光
1.聖書
2.真理
3.主
4.主から発した信仰
5.光の子
6.ヴァッスーラ
7.ルイザ・ピッカレータ
8.マリア・ワルトルタ
9.善の中にいない者らは主を承認することは出来ない
10.アグレダのマリア
11.人は諸真理に従って良い業を行なう限り、これを光の中に、即ち、理知的に、且つ賢明に行う
12.光輪
1.聖書より
マタイ4・16
暗闇に住む民は大きな光を見、
死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。
ヨハネ3・16−21
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。
ヨハネ8・12
イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
ヨハネ9・4−5
わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。
ヨハネ12・35−36
イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」
ヨハネ12・46
わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P58
しかし彼らは私を憎んでいます。私はこの世にとって一つの“危険”だからです。世間の偽り、欲望、暴力に対する危険そのものだからです。私は光で世間を照らすが、世間は光を愛しません。光は世間の俗悪さを、はっきり見せつけるから、世間は私を愛さない・・・私を愛することはできません。私が人間の心に打ち勝つために、つまり、人間を迷わせる闇の王に打ち勝つために来たと知っているからです。世間は私が医者であり、薬であることを認めようとせず、治療を拒んで狂ったように私を殺したいのです。
世間は私が主であるということに納得しない。私の言うことが世間の常識に背いているからです。そのために世間は、罪悪である自分の本性をあばこうとする私の声を、神の声を、押しつぶそうとしています。私と世間との間には、淵があります。それは私の責任ではありません。私はこの世に光と道を、真理と命を与えるために来たのに、世間は私を迎えようとしない。私の光は、その世間にとって闇に変わる。それは私を望まない人々の罰になるからです。
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P174
「知っています。ともかく灯りをつけなさい。闇の中で話すのは、正しい人のすることではない。泥棒、うそつき、好色家、人殺しのすることです。悪の共犯者は闇が好きなのです。だが私は共犯者ではない・・・」
天界の秘義6655
「さあ、わたしたちはそれを慎重に取り扱おう」(出エジプト記1・10)
これは狡猾を意味していることは、「慎重」の意義から明白であり、それは真理と善から遠ざかっている悪い者について言われているときは、狡猾である。なぜなら悪い者がその狡猾から、また詐欺から行うものをかれらは慎重(なこと)と呼んでいるからである。「慎重(なこと)」により意味されている狡猾について、ここに若干述べて良いであろう。悪にいる者は凡て狡猾を「慎重」と呼び、理知と知恵をそれ以外のものから成立させはしないのである。世でこうした性格を持った者らは他生ではさらに悪くなり、そこで善い真のものに反したことを狡猾から絶えず行い、真理を誤謬によって、いかような技巧を、またはいかような邪悪な議論を弄してでも、無価値なものとし、破壊できるように自分自身に思われる者らは、かれらの間では理知があって、賢明な者であると認められているのである。このことから教会の内で慎重を狡猾から成立させる折のその人間の性質のいかようなものであるかを認めることができよう。すなわち、かれらは(そのとき)地獄と交流しているのである。真の教会の人間である者たちは狡猾を嫌悪するほどにもそこから遠ざかっており、かれらの中で天使のような者である者たちは得べくば自分の心が開かれて、その思うことが何人にも明らかになるように願っているのである。なぜならかれらはその隣人に対しては善以外には何ごともねがってはいないし、もしたれかの中に悪を見ても、それをゆるすからである。悪にいる者らはそうではない。かれらはその考え、欲することが何であれ明らかになりはしないかと恐れているのである。なぜならかれらは隣人に対しては悪以外には何ごとも意図してはいないし、たとえ善を意図しても、それは自己のためであり、何か良いことを行っても、それはただうわべのみのことであって、利得と名誉を得るために善い者として見られるためである。なぜならかれらは、善で、真で、公正で、公平なものは、また尊いものは、(人の)心を、たとえ悪い者の心であっても、それをひきつける強い、かくれた力を持っていることを知っているからである。
