自由

 

 

真理は汝を自由にする(ヨハネ8・32)

 

 

 

1.天界的なものである自分自身のもの

2.天界の自由・・・真の自由

3.欲するところを歩むこと

4.奴隷

5.霊的な人の自由・・・良心に従って行動すること

6.真理は汝を自由にする

7.自由を与えられている理由

8.許し

9.僕

10.縛られている者

11.全天界を跋渉して無数の真理にまでも達する

12.如何なる悪も人間がたんにそれを考えたという理由から人間に転嫁されはしない

13.主が臨在されるに比例して益々人間は自由となる

14.自由になった鳩

15.自由は 聖霊によって生まれ変わった時に見いだせる

16.シルワン

17.善に対する情愛の中にいる者のみが自由である

18.三種類の自由、即ち、自然的な自由、合理的な自由、霊的な自由がある

 

 

 

 

1.天界的なものである自分自身のもの

 

天界の秘義1937

 

 「彼女の手の下にあなた自身を卑しくしなさい。」これはそれがそれ自身を強制してその至高の権力の中に置かなくてはならないことを意味していることは説明なしに明白である。『自分の自己を卑しくすること』は原語では『苦しめる』ということを意味している言葉により表現されている。『自分の自己を苦しめる』ことは内意では『自分の自己を強制すること』であることは、聖言の極めて多くの記事から認めることができるのであり、また以下の記事の中にとり扱われるであろう。人間は自分自身を強制して善いことを行い、主から命じられていることに服従し、真理を語らなくてはならないのであり、それが『主の御手の下に自分自身を卑しくする』ことであり、または神的な善と真理の至高の権能[力]に自分自身を委ねることであるということは、僅かな言葉では説明できないアルカナを含んでいるのである。

 

 

天界の秘義1937[2]

 

ある霊たちは世におけるその生活の間に、善はことごとく主から発しており、人間は人間自身では何一つ行うことができないと告げられていたため、いかようなことにおいても自分自身を強制しないで、あらゆる努力を停止してしまうことを主義として固持してしまって、事態がそうしたものであるからには、努力は一切空しいものであると考えたのである、それでかれらは直接的な流入がかれらの努力に注がれるのを待って、自分自身を強制して何ら善いことを行わず、何か悪いことが秘かに入り込んでくると、かれらは内から何らの抵抗をも感じなかったため、自分自身をその悪にまた委ねてしまって、そのようなことをすることは許されていると考えるほどにもなったのである。しかしこれらの霊はいわば自分自身のものであるものを欠いているようなものであって、それでいかような事柄に対しても決定権をもっておらず、それでさらに無益な者らの間にいるのである、なぜならかれらは悪によっても善によっても同じように導かれるままになり、悪から非常な苦しみを受けるからである。

 

 

天界の秘義1937[]

 

しかし自分自身を強制して悪い誤っているものに抵抗した者たちは―最初かれらはそれはかれら自身からまたはかれら自身の力から発していると考えたけれど、その後明るくされて、かれらの努力は、その努力の個々のあらゆるもののうちで最小のものさえも主から発していることを認めたのであるが―これらの者は他生では悪霊らにより導かれるはずはなく、幸福な者たちの間にいるのである。かくてわたしたちは人間は自分自身を強制して善いことを行い、真のことを言わなくてはならないことを認めることができよう。ここに含まれているアルカナ[秘義]は人間はこのようにして主から天界的な自分自身のものを与えられるということである、なぜなら人間のこの天界的な自分自身のものは人間の思考の努力の中に形作られるのであり、もし(外観ではそうであるように)かれが自分自身を強制することによってこの努力を持続しないなら、かれは自分自身を強制しないことによって必ずそれを持ち続けはしないからである。

 

 

天界の秘義1937[]

 

いかようにしてこのようになっているかを認めるために、以下のことを観察されたい、すなわち、良いことにむかって自己を強制することそれ自身の中には或る自由が存在しており、それはその人間がそのように自己を強制している間は自由としては識別されはしないが、しかしそれでも自由がその内に存在しているのである。例えば、ある目的のために死の危険をも進んで受けようとしている者の中には、または健康のために身体の苦痛を進んで受けようとしている者の中には、その人間の行動の源泉となっている意欲と一種の自由とが存在しているのである―たとえその危険とその苦痛は、かれがそれをなめている間は、かれにその意欲を、または自由を認めさせはしないにしても。自分自身を強制して善いことを行う者たちの場合もまた同じである、すなわち、内部に意欲が存在しており、かくて自由が存在していて、そこからまたそのためにかれらはかれら自身を強制するのである、すなわち主が命じられたものに対する服従のために、また死後のかれの魂の救いのためにかれらはかれら自身を強制するのであって、その内には、たとえその人間には知られてはいないものの、さらに内的に主の王国に対する顧慮が、また主御自身にさえ対する顧慮が存在しているのである。

 

 

天界の秘義1937[]

 

これがとくに試練の間の実情である、なぜならこの試練の中には―その人間が自分自身を強制して悪霊らにより注ぎこまれ、暗示される悪と誤謬に対抗するときは―試練からは自由であるいかような状態におけるよりもさらに多くの自由が存在しているからである、たとえそのときはその人間はそのことを把握することはできないにしても。なぜなら内的な自由があって、この自由からかれは悪を征服しようと欲しており、またその自由はかれを襲っている悪の力と強さとに匹敵するほどにも大きなものであるからである、なぜならもしそうでないならかれは決して争闘を交えることはできはしないからである。この自由は主から来ており、主はそれをその人間の良心の中にひそかに注がれて、それによってかれにその悪をかれ自身のものから征服するものとして征服させられるのである。この自由を通して人間はその中に主が善いことを行われることができるところの自分自身のものを獲得するのである。自分自身のものが自由を通して獲得されないならば、すなわち、与えられないならば、人間は良心である新しい意志を受けることができないため、決して改良されることはできはしないのである。このようにして与えられた自由はその中へ主から善と真理とが流入することができる面そのものなのである。かくて試練にあって自己自身の意志からまたは自由の中に抵抗しない者らは敗北してしまうのである。

 

 

天界の秘義1937[]

 

自由そのものの中に、人間の愛があるため、人間の生命が存在している。人間が愛から行うものは何であれかれには自由なもののように思われている。しかしこの自由の中には、その人間が自分自身を強制して、悪いまた誤ったものに抵抗し、善いことを行うときは、展開の愛が存在しており、主はそれをそのときひそかに注ぎ入れられて、それを通してその人間の自分自身のものをつくられるのである、それで主は、それがその人間のものではないけれども、その人間にはその人間のものとして考えられるように望まれているのである。人間がその身体の生命の間にこのようにして外観的には[外面的には]強制的なものであるものを通して受けるこの自分自身のものは他生において主により無限の歓喜と幸福とをもって満たされるのである。こうした人物はまた徐々に明るくされて以下の真理を認め、また確認もするのである、すなわち、かれらはかれら自身ではかれら自身を些かも強制はしていないのであり、かれらの意志の努力のあらゆるものは、その最小のものでさえも、主から発しており、それがあたかもかれら自身から発しているかのように思われる理由は、新しい意志がかれら自身のものとして主からかれらに与えられるためであり、そのようにして天界的愛の生命がかれらに所有されるためである。なぜなら主はあらゆる者に御自身のものであるものを伝達しようと望まれており、それで主は天界的なものは人間のものではないけれどその人間のものとして現われるようにまた人間の中に現れるように、それを伝達しようと望まれているからである。天使たちはこうした自分自身のものの中にいるのであり、かれらは善と真理とはことごとく主から発しているという真理の中にいるに比例して、この自分自身のものの歓喜と幸福の中にいるのである。

