主を非難することは出来ない
自由意志/
光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ(3・19)/
1.聖書
2.マリア・ワルトルタ
3.ヴァッスーラ
4.サンダー・シング
5.スウェーデンボルグ
6.アグレダのマリア
1.聖書
イザヤ5・4
わたしがぶどう畑のためになすべきことで
何か、しなかったことがまだあるというのか。
わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに
なぜ、酸っぱいぶどうが実ったのか。
マタイ7・7−12
求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。
魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。
ルカ23・39−43
十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
ヨハネ3・16−21
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。
2.マリア・ワルトルタ
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/5巻中P140/334・3
「各自は死んだとき、生存中の行動が欠陥のない知性によって既に書かれていて、それによって裁きが下される。最後の恐ろしい、大きな審判で、人間は再び裁かれる。アダムから、最後の人間まで。彼らはこの世において、自分の自由で何を望んだかによって裁かれる。私自身が、今、神の御言葉、秘跡、愛に値する人、そうでない人を選ぶとすれば―私はそれを神的な権利と能力によってできるのだが―排除される人は、たとえそれが悪魔だとしても、自分の審判のときには、大声で叫ぶだろう、『あなたの御言葉が悪いのだ。彼は私たちに教えたがらなかったのだから』と。しかし、彼らはそう言うことはできないだろう・・・もしも言うなら、嘘を重ねることになる。それで、彼らは裁かれることになるだろう」と」。
マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P12
‘43年7月21日
あなたたちは生きている今を嘆いている。しかしあなたたちはそれを不当だと思っているのか? そのきびしさはあまりにも酷だと思うのか? いいや。それは正当であり、あなたたちに価するものよりも軽いものだ。
わたしはあなたたちを救い、数えきれない方法で再び救い、あなたたちの犯した七千回の罪を赦し、更に七千回赦した。わたしはあなたたちに生命と光とを与えるためにわざわざやって来た。わたし、世の光は、あなたたちの闇のなかに言葉と光をもたらすためにやって来た。わたしはもはや渦や火を通して、また預言者たちの口を介して、あなたたちに語りかけなかった。いいや。わたし、わたし自らやって来たのだ。わたしはあなたたちと共にわたしのパンを割き、あなたたちと粗末な寝床を分け合った。わたしは労苦において、あなたたちと共に汗を流し、あなたたちに福音を述べ伝えるためにわたし自身を使い果たし、あなたたちのために死に、わたしの言葉によって律法に関するあらゆる疑問を吹き払い、わたしの復活をもってわたしの本性についてのあらゆる疑問を吹き払い、命を与えるのに適した、あなたたちの霊的食物となるように、わたしはわたし自身をあなたたちに残した。それなのにあなたたちはわたしに死を与えたのだ。
わたしはあなたたちに神の言葉と愛と血を与え、あなたたちは言葉に対して耳を塞ぎ、愛に対して魂を閉ざし、わたしの血を冒涜した。
一人の預言者の指で書かれた二枚の石板と、僅かなマンナが置かれていた古の幕屋を、わたしは天から降った真のパンと、わたしではなく、あなたたちが壊している愛の契約が書かれたわたしの心が置かれた新しい幕屋に代えた。
あなたたちは『わたしたちは神がどのような方であるか知らない』と言うことはもう出来ない。あなたたちの鈍重さをもってしては霊を愛するには不十分なので、わたしは、あなたたちが愛することの出来る肉を有するように、肉となった。
マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/P15
‘43年7月21日
だがなぜ、なぜ、ああ、わたしの民よ、あなたはわたしが与えた王国から出て、なぜ完全と愛のあなたの王から逃れて、悪と死の君主であるサタンの王国の鎖と野蛮を選んだのか? そのようにしてあなたは、父であり、救い主であるいと高き者に報いるのか? それでいてあなたは、地から湧き上がり天から舞い降りる火が、神を否認しサタンとその使者たちを受け入れた、倣岸で、神に背く人種を焼き尽くすのを見て驚くのか?
マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P15
‘43年7月21日
いや、サタンはあなたたちを呑み込むために、働き労苦する必要はないのだ! わたしは、あなたたちをもう一度引き寄せるのを見るために骨を折らなければならない。なぜなら、あなたたちが自分の出自を否認しても、わたしは自分があなたたちにとって父であり救い主であることを思い出しているのだから。あなたたちが情け容赦しない選別のために集められる最期の時まで、わたしはわたしの不運な子供たちを否認はしないし、また彼らを救おうと試みる。
おお、マリアよ、この罰は不当なものではない。それは正しい。そして重いものだが、あなたたちの過ちが非常に重いものだからだ。しかしそれは善意にあふれる神の悪意によって科せられる罰ではない。あなたたちの神は、そうすることがあなたたちに役立つとわかっていれば、その罰をあなたたちに免れさせるために自分を捧げるだろう。しかし神は、あなたたち自身が、あなたたちの愚行と、あなたたちの獣との取引を罰するようにさせておかねばならないのだ。
何千何万という人々が全地の至るところで破滅するだろう。しかし誰かは、あなたたちの首を締めつける臨終の中で、神の声がひびくのを聞き、その顔を暗闇から光に向けるだろう。戻るその一人は、罰を正当化するだろう。一人の霊魂の値段と価値は、それを買うために全地の財宝をもってしても足りないほどのものだから―それを守るためにどのような義務があるかを知り、考えよ―神の血が必要なのだ。わたしの血が。
マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P169
しかし、わたしが時間をむだにしたと非難することはだれにもできないはずだ。おお、神の子らよ、事実、父の家から遠くさまよい歩くことを選び、時にはあなたたちの神的相続権を神の敵に売り渡しさえしたあなたたちのために、わたしがそれ以上の何を為しえたろうか? 力強いわたしのことだから、悪があなたたちを襲うことを妨げ、わたしの権威に対してあなたたちを善良にすることが出来たはずだ、と言ってはならない。もしわたしがそうしていたなら、あなたたちは歩行者が気づきもせず足で踏みつけて行く道端の草ほどの値うちもないだろう。神の意志に従って播かれた種から生まれた草は、ひとりで生まれ育つ。あなたたちがいと高きものから受けている世話に比べれば、最小限のものしか受けていないのに。草は神から太陽と露とそして少しばかりの土をもらっている。いっぽうあなたたちは、自分を導く知性をもち、自分を照らすための恩寵をもち、自分を律する律法をもち、師としてわたしをもち、救いのためにはわたしの血をもっている。
わたしはすべてをあなたたちに与えたのに、あなたたちはわたしにごく僅かしか与えず、それもますます少なくなる! 神の忍耐をもって、わたしはあなたたちの面倒をみたのに、あなたたちはいつもわたしに楯突いた。いちばん罪の軽い人たちも、いつも怠惰だった。あなたたちはいつも、すべてをあなたたちのためにしたあなたたちの神に尽くしすぎることを恐れていた。
マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P187
しかし、在って在るもの、すなわち完全無欠の知恵は誤りを犯さず、完全に創造されたものを不完全なものにした悪も苦しみも、その創造にはめ込んではいない。それが全知者からもたらされたと決して言ってはならない。それは神がすべてのものに、生きとし生ける者に与えたあの行動原則から脱したかった者、また脱しようとした者によってもたらされるのだ。霊的、倫理的、完全な肉体の秩序がもし尊重され、守られていたならば、人間たちは地球を地上の楽園のまま維持したろうし、犯罪前のアダムとエバの幸福な条件でそこに住んでいるだろう。
聖母マリア/マリア・ヴァルトルタによるマドンナの生涯/上巻/天使館/P26
あらゆる過ちと、あらゆる嘲りは、神に罰せられるだろう、神は決して嘲笑を受けられず、より小さい人々を抑圧することは許されないゆえに、と主は言われる。