天界と地獄131
天界の光は神的真理であるため、この光はまた神的知恵と理知である、それで天界の光の中へ挙げられる[高揚される]ことにより、理知と知恵の中へ挙げられて、明るくされることと同じことが意味されている。この理由から天使たちの光はその天使たちの理知と知恵と全く同じ度にある。天界の光は神的知恵であるため、その光の中では凡てのものの性質は知られ、各々の者の性質はそのあるがままにその者の顔の中に明らかに示されていて、いかに小さなことでも隠されはしない。内的な天使たちはまた、善以外には何一つ欲していないため、自分たちの凡てのものが明らかにされることを愛している。天界の下にいて、善を欲しない者たちはそうではない、彼らはその[善を欲しないという]理由から天界の光の中に見られることを非常に恐れている。そして驚くべきは、地獄の者らは互に人間として相手には現れているが、天界の光の中では、凄まじい顔と形を持った怪物として、彼ら自身の悪の形そのものとして現れているのである。人間の霊も、天使から見られる時は同じであって、もし善であるなら、その善に従って美しい、人間として現れるが、もし悪であるなら、その悪に従って醜い、怪物として現れる。ここから凡ての物は天界の光の中に明らかにされ、このことは天界の光は神的真理であることによっていることが明らかである。
天界の秘義4674[2]
これらの事柄の実情は以下のごとくである、すなわち、教会(すなわち、教会の中にいる者たち)の誤謬と悪とはその中にいる者には現れていないのである、なぜなら誤謬の原理のもやが真理を完全に隠蔽し、悪の生命が真理を消滅させてしまうため、誤謬は誤謬からは見られはしないし、悪も悪から見られはしないからである。誤謬の原理も悪の生命も、誤謬が真理であり、真理が誤謬であり、善が悪であり、悪が善であるという外観を生み出すのである。それがそうであることは色々な経験から明白である。しかし教会は、または教会の中にいる者たちは、天界ではそれとは全く異なって現れている、なぜなら、天界では主から発している神的真理が在り、天界の神的真理は光であって、この光の中にはかれらの性質が明白になるからである。なぜなら人間各々はその霊魂または霊の方面では天使の社会か、または悪魔の社会か、その何れかの社会の中にいるからである。人間の思考はそこに存在しているが、しかしその者の言葉と行為とは人間の間に在って人間と種々に交わっているのである。
2.真理
天界の秘義38
18節。「日と夜とをつかさどらせ、光と闇とを分けられた。神はそれが善いことを見られた」『日』により善が意味され、『夜』により悪が意味され、それ故善は日の業と呼ばれているが、悪は夜の業と呼ばれ、主の言われるように、『光』により真理が意味され、『闇』により誤謬が意味されている―
人は光よりも闇を愛した。真理を行う者は光に来る(ヨハネ3・19、21)。
天界の秘義1839[9]
ヨハネ伝に―
これが審判である、すなわち光が世に来た、しかし人間は光よりも暗黒を愛した、彼らの業は悪であったからである(3・19)
『光』は真理を、『暗黒』は誤謬を意味しており、真理はことごとく主から発しているため、光は主を意味しており、誤謬はことごとく
地獄から発しているため、『暗黒』は地獄を意味している。
3.主
天界の秘義1839[9]
ヨハネ伝に―
これが審判である、すなわち光が世に来た、しかし人間は光よりも暗黒を愛した、彼らの業は悪であったからである(3・19)
『光』は真理を、『暗黒』は誤謬を意味しており、真理はことごとく主から発しているため、光は主を意味しており、誤謬はことごとく
地獄から発しているため、『暗黒』は地獄を意味している。
天界の秘義3195−3195[8]
天界の秘義3195[2]
