絶望

 

試練剥奪[荒廃]

 

 

1.絶望

2.落胆

3.スウェーデンボルグ

 

 

 

 

1.絶望

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国4巻P47

 

聖母:「人生のうちで非常に悲しい出来事が起きるとき、それを乗り切るためのもっとも健康的で効果的な薬は、受諾の精神です。絶望する時は、あなたは薬を飲む代わりに、自分の魂を殺す毒を飲んでいるのです。全ての病にとってもっとも適切な治療法、また私たちを神性化し、貴い者としてくれる基本的なことは、それを平和な心で受諾する精神です。」

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスの受難P294

 

“罪を犯した人はすべてにおいて恐れの幻を見る”それをつくり出すのは良心である。サタンは心に後悔を起こし得るそういう幻を、落胆と絶望にすりかえる。絶望が最後の犯罪である自殺へと導くのである。

 

 

ドン・ボスコ社/十字架の聖ヨハネ小品集/P16

 

 暗のうちであっても、信仰と望徳のうちにお生きなさい。この暗の中で、神はあなたの霊魂を守っていられるのですから。心配を神にお投げなさい。あなたはかれのもの、かれはあなたをお忘れにはならないでしょう。神があなたをただひとり、うっちゃってお置きになると思ってはいけません。それは神をあなどることになります。

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々1.P138

 

ユダ:「では先生、私は何を捨て去ればよろしいですか」

イエス:「おまえの心をかき乱すと分っていることなら何でも。なぜなら、神は平和で、おまえが神の道を歩きたいならば、おまえの知恵、心、肉体にとって平和でないこと、すべてを抹殺すべきです。自分自身を改革することが難しいのは知っています。しかし、私は、あらためて神の子となるように、人間を助けるためにここにいます。しかし、おまえのさきほどの質問に答えます。適切な私の答えがなく、おまえがあやまちに残ったのは私の責任だと言わせないように。自決するのは他人を殺すのと同じです。自分の命であろうと、他人の命であろうと、命は神の賜物で、これを与えた神だけが、いつかそれを切る権利があります。自決する人は、自分の傲慢を告白するもので、傲慢は神に憎まれています」

 

「傲慢を告白するとおっしゃるのですか。私はむしろ絶望を告白すると言いたい」

「しかし、絶望が傲慢でなくて何でしょう。ユダ、ちょっと考えてみなさい。人はなぜ失望するのですか。さまざまの不幸が集中豪雨のように降りそそぎ、それに自力で打ち勝ちたいと思ってもできないか、もしくは、自分は罪人で神に許されないと考えているからです。

 

この両方とも、もとをただせば傲慢ではありませんか。じぶんだけで何でもしたいという人は“私にはできないけれどもあなたにはできます。私を助けてください”と神に手を伸ばし、あなたにすべてを期待し、すべてを希望するという神への謙遜がないのです。“神は私をゆるしはしない”と言っているもう一人の人は、神を自分自身と比べて、自分が侮辱した人は自分を許すわけがないと知っているからです。すなわち、ここにも傲慢があります。謙遜な人は、あわれみ、同情し、受けた侮辱のために苦しんでいてもゆるします。傲慢な人はゆるさない。“父よ、私は罪を犯しました。罪深いあわれな子供をゆるしてください”と頭を下げることを知らないからです。

 

ユダ、知らないのですか。真実な痛悔をしている心、謙遜で善に復活したいという望みの心でゆるしを請うなら、御父からすべてゆるされるのを知らないのですか」

 

「しかし、ある犯罪は許されてはいない。ゆるされることはあり得ない」とユダが言い返す。

「おまえがそう言うのだし、人間はそう思うから、そのとおりかもしれない。しかし、まことに言うが、“最悪の犯罪”の後でも、罪人が御父の足元に走り寄り―ユダ、そのために御父と言われます。そして、無限に完全な父です―泣きながら、どんな償いも拒まず、失望せず、自分をゆるすようにと請い願えば、御父はゆるしを得るために、霊魂を救うに値するものとなるように、償う方法を与えるはずです」

