スウェーデンボルグにおける聖母
あなたがたのうちで一番偉い人は、仕える者になりなさい(マタイ23・11,20・26)/
愛心館/山下房三郎訳/グレニョンド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心/3
「マリアは、神に、できるだけ自分をかくしてくださるように、できるだけ自分を、
貧しく卑しくしてくださるようにと、熱心に祈っておられました。だから、
神も喜んでほとんど全ての人の目から、マリアをおかくしになったのです。(中略)
天使たちは天使たちで、マリアをつらつらながめては、しばしば
互いにささやき合ったものです。「あの女は、どんなかたですか」(雅歌3・6)
それほど神が、マリアを、全被造物の目から、おおいかくしておいでになったからです。
むろん、神はときたま、マリアのお姿を被造物に、ホンのすこしばかり、かいま見せる
こともありました。しかしそれとても、マリアを、ますますかくしたいご意向から、
そうなさったに過ぎないのです。」
静思社/続最後の審判66(『最後の審判とバビロンの滅亡』に併録P129)
天界にいる所謂聖者はこのようなものではない。彼らは地上で為されていることを全く知らないし、また私は、こうしたことが彼らの心に入らないように、彼らと話したこともない。ただ一度、主の母マリアが通りすぎ、白い着物を着て頭上に現れ、それから一寸の間立ち止まって、以下のように言った。すなわち、主は実際私から生まれ給うたが、神となられ、私から発している人間的なものは凡て脱ぎ棄てられた、それで私は今は主を私の神として崇めており、誰にも主を私の子として認めてもらいたくない、なぜなら主の中には凡てのものは神的なものであるからである、と。
静思社/続最後の審判67(最後の審判とバビロンの滅亡に併録P129)
私はここに以下の説話を附加しよう。華麗な衣装を着、聖者のような容貌を持った或る一人の婦人が、霊界の一社会にいるパリ―人に、時々中空に現れて、私はヂエネヴィーヴであると彼らに告げるのである。しかし彼らの中で誰かが彼女を崇拝し初めると直ぐに、その容貌は変わり、またその衣装も変わって、彼女は普通の婦人のようになり、彼女の仲間の間では下婢以上には考えられていない一婦人を崇拝しようとすることで彼らを非難し、世の中の人間がこのようなつまらぬことにとらわれるのを怪しむのである。彼女は人間を拝する者を主を拝する者から引き離すために現れるのであると天使たちは語った。
主をマリアの子と呼び、神の子と呼ばないことによって教会に入って来た大なる罪は、彼の神性の観念が失われ、それとともに彼について、聖言の中に神の子として語られていることが凡て失われたということである。その後ユダヤ教主義、アリウス主義、ソツィニウス主義、カルビン主義が最初のうち続発し、遂には唯物主義が起り、それとともに彼はヨセフによりマリアの子であった、その霊魂は母から来た、それ故彼は神の子と呼ばれているが、実際はそうでないとの確信が起って来たのである。教職のみならず、平信徒も、マリアの子として考えられている主を単なる人間の子として考えていないかを反省されたい。このような考えはアリウスの教説が生まれた三世紀に既に基督教徒の間に流布していたので、ニケア会議は主の神性を擁護するために、永遠から生まれた神の子という教義を考案したのである。しかしこの考案によって当時主の人間性は実に神性に高められたし、今もなお多くの人々の間にそのように高められてはいるが、しかも、なおそれは、かの所謂実体結合説によって、その中の一人が他の一人よりも優れている所の二人の人間の間にあるような結合を理解している人々の間では高められてはいない。しかしこのことから生まれるものは単に人間性におけるエホバを礼拝することにのみ、すなわち、神人を礼拝することにのみ基礎づけられている全基督教会の全面的な破壊でなくて何であろうか。
