自由意志

主を非難することは出来ない自由

 

1.スウェーデンボルグ

2.誘惑に対する選択

3.神は強制なさらない

4.ヴァッスーラ

. マリア・ワルトルタ

6.サンダー・シング

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

 

真の基督教485

 

「霊的な事柄に於ける自由意志無くしては、人間には主との交わりに入る手段が無く、従って何らの転嫁も無く、只嫌悪すべき予定のみがあるに過ぎない。」

 

霊的な事柄に於ける自由意志が無ければ、信仰に関する章に示されたように人間は仁慈も信仰も持つことが出来ないし、また両者は結合することも出来ない。霊的事柄に於ける自由意志無くしては主との交わりに入る手段は有り得ないし、而もそれ無くしては改良、再生、即ち救いも有り得ないことが推論される。

 

 

真の基督教489

 

然し親愛なる読者よ、暫し立ち止まって、人間は霊的な事に於ける自由意志無くして、恐らく創造され得るであろうか、否かを考察されよ。諸君が人間からかの自由意志を取り去るならば、彼は最早人間ではなく、彫像である。何故なら自由意志は全て外観的には、人間自身によって欲し、行動し、考え、語るかの如く欲し、行動し、考え、語る人間の能力以外の何ものであろうか。彼は人間として生活するためにこの力が彼に与えられた為、生命の木と、善悪を知るの木の二本の木がエデンの園に置かれたのであり、この事は人間はその自由によって何れの木の果をも食う力を持つことを意味するのである。

 

 

真の基督教490

 

然し、神が悪を創造したと想像することは邪悪な冒涜である。神は人間に霊的な事柄に於ける自由意志を賦与し給うたけれども、悪を創造り給うたのではない。而して、神は善そのものにて在す故、如何なる人間にも決して悪を注ぎ入れ給わない。

 

 

天界の秘義7007〔2〕

 

 しかし人間がそのように考えるのは、天界の秘められた事柄を知らないためであって、その秘められた事柄とは主は各々の者にその者自身の自由を委ねられているということである、なぜなら人間は自由を持たない限り、決して改良されることは出来ないからである。強制はいかようなものも根付かせはしないため、改良はしないのである、なぜなら強制的なものは人間の意志のものとはならず、自由なものがその意志のものとなるからである。にも拘らず善と真理とは、人間自身のものとして人間のものとなるためには、その意志の中に根を下ろさなくてはならないのである、なぜなら意志の外側に在るものはその人間のものではないからである。そしてこうした理由から各々の者はその者の自由に委ねられているため、人間は外なる恐怖により抑制されない限り、悪を考え、また悪を為すことを許されているのである。そしてまた同じ理由から、この世では邪悪な人間は外観的には正しい人間よりも更に喜び、その栄誉を得ているが、しかし邪悪な者の栄誉と喜びとは外なるものであり、または身体のものであって、他生では奈落の不幸に変化してしまうに反し、正しい者の栄誉と喜びとは内なるものであり、または霊のものであって、存続し、天界の幸福となるのである。

 

 

2.誘惑に対する選択

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P134

 

「つまり神を愛していれば、その心に神が働きかけてくださるのですね」

「そうですとも。一番働いてくださるのは神だが、人間のほうからも完徳を目指し、自分の意志を使って誘惑を退け、肉体と世間と悪魔に対して戦えば、神の子らとして功徳を積むことになります」

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P242

 

被造物は神と比べれば、必ず劣るところがある。しかし愛の神は被造物に意志を与えられた。それを通して被造物は徳を完成し、御父である神に最も似た者となる。(中略)

『自由意志をもってなされた悪からも、神はよい目的を見つけられる。人間が功徳に値する光栄に至るように、それを役立たせようとなさる。悪に打ち勝つことは、選ばれた人たちの栄冠である。もし悪が善意の人々のために、よい結果を全く起こしえないなら、神はそれを滅ぼされたはずである』創造の世界の中にあるどんなものも、善への励ましが全く欠けているはずはない。

 

 