 

「それなら、あなたに言わせれば、聖書で自殺して死んだと言っている人々は悪かったのですね」

「だれに対しても、自分に対しても暴力はよくない。その人たちが悪かったのです。ただ、善悪の判断がまだできなかったから、ある時は神からあわれみを受けたと思われます。しかし、みことばがすべての真理をはっきりさせたであろうその時から“絶望して死ぬ人にはゆるされはしない”(後略)」

 

 

2.落胆

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P309

 

主がエンドルのヨハネに

「うん、分かっています。泣くのだけはやめなさい。謙遜を深めるのはよいが、落胆は避けなさい。“落胆は、まだ傲慢であるしるし”です。さあさあ、泣くのではない。ただ謙遜でありなさい」

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P132

 

「いいえ、その望みと謙遜が妨げになるのではありません。むしろ、その望みを順序立てて深めるように努力しなければなりません。順序立てて努力しないと、不合理なせっかち、理由のない落胆、人間は不完全な者だから完全な者にはなれないなどという疑問とあきらめが生まれます。“徳”というものは必要であり、それによって義に至るという活発な望みが必要です」

 

 

マリア・ワルトルタ/受難の前日/P

 

傲慢な者はいつも嘘つきで、卑怯者です。

(中略)

ところが、傲慢な者は、自分が救いをすべて拒否してきたと気づいた時、落胆し、神のあわれみのことなど考えず、『ああ、もう手遅れだ!』と思い、最後の死、永遠の滅びに至るのです。

 

 

 

 

3.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義2334

 

試練にはことごとく主の現存[臨在]と慈悲について、また救いといった事柄について多少の疑惑が持たれるのである、なぜなら試練の中にいる者は内的な不安の中にいて、絶望にすら陥るからである、その中に彼らの大半が留めおかれるのは彼らが遂には以下の事実を確認するためである、即ち、凡ゆるものは主の慈悲から発しており、彼らは主のみにより救われるのであり、彼ら自身には悪以外には何ものも存在していないということであり、そのことを彼らは試練により、即ち、その中で征服することにより確認するのである。試練の後でその試練から真理と善の多くの状態が残り、その状態へ彼らの思いがその後主によりたわめられる[向けられる]のであるが、もしそうでないならその思いは狂った事柄に突入して、その心を真で善いものに対立したものへ引きずり込んでしまうのである。

 

 

 

天界の秘義2694[2]

 

 改良されつつある者たちは真理の無知[真理に対する無知]、または荒涼[荒れすさぶこと]の中に陥り、悲哀と絶望にすら陥るが、その時になって初めて主から慰安と助けとを得ることは、現今では僅かな者しか改良されはしないという理由から知られてはいない。改良されることが出来るようなものである者はもし身体の生命の内でこの状態に入れられないなら、それでも他生でその状態に入れられるのであって、この状態は他生では良く知られており、剥奪または荒廃と呼ばれている。このような剥奪または荒廃の中にいる者は絶望にすら陥るが、彼らがこの状態の中にいる時、主から慰めと救いとを得て、遂には天界に挙げられ、そこで天使たちの間に謂わば新しく信仰の幾多の善と真理とを教えられるのである。この剥奪と荒廃の理由は主として、彼らが彼ら自身のものであるものからみごもった[はらんだ、考えついた]説得的なものが破壊されるためであり(2682番参照)、また彼らが善と真理との認識を[善と真理とを認識することを]受けるためでもあり、その善と真理との認識を彼らは彼ら自身のものであるものから発している説得的なものが謂わば柔らげられてしまわないうちは受けることが出来ないのである。このことが絶望にすら至る心労と悲哀の状態により行われるのである。善いものは、否、祝福された幸福なものは、たれ一人その者が善くない、祝福されない、幸福でないものの状態の中にいた経験がなくては、精妙な感覚をもって認識することは出来ないのである。そのことから[そうした経験から]彼は認識のスフィアを得るが、しかもそれはその者がその対立した状態の中にいた度に応じているのである。認識のスフィアとその範囲の拡がりとは対照したものを身を以て知ることから生まれている。これらが、剥奪または荒廃の原因であるが、その他多くのものがある。

