理解
教会/
1.理解
2.聖言の理解によって教会となる
3.善と真理にいる者たちは意志と理解をもっているが、悪と誤謬にいる者らは意志と理解を持っていない
4.理解は知識に応じて高められることが出来るが、意志は教会と宗教との真理に一致した生活によってのみ高められる
5.理解は、人間が悪を見、かくてそれを抑制するために人間に与えられている
6.理解しようと欲しない者は、自分は理解出来ないと言うのである
7.理解は人間が真理に従って行動しようと意志する[欲する]に応じて明るくされる
8.眼から生まれる思考は理解を閉じるが、しかし理解から生まれる思考は眼を開く
9.人間の理解はその人間の愛していない知恵の光の中へその者に特有な愛を超えて上げられることが出来る
10.愛は理解がなくては謂わば盲目、理解は愛に[物]を見させる光
1.理解
スウェーデンボルグ/真の基督教497
自由意志と理解は主を受容する器である。すなわち意思は愛と仁慈を、理解は智慧と信仰を受容する器である。
真の基督教658(3)
それ故、意志は人間の生命の真の存在、または本質であるが、理解は意志の顕われである。而して本質は或る形を以って存在しない限り、存在しない故、意志は理解によって存在しない限り存在しない。それ故、意志は理解の中に形を取り、かくして明らかにされるのである。
最後の審判とバビロンの滅亡P54
理解はある事柄が真であるか否かを、それを確認する以前に、見または認めることであって、凡ゆる物を確認することが出来ることではない(天界の秘義4741、7012、7680、7950、8521、8780)。
新エルサレムの教義35
理解は、事物を確認する以前に、それが真であるか、否かを見、また認めることであって、凡ゆることを確認することが出来ることではない(天界の秘義4741、7012、7680、7950、8521、8780)。
最後の審判とバビロンの滅亡P54
ある事柄が真であるか、否かを、その事柄を確認しないうちに、見または認めることは、真理のために真理に感動し、かくて霊的な光に居る者たちのみに与えられる(8521)。
新エルサレムの教義35
事物を確認する以前に、それが真であるか、否かを見、また認めることは、真理のために真理を愛する者たちにのみ与えられ、従って霊的な光の中にいる者たちにのみ与えられている(8780)。
神の摂理96
意志することは理解なしにはありえない
天界の秘義732
理解の事柄は意志の事柄を理解の事柄そのものとは異った、明確に区別されるものとして認めているが、しかし意志の事柄は理解の事柄を意志の事柄そのものに結合したものとして、それと一つになったものとして認めているのである、なぜなら理解は意志から発しているからである。
天界の秘義1707[3]
人間各々における内なる人は主にのみ属している、なぜならそこに主は人間に幼児の頃から与えられる諸善と諸真理とを貯えておかれるからである。そこからこれらのものを通して主は内的なまたは合理的な人の中へ流れ入られ、この内的な、または合理的な人を通して外的な人へ流れ入られ、このようにしてその人間に考えて、人間になることが与えられているのである。しかし内なる人から内的なまたは中間の人へ注がれ、かくして外的な人へ注がれる流入は二重性を持っていて、それは天的なものか、または霊的なものか、その何れかによって行われており、またはそれと同一のことではあるが、善かまたは良心かその何れかを与えられている再生した者にのみ流れ入っており、かくてそれは認識かまたは良心により流れ入っているのであり、そうした理由から天的なものによる流入は主に対する愛と隣人に対する仁慈の中にいる者のもとにのみ存在しているのである。しかし霊的なものまたは真理によっては、主は人間各々のもとに流入されており、この流入がない限り、人間は考えることが出来なくなり、それで語ることも出来なくなるのである。人間が諸善と諸真理とを歪めてしまうといった者になると、また天的な霊的なものを何ら心にかけないときは、そのときは天的なものまたは善の流入はなくなってしまって、それらのものに対する道は閉ざされてしまうが、それでも霊的なものまたは真理の流入は存在しているのである、なぜならそうしたものに対する道は絶えず開かれているからである。ここから内的なまたは中間的なものの性質はすなわち合理的な人の性質はいかようなものであるかを認めることができよう。