聖言には再三『光』のことが言われ、それにより内意では善から発している真理が意味されているが、しかし最高の内意では主は善と真理そのものであられるため、主御自身が意味されている。さらに事実として天界には光が存在しているが、しかしそれは地上の光よりは無限に明るく輝いており(1053、1117、1521−1533、1619−1632番を参照)、この光の中に霊たちと天使たちとは互に他を眺め、またそれにより天界に在る栄光はことごとく示されている。その澄明さについては、この光は実に世の光のように現れてはいるが、しかしそれでもそれはそのようなものではない、なぜならそれは自然的なものではなくて、霊的なものであり、その中に知恵を持っているからであり、かくて天使たちの眼前にそのように輝いているのである(2776番)。さらにこの光は人間の理解を、とくに再生した人間の理解を明るくしているが、しかしそれは人間によっては、人間が身体の生命の中にいる限り、そのとき支配している世の光のために認められない。さらにこの光は人間の理解を、とくに再生した人間の理解を明るくしているが、しかしそれは人間によっては、人間が身体の生命の中にいる限り、そのとき支配している世の光のために認められない。さらに他生では悪霊らも互に他を眺め、また霊たちの世界に存在する多くの表象的なものを見ており、しかも実にこれを彼らは天界の光から見てはいるが、しかし彼らの光は石炭の火から発するような光である、なぜなら天界の光はそれが彼らのもとにくると、このような光に変化するからである。
天界の秘義3195[3]
光の起源そのものについては、これは永遠から主のみから発している、なぜなら光が発してくる源泉である神的善そのものと神的真理とは主であるからである。永遠から存在した神的な人間的なものは(ヨハネ17・5)この光そのものであった。そしてこの光は、人類はそれ自身を善と真理から、かくて光から甚だしく遠ざけてしまって、暗黒に投げ込んでしまったため、人類に最早感動を与えることが出来なかったため、それで主は出生により人間的なものそれ自身を着けることを欲し給うたのである、なぜならかくしてかれは人間の合理的なもののみでなく、自然的なものをも明るくしたもうことが出来たからである、なぜなら主はこのような粗悪な暗黒の中にいた者たちの光ともまたなられるために、御自身の中に合理的なもののみでなく自然的なものを神的なものになされたからである。
天国と地獄126
天界に光の在ることはただ自然のみから考える者には把握されることが出来ない、が、諸天界には世の真昼の光にさえ数度まさっているほどにも明るい光が存在している。この光を私は、夕方でも夜でも、再三見たのである。最初私は、天使たちが世の光は天界の光に較べるなら殆ど蔭のようなものであると言うのを聞いたとき、[その言葉を]怪しんだのであるが、[それを]眺めた今となっては、それが実際そうであることを立証することが出来るのである。天界の光の明るさと輝きとは描写を絶したものである。私が諸天界で見た凡てのものはその光の中で見られたのであり、かくて世の物よりも更に明確に見られたのである。
4.主から発した信仰
天界の秘義9245
光は世に来た、しかし人間はその業が悪かったため、光よりは暗黒を愛した。悪を行う者はことごとく、その業が非難されることを恐れて、光を憎んで光へ来ない。しかし真理を行う者は、その業が明らかにされるために、光のもとへ来る、その業は神の中に行われたからである(ヨハネ3・19−21)
『光へ来ること』は主に対する信仰へ来ることを意味し、かくて主から発した信仰へ来ることを意味している。
5.光の子
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P59
私を迎える人は光、すなわち神の子となり、神を向かえるために生まれた人々です。
6.ヴァッスーラ
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P69
‘88・11・15
あぁ ヴァッスーラ・・・ 同情と深い憐れみにより、注意を与え 死から救い出そうと、私はやって来た、私自身の者たちに あなたを遣わしたが、彼らは私の声を 押し殺してしまった、明るみに出て 己が非が露になるのを怖れて。 私の声を押し殺し、真理の霊を迎え入れないので、私は彼らの罪を よそ者たちによって暴かせる。 あなた方の家の屋根の上で ラッパのように我が声を響かせよう・・・(*) 私のことを全く知らない よそ者たちによって 私は受け入れられた。 戸を叩くと 中に入れてくれた。 貧しいながら、彼らの糧を分かち合い、その貧しさゆえに、私を探し求めてはいなかったが、それでいて、私を見出した。一番の友人たちによって 出来た傷を彼らに見せると、それを見て、彼らは私の傷の前に 膝を屈め、傷の深さに打たれ、私の体に加えられた 暴行に打たれ、心は蝋のように溶けた、泣かないでよい 我が子よ、
