真理は汝を自由にする

ヨハネ8・32

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.トマス・ア・ケンピス

4.聖母から司祭へ

5.全天界を跋渉して無数の真理にまでも達することができるほどの自由の中にいる

6.サンダー・シング

 

 

 

 

1.聖書

 

 

ヨハネ8・31−36

 

イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義794

 

「そして水は非常に甚だしく地に強められた。」これは誤謬のいくたの信念がこのように増大したことを意味していることは『水』について直ぐ前に言われ、示されたところから、すなわち、洪水の水または氾濫は誤謬を意味しているということから明らかである。ここには、誤謬または誤ったものの信念がさらに増大したため、『水は非常に甚だしく強められた』と言われているが、それは原語では最上級となっているのである。

 

誤謬とは誤ったものの原理であり、信念であり[誤ったものを原理とし、それを信念としたものであり]これらが洪水以前の人々の間に甚だしく増大したことは前に彼らについて言った凡てから明白である。(その誤った)信念は人が真理を欲念に混ぜ合わせる時、または自己と世を求める愛を真理に支持させる時、無限に増大するのである、なぜならその時無数の方法でかれらは真理を歪曲し、これを強制して(自己と世を求める愛に)一致させるからである。なぜなら自分自身のために誤った原理を吸引した者であって、または形作った者であって、たれがその原理をその者が学んだ多くの物により、実に聖言によってさえも、確認しないであろうか。異端であって、その異端を確認するためにこのようにいくたの物を把えないものがあろうか。また(その異端に)一致していないものを、それが一致するように、それをこじつけ、色々な方法で説明し、歪めさえしないものがあろうか。

 

[2]例えば、仁慈の善がなくても、信仰のみが救うという原理を採用した者を考えてみられよ。かれは教義の全体系を聖言から織り出すことができないか、しかもそれを主が言われていることを、すなわち『木はその果によって知られる』、『凡て善い果を結ばない木は切られて、火に投げ入れられる』(マタイ3・10、7・16−20、12・33)という御言葉を些かも顧慮しないで、または考察もしないで、または認めさえもしないで、やってのけるのである。自分は何一つ善は行ってはいないのに、真のことを知ってさえおれば救われる、ということ以上に悦ばしいことがあろうか。

 

人間が支持する欲念はことごとくその者の意志の生命を形作り、誤謬の原理または信念はことごとくその者の理解の生命を形作るのである。これらの生命は信仰の諸々の真理がまたは教義的なものが諸々の欲念の中に浸される時一つのものとなるのである。かくて人はことごとく己がためにいわば霊魂のようなものを形作り、死後かれの生命はそのようなものになる。

 

それ故人間には真であるものを知る以上に重要なことはない。人間が真のことを知り、それをそれが歪曲されることができない程にも充分に知る時、それは欲念の中にそれ程浸される筈はないし、このような致死的な結果を生む筈もないのである。人間は永遠に至るその生命以上にさらにいかような物をその心に抱くべきであろうか。もし身体の生命の中にかれがその霊魂を破壊してしまうならば、かれはそれを永遠に破壊してしまわないか。

 

 

 

天界の秘義1947

 

 人間は再生しつつある間は、かれは主から与えられている自由から、自己を強制し、またその者の合理的なものがそれ自身を服従させるために、その合理的なものを卑しくし、また苦しめさえもし、そのことによりかれは天界的な自分のものを受けるのであって、その天界的な自分のものはその後主により徐々に完成され、益々自由になり、かくてそれは善の情愛となり、そこから真理の情愛となって、歓喜を得、その自由の中にも歓喜の中にも天使たちの幸福に似た幸福が存在するのである。この自由がヨハネの書に語られているものである―

 

真理はあなたたちを自由にするでしょう、もし子があなたたちを自由にするならあなたたちは実に自由になるでしょう(ヨハネ8・32,36)。

 

この自由の性質は良心を持たない者らには全く知られていない、なぜならかれらは自分が好きなように行い、誤ったことをほしいままに考えたり、話したり、ほしいままに悪いことを欲したり、行ったりして、強制したり、卑しくしたりはしない、ましてやこうした欲望を苦しめたりはしないことに自由があると考えているが、真理はその逆そのものであるからであり、そのことを主もまた同じ福音書に教えられているのである―

 

罪を犯す者はことごとく罪の奴隷である(ヨハネ8・34)

 

この奴隷的な自由をかれらはかれらとともにいて、それを注ぎ入れる奈落の霊どもから受けており、かれらはこれらの霊の生命の内にいるときは、またかれらの愛と欲念の中にもいて、不潔な、排泄物のような歓喜がかれらに吹き込まれ、そしていわば激流に流されるかのように流されて行くときは、自分自身が自由の中にいると考えているが、しかしそれは奈落の自由なのである。この奈落の自由と天界の自由との間の相違はその一方は死のそれであって、かれらを地獄に引きずりおろすに反し、他方はまたは天界の自由は生命の自由であって、かれらを天界へ引き上げるということである。

