剥奪[荒廃]
天界の秘義698
地獄の他にまた剥奪が在り、それについては聖言に多くの事が記されている。何故なら人間は実際に犯した罪の結果他生へ無数の悪と誤謬とをもって入り、これを自分自身に蓄積し、接合しているからである。正しい生活を送った者でさえもそうである。これらの者が天界に携え上げられることが出来る前に、その者らの悪と誤謬は消散されなくてはならず、この消散が剥奪と呼ばれている。剥奪には多くの種類が在り、その期間にも長短が在る。或る者は死後比較的短時間の中に、或る者は直ちに天界へ挙げられている。
天界の秘義1106
この世に生きている間に単純と無知から宗教上の信念の幾多の誤謬を吸引したものの、その信仰の原理に応じて、一種の信仰を持ち、他の者のように憎悪、復讐、姦淫に生きなかった多くの人物がいる。他生ではこれらの人物はこれらの誤謬に止まっている限り、天界の社会へ導き入れられることは出来ない。なぜならその誤謬がその社会に感染するからである。それで彼らはその誤った原理を除くために、しばらくの間低地に留めおかれる。彼らがそこに止まっている時間は誤謬の性質とそれにより身に着けた生命とに応じ、また彼らがその原理を確認した度に応じ、長くまた短くなっている。そこに甚だしく苦しむ者があり、それほど苦しまない者もいる。こうした苦しみは剥奪と呼ばれるものであり、そのことが聖言には再三記されている。剥奪の期間が満ちると、彼らは天界に挙げられ、新しく来た者として信仰の諸真理を教えられるが、このことは彼らを迎える天使たちにより行われる。
天界の秘義1107
剥奪され、かくして世から携えてきた誤った原理を除こうと非常に願っている者がいる。(たれ一人時が経たなくては、また主から供えられる手段によらなくては、他生では自分の誤った原理を除くことは出来ないのである)。これらの人物が低地に止まっている間は、彼らは主により救い[解放]の希望を絶えず与えられ、また自分が匡正されて、天界の幸福を受ける備えをしているという目的を絶えず考えさせられている。
天界の秘義1109
誤った原理を充分に確認した者は完全な無知に陥り、明確でない、混乱した状態に置かれ、それで彼らは単にその確認した事柄を考えるのみで、内的な苦痛を覚えるのである。しかししばらくたった後で、彼らは謂わば新しく造られ、信仰の諸真理に浸透する。
天界の秘義1110
自分の善行による義と功績とを主張し、救いの効力を自分自身に帰して、主とその義とに帰しはしない、そしてそのことを思考と生活の中に確認した者らは、他生ではその誤った原理を幻想に変えられ、かくて彼らは木を切っている者のように自分自身に思われているが、これは彼らにそのように思われているようにそのまま起っているのである。私は彼らと語ったことがある。彼らがその仕事に携っていて、疲れてはいないかと尋ねられると、自分たちは天界に価することが出来るほどの仕事を未だ成し遂げていないと答える。彼らが木を切っていると、木の下に主の何かが在るように見え、かくてその木が彼らの獲得しつつある功績であるかのように見える。主のものが多くの木の中に現れるに応じ、益々彼らは長くこの状態の中に止まっているが、しかしそうした外観が停止し始めると、彼らの剥奪も終りに近づいているのである。遂に彼らは彼らもまた良い社会に入れられることが出来るようなものになるが、しかし依然真理と誤謬の中に長く動揺している。彼らは義務を重んじた生活を送っているため、主により非常な配慮が彼らに与えられており、主は時折彼らのもとへ天使たちを送られている。これらはユダヤ教会の中で木を切る者により表象された者である(ヨシュア記9・23,27)。
天界の秘義1111
善良な公民的なまた道徳的な生活を送ったものの、自分は自分の業により天界に価すると自分自身に言いきかせ、ただ一人の神を宇宙の創造者として認めるのみで充分であると信じた者らは、他生ではその誤った原理を、自分が草を刈っているように自分自身に思われて、草刈りと呼ばれているといった幻想に変えられる。彼らは冷たい、それで自分自身をこの草刈りで温めようと試みる。時折彼らは周りに行って、その会う者たちの間に、あなた方は私たちに熱を与えて下さるであろうか、と尋ねる。実際霊たちはその熱を与えることが出来るのであるが、しかし彼らの受ける熱は外なるものであって、その欲しているものは内なる熱であるため、それは彼らには何らの効果も与えないのである。それで彼らは草刈りに帰り、かくてその労働により熱を得るのである。その寒さを私は感じたのである。彼らは天界に挙げられることを常に望んでおり、時折いかようにして自分自身を自分自身の力により天界に入れることが出来るであろうかと共に協議している。これらの人物は良い業を行ったため、剥奪される者たちの間におり、遂には、ある時間が経過した後で、良い社会に入れられて、教えられるのである。
天界の秘義1112
