毒麦のたとえ

人の子

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

 

 

 

 

1.聖書

 

マタイ13・24−30

 

 イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』

 主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」

 

 

マタイ13・36−43

 

 それから、イエスは群集を後に残して家にお入りになった。すると、弟子たちがそばに寄って来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終りのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終りにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

真の基督教784

 

 新しい教会が地上に建設されるに先立って新しい天界が作られねばならぬことは神的秩序に順応している。何故なら内なる教会と外なる教会とがあり、内なる教会は天界の教会と一をなし従って天界と一を成し、而してこの世の教職者達によって知られている如く、内なるものは外なるものの前に作られ、その後外なるものが内なるものによって作られねばならないからである。人間に於ける教会の内なるものを形成するこの新しい天界が増大するに応じて、新しいエルサレムすなわち新しい教会がその天界から降って来るのであり、それ故これは一瞬に生ずることは出来ない。前の教会の諸々の虚偽が先ず取り除かれなくてはならない。何故なら新しい真理は古い虚偽が根こそぎにされない中は入ることは出来ないからである。而してこれは先ず教職達の間に生じ、彼らを通して平信徒の間に生じなくてはならない。何故なら主は以下のように語り給うたからである、「誰も新しき葡萄酒をふるき革袋に入れず、もし然せばその袋はりさけ、葡萄酒ほとばしり出でん。新しき葡萄酒は新しき革袋に入れ、かくて二つながら保つなり」(マタイ9・17.マルコ2・22.ルカ5・37、38)。これらの事柄は主の御言葉によって明白であるように、教会の終わりを意味する世の終わりまでは生ずることは出来ない。

 

イエスは語り給うた「天国は良き種を畑にまく人の如し。人々の眠れる間に、仇来たりて、麦のなかに毒麦を播きて去りぬ。苗はえ出でて実りたるとき、毒麦もあらはる。僕ども来りて家主にいふ、我らが往きて毒麦を抜き集むるを欲するかと。主人言う、いな恐らくは毒麦を抜き集めんとて、麦をも共に抜かん。両ながら収穫まで育つに任せよ。収穫のとき我かかる者に、先ず毒麦をあつめて、焚くためにこれを束ね、麦はあつめて倉に納れよと言はん。収穫は世の終わりなり。されば毒麦の集められて火に焚かるる如く、世の終わりも斯く在るべし」(マタイ13・24−30,39,40)。本章の第一項に見られ得るように、ここの麦は新しい教会の真理と善を意味し、毒麦は前の教会の諸々の虚偽と悪を意味し、世の終わりは教会の終わりを意味する。

 

 

天界の秘義39

 

 人間は主によらなくては、善いものを考えることすらできないのであり、また良いものを意志することもできず、従って善いものを行うことができないことは信仰の教義から各人に明らかであるに相違ない。なぜなら主はマタイ伝に以下のように言われているからである―

 

 良い種子を播く者は人の子である(13・37)。

 

 

天界の秘義2449[2]

 

他生に入ってくる者はことごとくその者らが身体の中で送っていた生活に類似した生活へ再び入れられ、かくて善良な者にあっては、その者たちが善と真理とにより主により天界へ挙げられるために、悪と誤謬とは分離されてしまうが、しかし悪い者にあっては、その者が悪と誤謬により地獄へ連れ去られて行くために、善と真理とが分離されてしまうのであり(2119番参照)、そのことはマタイ伝における主の御言葉に正確に従っているのである―

 

 たれでも持っている者はさらに豊かに持つために、与えられるが、しかし持たないものはその持っているものさえもその者から取り去られるであろう(13・12)。

 

同書には他の所に―

 

 持っている者は、豊かに持つために、与えられるであろう、しかし持っていない者からは、その持っているものすらも取り去られるであろう(25・29、ルカ8・18、19・24−26、マルコ4・24,25)。

 

同じ事がマタイ伝の以下の言葉によりまた意味されている―

 

 二つとも収穫までともに生やしておきなさい、収穫の時わたしは刈る者に言いましょう、先ず毒麦を集め、それをつかねてたばにし、焼いてしまいなさい、しかし小麦は集めて、納屋に入れなさい、と。収穫は代の終りである、それで毒麦が集められて、火に焼かれるように、代の終りにもそのようになるでしょう(13・30,39,40)。

 

これと同じことがまた、あみが海に投げられて、種々の魚がとられたが、善いものは集められて器の中へ入れられ、悪いものは棄て去られたことについて、代の終りにもそのようになることについて言われていることにより意味されている(47−50節)。

 