 

 

 

天界の秘義5428

 

自己からは何一つ欲しなくて、主から一切を欲することにあり、また自己からは何一つ考えなくて、凡てを天界から考えることにあり、そこから天使たちはもし自分自身から考え、欲することを許されるなら、憂いと悲しみとにうちひしがれてしまうであろう。

 

 

 

天界の秘義9096〔2〕

 

善に対する情愛の中にいる者のみが自由である、なぜなら彼は主から導かれているからである。このことを主はまたヨハネ伝に教えられている―

 

もしあなたらがわたしの言葉の中に止まっているなら、あなたらはまことにわたしの弟子である。そしてあなたらは真理を知り、真理があなたらを自由にするでしょう。罪を犯す者はことごとく罪の僕である。もし子があなたらを自由にするなら、あなたらは実に自由になるでしょう(ヨハネ8・31、32、34、36)。

 

主から導かれることは自由であり、地獄から発している欲念により導かれることは奴隷の状態であることについては、892、905、2870−2893、6205、6477、8209番を参照されたい、なぜなら主は善に対する情愛と悪に対する嫌悪とを植え付けるからである。このことからその人間は善を為すことには自由を持ってはいるが、悪を為すことには全くの奴隷状態におかれているのである。基督教の自由はそれよりも更に遠く拡がっていると信じている者は非常に誤っているのである。

 

 

 

黙示録講解195ロ(14)

 

ヨハネ伝には―

イエスはペテロに言われた、あなたは若かったときは、自分自身に帯をしめ、何処であれ欲する所を歩みましたが、老いると、手を伸ばし、他の者があなたの帯をしめ、あなたのねがわない所であなたをつれて行くでしょう(21・18)

 

これらの語がその霊的意義で意味していることは前(9番)に認めることができよう、すなわち、『ペテロ』により教会の信仰が意味されており、かれが『若くて、自分自身に帯をしめ、何処であれ自分の願う所を歩いた時』は、人間が仁慈の善の中にいる教会の初めにおけるその教会の信仰を意味し、そのときはかれらは霊的な人から教会の諸真理について考えることを意味しており、そのことはかれらの霊から考え、かくて真理に対する霊的な情愛から、すなわち、自由から考えることである。

 

しかし『ペテロは、老いたときは、その手を伸ばして、他の者がかれの帯をしめること』により、教会の終りにおけるその教会の信仰が意味されており、そのときは信仰は仁慈を欠如し、かれらはかれら自身からは教会の諸真理については何一つ考えはしなくなって、他の者らから考え、かくて教義のみから考えて、聖言からは考えなくなり、そうしたことは、相対的には、奴隷の状態である。

 

なぜなら他の者が言うことを信じることは奴隷であるが、自分自身が聖言から考えることを信じることは自由であるからであり、そのことはヨハネ伝の主の御言葉に従っているのである―

 

もしあなたたちがわたしの言葉の中にとどまっているなら、あなたたちは真にわたしの弟子であり、あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にするでしょう(8・31,32)

 

 

 

 

3.トマス・ア・ケンピス

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・4・1

 

わたしの子よ、わたしの前に誠実に歩み、つねに一筋の心をもってわたしを求めよ。

誠実にわたしの前を歩む者は、悪の攻撃から守られ、真理はこれを不信心な人々の誘惑(いざない)と誹謗(そしり)とから救うだろう。

もし真理があなたを救うたならば、あなたは真に自由となり、人間のむなしい言葉などに気にかけなくなるだろう。

 

 主よ、ほんとうにそうでございます、どうぞ仰せのとおり私に成りますように!

 主の真理が私を教え、私を守り、幸福な終局(おわり)にいたるまで私を保ちますように!

またその真理がすべての悪欲と正しくない愛とから私を救いますように。そうすれば私は心の大なる自由をもって主とともに歩むでしょう。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・5・3

 

愛は自由であることを望み、あらゆるこの世の欲望から離脱しようとする。それは、これによって心の目がくらまされず、一時の利益に気を取られたり、艱難にくずおれたりしないためである。

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・5・4

 

愛する者は、飛び、走り、喜び、自由であって、束縛されない。

そういう人は、いっさい[なる神]を得るために、いっさいを捨て、いっさい[なる神]の中にいっさいを所有している。というのは、万物を超越して、万善の源なる唯一最高のお方に安んじているからである。

そういう人は、与えられた物に重きをおかず、その与えられた物がなんであろうと、それにはかまわず与え主[なる神]に心を向けるのである。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・53・2

 

ああ、この世の何物にも愛着していない人は、臨終に際していかに大なる安心があるだろう!

