低地

リンボ(古聖所)煉獄剥奪[荒廃]

 

 

 

天界と地獄513

 

ある者は先ずその誤謬を剥奪されるが、それは低地と呼ばれる足の裏にある場所で行われ、そこである者は非常な苦しみを舐める、これらの者は誤謬を確認はしたものの、善い生活を送った者たちである。なぜなら確認された誤謬は非常な力をもって密着しており、それが消散しない中は、真理を認められず、引いては受け入れられることは出来ないからである。しかし剥奪のことは、それが行われる方法と共に、「天界の秘義」の中に取扱われており、以下の註はそこから集められたものである(*1)

 

 

 

天界の秘義1106

 

 この世に生きている間に単純と無知から宗教上の信念の幾多の誤謬を吸引したものの、その信仰の原理に応じて、一種の信仰を持ち、他の者のように憎悪、復讐、姦淫に生きなかった多くの人物がいる。他生ではこれらの人物はこれらの誤謬に止まっている限り、天界の社会へ導き入れられることは出来ない。なぜならその誤謬がその社会に感染するからである。それで彼らはその誤った原理を除くために、しばらくの間低地に留め置かれる。彼らがそこに止まっている時間は誤謬の性質とそれにより身に着けた生命とに応じ、また彼らがその原理を確認した度に応じ、長くまた短くなっている。そこに甚だしく苦しむ者があり、それほど苦しまない者もいる。こうした苦しみは剥奪と呼ばれるものであり、そのことが聖言には再三記されている。剥奪の期間が満ちると、彼らは天界に挙げられ、新しく来た者として信仰の諸真理を教えられるが、このことは彼らを迎える天使たちにより行われる。

 

 

 

天界の秘義1107

 

 剥奪され、かくして世から携えてきた誤った原理を除こうと非常に願っている者がいる。(たれ一人時が経たなくては、また主から供えられる手段によらなくては、他生では自分の誤った原理を除くことは出来ないのである)。これらの人物が低地に止まっている間は、彼らは主により救い[解放]の希望を絶えず与えられ、また自分が匡正されて、天界の幸福を受ける備えをしているという目的を絶えず考えさせられている。

 

 

 

天界の秘義6663

 

「彼らがそれを苦しめるに従って、それは増大した」。これは諸真理は悩まされるに応じて増大したことを意味していることは以下により明白である、即ち、『苦しめること』の意義は悩ますことであり、『増大すること』の意義は真理の方面で増大することである(このことについては前の6656番を参照)。この間の実情のいかようなものであるかを述べてみよう。なぜなら他生で行われていることを経験しなくては、その何であるかを何人も今は知ることは出来ないからである。世から来て、主の戒めの生活を送った霊達の大半は、天界に挙げられて、そこの社会に加えられる以前に、彼らに属している幾多の悪と誤謬を除かれるために、それらに取り憑かれて悩まされるのである、(6639番を参照)、なぜなら彼らが身体の生命の中で取得したところの、天界とは全く調和していない不潔な幾多のものがあるからである。(その悪と誤謬とに取り憑かれて)悩まされることは彼らがその悪と誤謬との中に浸されることによって起るのであり、彼らがその悪と誤謬との中にいると、それに似た悪と誤謬との中にいる霊らがその場に現れて、凡ゆる手段を尽くして彼らを真理と善から連れ出そうと努めるのである。しかしそれでも彼らは、主から天使を通して注がれる流入が勝利を得ない程には深く彼らの悪と誤謬とに浸されはしないのであり、均衡は正確に維持されているのである。このことの目的は、(悪と誤謬とに)取り憑かれて悩まされる者が自由の中にあり、かくて悪と誤謬とに自分自身から戦うように自分自身に思われつつも、抵抗する力は凡て主から来ていることを、その時でなくても、後になって承認するためである(1937、1947、2881、5660番)。このことが為されつつある時、前に植え付けられた真理と善とは強められるのみでなく、更に多くのものが導入されるのであり、これはその争闘者がその中で勝利を得る凡ゆる霊的な争闘の結果である。それがそうであることは普通の経験からもまた明らかである、なぜなら自分の意見をそれを攻撃する者から守る者は、その見解をそれだけ更に確認し、またその時それについて以前気づかなかった他の確証も見出し、またその対立した意見を否定する他の確証も見出し、このようにして彼は自分の見解を強め、またそれを更に考慮して説明するからである。このことは霊的な争闘の場合更に完全に行われるのである、なぜならその争闘は霊の中に起って、善と真理とに関係しているからであり、また特に主がその場に現存されて、天使たちにより導かれるからである、なぜならその争闘は永遠の生命と救いとに関わっているからである。このような争闘においては、主が地獄の意図する凡ゆる悪を善に変えられることが普通であり、それで争闘に置かれている者に適応した善に変えられることの出来る悪を越えた悪を、またはそうした悪以外の悪を引き出すことは地獄には許されてはいないのである。そのことの理由は主の王国は用の王国であって、それで善を生み出さないものは何一つそこには為されることは出来ないという事実から発している。この凡てから、『彼らはそれを苦しめるに応じて、それは益々増大した』により意味されているところの、真理はそれが(誤謬に)悩まされるに応じて増大することはいかように理解されねばならないかを認めることが出来よう。