 『終り[終結、完結]』とは何であるか、それは教会にかかわるこれらのことに類した事柄を意味していることは、前の1857、2243番に見ることができよう)。

 

 悪と誤謬とが善良な者たちから分離されてしまう理由は、善良な者たちが悪と善との間に垂れ下がらないで、善により天界へ挙げられるためであり、善と真理とが悪い者から分離してしまう理由は、悪い者がその者にぞくしている何らかの善により正しい者をたぶらかさないためであり、またその悪によりその者らが地獄にいる悪い者の間へ去ってしまうためである。なぜなら思考のあらゆる観念とあらゆる情愛とは他生では、善が善良な者の間に、悪が悪い者の間に伝達されるように伝達され(1388−1390)、かくて善[善良な者]と悪[悪い者]が分離されないかぎり、その結果無数の害悪が生まれてきて、さらにともに交わることはことごとく不可能となってしまうからであるが、事実は、あらゆるものは諸天界では主に対する愛と相互愛のあらゆる相違に応じ、またそこから派生してくる信仰のあらゆる相違に応じて(685、1394番)地獄ではいくたの欲念のあらゆる相違に応じて、そこから派生してくる幻想のあらゆる相違に応じて、極めて精妙に交わっているのである(695、1322番)。しかしながら分離は完全な除去ではないのである、なぜなら何人からもその者の得たものはことごとくは取り去られはしないからである。

 

 

黙示録講解426(2)

 

 悪い者らが地獄へ投げ込まれる以前に善い者が悪い者らから分離されないかぎり、善い者は悪い者とともに死滅してしまうのである。なぜなら未だ天界へ上げられてはいないが、悪い者が投げ出された後に上げられることになっている善い者たちは悪い者らの外なる礼拝を通して悪い者らと非常に密接な交流をもっているからである。なぜなら(前に言われたように、また小著「最後の審判」、59、70番にも言われたように)最後の審判までとどまることを許された悪い者らは外なる礼拝の中にはいたが、内なる礼拝の中にはいなかったからである、なぜならかれらは口と身振りで教会の聖いものを外面的には見せびらかし、偽装をしてみせはしたものの、霊魂と心情からは行いはしなかったのであり、こうした外なる礼拝によりまた内部では善い者であった者たちと交流を保有したのである。こうした交流のため、善い者たちはかれらから分離されない間は、悪い者らは投げ落とされることはできなかったのである、なぜならもしかれらが共に残されたとするなら、悪い者らが外なる礼拝により連結していた善い者たちは害われてしまったであろうし、すなわち、死滅してしまったであろう、なぜなら悪い者らは悪い者ら自身と共にかれらを引きよせてしまったであろうから。

 

(3)このこともまた主によりマタイ伝に予告されているのである―

 

 天の王国[天国]は畠に善い種子をまいた人間に似ている、人々が眠っている間にその敵が来て、(小麦の間に)毒麦をまいて、立ち去った。(以下略)(マタイ13・24−30)

 

『まいた人』は主を意味し、『畠』は霊界と教会とを―その中には善い者も悪い者らも共にいるのであるが、その霊界と教会とを―意味し、『善い種子』と『小麦』とは善い者たちを、『毒麦』は悪い者らを意味し、前に記されている連結のために、最後の審判の時までかれらは分離されることができなかったことは、その毒麦を前もって集めようとねがった僕たちに対する答えにより意味されており、僕たちは善い者たちから悪い者らを分離しようとねがったのである、すなわち、『あなたらはその毒麦を集めている間に万が一にも同時にそれらとともに小麦を根こそぎにしてしまうことがないように、二つとも取り入れまで共に生かしておきなさい』、『取り入れ』は最後の審判を意味しているのである。このことが主が同章に教えられている意味であり、そこに主は以下のように言われている―

 

  善い種をまく者は人の子である、畠は世である、善い種子は王国の子たちである、毒麦は悪い者らの子らである、取り入れは代の終り[終結]である。そのとき毒麦は集められて、火でやかれるように、代の終りにはそのようになるであろう(13・37−40)。

 

