盲人が盲人の道案内をすることができようか

ルカ6・39

 

合理主義

生まれ出る前に父親を見た人は誰もいない

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.サンダー・シング

4.ヴァッスーラ

5.聖母から司祭へ

 

 

 

 

1.聖書

 

 

マタイ15・1−20

 

そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。」そこで、イエスはお答えになった。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか。神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、父を敬わなくてもよい』と。こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。偽善者たちよ、イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ。

 

『この民は口先ではわたしを敬うが、

その心はわたしから遠く離れている。

人間の戒めを教えとして教え、

むなしくわたしをあがめている。』」

 

それから、イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」そのとき、弟子たちが近寄って来て、「ファリサイ派の人々がお言葉を聞いて、つまずいたのをご存じですか」と言った。イエスはお答えになった。「わたしの天の父がお植えにならなかった木は、すべて抜き取られてしまう。そのままにしておきなさい。彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。」するとペトロが、「そのたとえを説明してください」と言った。イエスは言われた。「あなたがたも、まだ悟らないのか。すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す。悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである。これが人を汚す。しかし、手を洗わずに食事をしても、そのことは人を汚すものではない。」

 

 

 

ルカ6・39−42

 

イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』とどうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義4728[8]

 

『坑』は誤謬を意味し、『目しい[盲人]』は誤謬の中にいる者らを意味しているため(2383番)、それで主は『彼らを棄てておきなさい、彼らは目しいを導く目しいである、もし目しいが目しいを導くなら、二人とも坑の中に落ち込むでしょう』と言われている(マタイ伝には―15・14、ルカ6・39)。

 

 

 

 

3.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P93

 

求道者:「このようなかけがえのない機会は、この世の合理主義者たちのよくいう主観作用でしかないのでしょうか。わたしは、この啓示は客観的で現実のものと、心から信じています」

 

メルキゼデク:「子よ、この世の識者のいうことに心悩ましてはならない。彼らのほとんどは神なき利己主義者である。彼らがこれほどまで誤った考えをし、愚者を手引きする愚者と化しているのはこのためなのだ。神のお造りになられた世界はすべて、神の中に、神を通して存在するとはいえ、被造物そのものは神ではなく、神の一部でもない。だが、それは神の存在を離れては存在しえない。これは、被造物が客観的形をもたず、ただの主観にすぎないことを意味するものであろうか。断じて、そのようなことはない。事実、わが民の経験する神との出会い、霊的経験はみな、主観でも想像の所産でもなく、客観的で真実のものである。それは、疑いもなく、彼らがわたしと交わった所産なのだ」

 

 

 

 

 

4.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P19

‘88・9・5

 

♡ 私です、怖れることはない、間もなく全てが明るみに出され あなたを拒みメッセージを信じるのを拒んだ人びとは 皆御父に赦しを祈る日が来る。 ヴァッスーラ、「盲目」であったなら私は癒したであろう、しかし彼らは「見える」と言い張っている、私が地上にいた時と同じ 盲目の道案内人の子孫だ、我が子よ、地上に私がいた時に 彼らが生きていたなら 私を磔にした人びとの間にいて、そのなすことを一緒に 行っていたであろう、預言者たちに石を投げ 黙らせた仲間となったであろう、どうして 今も当時も 何も変わっていないではないか? 私を信じると主張しながら、霊の働きを拒み、こうして再び私を拒んでいる、あなたはメッセージを携え 私に遣わされた、しかし律法学者やファリサイ人のように この人びとは証拠を求める、確固とした証拠を。 気構えていなさい 我が子よ、背に鞭を受ける準備をしなさい、私、主は背に鞭打つのを許した、そこであなたも背を差し出しなさい、聞くのを拒むので 自分たちの間違いを 繰り返させなさい、私、主は、拒まれ しまいには木に釘づけにされた ♡ そこであなたも従順に 十字架を分かち合うように、今日は昨日と同じだ、誰を送ろうと、彼らは追及し、迫害するか拒む。私の送る者の血は、アベルの血から今の世代にいたるまで、絶えず流されている! 律法学者やファリサイ派の人たちに警告したように、今日の我が使者を迫害し みことばを弾劾する人びとに警告する、聖霊を笑いとばす者どもに警告する、「あなた自身の証拠が あなたにとって不利となる、一人として変わっていない、やることは同じだ、その考え方があなた方を不利にしている。 ♡ 道案内人よ! 霊的メッセージをいろいろと教えながら 聖霊の働きを無視するか! 道案内人よ! 我が肉で仔羊たちを養うが、我が血は差し控えるとは! 私の指示を忘れてしまったか?」 我がヴァッスーラ、私の棘を感じさせよう、これら聖職者たちの心に 合理主義がどう支配しているかを感じさせよう、彼らの前にあなたを曝す。 我がパンであなたを養っている、私と一致し、我が棘を感じ それを共有するように、一本一本の釘が私を貫いたように あなたの霊魂も貫かせなさい。 予告しておいた、さあ 鞭打たれる覚悟をしなさい、しかし覚えておくように、私の背も曝させてあり あなたにすることは皆、私にもしている ♡♡ 「私たち」?

 

 

 

 

5.聖母から司祭へ

 

 

聖母から司祭へ1977.10.1 オランダ 二メガにて

これは皆に与えられていません

 

私の計画を理解するのは、私が招く人だけで、みんなに与えてはいません。

 特に、愛されている私の子らよ、どれ程長い間あなたがたを養い、あなたがたについて行き、私の招きに応じるように準備するために、あなたがたを導いたことでしょう。母の胎内の時から、私の汚れなき心に、あなたがたを受け入れ、その生活のために、すべてを整えました。

 あなたがたの生活は、愛の刺繍でした。今、この計画が、みなのために、早く実現されなければなりません。招かれている人は少数ですが、母が彼らを通して自分のすべての子供に、救いの可能性を与えたいのです。

 滅びの道を走る人が、どれほどいるかを眺めなさい! 誰が、彼らを助け、滅びを止めることができるでしょうか?

 如何に多くの人々が、若くして、よい種を蒔く事前に死の業を刈り取るかをごらんなさい! 彼らが生きている世界が、彼らに毒を盛り殺しました。今日、どれほど多くの寛大な人たちが全教会の上に広がり行く暗闇によって、自己を見失っていることでしょう。

 ここにも、信仰を失った兄弟である司祭に出会う時、あなたは、私の悲しみを感じとってください。彼らは、司祭職を行使し続けることによって、誤謬の教師であり、盲目へ導く盲の案内者です。

 この国と、世界の多くの国に進歩主義と背教が広がり行くこの場所にいて、私の苦悩を共にしてください。

 ここから、私の反対者の行動が始まりました。しかし、それを償うために、今日、ここに私の運動の司祭を祈りに集めようと思いました。

 私の偉大な計画を理解する恵みは、皆に与えられていません。招かれた人は、皆、私に応えなければならない時です。

 やがて時がなくなります。天の父が定めた日数は、成就するでしょう。