 

 

天界の秘義1937[]

 

しかし善と真理とをことごとく軽蔑し、斥け、自分の欲念と議論に反発するものを一つとして信じようとはしない者らは自分自身を強制することはできないのであり、かくして良心のこの自分自身のものを、または新しい意志を受けることはできないのである。右に述べたことから自分の自己を強制することは強制されることではないことも明白である、なぜなら人間が他の者から強制されて善いことを行うときのように、強制からはいかような善も決して生まれはしないからである、しかしわたしたちが今考察している場合では、その自己強制は、主からは全く強制は決して発していないからには、人間には知られていない或る一種の自由から来ていることは明白である。ここから善い真のものはことごとく自由の中に播種されるという普遍の法則が発している、なぜならもしそうでないなら土地は善いものを決して受けて育むことはできないのであり、事実その中で種子が成長することができる土地は存在しないからである。

 

 

天界の秘義5660[]

 

 天界的なものである自分自身のものについては、それは主から与えられる新しい意志から生まれており、人間の自分自身のものとは以下の事実により相違しているのである、すなわち、それを持っている者たちはその行う一切の物の中に、またその学び、または教える一切の物の中にもはや自分自身を求めはしないで、そのときは社会、教会、主の王国を求め、かくて主御自身を求めるのである。変化するものは生命の目的なのである。低い物を、すなわち、自己と世とを求める目的は遠ざけられ、高いものを求める目的がそれに取って代るのである。生命の目的とはその人間の生命そのもの以外の何ものでもないのである、なぜなら人間はその愛するものを欲し、その目的とするため、その目的はかれの意志と愛そのものであるからである。天界的なものである自分自身のものを与えられている者はまたおだやかで平安である、なぜならかれは主を信頼し、悪いことは何一つ自分にはふりかかりはしないと信じており、欲念も自分にとりついて自分を悩ましはしないことを知っているからである。さらに天界の自分自身のものの中にいる者たちは自由そのものの中にいるのである、なぜならかれらは主により、善の中に導かれ、善から善へ導かれるからには、主により導かれることは自由であるからである。このことからかれらは祝福と幸福の中にいることは明白である、なぜならかれらを乱すものは何一つなく、自己愛は何一つなく、従って敵意、憎悪、復讐は何一つなく、世への愛もなく、従って詐欺、恐怖、不安も何一つないからである。

 

 

2. 天界の自由・・・真の自由

 

天界の秘義2870−2893

 

人間の自由について

 

 

天界の秘義2870

 

 僅かな者しか自由とは何であるか、自由がないということは何であるかを知っていない。何らかの愛と歓喜とに属しているものはすべて自由であるように見え、そうしたものに反したものは自由でないことのように見える。自己を求める愛と世を求める愛とに属し、そうした愛のいくたの欲念に属しているものは、人間には自由のように見えるが、しかしそれは奈落の自由であり、他方主に対する愛と隣人に対する愛に属しているものは、従って善と真理との愛に属しているものは自由そのものであって、天界の自由である。

 

 

天界の秘義2872

 

 しかし天界的自由[天界の自由]は主から発しているものであり、諸天界の天使たちはことごとくその中にいるのである。前に言ったように、これは主に対する愛と相互愛との自由であり、かくて善と真理を求める情愛の自由である。この自由の性質は以下の事実から認めることができよう、すなわち、その中にいる者はことごとく最も内なる情愛からその者の祝福と幸福とを他の者に伝達し、その者がそれを伝達することができることが祝福と幸福なのである。天界全体はこのようなものであるため、各々の者があらゆる形の祝福と幸福との中心となっており、またこれらのものはことごとく同時に各々の天使にぞくしているということが生まれてくるのである。伝達それ自身は、主により、天界の形であるところの、把握できない形をとった驚嘆すべきいくたの流入により行われている。このことは天界的自由とはいかようなものであるか、またそれは主のみから発していることを示している。

 

 

天界の秘義2892

 

 善の中に生きて、主は宇宙を統べ治められており、愛と仁慈とに属した善はことごとく、また信仰に属した真理もことごとく主のみから発していることを信じ、いな、生命は主から発しており、かくて主から私たちは生き、動き、存在を得ていると信じている者は、天界の自由を与えられ、それとともに平安を与えられることができる状態の中にいるのである、なぜならそのときかれはひたすら主のみを真理し他の事柄を思い煩わないで、あらゆる事柄はかれの善と祝福と幸福に永遠に向っていると確信しているからである。しかし自分が自分自身を治めていると信じている者は絶えず取り乱しており、いくたの欲念の中へ未来の事柄に関わる心労へ、かくて種々の不安の中へ拉し去られて行くのである、またかれはそのように信じているため、悪の欲念と誤謬の信念もまたかれに密着しているのである。

 

 

天界の秘義5428[3]

 

しかしもしかれらが以下のように話されるなら、すなわち、天使の自由と呼ばれている真の自由は全くこのようなものではなくて、それは自己からは何一つ欲しなくて、主から一切を欲することにあり、また自己からは何一つ考えなくて、凡てを天界から考えることにあり、そこから天使たちはもし自分自身から考え、欲することを許されるなら、憂いと悲しみとにうちひしがれてしまうであろう、と話されるなら―そのこともまた承認されはしないのである。

 

 

天界の秘義5763

 

「それがそのもとに在ることが判明した者はわたしの僕となり」。これは、それがそのもとに在る者は永久にその者自身の自由を持ちはしないということを意味していることは、『僕』の意義から明白であり、それは(前の5760番のように)自分自身の自由を持たないということである。実情は以下のごとくである。ヨセフの命令によりベニヤミンのもとにおかれたその銀の杯は、内的な真理を意味しているのである(5736、5747番を参照)。内的な真理の中にいる者は、真理と善とは凡て主から発していることを知り、また自分自身のものから、またはその人間自身から発している自由は凡て奈落のものであることを知っているのである、なぜなら人間はその人間自身の自由から何ごとかを考え、または行うときは、悪意外には何ごとも考えはしないし、また行いもしないからである。従ってかれは悪魔の僕である、なぜなら悪は凡て地獄から流れ入るからである。かれはまたそのような自由に歓喜を感じている、なぜならそれはかれがその中にいて、またその中へ生まれてきた悪と一致しているからである。それゆえ自分自身のものから発しているこの自由が脱ぎ棄てられ、代って善いことを欲し、そこからその善いことを行い、また真のことを欲し、そこからそれを考えることから成っている天界の自由を着けなくてはならないのである。人間はこの自由を受けると、主の僕となり、そのときは自由そのものの中にいて、以前かれがその中にいて、自由のように見えたところのその奴隷の状態にはいないのである。それゆえこれが永久に自分自身の自由をもたずにいるということにより意味されていることである。(自由の性質と源泉とは前の2870−2893番に、また自由そのものは主からにより導かれることであるということは2890番に見ることができよう)。

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・5・3

 

愛は自由であることを望み、あらゆるこの世の欲望から離脱しようとする。それは、これによって心の目がくらまされず、一時の利益に気を取られたり、艱難にくずおれたりしないためである。

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・5・4

 

愛する者は、飛び、走り、喜び、自由であって、束縛されない。

そういう人は、いっさい[なる神]を得るために、いっさいを捨て、いっさい[なる神]の中にいっさいを所有している。というのは、万物を超越して、万善の源なる唯一最高のお方に安んじているからである。