 これは以下のことを明白にしている、すなわち、『善い種をまいた家の主人』は、御自身を『人の子』と呼ばれている主を意味し、『畠は世である』は霊界と教会とを―その中には善い者も悪い者もいるのであるが、そこを―意味しているのである。これは『天の王国[天国]』はその畠に善い種をまいた人間に似ていると言われていることから霊界を意味していることが明らかであり、『天の王国[天国]』は霊界と教会とを意味しているのである、このことからまた、これは最後の審判について言われていることは明らかであり、最後の審判はわたしたちの世で行われはしないで、霊界で行われるのであり、そのことは小著「最後のし審判」の中に認めることができよう。この後の記事はまた以下のことを明白にしている、すなわち、『善い種子』と『小麦』とはここに『王国の子たち』と呼ばれている善い者たちを意味しており、『毒麦』は『悪い者の子ら』と呼ばれている悪い者らを意味しており、またその分離が行われる『取り入れ』は最後の審判を意味しているのである、なぜなら『取り入れは代の終り[終結、完結]である』と言われているからである。(代の終結は最後の審判を意味していることは前に見ることができよう、397番)。『そのとき毒麦はやかれるために集められて束になり、小麦は集められて納屋に入れられる』は、悪い者らは、かれらのもとに在る悪の種属と種類とに応じ、集められて、地獄へ投げ込まれなくてはならないことを意味しており、このことは悪い者らが投げ出されるとき起るのであり、『集められて束になること』により意味され、善い者たちはとどめおかれることは『小麦を納屋の中へ集めて入れること』により意味され、『納屋』は善い者たちが集められる所を意味している。このことから以下のことを認めることができよう、すなわち悪い者らから善い者たちを完全に分離することは最後の審判の時に起り、それは前に記された連結のためにそれ以前には起ることはできないのであり、でないと善い者たちは悪い者らと共に死滅してしまうのである、なぜなら『万が一あなたたちが毒麦を集める間に、同時に毒麦とともに小麦を根こそぎにしてしまう恐れがある』と言われており、さらに、『取り入れまで二つとも共に生えさせよ』、すなわち、代の終結[完結]まで共に生えさせよ、と言われているからである。さて、善い者を悪い者から引き離すことは主から発出する神的なものがおだやかに、適度に流入することにより行われるに反し、悪い者らを地獄に投げ込むことは神的なものが強烈に流入することにより行われるため、本章の最初の三つの節の中に含まれている凡ての細々としたことはいかように理解されなくてはならないかを認めることができよう、すなわち、神の僕たちがその額に封印されてしまう迄は、地、海、木は害われないように、抑えられなくてはならなかった『風』により意味されていることがその霊的な意味から知られるとき、認めることができよう。

 

(4)いかようにしてこの分離が遂行されるかについて少しく述べよう。善い者が悪い者らから分離されるとき―そのことは主により、その神的なもののおだやかな流れにより行われ、また天使たちと霊たちのもとにある霊的な情愛に属しているいくたの事柄を注視することにより行われるのであるが―そのさい主は、内的には善良であり、そこから外的にも善良である者たちが自らを主に向け、かくて自らを悪から遠ざけるようにしむけられ、かれらがそのように自らを遠ざけるとき、かれらは悪い者らには見えなくなってしまうのである、なぜならこうしたことは霊界では普通の事であり、たれでも自らを他の者から遠ざけるとき、その者はその他の者には見えなくなってしまうからである。こうしたことが行われるとき、悪い者らは善い者から引き離されると同時に、その者らが外なるものの中で偽装した神聖さからも引き離され、かくてかれらは地獄の方へ視線をこらし、その中へやがて投げこまれてしまうのである。(こうした自らを地獄の方へぐるりと回転させることについてはさらに多くのことが「天界と地獄」の中に見ることができよう、17、123、142、144、145、151、153、251、255、272、510、548、561、番、内なる礼拝の中に、または内なる敬虔と神聖さとの中には身を持続させることは全くできはしないものの、外なるそうしたものの中に身を持続させることはできた者らは、最後の審判まではとどまることは許されはしたものの、審判以後はとどまることはもはや許されはしなかったことは、またなにゆえ許されはしなかったかは、小著「最後の審判」に見ることができよう、59、70番)

 

 

天界の秘義7571

 

 ここでは『草』はその畠の作物を意味している。『草』によりここでは教会の真理が意味され、『毒麦』により誤謬が意味されていることは明白であり、(後略)。

 

 

 

天界の秘義9807〔8〕

 

 更に―

 

 善い種子を蒔く者は人の子である、畠は世界である、種子は王国の息子たちであり、毒麦は悪い者の息子らである(マタイ13・37、38)。

 

『善い種子』は真理の神的なものを意味しており、それで『人の子〔人間の息子〕がそれを蒔く』と言われており、『王国の息子』は天界と教会における真理の神的なものを意味している、なぜなら『息子』は真理を意味し(489、491、533、1147、2623番)、その対立した意義では、誤謬を意味し―誤謬もまた『悪い者の息子である』―『王国』は天界を意味し、同じく教会を意味するからである。