人間が再生しつつある時消散する形体的なものであるに反し、人間がその父から得ているものは永遠に残っている。

 

 

天界の秘義3843

 

人間の状態を知らない者は、外なる真理のみでなく内なる真理を充分に知るとき、またはその両方のものを記憶の中に貯えるとき、両方の種類のものと連結することができると信じるかもしれない。それでもその人間はそれらのものに従って生きない中は連結は存在しないのである、なぜなら生命[生活]がその連結を示すからである。

 

 

 

天界の秘義3843[2]

 

 この点では真理は人間の中に子供時代から植え付けられる他の凡ゆるものに似ているのである、すなわち、それはかれがそれに従って行動しない中はかれのものとはならず、しかもそのことが情愛から発していない中はかれのものとはならないのであり、そうした場合かれが真理に従って生き、しかもそれが情愛から発している場合かれの意志はその真理に浸透されるようになり、そのときは真理はもはや記憶知または教義から行動に移されるのではなくて、かれには知られていない或る種の歓喜から、いわばかれの気質または性質から行動に移されるのである、なぜなら人間は各々ひんぱんな使用または習慣からこのような性質を自分自身で獲得し、しかもそれがかれの学んだ事柄から発するからである。それで真理と連結することは人間が教義より学んだ事柄が外なる人から内的な人へ導き入れられない中はその人間のもとに起らないのである。その学んだ事柄が内的な人の中に存在するとき、その人間はもはや記憶からは行動しないで、その者自身の性質から行動するのであり、ついにはこのようにして導き入れられた事柄はその人間の内的な記憶に刻みつけられて、自発的に流れ出て、行動となり、そこから出てくるものは恰も生来のものであるかのように見えるのである。このことは人間が子供時代に学んだ言語から、また推理能力から、同じくまた良心からも認めることができよう。ここから教義の諸真理は、その内的なものであるものさえも、それらが生命[生活]のものとならない中は人間に連結しないことが明らかである。しかしこれらの事柄については、主の神的慈悲の下にさらに他の所に述べることにしよう。

 

 

 

天界の秘義6716〔2〕

 

このことから主の人間的なものは生来神的なものではなくて、主はそれを主御自身の力により神的なものになされたことが明白である。主はそのことを主御自身の力により為されたことは、主はエホバにより身篭られ給い、そこから主の生命の最も内なるものはエホバ御自身であられたためである、なぜなら『霊魂』と呼ばれているところの、人間各々の生命の最も内なるものは父から来ているが、『身体』と呼ばれているところの、この最も内なるものが(自らに)着けるものは母から来ているからである。父から発している生命の最も内なるものは、母から発している外なるものの中へ絶えず流れ入って、働きかけており、胎内の中にあってすら、その外なるものを最も内なるもの自身に似たものにしようと努力していることは、子供たちから、即ち、子供たちは父の気質の中へ生まれてきており、時には孫やひ孫が祖父や曽祖父の気質の中へ生まれてくるということから認めることが出来よう。このことの理由は、父から発している霊魂は、母から発している外なるものを、霊魂自身に似たものに、霊魂自身の映像になそうと、絶えず欲しているということである。

 

 

 

天界の秘義6716〔3〕

 

 それが人間の事実であるため、主にあっては特にそれが事実であったことを認めることが出来よう。主の最も内なるものはエホバ御自身であったため、それは神的なものそれ自身であったのである、なぜなら主はエホバの独り児であられたからである。

 

 

 

天界の秘義6872〔2〕

 

 愛から神的なものを認識し、承認することの何であるかを話さなくてはならない。人間各々の性質はその愛から知られるのである、なぜなら愛は各々の者の生命の存在であり、そこから生命そのものが発出しているからであり、それで人間の愛の如何にその人間が応じているのである。もし自己と世を求める愛があり、従って復讐、憎悪、残酷、姦淫といったものを求める愛があるなら、その人間は、その外の形ではいかように見えても、その霊の方面では、または死後生きる内的な人の方面では悪魔である。しかし人間のもとに神を愛する愛と隣人を愛する愛があり、従って善と真理とを求める愛があり、また公正で尊いものを愛する愛があるなら、その時はその人間は、その外なる形ではいかように見えても、死後生きるその霊の方面では天使である。しかし主のもとにのみ存在した神的な愛〔神の愛〕がそのもとに存在した方は神であられ、かくて主が、その生命の存在であるその父の愛をその人間的なものの中に受け入れられた時、その人間的なものは神的なものとされたのである。この凡てから愛から神的なものを認識し、承認することにより意味されていることを認めることが出来よう。

 

 

 

天界の秘義7372

 

 テストとして、以上記したことから、たれが自己への愛の中にいるかが知られるのである。彼らが外なる形ではいかように現れているかは、見えを張っているか、それとも慎ましげに見えるかは問題ではない、なぜなら彼らはその内的な人において見えを張っているか、慎ましくしているか、その何れかであり、その内的な人は現今大半の人間によっては隠されており、外部は社会と隣人に対する愛を、かくて反対のものに対する愛を見せるように訓練されていて、それもまた自己のためであり、また世のためであるからである。

 

 

 

天界の秘義9009

 

意志から、また先見からも発しているものは、先見から発していないものよりは遥かに悪いのである、なぜならその人間はそれが悪であることを認めて、それでそこから遠ざかることが出来るのに、遠ざかろうとは欲しないことによって、それを自分自身の中に確認し、確認された悪は性質となり、それでそれは後には殆ど根絶することは出来なくなるからである、なぜならそうした場合彼は地獄から霊どもを引き寄せて、その霊どもは後には容易に退きはしないからである。

 

 

 

結婚愛246

 

内なるものはその起原を宗教意外のいかような源泉からも得ていない。なぜなら宗教は霊魂に植えつけられ、霊魂を通して子孫へ最高の性向として伝えられるからである。

 

 

 

天界と地獄508

 

なぜなら人間はその生命によって、一種の性質を着け、死後も世でのその生命[生活]により自分自身のものとした性質のままに生き、この性質は邪悪な者のもとでは思考により、または真理の理解によりもはや匡正されることはできず、変化することも出来ないからである。

 

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/5巻P210

‘91・9・26

 

私はあなたの愛をかき立て 呼び覚まそうとして訪れた、分かったであろう? そこで痛みからも 辱めからも肉を守ろうとはしないように。 霊魂と同様 肉にも救い主の印を受け入れ 全き変容をあなたのうちにもたらしなさい、その時は自然に嫌悪し 拒み 蔑んでいたすべてが 神聖なものとして映ろう ♡

 

主よ、お言葉通りに、すべてが行われますように、お恵み下さい。 ― 私の頭を低くし、私も低め 私の声も低くして下さい。み前にからの手で立ちたくありません。そうです。み前に出た時、からの手で立ちたくありません。そして私の性質から自然に出てくる人間的な考えを抜き取り、一つ一つを燃やして下さい。

 

霊魂を私にすっかり捧げ あなたに降りかかってくる前に我が掟を思いめぐらしなさい。 あなたの性質がいかに あなたを荒廃した地、砂漠にしたかを忘れないように。 我が栄光のために もし許してくれるなら あなたの人間的な思いを取り払い 私の思いに置き換えよう。 我が敵に顔を向け その矛盾に抵抗する勇敢な心を、我が小さな者よ、あなたに与える。雄弁に話し、私の迫害者でもあるあなたの迫害者たちの脅威に耐え 抵抗できるようにしよう。 確信して立つ勇気を与える。