何人も、主によって多くの箇所で宣言されているように、父の人間性によらなくては父を見或は彼を知り或は彼に来り、或は彼を信ずることは出来ない。もしこの宣言が無視されるならば、教会の高貴な種子は凡て卑賤なものにされてしまう、橄欖の種子は松のそれとなり、蜜柑、シトロン、林檎、梨の種子は、柳、楡、菩提樹、樫の木のそれとなり、葡萄は蘆に変わり、小麦と大麦とは籾殻となる。実に、霊的な食物は凡て塵の如くになり、単に蛇の食物にのみ適しくなるのである、何故なら人間における霊的な光は自然的なものとなり、遂には物質的な感覚的なものとなり、その物質的感覚的なものは本質的には人を欺き迷わす光であるからである。事実、人間はその時飛ぼうと試みても翼が切られていて地面に落ち、歩き回っても単に足許の物のみしか目に入らぬ鳥のようになり、己が永遠の生命に関する教会の凡ての霊的なものについては、占い師が考えるようなことを考えるのである。凡てこうした事柄は人間が主なる神、贖罪者、救い主を単にマリアの子として、換言すれば単なる人間として見なす時、必然的に生まれるに違いない。
或る者は主はその人間性の方面では単にマリアの子であったのみでなく、また現在もそうであると信じているが、しかし、この事において基督教界は欺かれている。彼はマリアの子であった事は真であるが、現在もそうであるというのは真ではない。何故なら、彼は母から得た人間性を贖罪によって脱ぎ去り、父から発した人間性を着け給うたからである。それ故主の人間性は神的なものであり、彼の中に神は人であり、人は神である。彼は母から得た人間性を脱ぎ去り、神的な人間性である所の父からの人間性を着け給うた事は、彼は決してマリアを己が母とは呼び給わなかったという事実から明白である。この事は以下の記事に理解されるであろう。「イエスの母彼に言ふ。彼らに葡萄酒なし。イエス言い給ふ、女よ、我と汝とは何のかゝはりあらんや。我が時は未だ来たらず。」(ヨハネ2・3、4)さらに、「イエス(十字架より)その母と、その愛し給へる弟子の立つを見て、その母に言ひけるは、女よ、見よ、汝の子なり! かくて弟子に言ひ給ふ、見よ、汝の母なり!」(ヨハネ19・26、27)。而して一度彼は彼女を己が母として認めることを拒絶し給うた。或る者がイエスに告げて語った。「汝の母と汝の兄弟とは外に立ち、汝に会はんことを望む。イエス彼らに言ひ給ひけるは、我が母、我が兄弟とは神の言を聞きて之を行ふ者なり」(ルカ7・20、21、マタイ12・46−50、マルコ3・31−35)。このように、主は彼女を「母」とは呼び給はないで「女」と呼び、彼女をヨハネに母として与え給うた。他の記事では彼女は彼の母と呼ばれているが、しかし、主自身の口によってそう呼ばれてはいない。この事は更に彼は自らをダビデの子として認め給わなかったという事実によって証明される。何故なら我々は福音書にイエスがパリサイ人に向って次のように語り給うたのを読むからである。「汝らはキリストのことを如何に思うか。彼は誰の子なるか。彼ら彼に言う、ダビデの子なり。彼語り給ふ、さらばダビデは如何にして御霊に感じて彼を己が主と呼び、主我が主に言ひ給ふ、我汝の敵を汝の足台となす迄は我が右手に座せよと語りしや。さればダビデ彼を主と呼びたらんには、如何でその子ならんや。何人も彼に一言だに答ふることを得ざりき。」(マタイ22・41−46、マルコ12・35−37、ルカ20・41−44、詩篇110・1)上述の記事に私は以下の新しい事実を附加しよう。かつて私は母マリアと語ることを許された。彼女は或る時通り過ぎて、私の頭上の天界に、絹のような白い衣服を着けて現れた。それから彼女は暫く立止まって、以下のように語った。彼女は主の母であった、彼は彼女から生まれたからである。しかし、彼は神となり給うて、彼が以前彼女から得給うた人間性を凡て脱ぎ棄て給うた。それ故、彼女は彼を己が神として礼拝しており、何人も彼を彼女の子として認めることを欲しない。何故なら、神性の凡ては彼の中にあるからであると。
それ故上に述べた事柄から、エホバは始から終りまで、「我はアルファなり、オメガなり、始めなり、終りなりと、今在し、昔在し、後来り給う主全能者語り給ふ」(黙示録1・8、11)の言葉に従い人間であり給うという真理が明白に輝き出てくる。ヨハネは七つの燈台の最中に人の子に似た者を眺めた時、「その足許に倒れて死せる者の如くなりしが、彼その右手を彼の上に置きて言ひ給ひけるは、我は最初なり、最後なり」(1・13、17、21・6)「見よ、我速に来らん、各々にその業に従ひて報ゆべし。我はアルファなり、オメガなり、始なり、終りなり、最初なり、最後なり」(22・12、13)。またイザヤ書に、「エホバ、イスラエルの王、その贖い主、万軍のエホバかく語り給ふ、我は最初なり、我は最後なり。」(44・6、48・12)
真の基督教103
