貧しい

 

 

貧しい者乏しい者

隣人みじめな者乞食

 

 

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.トマス・ア・ケンピス

4.聖母から司祭へ

 

 

 

 

1.聖書

 

 

詩篇40・18

 

主よ、わたしは貧しく身を屈めています。

わたしのためにお計らいください。

あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。

わたしの神よ、速やかに来てください。

 

 

 

詩篇70・6

 

神よ、わたしは貧しく、身を屈めています。

速やかにわたしを訪れてください。

あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。

主よ、遅れないでください。

 

 

 

詩篇86・1

 

主よ、わたしに耳を傾け、答えてください。わたしは貧しく、身を屈めています。

 

 

 

詩篇109・22

 

わたしは貧しく乏しいのです。胸の奥で心は貫かれています。

 

 

詩篇112・9

 

貧しい人々にはふるまい与え

その善い業は永遠に堪える。

彼の角は高く上げられて、栄光に輝く。

 

 

 

マタイ5・3

 

心の貧しい人々は、幸いである、

天の国はその人たちのものである。

 

 

 

ルカ6・20

 

さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。

「貧しい人々は幸いである、

神の国はあなたがたのものである。」

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義5008

 

 自分自身を貧しいと呼ぶ者の凡てが貧しいというわけではない。貧しい者の間には最も邪悪な生活をして、神も人間も恐れず、恐怖により抑制されないかぎり、凡ゆる無法にも突入する者もいるのである。さらに聖言の「貧しい者」によっては、精神的に貧しくて、自分は自分自身からは善と真理とを何一つ持っておらず、凡ゆる物は無代価の賜物により自分に与えられていることを心で知り、告白する者たちが意味されているのである。

 

 

 

天界の秘義9209(4)

 

 聖言を持っておらず、かくて主については何ごとも知ってはいないものの、教えられようと渇望している者たち。

 

 

 

天界の秘義9209(4)

 

 あなたたちは行って、ヨハネにあなたたちの見聞きしたことを告げなさい。目しいは見、足なえは歩き、らい病人は清められ、耳しいは聞き、貧しい者には福音が説かれている、と。(ルカ7・20−22)

 

これらの言葉は外なる人のために話されたと同時に、内なる人のためにも話されたのであり、すなわち、外なる人のためにはこうした奇跡が行われていると話され、内なる人のためには、霊的な意義で目しいであり、足なえであり、らい病人であり、耳しいであり、貧しい者たちである者たちの間に、かくて善と真理には無知ではあるものの、それを渇望している異邦人の間に教会が建設されつつあると話されたのである。なぜなら真理には無知な者たちは「目しい」と呼ばれ(6990)、善の中にはいるが、真理を知らないため、純粋な善の中にはいない者たちは「足なえ」と呼ばれ(4302)、不潔ではあるものの、清められようと渇望している者たちは「らい病人」と呼ばれ、信仰の真理を認識していないため、その中にいない者たちは「耳しい」と呼ばれ、聖言をもっておらず、かくて主については何ごとも知ってはいないものの、教えられようと渇望している者たちは「貧しい者」と呼ばれるからである。従って「これらの者に福音を宣べ伝えなくてはならない」と言われているのである。

 

 

 

天界の秘義9209(5)

 

「貧しい者と乏しい者」により、内意では、教会の外にいて、聖言を持っていないため、真理には無知であるものの、教えられることを切望しており、その知っている真理により僅かな善の中にいる者たちが意味され、また教会の内にいるが、色々な原因のために真理を知ってはいないが、それでも若干の善のために真理を渇望している者たちが意味されている記事から明白である。例えばダビデの書には、

 

わたしは貧しく乏しい。ああ神よ、いそいでください、ああ、エホバよ、わたしの助けよ、わたしを解放される方よ。(詩篇70・5)

 

これらの言葉は、貧しくも乏しくもなかったダビデにより話されたのであり、そこから霊的な貧しさと困窮とが意味されていることが明白である。

 

 

僅かな善の中にしかいないで、悪と誤謬にとりつかれて悩まされている者たち。

 

 

 

天界の秘義9209(2)

 

 貧しい者と乏しい者とに益を与えなくてはならないと聖言に再三言われている。外なる真理の中にいて、未だ内なる真理へ入れられていない者たちは、何らかの種類の助けを必要としている者には凡て、特に自分自身を他の者より貧しいと呼んでいる乞食に益を与えなくてはならないと信じている。このことを、そのように命じられているため、服従から行う者らの行為は正しいのである。なぜならこの外なるものにより彼らは仁慈と慈悲の内なるものを徐々に教え込まれるからである。仁慈と慈悲との内なるものは、益を与えられねばならない者らはたれであり、またいかような性格を持っているかを、またいかように各々の者にそれを与えなくてはならないかを明らかに見分けることに在るのである。徐々に遂に仁慈と慈悲の内なるものを教え込まれる者たちは以下のことを知るのである。即ち、この内なるものそのものは内なる人に善かれと欲し、また善かれと行動し、かくて霊的な生命に貢献するものをもってそのように行動はするものの、それでもその外なる人が益を受けるとき、同時に内なる人もまた益を受けるようにとの慎重さをもって行動することに在るのである。なぜなら外なる人には良く行動はするものの、内なる人には悪く行動する者は仁慈を行いはしないのであり、それで一方が行われるときは、他方のこともまた顧慮しなくてはならないからである。

 

 

 

啓示による黙示録解説209

 

「みじめで貧しい」は、彼らは真理と善とを欠いていることを意味している。

 

 

ああ、主よ、わたしはみじめで、貧しいのです、わたしを憶えてください(詩篇40・17、70・5)。

 

 

 

 

3・トマス・ア・ケンピス

 

 

光明社/トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて3・7・2(P202)

 

自分の住居(すまい)を天にこしらえた者は、この世では貧しく、みじめな境遇のうちに捨ておかれた。これはかれらが卑しい貧しい者とされ、自分の翼で飛ぼうとせず、信頼をもってわたしの翼の下に隠れることを学ぶためであった。

 

 

 

光明社/トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて3・7・3(P203)

 

 経験者の言葉を信じないで、自分の意見ばかりに従い、あくまで自説を捨てようとしないならば、その結果ははなはだ危険である。

 自分を賢いと心得ている人が、謙遜に他人の指図を受けるなどということはめったにない。

 あまり学問がなく、理解力に乏しくても、謙遜であれば、知識の宝を多く有してうぬぼれている人よりもずっとよい。

 誇ることのできるものは、たくさん持つより少なく持つ方が、あなたのためによい。自分がもと霊的に貧しい者であったことを忘れ、こうむった恩恵を失うことを恐れる、主に対する清い敬畏の念を打ち捨てて、まったく快楽に溺れるのは、分別のある者のすることではない。

 

 

 

 

4.聖母から司祭へ

 

 

聖母から司祭へ1982.11.20

 

あなたがたが、財産のうえでも、精神のうえでも貧しい人であることを、わたしは望んでいます。

 

 こうしてのみ、あなたがたは、たくさんの人々の心配も、苦しみも、理解できるのです。そして、いちばん貧乏な兄弟たちのその心配と苦しみにも、あずかれるのです。それは、他でもなく、仕事も、従って、生活の必需品もない人、うとんじられた人、迫害を受けている人、人間扱いさえ受けられないでいる人たちのことです。でも、この人たちこそ、私にとって、最も貴重な宝です。

 あなたがたに出合う人々は、今も天の母が、あなたがたによって慰め、励まし、物質的にさえ、助け、救って、すべての人を抱きしめ、守ってあげていることを感じなければなりません。