そういう人は、与えられた物に重きをおかず、その与えられた物がなんであろうと、それにはかまわず与え主[なる神]に心を向けるのである。

 

 

マリア・ワルトルタ/受難の前日/P110

 

 「金持ちが天国に入るのは、何と難しいことか!その門は狭く、その道は険しい。富の大荷物を背負っている人はそこに歩み入ることはできない。そこに入るには、物質的なものではない徳の宝を持つことが必要であり、あるいは、この世の空しいものから離脱することを知らねばならない」

(中略)

 

「人間にできないことでも、神にはおできになる。神は全能なのだから。人間の方としては、善意をもって“主を助ける”それだけでよい。受けた助言を聞き入れ、この世の富から自由になるように努力する。これが善意の努力です。“神に従うために、全く自由になること”です。

 

 人間の真の自由とは何かと言えば、次のように言えます。『神が人の心にささやかれるその声と命令に従い、自分自身と、世俗または人間の思惑の奴隷、つまりサタンの奴隷にならないように努力することです。神が人間に与えてくださった最上の賜物、すなわち選択の自由意志を用いて、自由にただ善だけを望めば、光りにあふれる自由な、幸せな、永遠の生命に到達できます』

 自分の生命に対してすら奴隷であってはなりません。この世の生命を保つために、神に背かねばならないようなことがあれば、これについては、すでに皆に語った通りです。

『私への愛にために、神に仕えるために自分の生命を捨てる者は、永遠のためにその生命を救うのである』と」

 

 

3.欲するところを歩むこと

 

天界の秘義9212

 

 「欲するところを歩むこと」・・・自由に生きること

 

主に対する愛と隣人に対する仁慈から信仰の中にいる者たちは主により導かれているため、自由の中に生き、または自由から行動するからである。

892,905,2870−2893、6325,9096

 

 

霊界日記3786

 

人は自分自身が自由であると考えるに比例して自由でなくなることについて

 

4.奴隷

 

天界の秘義8993

 

 自己への愛から、または世への愛から発しているものはすべて自由ではなくて奴隷である。

892,905,1947、2870−2893、6205

 

 

天界の秘義9096

 

 主から導かれることは自由であり、地獄から発している欲念により導かれることは奴隷の状態であること

892,905,2870−2893、6205,6477,8209

なぜなら主は善に対する情愛と悪に対する嫌悪とを植えつけられるからである。

 

 

天界の秘義892

 

 人間は再生するとそのとき始めて自由の状態に入るが、それ以前は奴隷の状態にいるのである。諸々の欲念と誤謬とが支配している時は奴隷であり、善と真理との情愛が支配している時は自由である。それがいかようなものであるかは、人間は奴隷状態にいる限りは決して認めないが、自由の状態に入ったときにのみ認めるのである。かれは奴隷状態にいる時は、すなわち、いくたの欲念と誤謬とに支配されている時はそれらに服従している人間は自分は自由の状態にいると考えているが、しかしこれは非常な誤謬である。なぜならかれはその時いくたの欲念とその快楽の歓喜により、すなわちそのいくたの悪の歓喜により拉致され、これが歓喜によって行われるため、それが自由であるとかれには見えるからである。

 

 人は各々何らかの愛により導かれていて、それが何処であれかれを連れ去って行く所に従って行く間は自分は自由であると考えているが、しかしかれを連れ去りつつあるものは悪魔的な霊どもであって、かれはその仲間の中にいわばその奔流の中におかれているのである。

これをその人間は最大の自由と考え、この状態を失えば自分は最も悲惨な生命に、実に死にも陥ると信じているほどにもなっているが、かれがこうしたことを信じているのは、かれが他の生命の存在を全く知らないためばかりではなく、何人も悲惨、貧乏、快楽の喪失によらなくては天界に入ることはできないという印象の下におかれているためである。

 

 人間は再生し、善い真のものを求める愛を通して主により導かれないうちは決して自由の状態へは入らない。かれはこの状態におかれたとき始めて自由の何であるかを知り、また認めることができるのである。それはかれはそのとき生命の何であるかを、生命の真の歓喜の何であるかを、幸福の何であるかを知るからである。それ以前はかれは善の何であるかを知りさえもしておらず、時として最大の悪を最大の善と呼びさえもするのである。 主により自由の状態におかれている者は欲念と誤謬との生活を見る時に、ましてやそれを感じるとき、地獄が眼前に開くのを見る者のようにそれを嫌悪するのである。

 

しかし自由の生命の何であるかは大多数の者には全く知られていないため、ここにそれを簡単に定義づけよう。自由の生命は、または自由は主によって全く、また専ら導かれることである。しかしこれが自由の生命であることを人間は多くのものに妨げられて信じることができないため、それを信じることができないのは人間が悪魔的な霊どもの支配から自由にされるために起きる試練を受けるためでもあり、また人間は自己と世を求める愛から発した欲念の歓喜以外の歓喜を何ら知らないためでもあり、また同じく人間が天界の生命の凡ゆる事柄について誤った考えを抱いているためでもあり、かくて人間は説明的な記事によっては生きた経験によるほど充分に教えられることができないため、主の神的慈悲の下にわたしたちは今後そうした経験を引用しよう。

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスの受難/P11

 

ラザロ:「まさか!敵はいるにはいるが、それにしてもあなたを売るなどと!一体、だれが」

主:「私の弟子の一人です。私にだれよりも一番幻滅を感じ、待つことにも疲れ、自分自身にとって危険なものでしかないと知って、その人を排除したがっています。そうすれば、己がもっと評価される人物になると考えている。実際、彼は善人の世界からも、悪人の世界からも軽蔑されるに他ありません。彼がねらっていたのは現世における地位でした。それも初めは神殿に求め、後にはイスラエルの王を通して手に入れようと計ったが、いまはその望みも失い、神殿で新たにローマ人らに期待している・・・。だが、たとえローマが忠実な下僕たちにふさわしい報いを与えたとしても、下劣な密告者は軽蔑してかかとで踏みにじるに違いない。彼は私に倦んでいます。期待しながらも善人を装うという重荷にもうこれ以上耐えられない。もともとが悪人である者にとって“善人のふりをすること”は、圧しつぶされるほどの重荷になります。しばらくは耐えられるかもしれないが、そのうちたまらなくなり、自由になるためにそれを振りほどこうとします。自由!?と悪人たちが錯覚し、彼もまたそう考えているが、それは本当の自由ではありません。

 “神のものであること、これこそ自由です。神にそむくことは足を絞めつける鎖、おもりと鞭の奴隷で、建築に使われる奴隷、船漕ぎに使われる奴隷でさえもそれは耐えられない”」

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P151

 

♡ 私 主が 自由とは何かを教える ♡♡ 書きなさい。

自由とは あなたの霊魂がこの世の思い煩いから離れて 私のほうに向って、私のもとにまで飛んでくる時に与えられ ♡ 私、神が訪れて、あなたを解放した、今あなたは自由です。 あなたが地上のものに心ひかれていた時は、ヴァッスーラ、そのあらゆる誘惑の虜だった ♡ 、しかし あなたの霊魂は 今では鳩のように解き放たれている、あなたは檻に入れられていた、愛する者よ。檻の中に。 霊魂を自由に飛び立たせなさい、私がすべての霊魂に与えたこの自由を 魂が感じるようにさせなさい しかし彼らの何と多くが 与えたこの恵みを断わっていることか。 もう二度と捕えられ、繋がれて檻に入れられてしまわないように、あなたを自由にしたのです ♡ 私は通りかかって、あなたが檻の中で、ゆっくりと枯れてゆき死にかけているのを見た ヴァッスーラ、私の心がこれを見て あなたを贖わずにいられようか? 私は来て 檻を打ち破った、しかしあなたは自分の羽根を使うことができなかった、それほど傷つき弱っていて。 そこで私の住いまで担いで行き 傷をそっと癒し 再び飛べるようにした、そして今では我が小さな鳩が自由に飛び回り 初めからいるはずだった住いにいるのを見て 私の心は深く歓んでいる。(*)