 

 

 

天界の秘義2694[3]

 

しかし説明のため例を考えられよ。凡ゆるものを自分自身の深慮に帰して、神的摂理[神の摂理]には僅かなものしか帰しはしない、または全く何一つ帰しはしない者らに、神的摂理[神の摂理]は普遍的なものであり、しかもそのことはそれが最も微細な事項の中にも存在しているためであり、髪の毛一筋さえも頭から落ちるならば、(即ち、いかほど小さな事柄であっても、もしそれが起るなら)それは必ず予見されており従ってそれに対して備えがなされているということが無数の理由により証明されるにしても、それでも自分自身の熟慮について抱かれている彼らの思考状態は、彼ら自身がその幾多の理由により納得するようになるその瞬間そのものの時を除いては、それによって変化はしないのである。否、その同じことが生きた経験により、彼らに立証されても、変化はしないのであり、彼らがその経験を見、またはその経験の中に置かれた丁度その瞬間には彼らはそれがそうであると告白するかもしれないが、しかし、数分後には、その前の状態に帰ってしまうのである。こうした事柄は思考に瞬間的には多少影響するかもしれないが、しかし情愛には影響しないのであり、情愛が破壊されない限り、思考はそれ自身の状態の中に止まるのである。なぜなら思考は情愛からその信念とその生命とを得ているからである。しかし心労と悲哀とが自分自身の無力という事実により彼らに刻み付けられて、しかもそれが絶望にさえも至ると、彼らの説得的なものは破壊され、彼らの状態は変化し、かくて彼らは自分は自分自身では何ごとも行うことが出来ない、力と深慮と理知と知恵はことごとく主から発しているという信念へ導き入れられることが出来るのである。信仰は、自己自身から発しており、善も自己自身から発していると信じている者たちの場合もこれに似ている。

 

 

 

天界の秘義2694[4]

 

 説明のため他の一つの例を考えられたい。義とされた時は自分の中には最早いかような悪も存在していない、それは完全に拭い去られ、抹消されており、かくて自分は純潔であるという確信を抱いている者たちに向って―もしこうした者たちに向って何一つ拭い去られはしない、抹消されもしない、あなたは主より悪から遠ざけられて、善の中に留め置かれているのであるということが幾つかの理由により明らかにされるにしても(即ち世で送っていた善の生活からこのことが彼らには可能であるといった性格を持っている者たちに明らかにされるにしても)、更に彼らは彼ら自身では悪意外の何ものでもなく、実に極めて不潔な悪の塊りであることを経験により納得するにしても―結局彼らはその意見の信念から後退しようとはしないのである。しかし彼らが自分自身の中に地獄を認めるといった状態に陥り、しかもそれが救われることが出来ることに絶望してしまうといった程度にさえもなると、その時始めてかの説得的なものは破壊されて、それと共に彼らの誇りも、また自分自身に比較して他の者を蔑む思いも、また自分が救われるただ一人の者であるという傲慢さも打ち砕かれるのであり、善はことごとく主から発しているのみでなく、凡ゆるものも主の慈悲から発しているという信仰の真の告白の中へ彼らは導き入れられて、遂には主の前における心情の謙虚[卑下]の中へも導き入れられるのであって、そうしたことは自己の真の性格を承認することなしにはあり得ないのである。ここから今や改良されつつある者が、または霊的なものになりつつある者が前に記されている諸節の中に取り扱われている剥奪または荒廃の状態に陥る理由が明らかであり、また彼らがその状態の中に置かれて絶望にさえ至るとき、その時初めて主から慰めと救いとを受けることも明らかである。

 

 

 

天界の秘義5279

 