 

 

 

天界の秘義6854〔2〕

 

しかしこの節と以下の諸節の内容の内意には、更に大きな秘義が含まれており、それは教会には未だ知られていないため、明らかにしなくてはならない。『霊的な者』と呼ばれている者たちは、霊的な者とは知的な部分の方面のみが再生することが出来るが、意志の部分の方面では再生出来ないのであり、そのためその知的な部分に新しい意志が主により植え付けられ、その意志が彼らの教会に属した信仰の教義的な物に順応している者であるが、こうした者たちが、即ち、こうした霊的な人間がただ主が世に来られたことによってのみ救われたのである。その理由は、神的なものは―それは主が来られる以前では神的な人間的なものであったが、その神的なものは―天界を通り過ぎて、彼らのもとへ達することが出来なかったということである、なぜなら彼らの教会の教義的なものの大半は真理ではなく、従って意志のものである善は善ではなかったからである(6427番を参照)。これらの者は主が来られることによってのみ救われることが出来、かくてそれ以前では天界へ挙げられることが出来なかったため、それで彼らはその間低地に、そこの、聖言では『坑』と呼ばれている所に留め置かれたのである、その地は誤謬が存在している幾多の地獄に包囲され、その地獄により彼らはその時大いに悩まされはしたものの、尚主により守られていたのである。しかし主が世に来られ、御自身の中の人間的なものを神的なものになされた後では、その時主はそこの『坑』にいた者たちを救い出されて、天界に挙げられ、彼らからまた、第二の天界である霊的な天界を形成されたのである。このことが主が低い領域へ降られて、縛られている者たちを救い出されたことにより意味されているのである。

 

 

 

天界の秘義6858

 

 主が世に来られる以前では、霊的な者たちがその後挙げられたところの天界のかの領域をことごとく悪い魔鬼と霊とが占めていたのである、なぜなら主が来られる以前にはそうした多くの者は自由に徘徊して、善良な者たちを、特に低地にいる霊的な者たちに取り憑いてこれを悩ませたが、しかし主が来られた後は彼らは凡てその地獄に突き落とされて、その領域は解放され、霊的な教会に属した者たちに嗣業として与えられたのである。いかような場所でも、そこから善良な霊が去るとすぐさま、それは悪い霊により占められることは、また悪い者がそこから放逐され、そのことが行われると、すぐさま、それは再び善の中にいる者たちへ移ることは再三述べたところである。その理由は、奈落の者らは天界のものを、特に彼らに対立しているものを破壊しようと絶えず燃えており、それで何らかの場所が、そこに住む者がいなくなると、その時は無防備状態になるため、それは直ぐに悪い者により占められるということである。前に言われたように、このことが悪と誤謬とにより占められた領域により特に意味されており、そのことが放逐されなくてはならないかった諸国民により意味されているのである。このことは前に言われたことと共に(6854番)、大いなる秘義であり、そのことは啓示されなくては知られることは出来ないのである。