 

    イエスは大きく息を吸い、あふれる喜びを胸にこう言っておられるのでした。

 

私、主は、あなたを自由にした、あなたを回復させ、あなたのみじめさから解放した、私の眼はあなたから離れることがない、我が鳩が自由に飛んでいるのを視ている いつでも私のもとに戻ってくると知りつつ、もうあなたは救い主 を見分けられ 霊魂は私の暖かさを必要としている そして住まいは前からずっと私が願っていたように我が心の真ん中にあることをもう知っている。あなたは今や私のもの 私はあなたを愛する師です。

 

スイスへ行くことが思い出されました。私はそこで変わってしまうのではないかと恐れています・・・

 

ヴァッスーラ あなたが二度と自分を汚すようなことはさせない。

♡ 恐れないように、いつもそばにいて あなたを浄くする。私には あなたがそこに行く私なりの理由があるのです。

 

私は、神の理由を考えようとしていました。それから、お尋ねしました。

 

私は 我が種子がヨーロッパで蒔かれることを望んでいる。私の種蒔きになりなさい ヴァッスーラ、私を傷つける人びとの間で ヴァッスーラ 暮らしなさい、あなたの眼ですべてを見て 私の造った者たちがどうなってしまったかを観察し、この者たちが私をいかに大切にしていないかを心で感じなさい。 あなたの耳で この者たちが私をいかに冒瀆し 傷つけているかを聞きなさい。 私の民がいかに私を忘れてしまったかを見て 理解したなら、あなたの霊魂は反感を覚えずにいられようか? 私のために叫ばずにいられようか? ヴァッスーラ あなたの霊魂は邪悪な世に、無関心さに、罪悪の淵に、そして、罪の汚れた深みの前にさらされる。 上を飛ぶ鳩のように この世を観察し、一つ一つの行為を 苦しみのうちに眺めるであろう。あなたは私の生けにえとなり、私のために標的となる。 獲物を追う狩人のように世の人びとはあなたを追い求め、自分たちの武器を取り出しては追いつめる、あなたを破滅させられる人に渡そうと 高い値をつける ♡

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P210

 

自由になるとは この世的な気づかいから霊魂を引き離すことです。 あなたの霊魂を開け放ち 私と私のわざを愛しなさい ♡ このよな仕方で私に仕え、自分をすべてから引き離しなさい ♡

 

きっと私にとっては困難でしょう、わが主よ。

 

lo(おや。)(*)

 

loはヘブライ語で「ノー」(no)という意味。

 

そうなのです、わが主よ。私には困難が見えています。

 

♡ lolo 私のそばにいなさい ♡

 

主をがっかりさせ、お望みを裏切るのではと恐れています。

 

恐れることはない 愛する者よ 私を愛しなさい、

 

私は主を感じ、主を大切に思いました。

 

愛には愛を、今のように愛し、今のようなやり方で 私に仕え、在りのままでいなさい、愛が最も必要とされるところで仕えることのできる下僕を 私は必要としている。 しかし懸命に働きなさい 今いるところは、悪と、不信仰者たちの間、罪の汚濁のどん底にいるのです。 あなたは暗やみが支配するところで 神に仕えるであろう。 あなたは安まらない。 あらゆる善が悪に変えられてしまったところで、私に仕えよ、そう。 みじめさのさ中、この世の悪と罪の中で 私に仕えなさい、神を持たない人たち、私を侮り、心を突き刺す人たち、私を非難する人びとの間で仕えなさい、私を鞭打ち、陥れる者たちの間で仕えなさい、私を再び十字架に磔け 唾吐く者たちの間で私に仕えなさい、ああ ヴァッスーラ どんなに苦しいか! 来て 慰めてくれるように ♡

 

 

5.霊的な人の自由・・・良心に従って行動すること

 

天界の秘義918

 

「箱舟を出た。」これはまた自由の状態を意味していることは箱舟から出ることについて前に(16節に)言ったことから明白である。

 霊的な人の自由の性質はかれが良心を通して主により支配されていることを考察することから明らかになる。良心により支配される者は、または良心に従って行動する者は自由に行動する。かれにとって良心に反して行動する以上に不愉快なことはない。良心に反して行動することはかれには地獄であるが、しかし良心に従って行動することはかれには天界であり、このことからたれでも良心に従って行動することが自由であることを認めることができよう。主は善い真のものの良心を通して霊的な人間を支配され、そしてこの良心は、既に言ったように、人間の理解の内に形作られ、かくてその意志に属したものから分離されている。そしてそれは意志に属したものから全的に分離されているため、人間は人間自身では善いことは何ら決して為さないことは極めて明らかである。そして信仰の真理はことごとく信仰の善から発しているからには、人間は人間自身からは真の事柄は何一つ決して考えないのであり、これは主のみから発していることは明白である。かれがこれらのことを自分自身から為しているように見えるのは単に外観に過ぎないのであり、それがそうであるため、真に霊的な人間はそのことを承認し、また信じている。このことから主により霊的な人間に与えられた良心は謂わば新しい意志であり、かくて新しく創造された人間は新しい意志を与えられ、またそこから新しい理解を与えられることが明白である。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・21・2

 

潔白な良心と神を畏れ敬う心とがなければ、ほんとうの自由も清い喜びもない。心を散らすあらゆる妨げを除き、精神を統一してとうとい痛悔を起こすことができる人は幸いである。

すべて良心をけがしたり、苦しめたりすることを斥ける人は幸いである。

勇ましく闘え。習慣は習慣をもって破ることができる。

もしあなたが人々のすることにかまわないならば、人々もあなたのしようとすることを妨げないだろう。

 

 

中山みき/天理教経典P66

 

自由自在(じうようじざい)は、何処(どこ)にあると思うな、めんめんの心、常々に誠(まこと)あるのが、自由自在という。

 

 

天界の秘義3463[2]

 

なぜなら専ら信仰の教義的な事柄の中にいて、その教義に従った生命の中にいる者たちは、一種の連結を持ってはいるが、しかしそれは遠い[軽微な]連結であるが、それは以下の理由によっているからである、すなわち、かれらは隣人に対する仁慈の何であるかをいかような情愛からも知ってはおらず、ましてや主に対する愛の何であるかを知ってはおらず、たんにそのことを信仰の或る一種の観念からのみ知っているにすぎず、かくてかれらはまた何ら善を認識もしないで、かれらの教義的なものを確認するときは、かれらは真のものであるものの中にいると等しく誤っているものの中にもいる可能性があるのである、なぜなら善を除いては何ものも人間に真理の何であるかについては確認させはしないからである。

 

真理は実に善の何であるかを教えはするが、しかしそれを認識させはしないに反し、善は真理の何であるかを認識から教えるからである。

 

 

[3]

 たれでもこうしたことはいかようになっているか、またその相違の性質と特質とはいかようなものであるかを、たんに以下の仁慈にかかわる普通の教えからでも知ることができよう―

 

何であれ、あなたたちが人が自分にしてくれるように願うことはことごとく、あなたたちもそのように人にしてやりなさい(マタイ7・12)。

 