天界の秘義3539[6]
善い、真のものであるものを人間は意志しない[欲しない]けれど、それを理解することができるこうした人間の能力は、人間が改良され、再生される能力を持つために人間に与えられているのであり、そうした理由からこの能力は善い者にも悪い者にもそのもとに存在しているのであり、いな、悪い者には時としてそれは更に鋭利であることもあるが、しかし以下の相違があるのである、すなわち、悪い者には生命[生活]のために、すなわち、真理から発している生命の善のために真理を求める情愛はなく、それでかれらは改良されることはできないが、しかし善い者には生命[生活]のために、すなわち、生命の善のために真理を求める情愛が存在しており、それでかれらは改良されることができるのである。しかしこれらの者の改良の最初の状態は、かれらは真理から善いことを行うため、教義の真理が第一位に在って、生命の善が第二位に在るようにかれらには見えるということであり、かれらの第二の状態は生命の善が第一位に在り、教義の真理が第二位に在るということである、なぜならそのときかれらは善から、すなわち善の意志から善いことを為すからであり、このことが実現すると、意志は結婚におけるように理解に連結しているため、その人間は再生したのである。内意ではこの二つの状態がエソウとヤコブについて言われている事柄に取扱われているのである。
天界の秘義4729[2]
良く知られているように、人間には二つの内的な能力が、理解と意志が存在している。理解に吸収されて、そこにしみこむものは、ただそれだけの理由では意志に入りはしない、が、意志に吸収されるものは実に理解の中へ入って行くのである。なぜなら何であれ人間が欲するものをことごとくかれは考えるのであり、それでかれが欲念から悪を意志する[欲する]ときは、かれはそれを考え、それを確認するからである。思考により悪を確認したものが欲念の生命から発した誤謬と呼ばれるものである。この誤謬がかれには真理として見えるのであり、かれがそれを彼自身の中に確認してしまうと、真理はかれには誤謬として見えるのである、なぜならかれはそのとき主から天界を通して発している光の流入を閉め出してしまっているからである。しかしもしかれがこれらの誤謬を彼自身の中に確認してしまわないなら、そのときはかれの理解に以前しみこんでいた真理がその誤謬に抵抗して、それが確認されることを許しはしないのである。
天界の秘義4893
これらの事柄が知られていないため、その事柄はこれ以上明らかにされても日蔭の中へ落ち込み、かくて理解のいかなる観念の中へも落ち込みはしないであろう。なぜなら内なる人の視覚である理解にはその光と蔭とがあり、それが[理解が]前に多少なりと考えることができたものと一致しない事柄はその蔭の中へ落ち込むからである。
天界の秘義4899
すなわち、それらのものは理解の蔭の中へ落ち込むのであり、何であれこの蔭の中へ落ち込むものはすべて不信仰の中へも落ち込むのである、例えば教会が存在するためには婚姻的なものが存在しなくてはならない、また外なるものの中には内なるものが存在しなくてはならない、その二つがないなら、教会のものは何一つ存在しないということである。
天界の秘義5497
このように人間はその理解の中で世から天界の方へ昇っている。しかしそれでも彼は、絶えず現存して流れ入ってくるところの善を主から受け入れない限り、その理解で天界へ入っては来ないのであり、もし彼が善を受けるなら、真理もまた彼に与えられるのである、なぜなら真理はすべて善の中にその住居を得ており、真理が彼に与えられるに応じて、理解もまた与えられ、その理解により彼は天界の中にいるからである。
天界の秘義7342