 

 

 

天界の秘義6928

 

 水星の霊たちは私たちの地球の霊たちとは全く異なっている、なぜなら私たちの地球の霊たちは、特に他生に入って間もない時は、身体的な、形体的な、即ち、物質的な物を愛し、他生でもそうした物を知ろうと求めるからである。それで彼らはそうした物を心にかけない善良な霊たちと共にいることが出来るようにと、彼らは足の裏の下に在って、聖言では『低地』と呼ばれている所に留め置かれ、そのことが彼らが身体的な地的な物に嫌悪を覚えて、それを捨て去るまでも続くのである。このことが行われると、彼らは天界へ上げられ、内的な事柄を教え込まれ、天使となるのである。

 

 

 

天界の秘義6945〔3〕

 

 この凡てから彼らは天界の事柄についてはいかほど明確でない状態の中にいるかが充分に明白であり、そこから、彼らは主により強い力により誤謬から遠ざけられない限りいかような信仰も彼らの中には決して植え付けられることが出来ないのである。そして主が来られる以前はこうした力は無くて、主が来られて、御自身の中の人間的なものを神的なものとされた後にのみその力が存在したため、それで主が復活された後になるまでは、彼らは低地から―そこで彼らは誤謬にとり付かれて悩まされていたのであるが、そこから―連れ出されて、天界へ引き上げられることは出来なかったのである(6914番)。それでこのことから、彼らは律法の神的なものが、即ち、真理の神的なものが言うところを、それがそうであることを見ない限り、かくして印を見ない限り(この印については以下を参照)、信じないし、かくてまた受け入れもしないと言われているのである。

 

 

 

天界の秘義7038

 

「彼らがわたしに仕えるために」。 これは、天界へ、そこから用を遂行するために高揚されることを意味していることは『エホバ』または主に『仕えること』の意義から明白であり、それが用を遂行することであり、そしてそのことが、主が来られることによって救われはしたが、主が来られる以前には低地にいて、その後天界へ挙げられ(6854、6914番)、そのことによって用を遂行する状態へ入ったところの霊的な教会の者たちについて言われているため、それで『彼らがわたしに仕えるために』により天界へ、そこから用を遂行するために高揚されることが意味されているのである。

 

 

 

天界の秘義7090

 

ここに、また以下の記事に、主が世に来られることにより救われはしたが、その来られない中は低地に抑留されて、そこに幾多の誤謬により、即ち、悪から発した幾多の誤謬の中にいる奈落の者らによりかき乱されていたところの、霊的な教会に属している者たちが取扱われているのである。(中略)

こうした者らにより低地にいる者たちは囲まれており、そこに霊的な教会に属した者たちは主が来られない中は留め置かれ、またそこに悩まされたのではあるが、それにも拘らず彼らは主に守られ、主が甦られた時、主と共に天界へ挙げられたのである(このことについては、前の6854、6855、6914、6954、7035番に述べられ、また示されたことを参照されたい)。

 

 

 

天界の秘義7090〔3〕

 

 今日でもまた、教会に属してはいるが、その考えを世の物で、また地の物で満たし、信仰の諸真理をそうした物に結合させた者たちはその低地へ降らされて、そこでまた争闘の状態に置かれ、しかもそれはそうした世の、また地の物が信仰の諸真理から分離されてしまうまでも続き、またそうしたものが更に結合するのを妨げるものが植え付けられてしまうまで続くのである。そのことが終わると、彼らはそこから天界へ挙げられるのである、なぜならこうした物が遠ざけられないうちは、彼らは到底天使たちと共になることは出来ないからである。それはこうした世の、また地の物は天界の光と純粋なものとに調和しない暗黒と汚れたものであるためである。こうした世の、また地の物は誤謬に対する争闘によらなくては分離され、遠ざけられることは出来ないのである。この争闘は以下のように起るのである、即ち、低地にいる者たちは、周囲の奈落の者らから送り出される妄想とそこから派生してくる誤謬とに取り憑かれて悩まされるが、しかしその妄想とそこから派生してくる誤謬とは主により天界を通して反駁されると同時に真理が注ぎ入れられ、そしてこの真理はその争闘の中に置かれている者たちの中に存在しているかのように見えるのである。