 この教えから行動する者は他人に善いことを実際為しはするが、しかしそれはそのように命じられているからであり、かくてそれは心の情愛から発しているのではない、かれはそれを行うときは常に、自分自身から始め、また善を為すにさいし、功績を考えているが、これに反し教訓から行動しないで、仁慈から、すなわち、情愛から行動する者は、心から行動するのであり、かくて自由から行動しており、かれが行動する時は常に、善いことを真に意志することから始めるのであり、かくてそれが自分に歓ばしいという理由から始めるのであり、かれはその歓びの中に報酬を得ているため、功績を考えはしないのである。

 

 

[4]

 それでこのことから信仰から善を行うことと仁慈から善を行うことの間の相違のいかようなものであるかが認められることができるのであり、また、信仰から善を行う者は仁慈から善を為す者よりも主である善そのものから遠ざかっていることが認められることができるのであり、前の者はまた真理の中には極めて僅かしかいないため、仁慈の認識するほどにその中へは容易に導き入れられることもできないのである、なぜならたれ一人真でないものが先ず根絶されない限り、この善へ導き入れられることはできないからであり、そのことはこのようなものが[真でないものが]根を下ろして確信されてさえいる間はありえないからである。

 

 

6.真理は汝を自由にする

 

真理は汝を自由にする(ヨハネ8・32)

 

 

7.自由を与えられている理由

 

天界の秘義1712

 

 「かれはかれらにむかって夜かれ自身を分けた」。これはその外観的な諸善と諸真理とがその中にあった蔭[物陰]を意味していることは『夜』の異議が陰の状態であることから明白である。その善と真理とが外観的なもの[外面的なもの]であるが、それとも純粋なものであるか、が判然としないときは陰の状態があると言われている。たれでも外観的な善と真理との中にいるときは、かれはそれらのものが純粋な善と真理であると考えており、外観的な善と真理との中に存在している悪と誤謬とは陰を生み出すものであって、それらのものが純粋なものであるように外観的に見せるのである。無知の中にいる者たちは、その者たちが行う善はその者たち自身のものであり、その者たちの考える真理もその者たち自身のものであるとしか考えていないのであり、それは自分の行う善を自分自身に帰して、その中に功績をおき、そうした場合はそれは善のように外観的に見えはするものの、それは善ではないことを知っておらず、その者たちがその中においているその者たち自身のものと自己功績とはあいまいにし、暗くする悪と誤謬であることを知っていない者たちの場合も同じである。

 

 

 

天界の秘義1712[2]

 

その中にかくれている悪と誤謬との種類と大きさとは身体の生命の中では他生におけるほどよくは到底認められることはできないのであって、他生ではそれらは明るい光の中にあるように目に示されているのである。しかしもしこのことが確認されていない無知から為されているなら事情は異なってくるのである、なぜならそうした場合それらの悪と誤謬とは容易に消散するからである。しかしもし人々が自分たちは自分たち自身の力により善を行って、悪に抵抗することができるのであり、かくして自分たちは救いに価しているという信念を確認するならば、そうした場合こうした考えが付着していて、そのためその善は悪となり、その真理も誤謬となるのである。しかしそれでも人間が自分自身から善を行うものとして善を行うことが秩序に順応しているのであり、それゆえ『もしわたしはわたし自身から善を何一つ行うことができないなら、わたしは直接的な流入を待っていなくてはならない』と考えて、手をゆるめてはならないのである、なぜならそれは秩序に反するからであって、かれはかれ自身から善を行うものとして善を行わなくてはならないのである、それでも、かれはかれが行うところの、または行ったところの善を反省するときは、かれは主がかれの中にその業を行われたことを考え、承認し、また信じもしなくてはならないのである。

 

 

 

天界の秘義1712[3]

 

もしかれが今言ったように考えて、その手をゆるめるなら、そのときはかれは主がその中へ働きかけられることができる主体ではなくなるのである。主は力がその中へ注ぎこまれることができるものをことごとく自分自身から剥ぎとってしまう者のもとへは流入されることはできないのである。それは恰も人がその者自身に啓示がなくては何ごとも学ぼうとはしないものであり、または人がその者の中へ(他の者を)教える言葉が入れられないかぎり、何一つ教えようとはしないようなものであり、または人が意志をもたないものとして活動するようにしむけられないかぎり何ごとも試みようとはしないようなものである。しかしもしこうした事柄が行われるなら、かれは自分が生きていないもののようなものであるということにさらに憤慨することであろう。それでも人間の中に主により生かされているものは恰もそれがその人間自身から発しているかのように外観的には見えるのである。かくて人間は人間自身から生きてはいないものの、もし人間が人間自身から生きているように見えないなら、人間は全く生きることはできないということが永遠の真理なのである。

 

 

 

天界の秘義3145

 

「そのらくだを解いた」。これは仕えねばならなかったそれらのものに対する自由を意味していることは以下から明白である、すなわち、『解くこと』の意義は自由にすることであり、『らくだ』の意義は(すぐ前の3134番のように)全般的な記憶知であり、かくて仕えねばならなかったものである。この間の真の実情は以下のようである、すなわち、自由がないなら自然的な人の中には真理は生まれないのであり、また真理を自然的な人から合理的なものの中へ呼び出して、そこで善と連結させることもできないのである。これらのことはすべて自由な状態の中に起るのである、なぜなら自由を生み出すものは善から発した真理に対する情愛であるからである。真理が情愛から学ばれないかぎり、かくて自由の中に学ばれないかぎり、それは植付けられはしないのであり、ましてや内部へ高揚されて、そこに信仰とはならないのである。改良はことごとく自由の中に行われ、自由はことごとく情愛のものである[情愛に属している]こと、また人間は人間自身から、人間自身のものであるものから真理と善とに感動し、それにより再生するために、主は人間を自由の中に保たれることは、前に見ることができよう(2870−2893番)。これが『らくだを解くこと』により意味されていることである、なぜならもしらくだがそのような事を意味しなかったならこれらの細目は記録されるには余りに些末なことであろうから。

 

 

 

天界の秘義3158[]

 

 たれでも、もし考えてみさえするなら、いかようなものでも、もしそれがその人間の意志から発していない限り、決してその人間のものとしてその人間のものにはならないことを知ることができよう、たんに理解に属しているにすぎないものは、それがまた意志のものとならない中は、人間のものとはならないのである、なぜなら意志に属しているものは人間の生命の存在を構成しているが、理解に属しているものは、そこから派生したかれの生命の発生したものを構成しているからである。理解のみから発している同意は同意ではなく、同意そのものは意志から発している、それで理解に属している信仰の真理が意志に属している愛の善により受け入れられない限り、それは些かも承認された真理ではなく、かくてそれは信仰ではないのである。しかし真理が意志に属している善により受け入れられるためには、自由な状態が存在することが必要である。意志に属しているものはことごとく自由なものに思われる、意志する状態そのものが自由である、なぜならわたしが意志する[欲する]ものを、わたしは愛し、善として承認しているため、それを選び、またそれを切望するからである。このすべては以下のことを示している、すなわち、信仰に属している真理は、それが意志により受け入れられない中は、すなわち、それがそこに在る善へ導き入れられて、その善に連結しない中は、決して人間のものとはならないのであり、このことは自由な状態にいない限り遂行されることができないことを示しているのである。

 

 

天界の秘義3854

 

いかような善も人間の自由の中に植えつけられないかぎり植えつけられることができない。

 

 

天界の秘義4031[2]

 