「彼はそのことさえも心にかけなかった」。これは意志から抵抗し、そこから必然的に頑迷になることを意味していることは、何かを『心にかけないこと』の意義から明白であり、それは注意しないことであり、悪い者にあっては神的な事柄に注意しないことは意志の抵抗から発しているため、それでそのこともその同じ言葉により意味されており、物事を『心にかけないこと』は『固くなること』と同じことを意味しているため、それで(前の7272、7300、7338番のように)頑迷もまた意味されているのである。意志から抵抗することについては、意志は人間を支配しているものであることを知られたい。理解が(人間)を支配していると信じている者もいるが、理解は意志がその理解に傾かない限り支配はしないのである、なぜなら理解は、それ自身において観察されるなら、意志の形以外の何ものでもないため、理解は意志を支持するからである。意志のことが言われるときは、愛の情愛が意味されるのである、なぜなら人間の意志はそれ以外の何ものでもないからである。この情愛が人間を支配するものである、なぜなら愛の情愛が人間の生命であるからである。もし人間の情愛が自己と世を求める情愛であるなら、そのとき彼の全生命はそれ以外の何ものでもなく、また彼はそれに抵抗することも出来ないのである、なぜならそれは自分自身の生命に抵抗することとなるからである。真理の原理は何ごとも遂行はしないのである、もしこれらの愛の情愛が主権を持っているなら、それは真理を己が側に引き入れて、それを誤謬化してしまい、もしその真理が充分にそれを支持しないなら、それを斥けてしまうのである。ここから、主が霊的な愛を、即ち、隣人に対する愛の情愛を導入されない限り、真の信仰の原理も人間のもとには何ごとも全く遂行はしないのであり、その人間がこの情愛を受け入れるに応じて、信仰の諸真理も受け入れるのである。この愛の情愛が新しい意志を作るものである。この凡てから今や、もし意志が抵抗するなら、人間はいかような真理も決して心にかけはしないことを認めることができよう、従って奈落の者らは悪を求める情愛、または欲念の中にいるため、信仰の諸真理を受けることは出来ないのであり、従って匡正されることは出来ないのであり、そこからまた悪い者は為しうる限り真理を誤謬化してしまうことが起こっている。
マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P134
あなたたちはわたしを愛していない。それがすべてだ。愛するということは、時々上辺だけの社交的表敬訪問を行うことではない。愛するということは、もう一つの霊魂を養う、唯一の火と一致し、解け合い、点火した霊魂と共に生きることだ。その時、この融合のなかに理解も生まれる。
啓示による黙示録解説914
しかし神学的な事柄においては理解は何一つ見ることは出来ない、教会の教えることは盲目的に信じなくてはならない、というかの教義を確認した者らは、いかような真理を光の中に見ることは出来ない、なぜなら彼らは彼ら自身へ流れ入る光の道を妨害しているからである。この教義を改革派教会はロマ カトリックの宗教的信念から保有しており、その信念は、教会そのものを除いては―この教会により彼らは法王と法王の枢機卿会議を意味しているが―何人も聖言を解釈してはならない、その教会により布告された教義を凡て信仰をもってかき抱かない者は異端として考えられなくてはならず、呪われた者であると宣言しているのである。
2.聖言の理解によって教会となる
教会/参照
3.善と真理にいる者たちは意志と理解をもっているが、悪と誤謬にいる者らは意志と理解を持っていない
新エルサレムの教義33
善と真理にいる者たちは意志と理解を持っているが、悪と誤謬にいる者らは意志と理解を持っていない。彼らは意志の代わりに欲念を持ち、理解の代わりに科学を持っている。なぜなら真に人間的な意志は善を受ける器であり、理解は真理を受ける器であるから。そうした理由から意志は悪について述べられることは出来ないし、理解も誤謬について述べられることは出来ない。なぜならそれらのものは相反したものであり、相反したものは互いに他を破壊するからである。そこから、悪におり、かくて誤謬にいる人間は合理的であり、賢明であり、理知的であると呼ばれることは出来ないことが生まれている。悪い者のもとでは、また意志と理解を第一次的に宿しているその心の内部は閉じられている。悪い者も、私は意志する[欲する]、私は理解すると語っているため、彼らも意志と理解を持っていると信じられるが、しかしその欲するところは単に欲念にすぎず、その理解も単に知ることにすぎないのである。