マリア・ワルトルタ/受難の前日/P23

 

お前は、私が誘惑されて、罪に落ちたことはないかと聞いたが、私がたとえ誘惑されても、それに負けることはないと、お前には理解できなかった。“みことば”にとって誘惑はふさわしくないし、“人間”ならば罪を犯さずに生きることは不可能だと、お前は思っていた。しかし、人は誘惑されても、その誘惑に負けたいと思う人だけが罪を犯すのだ。

(中略)

もはやそれを理解するに値しない人間になっているにしても、私はもう一度、お前に繰り返そう。追い返された誘惑が姿を消さなかったのは、お前に責任があるのであって、私ではない。お前はそれを徹底的に追い返さなかったからだ。お前はその行為をしなかったとしても、その考えを引きずっていた。今日はこうだが明日・・・明日は本当の罪に落ちる。だから、あの時、誘惑の試みに陥らないよう、御父の助けを請えと教えた。

 神の子である私はすでにサタンに打ち勝っていたが、それでも御父の助けを請うた。私はへりくだって神の助けを願ったが、お前はそうしなかった。神に救いも、予防も願ったことがない傲慢な男だ。ユダ、だからますます深みに沈む。

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々1.P307

 

そうです。サタンはあなたたちをより分けるために、罠をしかけるに違いない。私も、あなたたちを救うために、ふるいにかけます。争うものは二人です。サタンと私。その真ん中に、あなたたち。愛と憎しみ、知恵と無知、善と悪との間の決闘が、あなたたちの目前で行われます。あなたたちに対しての邪悪な打撃をかわすためには、私だけで足ります。あなたたちを愛しているから、私が代りに傷つけられるのを引き受け、サタンの武器の前に立ちはだかります。

 

そうはいっても、あなたたちの中の打撃は、あなたたちの自由意志で私の方へ走り寄り、真理と命である私の道によって、自分でかわすべきです。天を望まない人は天国を得られません。キリストの弟子となるにふさわしくない人は、世間の風が吹き飛ばしていく軽い塵みたいなものです。

 

 

3.神は強制なさらない

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P54

 

イエズスが:

「贖いとは忍耐の業です。永遠に決められたことで幾世紀もの長い準備期間を経て“今”実現したのです。なぜあわてるのか。神は一瞬のうちにすべてをなし遂げることができなかったのだろうか。神の手から出た、恵まれた理性の持ち主である人間は一瞬のうちにすべてを知ることができなかったのだろうか。この世の始まりに、なぜ私は来られなかったのだろうか。そう、すべては可能だった。しかし“いかなる強制も許されない”どんな場合でも。強制はいつも秩序に背くものです。神から来るものはすべて秩序の中にある。おまえたちは神の知恵と力くらべする者であってはなりません」

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P339

 

「ユダ、まともな考え方をしろよ。先生はご自分と一緒に残るように、だれにも強制なさらなかった。衆議会が怖いなら、なぜ君は残ったんだ」とアルフェオのヤコボが前のことを思い出させる。

「今でも出て行っていいんだよ。君はここで鎖に縛られているのではない・・・」と、ゼベデオのヤコボが言うと、・・・

 

 

マリア・ワルトルタ/受難の前日/P233

 

主がユダに:

「・・・そうか、では行け。神も人間の意志を強制するようなことはなさらない」

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P24

‘89・10・26

 

主よ? オールのないボートのように感じています・・・

 

私です、花よ、私の道はまっすぐだが狭い、そしてわずかな人しかそれを見い出さない、我が子よ、あなたを矯めるたびに大騒ぎしないように、 たくましくなって もっと多くの実をつけるように矯めている、 実を倍に増やしたい、 何を言おうとしているか分かっている: 「しばしば矯め過ぎる」と言いたいのであろう(*)、 何があなたに最善かを知っている 我が子よ、あなた自身も私に自由を与えたではないか?