だが、マリアよ、一つのことに注意しなさい。より小さな人々の方からも律法に対する尊敬が必要です。守らねばならない。それはあなたたちがいつも神と共にいるためだ。
3.ヴァッスーラ
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P242
‘90・9・25
あとから、裁きの日にこう言わないで下さい:「聞いてはいない、知らなかった」と。 神と相対した時に:「気づきませんでした・・・」とは言えないように、起こる以前に、前もってイエスと私は こうしたことを明かしているのです。 ―・・・ 傲慢な者たちの要塞は倒され・・・そのふところから悪魔は追い出されるでしょう ♡ ― 祝福されますように。 私の言葉を聞いてくれた皆は祝福されますように。 私はあなた方を愛する母、皆を慈しむテオトコス(*)です ♡
*テオトコス:神の母(訳注)
4.サンダー・シング
サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P149
このことに関して、キリストに責めはない。主にあって欠けるものは何一つない。主の信者と称しながら、指導者たる主に従わぬ者たちに責めはある。
サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P330
わたしたちはキリストを知り、主の中に生命を見出さなくてはなりません。平和が見つからないとすれば、責めはわたしたち自身にあります。主には、何一つ過ちはありません。しかし、人々は忙しすぎ、祈る時間さえとりません。キリスト教国の人々は、時間がないために信仰を捨てています。主は、無理強いはなさらない。しかし、生命と救い、地上天に浴そうとすれば、わたしたちは祈らなくてはなりません。真理は、イエス・キリスト自身であり、主は知性を介してではなく、心(ハート)を通して見つかるのであります。人々は新宗教を信じ、多くのことを知的にとらえようとしますが、光が輝くまでは失敗することでしょう。光が与えられるときに、初めて人は真理を識別できるのであります。知的な目によっては、真理、わたしたちを自由にする真理を見ることはできません。
5.スウェーデンボルグ
天界の秘義9452
主は人間を神的慈悲から再生される。これはその幼児時代から世におけるその生命の最後に至るまで、後には永遠に至る迄も行われる。かくて主が人間を悪と誤謬から引き出して、彼を信仰の諸真理と愛の諸善へ導き、後にはそれらの中に留めおかれるのは神的慈悲から発している。そしてこの後で、主は神的慈悲をもって彼を天界における御自身のもとへ引き挙げられ、彼を幸いにされるのである。この凡てが慈悲から罪を赦すことにより意味されていることである。他の何らかの方法で罪が赦されると信じている者らは全く誤っている、なぜならもしそれが他の何らかの方法で為されることが出来るなら、おびただしい人間を地獄の中に見て、これを救わないことは慈悲が欠けていることになるからである。しかし主は慈悲そのものであられ、いかような者の死も望まれないで、その者が生きることを望まれているのである。
天界の秘義9453
従って自分自身が再生することに甘んじない、かくて自分自身が悪と誤謬から遠ざけられることに甘んじない者らは自分自身からこの主の慈悲を遠ざけ、投げ棄てるのである。それ故もし人間が救われないなら、責任を問われるのはその当人である。
天界の秘義9454
これがヨハネ伝に意味されていることである―
かれを受け入れた者にはことごとく、即ち、その御名を信じる者たちに、かれは神の子となる力を与えられた、彼らは血からでなく、また肉の意志からでもなく、神から生まれたのである(ヨハネ1・12、13)。
『血から』は信仰と仁慈との諸善に対立した者らを意味し、『肉の意志から』は自己への愛と世への愛から悪の中にいる者らを意味し、『人間の意志から』は、そこから派生してくる誤謬の中にいる者らを意味し、『神から生まれる』は再生することを意味している。たれ一人再生しなくては天界へ入ることが出来ないことも同書に教えられている―
まことに、まことにわたしはあなたに言う、人間は新たに生まれなくては神の国を見ることは出来ない。まことに、まことに、わたしはあなたに言う、人間は水と霊から生まれなくては、神の国に入ることは出来ない(ヨハネ3・3、5)。