 真理と善との連結はすべて自由の中に、または自発的なものから行われ、従って改良と再生もことごとくそのように行なわれることは前に引用した記事から認めることができ(4029番)、従って自由が欠けているさいには(すなわち、強制によっては)いかような連結も行なわれることはできないし、かくて再生も行なわれることはできないのである(自由とは何であるか、それは何処から発しているかは前の2870−2893番に見ることができよう、そこには人間の自由がとり扱われているのである)。主の摂理、人間の救い、多くの者が地獄に堕ちることについても論じつつも、人間の自由によらなくては真理と善のいかような連結も、善と真理のいかような獲得も行なわれることはできないし、かくて再生も行なわれることはできないことを知らない者は、自分自身を蔭そのものの中へ投げ込み従って重大な過誤の中へ投げ込むのである。なぜなら彼は以下のようなことを考えるからである、すなわち、もし主が欲しられるなら主は凡ゆる者を救われることができるのであり、しかもそのことを無数の方法により行われることができるのである、例えば奇蹟により、死人が甦ることにより、直接的な啓示により、天使たちが公然たる強い力により人間を悪から遠ざけて、善を為すように強制することにより、また多くの状態により―その状態へ入れられると人間は悔改めを行なうのであるが―その他多くの手段により行なわれることができるのであると考えるからである。

 

 

 

天界の秘義4031[3]

 

 しかしかれはこれらの手段はすべて強制的なものであって、たれ一人それによっては到底改良されることはできないことを知らないのである。なぜなら何であれ人間を強制するものはことごとく人間にいかような情愛も与えはしないし、またはもしそれがそれを与えるような性質のものであるなら、それはそれ自らを悪の情愛に結びつけるからである。なぜならそれは何か聖いものを注入するように見え、それを注入さえもするのであるが、しかしその人間の状態が変わると、かれは以前の情愛へ、すなわち、悪と誤謬へ帰ってしまい、そのときはかの聖いものはそれ自らを悪と誤謬とに連結させていて、冒涜的なものとなり、そのときは凡ての中でも最も痛ましい地獄へ導き入れる性質のものとなるからである。なぜならその人間は先ず承認し、信じ、また聖いものに感動し、次にそれを否定して、嫌忌さえするからである。(一度心で承認し、後に否定する者らは冒涜する者であるが、心で承認しなかった者たちは冒涜はしないことは前の301−303、571、582、593、1001、1008、1010、1059、1327、1328、2051、2426.3398、3399、3402、3898番に見ることができよう)。こうした理由から現今では公然たる奇蹟は行なわれはしないで、公然ではない、または顕著なものでない奇蹟が行なわれるのであり、それは聖いものの感じを吹き込んだり、または人間の自由を取り去ったりはしないようなものであり、それで死人は甦りはしないし、人間は直接の啓示により、または天使により悪から遠ざけられはしないのであり、または公然たる力により善へ動かされはしないのである。

 

 

 

天界の秘義4031[4]

 

 人間の自由はその中で主が働かれ、またそれによって人間をたわめられるものである、なぜなら自由はすべて人間の愛または情愛のものであり、それでかれの意志のものであるから(3158番)。もし人間が自由の中に善と真理とを受け入れないなら、それはかれの所有するものとなり、またはかれのものとなることはできない、なぜならたれでもそこへ強制されるものはその者のものではなくて、強制する者に属しているからである、なぜならそれはかれにより為されはするけれどかれはそれをかれ自身で為しはしないからである。時には人間は試練や霊的な争闘の場合のように善へ強制されるかのように見えはするが、しかしかれはその時は他の時よりも更に強く自由を持っていることは前に見ることができよう(1937、1947、2881番)。また人間は自分自身を善へ強制する時は、かれは恰もそれへ強制されているかのようにも見えはするが、しかし己が自己を強制することと強制されることは異なっている。たれでも自分自身を強制するときは、かれは内に在る自由からそのように行なっているのであるが、しかし強制されることは自由から発していないのである。実情はそうしたものであるため、主の摂理、人間の救い、多くの者が地獄へおちることについて論じはするものの、主が働かれるのは自由によっており、決して強制にはよらないことを知らない者らは自分自身をいかような暗がりの中へ投げ込み、かくていかような過誤の中へ投げ込むことができるかが明白である。なぜなら聖い性質のものである事柄における強制は、それが自由の中に受け入れられない限り、危険であるからである。

 

 

 

天界の秘義6071[3]

 

 さらに以下の真理を導入されたい、すなわち、いくたの地獄が存在していて、そこから凡ゆる悪が流れ出ており、そのことがその地獄に許されているのは、それは人間のためには避けることができないためである、それは人間は悪の中にいて、その生命はそこから発しているからであり、それで人間が悪の中におかれなくては、かれは自由の中にいることはできず、かくて改良されることはできないのである。にも拘らず善以外には何ものも神から発していないのである、なぜなら人間がそのことに堪えるかぎり、神は悪を善へたわめられるからである。

 

 

 

天界の秘義7007〔2〕

 

 しかし人間がそのように考えるのは、天界の秘められた事柄を知らないためであって、その秘められた事柄とは主は各々の者にその者自身の自由を委ねられているということである、なぜなら人間は自由を持たない限り、決して改良されることは出来ないからである。強制はいかようなものも根付かせはしないため、改良はしないのである、なぜなら強制的なものは人間の意志のものとはならず、自由なものがその意志のものとなるからである。にも拘らず善と真理とは、人間自身のものとして人間のものとなるためには、その意志の中に根を下ろさなくてはならないのである、なぜなら意志の外側に在るものはその人間のものではないからである。そしてこうした理由から各々の者はその者の自由に委ねられているため、人間は外なる恐怖により抑制されない限り、悪を考え、また悪を為すことを許されているのである。そしてまた同じ理由から、この世では邪悪な人間は外観的には正しい人間よりも更に喜び、その栄誉を得ているが、しかし邪悪な者の栄誉と喜びとは外なるものであり、または身体のものであって、他生では奈落の不幸に変化してしまうに反し、正しい者の栄誉と喜びとは内なるものであり、または霊のものであって、存続し、天界の幸福となるのである。

 

 

 

天界の秘義10097

 

 愛から行われるものは、かくて意志から発しているものは自由と呼ばれている。なぜなら人間はその愛するものを意志する[欲する]からである。主は人間のもとへその愛の中へ流れ入られ、かくてその意思の中へ流れ入られて、人間がその受けるものを自由の状態において受けるようにされており、自由の状態において受け入れられたものはまた自由になり、人間の生命のものとなるのである。

 

 

 

天界の秘義10777

 

 悪い者がその術策に応じて成功している理由は何人でもその行うことを理性から、また自由から行わなくてはならないということが秩序に順応しているということであり、それで理性に従って自由に行うことが人間に委ねられていないかぎり、かくてまたそこから生まれてくる術策が成功しないかぎり、その人間は到底永遠の生命を受ける心根を持つことができないのである。なぜなら永遠の生命は、その人間が自由の状態におかれて、その理性が明るくされているときに(徐々に)注ぎこまれるからである。なぜなら強制されたものは何一つ人間に密着しないため―なぜならそれはその人間のものではないからである―人間はたれ一人善へ強制されることはできないからである。自由から行われたものがその人間自身のものとなるのである。なぜなら意志から発したものは自由から行われ、意志は人間そのものであり、それで人間は悪もまた行う自由な状態に留めおかないかぎり、主から善が人間のために供えられることはできないからである。

 

 

 

新エルサレムの教義149

 

それで人間は善と真理に感動するために、かくてそれらがいわば彼自身のものとなるために、彼は自由を持たねばならない。約言すれば、凡て自由の中に人間に入らないものは、彼の愛または意志のものではないため、存続はしないし、また凡ての人間の愛または意志のものでないものは、彼の霊のものでもない、なぜなら人間の霊のエッセは彼の愛または意志であるから。人間は改良されるために自由の中にあるようにとの意図から、その霊は天界と地獄に連結している。なぜなら地獄から来ている霊と天界から来ている天使とが各人のもとにいるからである。地獄から来ている霊により、人間はその悪の中におかれているが、しかし天界から来ている天使により、主により善の中におかれている。彼は霊的均衡、すなわち、自由の中におかれている。天界から来ている天使と地獄から来ている霊が各人に接合していることは、天界と人類との連結を扱った項目に見ることができよう。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P9

‘88・8・18(修道院にて)

 

主に、出会ったある団体を助けて下さるようにお願いしました。大変苦しんでいて、悪魔に苛まれていると感じている人びとです。主よ?