♡ ・・・私の声は よそ者に運ばれて行く、そのこだまを聞いたなら 私から発せられたと知るように。 私を求めたことのない よそ者によって 私は高められ、それまで私を知らなかった人びとから 栄光を受ける、そして私は 彼らの師となり 教えを説く、彼らの欠点を 私は消し去り、道理を説き、彼らは私を理解するであろう。 彼らが私の傷を癒そう ♡ 私は牧者、羊飼いたちに打たれ 散らされた、仔羊たちを集める、 ♡ ああ ヴァッスーラ、このすべてはもう 本当に間もなく成就する。 来なさい、私のうちに憩い、私もあなたのうちに 休ませてほしい、愛に結ばれ 分ち合いながら ♡
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P138
‘89・3・8
私自身の者たちの殆どが 我が霊のわざを拒み、否定し押しつぶしていながら、どうして心安らかに 使徒信経を祈り:「聖霊を信ず」と唱えられようか? 真に言う、彼らのうちには 聖さが見当たらない、闇の中で やましい行為を続け 光に曝されないですむように、この暗やみに、小さな炎を見い出すなら、吹き消そうとして、疾風のように飛んで来る、そう ヴァッスーラ、彼らは光の中では 生きたくないようだ、
主よ、わが光、世の光、あなたを礼拝します(*)。
* 「この世の光」と書きながら、躊躇し、「この」という言葉を消しました。実際の世は闇に支配されていると思いましたので。イエスを微笑ませました。
さあ、あなたは私を喜ばせる、いつの日か、我が子よ、光だけが見え、光しか見えないであろう! 決して気落ちすることはない、最後まで ともにいる ♡
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P5
‘89・9・29
我がヴァッスーラ、過ぎ去る日ごとにあなたは私に近づいている。 日ごとに私もあなたに我が愛を証し こうした仕方で私自身を明かしているのが私であると 証ししている ♡ しかしあなたの世代はあなたに災いしている、この世代の災いは合理主義と呼ばれ、合理主義は死に至らせる ♡ 合理主義は闇の君主に由来し、暗やみの中に住む者たちは皆 他の病とともにこの病いを患っている ♡ しかし私からの者はすべて 光から出ている、そしてあなた方の住むこの闇の世界を照らすために 選ばれた霊魂たちに私が降ると、悪を行うすべての者たちを我が光は不安にさせ、その悪行は露見してどの目にも見えてしまうために不安のあまり殺すのも厭わなくなる。 私から身を隠そうとしたアダムとエワの行為とあまり変わらない ♡ そう わが光の子よ、あなたは私のものです そしてそのために闇が敵対し迫害し、闇を嗣ぐ者たちは私の跡継ぎたちを常に迫害しよう ♡ あなた方のくに民に光の時が至れば 我が光は彼らを不安にさせ、この者たちを震え上がらせる この者たちは生涯かけて悪巧みし 合理主義を育ててきたからです、墓場に住む闇の霊魂たちにとって 光の時は絶え間ない拷問となる、しかし我が光を彼らの上に輝かせよう、この暗やみを我が光が貫き 穏やかな陽光は死の床に横たわる荒れ地のすべてをも生き返らせよう、闇はもはや くに民の上に影を映さない、我が光がその柔かいつぼみを元気づけ 陽光が花開かせ、地上の枝々は再び緑に変わる、祈り続けるように、我が子よ、愛が永遠にあなたを愛している
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P7
‘89・9・30
恐れないように、私、主がともにいる、一秒たりとも独りにしてはおかない。 悪魔が憤るのはもっともなのです、私が特別な仕方で愛する者たちを いかに憎んでいるかをあなたが知ったなら、そこで我が子よ なぜ攻撃されるかを理解しなさい、しかし私はマントの下に匿(かくま)って、あなたに触れさせはしない、そのため次に悪魔は 耳を傾ける霊魂たちの中にすばしこく 悪意に満ちて入り込み、あなたを完全に黙らせようと これら悪魔の犠牲者たちを通り道に据えて 追い回させ迫害させる(*)。 サタンはこの者たちを武器として あなたを本当に黙らせる気です、それはあなたが 我が全権をもって与えた、真理を大声で告げ知らせ、すべての屋根上で叫ぶラッパのようだからです。 我が子よ、叫び続けなさい、声高らかに叫び続けなさい: 私の言霊となりなさい、あなたの声は我が声であり、あなたは我が口から出た者だからです、そこで叫び続けなさい、くに民に向かって叫び 真理を告げなさい! 怖れなくてよい ♡ 私を迫害する者たちは皆吹き飛ばされよう、実はあなたではなく私を迫害しているからです。 偽りは真理を、闇は光を迫害している、しかし最後には、私、主が勝利しよう ♡ そばにとどまっていなさい、小さな者よ、私に身を捧げ、たえずあなたのうちで 息をさせなさい、頭を−横たえさせてくれるように。 我が平安を受けなさい。 信仰を強め、私を喜ばせてほしい ♡ 来なさい、「私たち」?