しかしながら信仰の諸善と諸真理との中にいて、そのことにより、良心と仁慈の生活を得た者は死後直ぐに天界へ挙げられる。
天界の秘義1113
唆されて売春に陥り、かくてその中には何ら悪はないと確信してはいるが、他の点では正しい気質を持っている娘たちがいる。これらの者はこのような生活について知って判断することが出来る年齢にいまだ達していないため、彼らのもとに教誨師が置かれているが、彼は全く厳しく、彼らがその思いの中でそうした淫猥なことに突入すると必ず彼らを懲らしめるのである。彼らは彼を非常に恐れ、かくして剥奪されるのである。しかし娼婦であって、他の女たちを唆したところの大人の女連は剥奪を受けないで、地獄にいる。
天界の秘義2694[2]
改良されつつある者たちは真理の無知[真理に対する無知]、または荒涼[荒れすさぶこと]の中に陥り、悲哀と絶望にすら陥るが、その時になって初めて主から慰安と助けとを得ることは、現今では僅かな者しか改良されはしないという理由から知られてはいない。改良されることが出来るようなものである者はもし身体の生命の内でこの状態に入れられないなら、それでも他生でその状態に入れられるのであって、この状態は他生では良く知られており、剥奪または荒廃と呼ばれている。このような剥奪または荒廃の中にいる者は絶望にすら陥るが、彼らがこの状態の中にいる時、主から慰めと救いとを得て、遂には天界に挙げられ、そこで天使たちの間に謂わば新しく信仰の幾多の善と真理とを教えられるのである。この剥奪と荒廃の理由は主として、彼らが彼ら自身のものであるものからみごもった[はらんだ、考えついた]説得的なものが破壊されるためであり(2682番参照)、また彼らが善と真理との認識を[善と真理とを認識することを]受けるためでもあり、その善と真理との認識を彼らは彼ら自身のものであるものから発している説得的なものが謂わば柔らげられてしまわないうちは受けることが出来ないのである。このことが絶望にすら至る心労と悲哀の状態により行われるのである。善いものは、否、祝福された幸福なものは、たれ一人その者が善くない、祝福されない、幸福でないものの状態の中にいた経験がなくては、精妙な感覚をもって認識することは出来ないのである。そのことから[そうした経験から]彼は認識のスフィアを得るが、しかもそれはその者がその対立した状態の中にいた度に応じているのである。認識のスフィアとその範囲の拡がりとは対照したものを身を以て知ることから生まれている。これらが、剥奪または荒廃の原因であるが、その他多くのものがある。
天界の秘義2694[3]
しかし説明のため例を考えられよ。凡ゆるものを自分自身の深慮に帰して、神的摂理[神の摂理]には僅かなものしか帰しはしない、または全く何一つ帰しはしない者らに、神的摂理[神の摂理]は普遍的なものであり、しかもそのことはそれが最も微細な事項の中にも存在しているためであり、髪の毛一筋さえも頭から落ちるならば、(即ち、いかほど小さな事柄であっても、もしそれが起るなら)それは必ず予見されており従ってそれに対して備えがなされているということが無数の理由により証明されるにしても、それでも自分自身の熟慮について抱かれている彼らの思考状態は、彼ら自身がその幾多の理由により納得するようになるその瞬間そのものの時を除いては、それによって変化はしないのである。否、その同じことが生きた経験により、彼らに立証されても、変化はしないのであり、彼らがその経験を見、またはその経験の中に置かれた丁度その瞬間には彼らはそれがそうであると告白するかもしれないが、しかし、数分後には、その前の状態に帰ってしまうのである。こうした事柄は思考に瞬間的には多少影響するかもしれないが、しかし情愛には影響しないのであり、情愛が破壊されない限り、思考はそれ自身の状態の中に止まるのである。なぜなら思考は情愛からその信念とその生命とを得ているからである。しかし心労と悲哀とが自分自身の無力という事実により彼らに刻み付けられて、しかもそれが絶望にさえも至ると、彼らの説得的なものは破壊され、彼らの状態は変化し、かくて彼らは自分は自分自身では何ごとも行うことが出来ない、力と深慮と理知と知恵はことごとく主から発しているという信念へ導き入れられることが出来るのである。信仰は、自己自身から発しており、善も自己自身から発していると信じている者たちの場合もこれに似ている。
天界の秘義2694[4]