上述の記事に私は以下の神秘な事実を附加しよう。父親から来る霊魂は真の人間であり、母親から来る身体はそれ自身においては人間ではなく、人間から得られるものである。それは霊魂の衣服であり、自然的な原質から成っているに反し、霊魂は霊的な原質から成っている。人は凡て死後、その母親から得た自然的なものを脱ぎ棄て、父親から来ている霊的なものを、その周囲に在って、自然の最も純粋なものから発している所の一種の縁(limbus)と共に保有する。しかしこの縁は天界に行く者にあっては下にあり、霊的なものは上にあるに反し、地獄に行く者にあっては上にあって霊的なものは下にある。この理由から天使的な人間は天界から語り、かくて善であり真であるものを語り、地獄の人間はその心から語る時は地獄から語りその唇から語る時は恰も天界から語るかのように語るのである。彼は後者を他と交わっている時に行い、前者をただ一人家に在る時に行うのである。人間の霊魂は真の人間であり、その起原において霊的なものであるから、父親の愛の心、気質、性癖、傾向、情は後の子孫の中に止まり、代々再起し、容易に認められる理由は明白である。このゆえに多くの家族は、実に国民すらもその最初の父によって認められるのである。民族の各々の容貌の中には共通の相似が現れており、そしてこの相似は教会の霊的なものによらない限り変化しない。ヤコブとユダに対する共通の相似は依然彼らの子孫の中に止まり、彼らはそれによって他から区別される、それは彼らはその宗教に確乎として固執しているためである。何故なら凡ての者がそれによってみごもるところの精液の中には、父親の霊魂の接木または芽がその完全な状態を以て、自然から来る原素によって形成された一種の皮覆に包まれて存在し、これによって人間の身体は母親の子宮内に形成され、父親から或は母親か何れかに似るのであるが、父親との相似は依然内部に止まり、それは絶えず表面に現れようと努めているからである。若しそれがこれを第一代に為すことが出来ないならば、後代になすのである。父親との相似は精液の中にその完全の状態にあるのである。何故なら、既に述べたように、霊魂はその起原において精神的であり、精神的なものは空間と何らの共通点を持たないからである。従って相似は大きな範囲でも、小さな範囲でも依然同一である。主について言えば、彼は、世に在し給うた時、母から得給うた人間性を凡ての贖罪の行為により脱ぎ去り、神的人間性なる父から来った人間性を着け給うたのである。それ故彼においては人は神であり、神は人である。
真の基督教826
霊界における巴里の人々の社会に、時々或る優しい婦人が輝いた衣服を着けて中位の高さの所に現れ、自分はヂェネヴィエヴであると明らかに告げる。しかし若し彼らの中何人かが彼女を礼拝し始めるならば、その容貌と衣服は変わり、彼女は普通の婦人のようになる。それから彼女はその友人達が一婢に外ならぬ婦人を礼拝しようとすることを非難し、世の人々がこのような馬鹿げたことに欺かれることを怪しむのである。
真の基督教827
上述の記事に私は特に注意すべき一つの事柄を附加しよう。主の母マリヤは嘗て白衣を着けて私の頭上を通り過ぎた。彼女は暫くの間立ち止り、主は実際彼女から生まれ給うたのであるが、しかし神となられて、彼女から得給うた凡ゆる人間性を脱ぎ去り給うた、それ故彼女は主を自分の神として礼拝しており、主に在る凡てのものは神的なものである故、何人も主を彼女の子として語ること願わないと話したのである。
マリアが―彼女は主の母ではあったが―見られた。彼女はやや背後に白衣を着て現れたが、殆ど話さないで、ただ主について以下のことを話したにすぎなかった、すなわち、主は彼女から生まれられはしたものの、主は神となられて、母の人間的なものを凡て脱ぎ棄てられたのである、と。彼女はたれかが主を彼女の息子として承認することには全く反対した、なぜなら、主にあっては、凡てのものが神的なものであるからである。
スウェーデンボルグ/主について・アタナシウス信条についてP83
人間はことごとく以下のことから、また以下のことのために、その父から名づけられて、父の息子と呼ばれている、すなわち、人間各々の生命はその父から発し、その着物は母の中に与えられており、そこから人間各々はことごとく父から名づけられ、母から名づけられはしないのである。それ故、主の父が主の神的なものであられたことが知られるとき、なぜ教会の中で主は『マリアの息子』であると言われるのであるか、そのことから、主はかくて単なる人間として生まれられたとの、またその人間的なものの方面では神ではなかったとの信念が発してくるのである。