*いつかの幻視を思い出しました。(ノート31、‘98・1・29)
ヴァッスーラ・神のうちの真のいのち・9巻P162
‘98・6・22 (つづき)
あなたのうちに私は増し加わり その一方であなたを小さな者にしていくという 惜しげない好意を示そう。 あなたのうちは夜明けとなり 夜闇は消えていく。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P276
‘03・1・6
我が現存とはいのち そして光。 我が現存とは希望 そして救い。 見よ、私は 夜明けの太陽のように夜闇の後に光注いで 闇に潜むジャッカルのように生きる人たちや、深い陰の地、自らの悪行を隠すために自ら闇に変えた地に住まう者たちに 光をもたらす。
あなた方の「パトスの日々(*3)」に 私はいよいよ はっきりと現存する、あなた方はこの世の野心を追い求め それは私へと導くことはないゆえ。 だが私は ここにいる。 あなたの神はここにいて、心の戸口に立っている。 私は ここにいて、あなたもしばしば言うように、娘よ、千の星座を合わせたよりも眩しく輝き、足もとを明るく照らして 平和の道へと案内する。
分かるか? 私のやり方は 人間のやり方とは違う。 私の現存は光であり 我が光は闇を悩ます。 闇は今や光と戦い 光が消えて あなた方にもはや陽光が射さないようにと願っている。 しかし私は 永久に沈まず明るく輝きつづける太陽のように 我が荘厳をもってあなた方皆を飾る。
7.ルイザ・ピッカレータ
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P165
まだ私が神聖な希望の海の中に自分を見失い、溺れていたあいだに愛するイエスは再びご自分をお現しになり、今度は愛徳についてお話しになりました。それは全ての徳の中で最も秀でたものですが、他の二つの徳とは姉妹関係になり、あたかもただ一つの徳のようでありますが、それらは三つの別々な徳です。「事実、もしちょっと火を眺め、それについて考えてみれば、あなたはすぐにこのお互いに一致した三つの徳についてのおぼろげな観念を持つことができるでしょう。火をつけたとたん、最初にわたしたちの目に映るのは、周り全体に生き生きとした明かりを放つ光です。光とは、洗礼によってキリスト信者の霊魂の中にわたしが呼び起こした信仰のシンボルです。次にその周りには、光とともに熱が発散するのを感じるでしょう。それからだんだんとその光がほとんど消えるまで弱まっていくと、火によって生じた熱は、火が完全に消えてしまうまで、もっと強い熱を出します。
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/4巻P214
我が娘よ、私は世界を光で満たす太陽である。ある霊魂のうちに私が存在するとき、その霊魂の中にもう一つの太陽が再生産される。そしてその光線を通して、生まれた太陽同士お互いに絶え間ない矢を送り合う。するとこの光の間に犠牲、卑しめ、反対、苦しみ、その他の雲が産み出される。もしこれらの光が本当のものであるならば、それは多くの力を有して、絶えず矢を送って、これらの雲の上に勝利をおさめ、雲を光に変える。ところがもしそれが見かけだおしの偽物であると、光の間に生み出される雲は、この光を闇に変える力を獲得することになる。
これが、私であるか、それとも悪魔であるかを理解するためのもっとも確かなしるしである。人がこのしるしを受けた後その人は、闇ではなく光である真理を宣言するために、その生活を捧げることができる。
8.マリア・ワルトルタ
マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P12
‘43年7月21日
あなたたちは生きている今を嘆いている。しかしあなたたちはそれを不当だと思っているのか? そのきびしさはあまりにも酷だと思うのか? いいや。それは正当であり、あなたたちに価するものよりも軽いものだ。