 

そうです、私の自由を永久にお捧げしました。

 

捧げたものを用いているのです 霊魂よ、 私に捧げなければ あなたの意志を用いることはない。 信頼しなさい、私は非常に優しい者であるから 常に信じていなさい。 たゆまず 我が子よ 正しい目的のために熱心に仕えなさい、他の霊魂たちを改心させる情熱に燃えていなさい。 小さい者としてとどまり どんな決断をする前にも 常に私の助言を求めなさい、上から助けがいつでも与えられよう ♡

 *私は微笑んでしまいました。

 

4.ヴァッスーラ

 

ヴァッスーラ・神のうちの真のいのち・9巻P186

98・8・12

 

慈悲深くも私の声を聞いて この最も哀れむべき肉から救い出して下さい 私を地上とそれに属するものの虜としていたこの王国から。ここに、私は玉座を前に進み出て、愛の証しとして、私のただ一つの持ちもの、心(*)をお捧げします。ああ、崇むべき花婿よ、私の心を清い心に変容し 神なる、弁護者、聖霊の 神聖な御力によって私を神として下さい。もはや再臨が訪れたように 神が私のうちで輝いて下さるなら、わが霊魂も生きて あなたの三位一体なる神性を 誉め讃えるでしょう。

 *自由意志も。

 

 

.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々1.P307

 

そうです。サタンはあなたたちをより分けるために、罠をしかけるに違いない。私も、あなたたちを救うために、ふるいにかけます。争うものは二人です。サタンと私。その真ん中に、あなたたち。愛と憎しみ、知恵と無知、善と悪との間の決闘が、あなたたちの目前で行われます。あなたたちに対しての邪悪な打撃をかわすためには、私だけで足ります。あなたたちを愛しているから、私が代りに傷つけられるのを引き受け、サタンの武器の前に立ちはだかります。

 

そうはいっても、あなたたちの中の打撃は、あなたたちの自由意志で私の方へ走り寄り、真理と命である私の道によって、自分でかわすべきです。天を望まない人は天国を得られません。キリストの弟子となるにふさわしくない人は、世間の風が吹き飛ばしていく軽い塵みたいなものです。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/5巻中P140/334・3

 

「各自は死んだとき、生存中の行動が欠陥のない知性によって既に書かれていて、それによって裁きが下される。最後の恐ろしい、大きな審判で、人間は再び裁かれる。アダムから、最後の人間まで。彼らはこの世において、自分の自由で何を望んだかによって裁かれる。私自身が、今、神の御言葉、秘跡、愛に値する人、そうでない人を選ぶとすれば―私はそれを神的な権利と能力によってできるのだが―排除される人は、たとえそれが悪魔だとしても、自分の審判のときには、大声で叫ぶだろう、『あなたの御言葉が悪いのだ。は私たちに教えたがらなかったのだから』と。しかし、彼らはそう言うことはできないだろう・・・もしも言うなら、嘘を重ねることになる。それで、彼らは裁かれることになるだろう」と」。

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P102

 

第一の死と第二の死について語られ、その結果として、第一と第二の復活について語られるわけはそこにある。のこの永遠の所有―あなたたちは天国ではを所有し、である―に、人間は己れの意志で到達しなければならない。ちょうど己れの意志で楽園の喪失を欲したように。わたしはあなたたちを助けるが、意志はあなたたちの意志でなければならない。

 わたしは誠実だ。わたしはあなたたちを自由な者に創造し、自由にさせておく。また、もし人間の自由意志に対するのこの敬意を感嘆すべきものだと思うなら、これをもって悪を行わず、これを悪用しないことをいかに本分とすべきか、またなるに対してあなたたちの崇敬と感謝と愛をいかに尽くすべきかがわかるだろう。

 自由意志を悪用、乱用しなかった者に、わたしは言う。『でのあなたたちの住まいは万端整っているし、わたしはあなたたちがわたしの幸福の中にあるようにと、熱く燃えている』と」。

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P169

 