 

私です。 娘よ どの霊魂も解放され得るが 彼ら自身が心を開いてその気になる必要がある ♡ 私はどの霊魂にもその自由を与えた そして彼らの意志は彼らだけのものである、さて もし私に心を開くまいと霊魂が強く抵抗するなら、どうやって私はその心に入って行けようか? 私は主であり神です、しかし全くの自由とあなた自身の意志を与えてあり、もし信じて意志を捧げ、自らを明け渡すなら、私は心に入り あなたを癒す。 強引に入りはしない ♡ 戸口に立って 心を開き 迎え入れてくれるのを待っている ♡

 

 

 

8.許し

 

天界の秘義10778

 

 人間をその自由から悪もまた行うようにさせておくことは許しと呼ばれている。

 

 

 

 

9.僕

 

 

天界の秘義8979

 

 内なる教会の人は隣人に対する愛にぞくした情愛から行動しているから自由であり、外なる教会の人は信仰の真理から行動し、服従から行動しているので相対的には僕である。愛にぞくした情愛から行動する者は自由から行動している。

2870−2893

 

 

 

 

10.縛られている者

 

 

天界の秘義5096

 

 「牢屋にしばられているところの」。これは誤謬の間に在ったところの、を意味していることは、『牢屋にしばられていること』の意義から明白であり、それは誤謬の間に在ることであり(4958,5037,5038,5085番を参照)。誤謬の中にいる者は、まして悪の中にいる者は『しばられている』、『牢』にいると言われているが、それはかれらがなわをかけられているということではなくて、かれらが自由ではないという理由によっているのである、なぜなら自由でない者たちは内的にはしばられているからである。なぜなら誤謬を確認した者らは真理をえらんで、それを受け入れる自由の中にはもはや全くいないのであり、それを甚だしく確認した者らは真理をみとめる自由の中にすらもいないのであり、ましてやそれを承認して、信じる自由の中にはいないからである、なぜならかれらは誤謬は真理であり、真理は誤謬であると確信しているからである。こうした確信は他のことを何か考える自由をことごとくうばい去り、従って思考そのものになわをかけて、いわば牢にとじこめてしまうといったものである。このことは誤謬を己が中に確認することを通して確信してしまっている他生の者らとの多くの経験からわたしに明白となったのである。

 

 

天界の秘義5096[2]

 

かれらは真理を全く容認しないで、それをはねかえすか、または打ち返してしまうかするやからであり、しかもそれをその確信の度に応じて、とくに誤謬が悪から発しているときには、または悪が誤謬を説得させてしまっているときには頑強に行われるのである。これらの者がマタイ伝の主の譬の中に意味されている者らである―

 

ある種は固い道に落ちたが、鳥が来て、それをくいつくした(マタイ13・4)

 

『種』は神的真理であり、『固い岩』は確信であり、『鳥』は誤謬の原理である。このような者は自分がしばられていることを、または牢にいることを知りさえもしないのである、なぜならかれらはかれら自身の誤謬に感動していて、それをそれが発生して来る源泉である悪のために愛しており、そこからかれらは自分たちは自由であると考えているからである、なぜなら何であれ情愛または愛にぞくしているものはことごとく自由に思われるからである。

 

 

11.全天界を跋渉して無数の真理にまでも達する

 

天界の秘義5096[2]

(続き)

 

しかし確認された誤謬の中にいない者たちは、すなわち、誤謬を確信していない者たちは容易に真理を容認し、それを認め、えらび、それに感動し、後には誤謬をいわばかれら自身の下に認め、また誤謬を確信している者らがいかにしばられているかを認めるのである。これらの者は観察と思考とにおいていわば全天界を跋渉して無数の真理にまでも達することができるほどの自由の中にいるが、しかし何人も善の中にいないかぎり、この自由のなかにいることはできないのである。なぜなら善から人間は天界におり、天界では真理は善から現れるからである。

 

 

12.如何なる悪も人間がたんにそれを考えたという理由から人間に転嫁されはしない。

 

真の基督教659

 

如何なる悪も人間がたんにそれを考えたという理由から人間に転嫁されはしない。何故なら、彼は善或いは悪を理解し、これを考えるように創造されており、彼は両者の中間に存在し、霊的な物における自由によって、何れか一方を選ぶ力を持っているからである。彼はこの選択の力を持っている故、その願望を遂行し、またはこれを慎むことが出来るのである。もし、彼がその願いを遂行するならば、それは意志によって所有され、それを慎むならば、それは所有されないのである。人間が生来傾いている悪い欲情はすべて、自然的な人の中に宿り、人間がこれに近づくに応じて、これは彼の思考の中に流れ入ってくる。同様に、良い諸々の願望は、主から来る諸々の真理と共に、思考の中に流れ入って来る。その時、善と悪とは秤の皿の分銅のように均衡を得ている。その時、人間が悪を選ぶならば、それは古い意志によって受け入れられ、その古い意志の貯蔵物は増大するが、彼が善と真理とを選ぶならば、主は新しい意志と新しい理解を古い意志と理解の上に作り給うのである。

 

次いで、諸々の真理により、善は徐々に新しい意志によって同化され、古い意志における悪は征服され、除去され、かくて凡ゆるものは秩序に復するのである。これは思考は遺伝的な諸々の悪とその汚穢とが由って以って除かれるところの、浄化し、或いは排泄する働きを持っていることを示している。それ故、単に考えてみるにすぎない諸々の悪がその当人に転嫁されるならば、改良と再生とは不可能となるであろう。

 

 

 

 

13.主が臨在されるに比例して益々人間は自由となる

 

 

天界の秘義905

 

「箱舟から出なさい。」(創世記8・16)

 

これは自由を意味していることは前に言われたことから、また文の前後の関連そのものから明らかである。ノアは箱舟の中にいて、洪水に取りかこまれている限り、その意味はかれは捕らわれていたということであり、すなわち、いくたの悪と誤謬とにより、またはそれと同一の、悪霊らにより翻弄されていたということであった。ここから『箱舟を出る』ことは自由を意味するということが生まれてくる。

 

主の臨在は自由を含んでおり、その一方は他方に続いて起っている。主が臨在されるに比例して益々人間は自由となるのである、すなわち人間は善と真理との愛の中に止まるに比例して益々自由に行動するのである。かくのごときが天使たちを通して注がれる主の流入である。しかし他方悪霊らを通して注がれる流入は強制的であり、性急であり、威圧しようと力闘する、なぜならこうした霊どもは人間が無となり、その霊どもが一切の物となるように人間を徹底的に征服すること以外には何ごとも息づいてはいないからであり、そしてその霊どもが一切のものとなった時、人間はその悪霊どもの中の一人となり、否それですらなくなるのである。なぜならかれらの眼前にはかれは全く何ものでもないからである。それ故主がその人間をかれらの主権[支配]と軛から解放されつつある時、争闘が生まれるのである。