4.理解は知識に応じて高められることが出来るが、意志は教会と宗教との真理に一致した生活によってのみ高められる
真の基督教507
各人の理解はその人の持つ知識に応じて高められることが出来ますが、然し意志は教会と宗教との真理に一致した生活によってのみ高められることが出来ます。これが無神論者がその自己愛によって名声の栄誉と理知の誇りを掻き立てられ、他の多くの者よりも鋭い合理性を持っている理由ですが、然しこれは彼らが理解によって導かれて、意志によって導かれない時のみであります。何故なら意志の愛が内なる人を所有しますが、理解の思考は外なる人を所有するからです。
5.理解は、人間が悪を見、かくてそれを抑制するために人間に与えられている
天界の秘義9072
「彼はそれを監視しなかった」。これは、何ら抑制しなかったことを意味していることは、『監視すること』の意義から明白であって、それが理知的なものの光の中へ入り込んだ意志の悪について言われている時は、その意義は制止または抑制である、なぜなら理解は、人間が悪を見、かくてそれを抑制するために人間に与えられているからである。
6.理解しようと欲しない者は、自分は理解出来ないと言うのである
神の摂理96
更に、もし意志の要素が理解の働きから除かれるならば、人は何ごとも理解することは出来ない。そして人は意志するに応じて、もし知識と呼ばれる補助者がそこに現れるか、またはその瞬間に甦るかするならば、人は理解する力を持つのである。なぜならこの補助者は職人の手の道具のようなものであるから。人は意志するに応じて、即ち理解することを愛するに応じて理解することが出来ると我々は言うのである、なぜなら意志と愛とは一つのものとして働くからである。実際これは背理のように思われるが、しかし理解することを愛しない者、従って理解しようと欲しない者にのみそのように思われるのであって、理解しようと欲しない者は、自分は理解出来ないと言うのである。
7.理解は人間が真理に従って行動しようと意志する[欲する]に応じて明るくされる
新しいエルサレムの教義35
理解は人間が意志の中に真理を受け入れるに応じて、即ち、人間が真理に従って行動しようと意志する[欲する]に応じて明るくされる(3619番)。
8.眼から生まれる思考は理解を閉じるが、しかし理解から生まれる思考は眼を開く
神の愛と知恵46
自然はそれ自身から発していると主張する者はいかに感覚的に(すなわち身体の感覚と霊的な事物に対する無知からいかに甚しく)考えているかがこの凡てにより認めることが出来よう。彼ら眼から考えて、理解から考えることは出来ない。眼から生まれる思考は理解を閉じるが、しかし理解から生まれる思考は眼を開くのである。
9.人間の理解はその人間の愛していない知恵の光の中へその者に特有な愛を超えて上げられることが出来る
神の愛と知恵395
人間の理解はその人間の愛してはいない知恵の或る光の中へその者に特有な愛を超えてまで上げられることができ、かくして彼はその高い愛の中へまた入って、永遠の幸福を受けようと欲するならば、如何に生きなければならぬかを認め、また教えられることが出来るのである。しかし人間は、その理解をその人間に特有な愛の上にまで上げることの出来るこの力を濫用することによって、意志を自己と世を愛する愛の住居となし、理解を凡ての愛を確認するものの住居となすことによって、主(即ち、主から発する愛と知恵)の容器、住居となり得たであろうものを自分自身の中に転倒させてしまったのである。ここから意志と理解とのこの二つの住居は奈落的な愛の住居となり、またこの愛を支持し確認することによって、地獄では知恵として尊敬されているところの奈落的な思考の住居となるようになったのである。
10.愛は理解がなくては謂わば盲目、理解は愛に[物]を見させる光
神の愛と知恵406
愛は理解なしには、または愛の属する情愛は理解に属する思考なしには、身体の中に感ずることも活動することも出来ない、何故なら愛は理解がなくては謂わば盲目であり、情愛は思考がなくては謂わば暗黒の中にあるからである、何故なら理解は愛に[物]を見させる光であるから。