 しかし、わたしが時間をむだにしたと非難することはだれにもできないはずだ。おお、神の子らよ、事実、父の家から遠くさまよい歩くことを選び、時にはあなたたちの神的相続権を神の敵に売り渡しさえしたあなたたちのために、わたしがそれ以上の何を為しえたろうか? 力強いわたしのことだから、悪があなたたちを襲うことを妨げ、わたしの権威に対してあなたたちを善良にすることが出来たはずだ、と言ってはならない。もしわたしがそうしていたなら、あなたたちは歩行者が気づきもせず足で踏みつけて行く道端の草ほどの値うちもないだろう。神の意志に従って播かれた種から生まれた草は、ひとりで生まれ育つ。あなたたちがいと高きものから受けている世話に比べれば、最小限のものしか受けていないのに。草は神から太陽と露とそして少しばかりの土をもらっている。いっぽうあなたたちは、自分を導く知性をもち、自分を照らすための恩寵をもち、自分を律する律法をもち、師としてわたしをもち、救いのためにはわたしの血をもっている。

 わたしはすべてをあなたたちに与えたのに、あなたたちはわたしにごく僅かしか与えず、それもますます少なくなる! 神の忍耐をもって、わたしはあなたたちの面倒をみたのに、あなたたちはいつもわたしに楯突いた。いちばん罪の軽い人たちも、いつも怠惰だった。あなたたちはいつも、すべてをあなたたちのためにしたあなたたちの神に尽くしすぎることを恐れていた。

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P187

 

 しかし、在って在るもの、すなわち完全無欠の知恵は誤りを犯さず、完全に創造されたものを不完全なものにした悪も苦しみも、その創造にはめ込んではいない。それが全知者からもたらされたと決して言ってはならない。それはがすべてのものに、生きとし生ける者に与えたあの行動原則から脱したかった者、また脱しようとした者によってもたらされるのだ。霊的、倫理的、完全な肉体の秩序がもし尊重され、守られていたならば、人間たちは地球を地上の楽園のまま維持したろうし、犯罪前のアダムとエバの幸福な条件でそこに住んでいるだろう。

 

 

 

 

6.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P164

 

人には善悪の違いを見究め、いずれか一方を選ぶ能力が備わっている。つまり、存在という制限に応じて行動する自由があるということだ。そうでなければ、正邪弁別の力をもつことに、何の意味もなくなってしまう。味覚は、甘い苦いの別を伝てくる。選んで食べる自由がなければ、味覚をもつことには意味がない。自由であるというのは、行動するから自由なのであって、何か別なことができるから自由なのではない。

例えば、自分に五十キロの重量を運ぶ力があるとすれば、その全部を運ぶも自由である。かりに、荷物が五十キロを超えていれば、自分の体力をも責任をも超えているので、荷物を運ぶ必要からも解放されている。雇い主はこちらにできる以上のことは求めていないからである。したがって、どちらの場合にも自由がある。だが、自分にできる範囲の仕事をしないでいれば、与えられている力を使わずにいることになるので、自分の欠点と怠慢に対して処罰されることになる。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P164

 

犯罪者の処罰によっては悪も犯罪も消え去らない。そんなことができていたら、今頃すべての刑務所は閉鎖されていただろう。悪者に厳罰を施してもなお、われわれは何の変化もみていないのである。人間一人一人が自由意志を使い、全力を尽くして自らその一掃に当たらない限り、地球上から悪を除くことは決してできない。他人の強制は何の効果もみない。神が犯罪者の手を遮り、嘘つきの口を押さえ給わぬのは、人の自由意志に干渉しないためである。そのようなことを神がされていたら、人間は機械同然と化し、真理を知ることも真理を行なう歓びをもつこともできなかっただろう。歓びは自由意志を使って初めて得られるものである。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P165

 

ある意味で、神に反逆している今の世界は、神に従う者たちを奴隷にしているといっていい。ところが、神の御恵みによって彼らがこの世の呪縛から解き放たれ天に入ったときには、世界そのものが彼らの奴隷と化す。なぜかというと、彼らが世界を創造した者の力とつながったことを、世界が知るからだ。そこで、世界は支配するのではなく、される側になる。神は自らすすんで神を愛し仕える者たちに、永遠の完全な自由をお与えになる。