それは、絶望にさえいたることを意味していることは、『飢饉が地を滅ぼすでしょう』と言われているからである、なぜなら『地』により自然的な心が意味され、『飢饉』により真理の剥奪が意味されるとき、絶望以外のものは意味されないからである、なぜならそのとき霊的な憔悴が起るからである。この記事には真理の剥奪により引き起こされる荒涼の状態が記され、その状態の最後の段階は絶望である。絶望がこの状態の最後の段階であることは、それにより自己を、また世を求める愛の歓喜が遠ざけられ、それに代って善を、また真理を求める愛の歓喜が徐々に注ぎ込まれるからである、なぜなら再生することができる者たちの場合では、絶望は霊的な生命について感じられ、従って真理と善とを剥奪されることについて感じられるからである。

 

 

 

天界の秘義6144

 

絶望が荒廃と試練との最後のものであるには多くの理由があるが(5279、5280番)、その中以下のもののみを引照してみよう。絶望は、絶望を感じる者たちには、自分自身からは真理と善とは何一つ発しない、自分は自分自身からでは地獄に堕ちるものである、が、自分は主により堕地獄の状態から救われるのであり、そして救いは真理と善とによって流れ入るということを事実として、また明白に承認させるのである。絶望はまた彼らに主から発してくる生命の幸福を感じさせるのである。なぜなら彼らはその状態から脱すると、死に定められはしたものの、牢獄から自由にされた者のようになるからである。更に荒廃と試練によって、天界の生命に反した状態が感じられ、その結果天界の生命の満足と幸福との知覚と認識とが植え付けられるのである。なぜなら満足させる幸福なものを知覚し、認識することは、それに対立したものと比較されて初めて可能となるからである。それで比較が充分に行われるために、荒廃と試練とはその極度までも、即ち、絶望に至るまでも行なわれるのである。

 

 

 

天界の秘義7147

 

 低地にいる者たちは周囲の地獄から注ぎ入れられる誤謬と悪とに取り憑かれて悩まされるが、それは悪と誤謬とが取り除かれて、真理と善とが注ぎ入れられ、かくして彼らは天界へ挙げられることの出来る状態へ入れられるためである(7090、7122番を参照)。しかしその終わり近くになると、彼らは前よりも更に強烈に取り憑かれて悩まされるのである、なぜならその時は真理は彼らから取り去られて、ただ誤謬のみが彼らに取り憑いてこれを悩まし、しかもそれが絶望にさえ至ることが許されているからである、なぜなら取り憑いて悩ますことの最後は絶望となることが神の秩序であるからである(1787、2694、5279、5280番)。

 

 

天界の秘義7155                                  

 

ここから『彼らは自分たちが悪の中にいるのを見た』により、彼らは彼ら自身が堕地獄に近づいていることを認めたことが意味されているのである。なぜなら絶望状態にある者たちは自分は最早その攻撃に堪えることが出来ないと考えるため、自分は自分自身を誤謬の捕虜として引き渡さないわけにはゆかないと考え、それで絶望の状態であるからである、しかしその時彼らは救い出され、謂わば暗闇から光の中へ導き入れられ始めるのである。

 

 

 

天界の秘義7166

 

なぜなら神的なものから発している法則は秩序の法則であり、そして誤謬から取り憑かれて悩まされている状態にいる者たちに関わる秩序の法則は、彼らは絶望するまでも取り憑かれて悩まされねばならないのであり、そして彼らが絶望するまでも取り憑かれて悩まされない限り、その取り憑かれて悩まされることの用の最高のものは欠けるということであるからである。試練は絶望にまでも増大することはゲッセマネにおける主の試練から極めて明白であり(マタイ26・38、39、マルコ14・33−36、ルカ22・44)、また後には十字架上におけるその試練からも明白であり(マタイ27・46)、即ち、それは絶望の状態に至るまでも行われたのであり、そして主の試練は忠実な者たちの試練の型であり、それで主はたれでも主に従おうと願う者は自分の十字架を取らなくてはならないと言われているのである(マタイ10・38、16・24)、なぜなら主の栄化は人間の再生の型であり(3138、3212、3296、3490、4402、5688)、再生は主として試練により遂行されるからである。

 

 

 

天界の秘義7217

 

「心の苦しさのあまり*」

 

*または『息切れがして』

 