 

しかしその人間が解放されたときは、すなわち再生したときは、かれは主により天使たちから仕えられて、軛または主権のいかようなものも何一つないほどにもおだやかに導かれるのである。なぜならかれはかれの歓喜とかれの幸福とにより導かれ、また愛され尊重もされるからである。これが主がマタイ伝に教えられるところであり―

 

 わたしの軛は易く、わたしの荷は軽い(11・30)、

 

そしてこれは悪霊の軛の下におかれている時の人間の状態とは正反対のものである。なぜならかれらは、今述べたように、その人間を無価値なものとして考え、得べくば、各瞬間毎にかれを責め苛もうとしているからである。このことを多くの経験によりわたしは知ることができたのであって、そのことについては主の神的慈悲により後に述べよう。

 

 

 

 

14.自由になった鳩

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P263

 

私に繋がれているあなたは、これほど自由だったこともない ♡

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P267

‘89・9・28

 

では耳を開いて我が婚姻の歌を聞きなさい、あなたが何で出来た者かを知っている: 塵と灰、頭を持ち上げて その暗やみから出て来なさい、私を見るように・・・ 私はあなたを甦らせた者、霊魂をおだやかな静けさの中に置く者、腕の中に包んで霊魂を護っている、我がもとにまで引き上げようとして すべてを与えた。 私は無限の慈しみを現し 我が杯から飲むのを許して好意を示した、そうであろう? 私を喜ばせようと努めなさい、娘よ、我が道を探し求めなさい、私の道は聖である、そこで何でもないことに不平を言わないように気をつけなさい、いつもそばにいて 道を案内して来た、常に単純な心で私のもとに来なさい 我がヴァッスーラ、あなたの地上の日々は過ぎ去る影、消えてなくなる一時的な通り道でしかない。 地上のものは何も残らない。 では私の金言を守り 掟に従いなさい、我が最も貴重な宝石をゆだねた、それを護り、抱きしめ しっかりと身につけておくように、我が平和と愛の十字架は霊魂にとって甘美な苦悩となろう、我が十字架を分かち合いたいという思いは 私と同様あなたのうちにも熱烈に燃え上がろう、我が十字架にたいする渇きは 私と同じように大きくなろう。今はもう私が愛をどう現すかを悟ったようだ、そう、あなたが苦しむのを許している。 霊魂よ! あなたの不毛を 溢れる泉とした、私に対する冷淡さを優しさに変えた、無関心を 我が十字架にたいする情熱に、無気力を あなたの故郷と御父にたいするノスタルジアに変えた、霊魂よ 歓びなさい! 王はあなたの亡骸を包んでいた布をほどき ラザロを復活させたように あなたを甦らせた: あなたを所有するために、

 

ああ イエス、あなたは本当に選り好みなさらないお方ですね!

 

私があなたを選んだ ♡ 一緒に天の王国を嗣ぎ それを分かち合ってもらいたい。 私のするわざはどれも我が栄光のため ♡ 見なさい! あなたはもう自由になった 我が鳩よ、私はあなたの主であり あなたは我がもとに常にやって来て 聖心のうちに いつでも憩いを見出すであろう、我が聖心はあなたの巣 そして避難所、見たであろう? あなたの主人が誰であり 何を求めているかを見分けるように訓練した ♡ あなたの主人 そして王はこれからは愛をあなたに求める、来なさい、我が愛を返しなさい、鏡のように我が愛を反射しなさい、愛ゆえに 私を愛してほしいがためにあなたを創造した、決して何があろうとこれを忘れないように ♡♡♡

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P19

‘89・10・12

 

主よ、み救いを感謝します。お愛しします、そしてあなたを礼拝し、あなただけを礼拝します、わが神よ。

 

ああ、しばしばこのような言葉を聞かせてほしい、心で語りかけるように。 来て私を黙想しなさい、道、真理 いのちである私を黙想しなさい、観想的礼拝に来なさい、これが私を喜ばせる。 完全な沈黙のうちに 私とあなた、あなたと私が顔と顔を合わせ、私は 我が美しさを打ち明け、あなたは私を讃美する ♡ 我が心がどの霊魂にたいしても 思い焦がれていると知りなさい。 あなたを連れ戻したが、あとどれほど多くの霊魂たちを連れ戻す必要があろう! 来て我が心のうちに憩いなさい、そしてあなたの心のうちに休ませてほしい、愛があなたを愛している

 

主よ! どれほどお愛ししていますでしょう、どれほどあなたを望み、あなたに渇いているでしょう、どれほどあなたが必要でしょう! 

 

やっと自由になった!(*)

 

(ここで私は嬉しさのあまり、思いっきり叫び声をあげました!

 

 *イエスは大変歓んでこう仰しゃったのです!

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P36‘89・11・9

 

自由とは神を愛すること、私があなたを自由にした ♡

 

 

15.自由は 聖霊によって生まれ変わった時に見いだせる

 

 

ヴァッスーラ・神のうちの真のいのち・7巻115

‘94・6・3

 

はっきり言っておく、その時、聖霊があなたの目を開いた時 はじめて私の名の偉大さと 我が至高なる栄光の深さを知ろう。

 

 

16.シルワン

 

シルワンの手記/P71

 

 主は「罪を犯す人は自分の罪のとりこになる」と言われる。このような奴隷の状態から解放されるために、多くの祈りをささげるべきだ。真の自由とは、心を尽くして、神と隣人を愛することだ。完全な自由とは、常に神に留まることだ。

 

 

 

17.善に対する情愛の中にいる者のみが自由である

 

天界の秘義9096〔2〕

 

  この凡てから何度も述べた内なる拘束物と外なる拘束物により意味していることを知ることが出来よう。しかし拘束するものと呼ばれている拘束するものはそれに対立したものと関連を持った時にのみ拘束するものであり、その時以外の時は拘束はしないのである。なぜなら善の愛に属した情愛から何ごとかを行う者は自由から行ってはいるが、しかし悪の愛に属した情愛から行う者はその者自身には自由から行動しているように見えはするが、自由から行動しているのではないからである、なぜなら彼は地獄から発している欲念から行動しているからである。善に対する情愛の中にいる者のみが自由である、なぜなら彼は主から導かれているからである。このことを主はまたヨハネ伝に教えられている―

 

もしあなたらがわたしの言葉の中に止まっているなら、あなたらはまことにわたしの弟子である。そしてあなたらは真理を知り、真理があなたらを自由にするでしょう。罪を犯す者はことごとく罪の僕である。もし子があなたらを自由にするなら、あなたらは実に自由になるでしょう(ヨハネ8・31、32、34、36)。

 

主から導かれることは自由であり、地獄から発している欲念により導かれることは奴隷の状態であることについては、892、905、2870−2893、6205、6477、8209番を参照されたい、なぜなら主は善に対する情愛と悪に対する嫌悪とを植え付けるからである。このことからその人間は善を為すことには自由を持ってはいるが、悪を為すことには全くの奴隷状態におかれているのである。基督教の自由はそれよりも更に遠く拡がっていると信じている者は非常に誤っているのである。

 

 

 

 

18.三種類の自由、即ち、自然的な自由、合理的な自由、霊的な自由がある

 

 

神の摂理73

 

さて、愛には多くの種類が在り、あるものは和合し、あるものは和合していないため、自由にも同じように多くの種類のあることが推論される。全般的に三種類の自由、即ち、自然的な自由、合理的な自由、霊的な自由がある。