わたしはあなたたちを救い、数えきれない方法で再び救い、あなたたちの犯した七千回の罪を赦し、更に七千回赦した。わたしはあなたたちに生命と光とを与えるためにわざわざやって来た。わたし、世の光は、あなたたちの闇のなかに言葉と光をもたらすためにやって来た。わたしはもはや渦や火を通して、また預言者たちの口を介して、あなたたちに語りかけなかった。いいや。わたし、わたし自らやって来たのだ。わたしはあなたたちと共にわたしのパンを割き、あなたたちと粗末な寝床を分け合った。わたしは労苦において、あなたたちと共に汗を流し、あなたたちに福音を述べ伝えるためにわたし自身を使い果たし、あなたたちのために死に、わたしの言葉によって律法に関するあらゆる疑問を吹き払い、わたしの復活をもってわたしの本性についてのあらゆる疑問を吹き払い、命を与えるのに適した、あなたたちの霊的食物となるように、わたしはわたし自身をあなたたちに残した。それなのにあなたたちはわたしに死を与えたのだ。
わたしはあなたたちに神の言葉と愛と血を与え、あなたたちは言葉に対して耳を塞ぎ、愛に対して魂を閉ざし、わたしの血を冒涜した。
一人の預言者の指で書かれた二枚の石板と、僅かなマンナが置かれていた古の幕屋を、わたしは天から降った真のパンと、わたしではなく、あなたたちが壊している愛の契約が書かれたわたしの心が置かれた新しい幕屋に代えた。
あなたたちは『わたしたちは神がどのような方であるか知らない』と言うことはもう出来ない。あなたたちの鈍重さをもってしては霊を愛するには不十分なので、わたしは、あなたたちが愛することの出来る肉を有するように、肉となった。
マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P128
だが、数世紀このかた、世においてこの推進力を享受した人々の数は少ない。なぜなら世間はいつも光より闇を好んだからだ。わたしのむごたらしい死によって、わたしはあなたたちのあいだに完全な聖霊の到来を完成させた。ところが数世紀このかた、人類は聖霊をますます拒んでいる。わたしを拒み、父を拒んだように。
マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P134
あなたたちはわたしを愛していない。それがすべてだ。愛するということは、時々上辺だけの社交的表敬訪問を行うことではない。愛するということは、もう一つの霊魂を養う、唯一の火と一致し、解け合い、点火した霊魂と共に生きることだ。その時、この融合のなかに理解も生まれる。
9.善の中にいない者らは主を承認することは出来ない
天界の秘義2349[2]
それでここには教会の中にはいるが、仁慈の善に反抗し、従って主に反抗している者の最初の状態が記されているのである、なぜならたれ一人愛と仁慈によらなくては主と連結することが出来ないため、その一方は他方を含んでいるからである。愛は愛の本質から認められることが出来るように、霊的な連結[霊的に連結させるもの]それ自身であり、誰でも主と連結することが出来ない者は、また主を承認することは出来ないのである。善の中にいない者らは主を承認することは出来ない、すなわち、主に対する信仰を持つことが出来ないことは、ヨハネ伝に明白である―
光は世に来た、が、人々は光よりも暗黒を愛した、その業が悪であったためである、なぜなら悪を行う者はすべて、その業を咎められるのを恐れて、光を憎み、光に来ないからである、しかし真理を行う者は光へ来る、その業が神の中で行われたため、それが明らかにされるためである(3・19−21)。
このことから、仁慈の善に反抗する者は主に反抗することが、またはそれと同一のことではあるが、悪の中にいる者は光を憎み、光に近づかないことが明白である。『光』は主に対する信仰であり、主ご自身であることはヨハネ伝に明白である(1・9、10、12・35、36、46)。
天界の秘義2354〔3〕