しかし弱い人は、まだかようにまったくすべての物から離脱した心になることができないし、また肉的な人には霊的な人の自由がわからない。

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・56・1

 

もしわたしの道にとどまるならば、あなたは真理を知り、真理はあなたを自由にし、あなたは永遠の生命を得るだろう。

 

 

 

 

4.聖母から司祭へ

 

 

聖母から司祭へ1995.2.2

 

 神のみ旨は、御父と一つになるために、あなたがたが御子において一つとなることです。

 ですから、「真理」に証明を与えなさい。そうすれば、真理はあなたがたを自由にするでしょう。

 

 

 

 

5.全天界を跋渉して無数の真理にまでも達することができるほどの自由の中にいる

 

 

天界の秘義5096[2]

 

彼らは真理を全く容認しないで、それをはねかえすか、または打ち返してしまうかする輩であり、しかもそれをその確信の度に応じて、とくに誤謬が悪から発しているときには、または悪が誤謬を説得させてしまっているときには頑強に行われるのである。これらの者がマタイ伝の主の譬の中に意味されている者らである―

 

ある種は固い道に落ちたが、鳥が来て、それをくいつくした(マタイ13・4)

 

 『種』は神的真理であり、『固い岩』は確信であり、『鳥』は誤謬の原理である。このような者は自分がしばられていることを、または牢にいることを知りさえもしないのである、なぜなら彼らは彼ら自身の誤謬に感動していて、それをそれが発生して来る源泉である悪のために愛しており、そこから彼らは自分たちは自由であると考えているからである、なぜなら何であれ情愛または愛に属しているものはことごとく自由に思われるからである。しかし確認された誤謬の中にいない者たちは、すなわち、誤謬を確信していない者たちは容易に真理を容認し、それを認め、撰び、それに感動し、後には誤謬をいわば彼ら自身の下に認め、また誤謬を確信している者らがいかにしばられているかを認めるのである。これらの者は観察と思考とにおいていわば全天界を跋渉して無数の真理にまでも達することが出来るほどの自由の中にいるが、しかし何人も善の中にいない限り、この自由のなかにいることは出来ないのである。なぜなら善から人間は天界におり、天界では真理は善から現れるからである。

 

 

 

 

.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P325

 

1922年3月3日、アウチーローザンヌ、クライスト教会にて。

 

ヨハネ福音書第8章31節、32節ー

「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします」

 

「わたしがあなた方に話した言葉は、霊であり、また生命(いのち)です」。真理とは何でしょうか。真理は教義でも教理でもなく、イエス・キリストご自身であります。真理は本の中に見つかるものではありません。確かに、書物の中には良いものが沢山見つかるでしょうが、そのどれ一つとして、あなた方を自由にすることはありません。キリストだけが、わたしたちを自由にしてくださるのです。わたしは真の宗教を見つけようと努めてきました。ヒンドゥー教を試みましたが、イエス・キリストの中にのみ、わたしは平和を見ることができました。あなた方は、この世のことの中に平和を見つけようとしていますが、それを得られるという確証は、どこにあるのでしょうか。どこにもありません。わたしたちは、キリストによって、この世界の中で自由にされるのです。ヒンドゥー教は、生けるキリストをわたしに与えることはできませんでした。今のわたしは、天においてキリストとともに生きることを予期していますが、天は、この地上に始まるのです。霊魂が神にふれ、わたしたちが主の臨在を実感するときに、天国とは完全なる霊魂の平和であることが理解されるのです。そのときにこそ、地上の天国が始まるのです。イエス・キリストについて話をきかされていた頃のわたしは、常にキリストを憎んでいました。わたしを癒やすものは見つかりませんでした。キリストに満ち足りていないクリスチャンが多くいます。それは、彼らがキリストを知らないからです。しかし、キリストは真理であり、その真理がわたしたちを自由にしてくれるのです。わたしたちは、生けるキリストを通して誘惑に打ち勝ち、サタンを倒す力を得ることができます。それは、本や説教を通してではありません。祈りを通してです。毎日、最低何分かは、祈りに費やしなさい。主の中に生きなさい。主は真理です。真理はわたしたちを自由にしてくれます。

 わたしは、人間の作り出した多くの偉業を見てきました。人は空を飛び、機械や電気を操ることができるかもしれません。しかし、自分自身の体の欲望は制御できずにいます。自然界を治められても、自分自身を治められずにいます。

 今から二週間ほど前にパレスチナにいたとき、わたしはこう思いました。「主はここでお教えになった。あれほどの偉業をされたのなら、弟子たちのために自らの手で何かを書き残すこともできたはずである。なぜ、何も書かれなかったのか」。それは、主の御言葉が、すなわち霊と生命とが信者の心の中に生き続けることを、ご存知だったからです。主は、何一つお書きにならず、弟子たちに書くよう求めもされませんでした。「わたしはいつまでも彼らとともにいる」。主は、わたしたちを罪から解き放ってくださるお方です。弟子たちは、聖霊に動かされて書いたのです。