これは、絶望に近い状態の理由により、を意味していることは、『心の苦しさ』の意義から明らかであり、それは絶望に近い状態である、なぜならこうした状態にいる者たちは心が苦しむからである。この状態はパロによりイスラエルの子孫に課せられた重荷、即ち、彼らは煉瓦を作る藁を彼ら自身で探さなければならないという重荷により意味されていることは、前章の終わりに示されたところである。心の苦しさは絶望に近い状態を意味していることは、絶望に近い状態にいる者たちは内なる心労をなめ、その時は事実息切れがするという事実から

認めることが出来る。外なる意味ではこの状態〔息切れの状態〕は胸が押さえつけられて、そのため謂わば呼吸困難に陥ることであるが、内意ではそれは信仰に属した真理と仁慈に属した善とを剥奪されるために生じる心労であって、そこから絶望に近い状態が起きるのである。(呼吸が圧迫される状態と信仰の真理と仁慈の善とを剥奪されて起きる心労とは、心における霊的な原因から生じる身体内の自然的な結果として、相互に相応していることは、前に示したことから認めることが出来よう、97、1119、3886、3887、3889、3892、3893番)。霊的な真理と善とを剥奪されると、こうした心労が生まれ、従ってこうした苦しさが生まれることは、信仰と仁慈とにいない者によっては信じられる事は出来ない、なぜならそうした者は、こうした理由で苦しむことは心が軟弱で病んでいるからであると考えるからである。その理由は、彼らは実質的なものを何一つ信仰と仁慈に置かず、それでその霊魂と天界とに属するものにも置かず、単に富と卓越することにのみ置き、かくて身体と世の事柄にのみ置いているということである。彼らはまた(以下のように)考えるのである、『信仰と仁慈とは単なる言葉でなくて何であろう。良心でさえもが何であるか。こうしたものにより苦しい思いをなめることは、人間が愚かにもその空想から作り出したものから自分の中に見るものにより、即ち、何ら存在もしていないのに、何か存在していると想像しているものにより苦しめられることと同じである。富と高い地位は私らは目で見ることが出来、またそれらはそこから提供される快楽から存在していることを私らは知っている、なぜならそれらは私らの全身をのびのびとさせ、また充分な喜びをそこに掻き立てもするからである』。このように単に自然的な人間は考え、またこのように実際彼ら自身の間では話しているのである。しかし霊的な人間はそのようには考えはしないのである、なぜならこうした者たちはその霊の中に、かくてその霊に属したものの中に、即ち、信仰と仁慈の中にその主要な生命を得ており、それで自分自身が信仰と仁慈との諸真理と諸善とを剥奪されると信じると、死の苦悶をなめている者のようにも、悶えるのである、なぜなら彼らは己が前に霊的な死を、即ち、堕地獄を見るからである。前に言ったように、単に自然的な者にはこうした人物は心では弱く、病的なものであるように見えはするが、しかし彼らは強く、また健康なのであり、之に反し単に自然的な者らは自分自身には強く健康なものであるように思われ、また〔事実〕身体の方面では強く、健康ではあるものの、霊の方面では、〔即ち〕霊的には死んでいるため、全く弱いのである。もし彼らが自分はいかような種類の霊を持っているかを見ることが出来るなら、それがそうであることを承認するであろう、が、彼らは死んでしまうまではその霊を見はしないのである。

 

 

 

 

聖母から司祭へ1993.2.11

 

 最後に、病気という危険がいつもつきまといます。それは、失望という病気に負けて信頼を失う危険です。この病気に負ければ、あなたたちは、霊的不能者となってしまいます。そのために、わたしは、あなたたちすべての病気の薬として、また、あなたたちの必要に応じる助けとして、さらにまた、あなたたちの人間的弱さゆえの支えとして、わたしを示すことを望みました。

 わたしが自分を現したあの岩から奇跡的にほとばしり出るようになった水で、あなたたちが体を洗うようにと招きました。

大試練のときがすでに来てしまったこん日、再び母としてわたしは、あなたたちを、癒しと救いを得るために、恵みと潔白、苦業と祈りの道においてわたしに従うようにと招きます。