『水から生まれる』は、信仰の真理を通して、を意味し『霊から生まれる』は、愛の善を通して、を意味している。この凡てからその罪を赦された者たちのたれであるかを、またその罪を赦されていない者らのたれであるかを今や認めることが出来よう。
神の摂理340[4]
(ハ)「即時の救いを信じる信仰により堕地獄は主に帰せられる」。
主は純粋な慈悲から凡ての者を救うことが出来るのに、もし誰かが救われないならば、その責任は人間にはなくて、主にあるという結論を誰が避けることが出来よう。信仰は救いの手段であると言われるかもしれない、しかし信仰の与え得られない者があろうか。なぜならそれは単に考えに過ぎず、その心の状態が世俗の事から引き出されている者なら誰にでも信頼を以て受けられることが出来るからである、そして彼はまた『私は私自身ではその信仰を受け入れることは出来ない』と言うであろう、それ故もしその信仰が与えられず、そしてその人間が地獄に堕ちるなら救う力があるのに、救おうとしない主にその責任があるとしか彼は考えないであろう。このことは主を無慈悲なものと呼ぶことではないか。更に彼はその信念に燃えて、『彼は純粋な慈悲から凡ての者を一瞬に救うことが出来るのに、かくも多くの者が地獄に罰せられるのを如何にして見るに堪えることが出来よう』と語るであろう。その他このような、神的な者に対する忌むべき非難と呼ばれねばならない事を彼は言うであろう。これらの考察から、純粋な慈悲から発した即時の救いを信じる信仰は教会内の飛びかける火の蛇であることが今や明らかであるに相違ない。
真の基督教720
主は不当に近づく者等に対して天界を閉じたもうと想像してはならない。これは何人に対してもその生涯の終に至るまで決して行い給わない。事実は人間が信仰を斥け悪しき生涯を送ることによって自ら天界を閉じるのである。それにも拘らず、彼は悔い改めと回心の可能性の中に維持されている。何故なら、主は絶えず凡ゆる人間の許に臨在し、「視よ、われ戸の外に立ちて叩く、人もし我が声を聞きて戸を開かば、我その内に入りて、彼と共に食し、彼もまた我と共に食せん」(黙示録3・20)と語り給いつつ受け入れられることを切に求め給うからである。それ故戸を開かないその責めは人間自身にある。然し、死後事情は異なる。その時天界は生涯の終わりまで不当に聖なる食卓に近づいた者等には閉ざされて、開かれることは出来ない。何故なら、その時彼らの内的な心は固定し、変更され得ないからである。
6.アグレダのマリア
アグレダのマリア/神の都市/P272
元后の御言葉
私の娘よ、この章で、人々の霊魂の運命の神秘についてよく学びなさい。主の救いは大層豊かで、全人類を救うのに十分であることを確信しなさい(ロマ5・20)。神の真理は、説教を聞くか神人の御業を見た人たち全員が知っています。感覚が見聞きしただけではなく、全員が心の中で真理に達するための御助けを頂きました。大群衆の中で僅か三千人しか使徒たちの最初の説教により改宗しなかったことは驚くべきことです。現代に於て、ほんの少数しか永遠の生命の道に改宗しないことはもっと大きな驚異です。現代に於て、福音はもっと広められ、説教は頻繁であり、司祭たちは多く、教会の光はもっと明るく、神の神秘についての知識はもっと確立しているからです。それにも関わらず、人々はもっと盲目になり、心をもっと頑固にし、誇りがもっと高くなり、貪欲はもっと厚かましく、あらゆる悪徳は神を畏れずに行なわれています。
主はあらゆる人々に御父としての慈悲を与え、生命の道と死の道を教えておられますから、主に対して不平不満を言えないはずです。神に見棄てられた人たちは、時間のある時に実感できたことや実感すべきであったことを悔やみ、自分自身を責めるしかできません。短い仮の生涯に於て、真理や光に対して目や耳を閉じ、悪魔に耳を傾け、悪意の唆しに身を委ね、主の善意と寛容を濫用するならば、弁解できるでしょうか? 僅かな問題を起こす他人を許さず、お金儲けに腐心し、一時的な楽しみにうつつを抜かし、警告を受けつけないなら、後になって神を逆恨みする権利がどこにあるでしょうか? 自分をごまかさずに痛悔すれば恩寵を得られます。