説明のため他の一つの例を考えられたい。義とされた時は自分の中には最早いかような悪も存在していない、それは完全に拭い去られ、抹消されており、かくて自分は純潔であるという確信を抱いている者たちに向って―もしこうした者たちに向って何一つ拭い去られはしない、抹消されもしない、あなたは主により悪から遠ざけられて、善の中に留め置かれているのであるということがいくつかの理由により明らかにされるにしても(即ち世で送っていた善の生活からこのことが彼らには可能であるといった性格を持っている者たちに明らかにされるにしても)、更に彼らは彼ら自身では悪意外の何ものでもなく、実に極めて不潔な悪の塊りであることを経験により納得するにしても―結局彼らはその意見の信念から後退しようとはしないのである。しかし彼らが自分自身の中に地獄を認めるといった状態に陥り、しかもそれが救われることが出来ることに絶望してしまうといった程度にさえもなると、その時始めてかの説得的なものは破壊されて、それと共に彼らの誇りも、また自分自身に比較して他の者を蔑む思いも、また自分が救われるただ一人の者であるという傲慢さも打ち砕かれるのであり、善はことごとく主から発しているのみでなく、凡ゆるものも主の慈悲から発しているという信仰の真の告白の中へ彼らは導き入れられて、遂には主の前における心情の謙虚[卑下]の中へも導き入れられるのであって、そうしたことは自己の真の性格を承認することなしにはあり得ないのである。ここから今や改良されつつある者が、または霊的なものになりつつある者が前に記されている諸節の中に取り扱われている剥奪または荒廃の状態に陥る理由が明らかであり、また彼らがその状態の中に置かれて絶望にさえ至るとき、その時初めて主から慰めと救いとを受けることも明らかである。
天界の秘義5270[2]
人間はその改良の間では先ず聖言から、または教義から幾多の真理を学んで、それらを記憶の中に貯えておくのである。改良されることの出来ない者が真理を学んで、それらを記憶に貯えると、それで充分であると信じるが、しかし彼は非常に誤っている。彼が獲得した諸真理は徐々に導き入れられて善と連結されなくてはならないのであり、そしてこのことは自己への愛と世への愛の幾多の悪が自然的な人の中に残っている限り行われることは出来ないのである。これらの愛は最初真理を導き入れたものであったが、しかし真理は決してそれらとは連結されることは出来ないのであり、それで連結が行われるためには、これらの愛により導き入れられて、保留された諸真理は先ず追放されなくてはならないのである、が、それらは実際には追放されるのではなくて、内に引き込められて現れないのである、そうした理由からそれは真理が剥奪されたように『見える』と呼ばれている。このことが行われると、自然的なものは内から明るくされて、自己への愛と世への愛の悪は崩れ、それらが崩れるに応じて、真理は貯えられて、善と連結するのである。人間が諸真理を剥奪されているように見える状態は聖言では『荒廃[荒涼]』と呼ばれ、また『夕』にたとえられており、人間は朝に入る以前はその中にいるのである、それゆえ表象的な教会では一日は夕から始ったのである。
天界の秘義5360
『飢饉』の意義は真理と善との欠如であり(1460、3364番)、従って荒廃[荒涼]である。飢饉はこのような欠如、または荒廃を意味していることは、天的な霊的な食物は善と真理以外の何ものでもないためである。これらのものは天使たちと霊たちとを養うものであり、また彼らが飢えた時切望し、渇いた時渇望するものであり、それでまた物質的な食物はそれに相応しているのである―例えばパンは食物に属している凡ゆる物と同じく、パンは天的な愛に、ぶどう酒は霊的な愛に相応しているのである。それゆえこうしたものが欠けているとき、『飢饉』が起こり、聖言にはそれは『荒廃』と『剥奪』と呼ばれており―真理が欠けたときは『荒廃[荒涼]』、『善』が欠けた時は、『剥奪』と呼ばれているのである。
天界の秘義5376[5]
荒廃にかかわる実情のいかようなものであるかは他生で荒廃の状態の中にいる者たちから明らかである。そこで荒廃(の状態)にいる者たちは悪霊と魔鬼とにより責め苛まれるのである、なぜなら悪霊と魔鬼とは悪と誤謬との信念を注ぎ入れるため、遂には彼らは殆ど圧倒されんばかりになり、その結果、真理は現れなくなるからである、しかし荒廃の時が終わりに近づくにつれて、彼らは天界から射して来る光により明るくされ、かくして悪霊と魔鬼は、各々その者自身の地獄へと追い払われ、そこで刑罰を受けるのである。
天界の秘義5376[12]
これらの記事から荒廃[荒涼]は再生しつつある者たちのもとでは真理が外観的に剥奪されることであるが、再生していない者たちのもとではそれが絶対的に剥奪されることであることが明白である。
霊界日記692/1巻
このことは時として非情に長い年月を要するのである―数百年、数千年も要する、と言われている―なぜなら剥奪には長い時がかかる者がいるからである。1748年[60歳]2月9日。
霊界日記1772
低地にいる者たちは実際巨大人の中にはいないものの、それでも主の生命から生きているのである。これらの者については、そこには非常に多くの者がおり、或る者はそこに、剥奪されてしまうまで、長い期間、実に数代にも亘って抑留されていると言われた。