 

 

 

天界の秘義7090〔4〕

 

 ここから霊的な教会は『闘う』ものと呼ばれなくてはならないのである。しかし今日ではそれは世の何人のもとでもめったに闘う教会とはなっていないのである、なぜなら教会の人間は、世で生きている間は、悪い者の群の真中に置かれているため、また弱い肉の中に置かれているため、争闘に堪えることは出来ないからである。他生では人間は良心の絆の中に堅く留められることが出来るが、しかし世ではそれは不可能である、なぜならもし彼が、争闘に置かれている者の常として、何か絶望状態に入れられると、彼はすぐにその絆を破ってしまい、もしそれを破るなら、その時は降伏し、もしそのように降伏するなら、その救いは絶望となるからである。ここから今日の教会の中では僅かな者しか真理のために誤謬に反抗する争闘に主により入れられることを許されていないのである。この争闘は霊的な試練である。(低地とそこにおける剥奪について前に示したことを参照されたい、4728、4940−4951、6854番)。

 

 

 

天界の秘義7147

 

 低地にいる者たちは周囲の地獄から注ぎ入れられる誤謬と悪とに取り憑かれて悩まされるが、それは悪と誤謬とが取り除かれて、真理と善とが注ぎ入れられ、かくして彼らは天界へ挙げられることの出来る状態へ入れられるためである(7090、7122番を参照)。しかしその終わり近くになると、彼らは前よりも更に強烈に取り憑かれて悩まされるのである、なぜならその時は真理は彼らから取り去られて、ただ誤謬のみが彼らに取り憑いてこれを悩まし、しかもそれが絶望にさえ至ることが許されているからである、なぜなら取り憑いて悩ますことの最後は絶望となることが神の秩序であるからである(1787、2694、5279、5280番)。

 

 

 

天界の秘義7186〔3〕

 

 霊的な教会に属し、低地にいる者たちは取り憑かれて悩まされることから徐々に自由にされるのであって、直ぐには自由にされないのは、彼らに密着している幾多の悪と誤謬はそれ以外の方法では遠ざけられることは出来ないし、また幾多の善と真理もそれに代って導き入れられることも出来ないためである、なぜならそのことは状態の多くの変化により行われ、かくて徐々に順次行われるからである。人間は天界へ直ぐにも導き入れられることが出来、そしてそれは全く主の慈悲から行われると信じている者は甚だしく誤っているのである。もしそれが可能なら、地獄にいる者はすべていかようなものであろうと天界へ挙げられるのである、なぜなら主の慈悲は凡ゆる者に及んでいるからである。しかし以下のことが秩序に従っているのである、即ち、たれでも世で送ったその生活〔生命〕を携えて行き、他生におけるその者の状態はその生活〔生命〕に順応しており、主の慈悲は凡ての者のもとへ流れ入ってはいるが、しかしそれは多様に受け入れられており、悪の中にいる者によっては、斥けられ、世で彼らは彼ら自身の悪を染み込ませたため、その悪を他生でもまた保有しており、他生では矯正もまた不可能となるのである、なぜなら木はその倒れた所にとどまるからである。この凡てから、善の中に生きはしたものの世への愛と自己への愛に属している粗悪な不純なものもまた持っている者たちは、そうしたものが除かれない中は、天界にいる者たちと交わることが出来ないことが明白である。この凡てから取り憑かれて悩まされることから自由にされることは徐々に順次行われることが明白である。

 

 

 

霊界日記1772

 

 低地にいる者たちは実際巨大人の中にはいないものの、それでも主の生命から生きているのである。これらの者については、そこには非常に多くの者がおり、或る者はそこに、剥奪されてしまうまで、長い期間、実に数代にも亘って抑留されていると言われた。