煉獄試練剥奪[荒廃]低地

盲人が盲人の道案内をすることができようか(ルカ6・39)

 

 

 

1.聖書

1.ここに大半の人物が死後天界へ挙げられる以前にいる

 

 

 

 

1.聖書

 

 

 

創世記37−23

 

ヨセフがやって来ると、兄たちはヨセフが着ていた着物、裾の長い晴れ着をはぎ取り、 彼を捕らえて、穴に投げ込んだ。その穴は空で水はなかった。

 

 

 

詩篇9・16

 

異邦の民は自ら掘った穴に落ち

隠して張った網に足をとられる。

 

 

ルカ6・39−42

 

イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。」

 

 

 

黙示録9・1−3

 

第五の天使がラッパを吹いた。すると、一つの星が天から地上へ落ちて来るのが見えた。この星に、底なしの淵に通じる穴を開く鍵が与えられ、 それが底なしの淵の穴を開くと、大きなかまどから出るような煙が穴から立ち上り、太陽も空も穴からの煙のために暗くなった。 そして、煙の中から、いなごの群れが地上へ出て来た。

 

 

 

 

2.ここに大半の人物が死後天界へ挙げられる以前にいる

 

 

天界の秘義4728

 

「彼を坑の一つに投げ入れた」。これは、誤謬の間に、を意味していることは、『坑』の意義から明白であり、それは誤謬である。『坑』が誤謬であるのは、誤謬の原理の中にいる人間は、死後、誤謬がその者から遠ざけられてしまって、いわば周辺に斥けられてしまうまでは、しばらくの間低地の下に留め置かれるためである。これらの所は坑と呼ばれ、その中へ入って行く者らは剥奪の中に置かれなくてはならないといった者である(1106−1113、2699、2701、2704番)。こうした理由から、『坑』により、抽象的な意義では、誤謬が意味されている。低地は足の真下に在り、周囲の地域は僅かしかそこから隔たってはいない。ここに大半の人物が死後天界へ挙げられる以前にいるのである。この地もまた再三聖言に言われている。その下に『坑』と呼ばれている剥奪の場所が在り、その場所の下にまた周囲に非常な範囲にわたって地獄が存在している。

 

 

 

天界の秘義4728[2]

 

 このことから『地獄』により、『低地』により、『坑』により、そのことが聖言に言われている時は、いかようなことが意味されているかが或る程度明らかである、例えばイザヤ書には―

 

 お前は下の地獄に、坑の脇に連れて来られた、お前は忌まわしい若枝のように、剣で刺し通されて殺され、坑の石に降る者らの衣服のように、お前の墓から投げ出された(イザヤ14・15、19)。

 

これはバビロンの王について語っており、彼により真理を冒涜することが表象されているのである、なぜなら『王』は真理であり(1672、2015、2069、3009、4581番)、『バビロン』は冒涜であるからである(1182、1326番)。『地獄』は呪われた者らのいる所であり、その呪われた状態は〔堕地獄の状態は〕忌まわしい若枝に、また剣で殺され、刺し貫かれ、坑の石へ降る者らの衣服に譬えられている。『殺された者の衣服』は冒涜された真理であり、『剣で刺し貫かれた者』は、真理がその中に消滅してしまった者らであり、『坑』は剥奪されなくてはならない誤謬であり、『石』は境であって、そこからまた『脇』と呼ばれている、なぜならその坑の周囲に地獄が在るからである。(『衣服』は真理であることについては、前の2576番を参照、『殺された者の衣服』は冒涜された真理である、なぜならその着物に染まった『血』は汚れたもの〔冒涜したもの〕であるからである、4503番)、『剣で刺し貫かれた者』は真理がその中で消滅してしまった者らである、4503番)。このことからまた、内意が無いならここに意味されていることは到底知られることは出来ないことが明らかである。

 

 

 

天界の秘義4728[3]

 

 同じくエゼキエル書にも―

 

 わたしがお前を坑に降る者らと共に古の時の人々のもとへ連れ下り、低い地域の地に、古の荒れすさんだ所に住まわせる時、お前は坑に降る者らと共に住まないなら、その時わたしは生きている者の地に栄光を置こう(エゼキエル26・20)。

 

『坑に降る者ら』は剥奪(の状態)へ向って送られる者を意味し、『坑に降る者らと共に住まないこと』は誤謬から救い出されることを意味している。

 

 

 

天界の秘義4728[7]

 

『水のない坑』は真のものが何一つない誤謬を意味しており、同じように以下の記事にもまたかれらはヨセフを坑に投げ入れたが、坑は空ろで、その中に水はなかったと言われているのである(24節)。

 

 

 

天界の秘義7090〔4〕

 

 ここから霊的な教会は『闘う』ものと呼ばれなくてはならないのである。しかし今日ではそれは世の何人のもとでもめったに闘う教会とはなっていないのである、なぜなら教会の人間は、世で生きている間は、悪い者の群の真中に置かれているため、また弱い肉の中に置かれているため、争闘に堪えることは出来ないからである。他生では人間は良心の絆の中に堅く留められることが出来るが、しかし世ではそれは不可能である、なぜならもし彼が、争闘に置かれている者の常として、何か絶望状態に入れられると、彼はすぐにその絆を破ってしまい、もしそれを破るなら、その時は降伏し、もしそのように降伏するなら、その救いは絶望となるからである。ここから今日の教会の中では僅かな者しか真理のために誤謬に反抗する争闘に主により入れられることを許されていないのである。この争闘は霊的な試練である。(低地とそこにおける剥奪について前に示したことを参照されたい、4728、4940−4951、6854番)。