(幾度も前に述べたように)人間の実相はその人間のもとに悪霊がいると同時に天使もそのもとにいるということである。悪霊を通して彼は地獄と交流しており、天使を通して天界と交流しているのである(687、697番)。それでその者の生命〔生活〕が悪いものに接近するに比例して、益々地獄が流れ入ってくるが、その生命が善いものに接近するに比例して、益々天界が流れ入り、それで主が流れ入ってこられるのである。このことから、悪の生命の中にいる者らは主を承認することは出来ないで、主に反抗した無数のものを自分自身で形作るが、それは地獄の幾多の幻想が流れ入ってきて、その者らにより受け入れられるためである。しかし善い生命〔生活〕の中にいる者たちは主を承認するが、それは愛と仁慈がその中では主要なものとなっている天界が流れ入ってくるためであり、また天界は主のものであって、主から愛と仁慈の凡ゆるものが発生してくるためである(537、540、547、548、551、553、685、2130番を参照)。
10.アグレダのマリア
アグレダのマリア/神の都市/P173
元后の御言葉
いと高き神は、光をあらゆる人々に与えます。人々が自由意志を濫用し、この光を罪により遮らない限り、光は神を知り、天国に入るよう私たちを導きます。主の教会に入る者は、神をもっと良く知ります。洗礼の恩寵は必然的諸徳や自分の努力によって達成できない諸徳だけでなく、この世的な諸徳や修練により獲得できる諸徳も与えます。これらの諸徳は、神の聖なる律法を熱心に私たちが守るためです。信仰の光の他に、福音の神秘をより良く理解し、善業に励むための知識と徳も、主は他の人々に与えます。汝は他の多くの世代の人たちよりももっと恵まれていますから、主に対する愛と、塵にまで自分をへりくだらすことに於て、人一倍の努力をしなさい。
11.人は諸真理に従って良い業を行なう限り、これを光の中に、即ち、理知的に、且つ賢明に行う
真の基督教377
(3)「善き業は仁慈のみによっては生まれず、まして信仰のみによっては生れない、それは仁慈と信仰との結合によって生まれる。」
これは、信仰の無い仁慈は仁慈ではなく、仁慈の無い信仰は信仰でない故である(353−358番)。それ故、仁慈はそれ自らによっては存在することは出来ず、信仰もまたそれ自らによっては存在することは出来ない。それ故、仁慈か或は信仰かその何れかがそれ自らによって良い業を生み出すと言うことは出来ない。意志と理解も同様である。何故なら、意志のみでは如何なる物をも生み出すことが出来ないし、理解もまたそれのみによっては何物をも生み出すことが出来ず、凡ゆる業は両者が共に働くことによって生まれ、意志から発する理解によって為されるからである。意志は仁慈の住居であり、理解は信仰の住居であり、ここからその類似が発する。信仰は真理であり、その働きは諸真理を生み出すことであり、而してこの諸真理は仁慈とその実践とを明らかにする故、信仰のみは仁慈のみよりも良き業を生み出すことは出来ない。この事を主は「真を行う者は光に来る、その行為の神によりて行いたることの顕れんためないり」(ヨハネ3・21)と語り給うた時に、教え給うた。それ故、人は諸真理に従って良い業を行なう限り、これを光の中に、即ち、理知的に、且つ賢明に行うのである。
12.光輪
神の愛と知恵94
この霊的な火は―その中にまた光の起源があるが―霊的な熱と光となり、その熱と光とは発出するその途中で減退している。この減退は以下に取扱われる度により行われている。古代人はこれを神の頭を取り巻いている火の燃え立った、光り輝く環で表象したが、これは現今でもまた神を人間として表している絵画に普通行われるところである。
13.サンダー・シング
徳間書店/林陽訳/サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P163
気体は寒いときには光を幾らか吸収するが、暑いときには逆に放出する。それと同じく、わたしたちは霊的に冷えていると、義の太陽が照らしているにもかかわらず暗黒の中で生きることになる。だが、十字架の摩擦によって聖霊の炎が点火され、熱が生じてくると、神の光によってまず自分が照らされ、次に人々にその光をもたらすようになる。