スウェーデンボルグ/主について・アタナシウス信条についてP90
母については主もまた言われたのである―
彼女は主を生んだために祝福されはしない、しかし聖言を聞いて、それを守る者たちは祝福されている(ルカ11・27、28)。
彼女が母であったため、何か神的なものを彼女に帰しはしないように、と主は言われたのである。
主は父から出て来られて、世へ来られたのであり、父へ帰られるのである。 (ヨハネ16・27,28、またヨハネ14・12、16・5、10、16、17、30、17・8、それからまたヨハネ10・9、イザヤ25・9)。
主は天から降られた(聖言から)。
天界の秘義1428
「ロトも彼とともに行った」。これは感覚的なものを意味していること、『ロト』により感覚的な形体的な人間の方面の主が表象されていることは以下の記事におけるロトの表象から明白であり、そこにはロトはアブラムから引き離されて、天使たちに救われたと言われているが、しかし後になって、彼が引き離されたときは、ロトは他の表象を着けたのであって、それについては主の神的慈悲の下に後に述べよう。主は他の人間のように生まれ給うたが、しかし処女である母から生まれ給うたこと、主もまた他の人間のように感覚的な形体的なものを持たれたことは明白であるが、しかし主の感覚的な形体的なものは後には天的なものに結合して、神的なものになされたという事実により主は他の人間とは異なっておられたのである。主の感覚的な形体的なものそれ自身が、またはそれと同一のことではあるが、主の感覚的な形体的な人間が、すなわち、それが天的なものにより神的なものに結合したときになったものではなくて、主の子供時代の状態の中にあったような主の感覚的な形体的な人間がロトにより表象されているのである。
天界の秘義1439
6節「アブラムはその地を過ぎ、シケムの所にさえも、モレの樫の木の杜にさえも来た、その時カナン人はその地にいた」。『アブラムはその地を過ぎて、シケムの所にさえも来た』は愛の天的な事柄が主に明らかになった主の第二の状態を意味しており―その愛の天的な事柄が『シケム』により意味されており―『モレの樫の木の杜』は第三の状態を、すなわち、『モレの樫の木の杜』である最初の認識を意味し、『カナン人がその時その地にいた』は主の外なる人における母からの遺伝した悪を意味している。
天界の秘義1972
身体の目の前には現われはしないが、霊の目の前に現われるところの幻については、またはむしろ光景については、それらは益々内的なものになっている。私が霊たちの世界で見たものは、私は明るい光の中で見たのであるが、しかし天使的な霊たちの天界にある者はそれほど明るくは見なかったのであり、天使たちの天界で見たものはそれよりもさらに暗かったのである、なぜなら私の霊の視覚はそこまでまれにしか開かれはしなかったからである。
新しい教会の教典P80
八、しかし主の母マリアは後に教会を表象したため、その点で彼女は主の母と呼ばれなくてはならない
十戒の第四の戒めは、両親は尊ばれなくてはならない、である。
この戒めが与えられたのは、両親に対する尊敬は主に対する愛と隣人に対する愛を表象し、かくて意味したためである、なぜなら天界の意味における『父』は、即ち、天界の父は主であられ、天界の意味における『母』は、即ち、天界の母は教会であるからである、『尊敬』は愛の善を意味し、彼らが得る『日々の長いこと』は永遠の生命の幸福を意味している。そのようにこの戒めは天界で理解されており、そこでは主以外いかような父も知られておらず、教会でもまたある主の王国以外にはいかような母も知られてはいないのである。なぜなら主は主御自身から生命を与えられ、教会を通して栄養を与えられるからである。天界の意味においては世における父は意味されることは出来ないのであり、実に人間が天界の観念[考え]の中にいるときは、父は言われることが出来ないことを主はマタイ伝に教えられている―
人間を地上であなたらの父と呼んではならない、なぜなら諸天界におられるあなたらの父は一人であられるからである(マタイ23・9)。
『父』は神的善の方面の主を意味していることは前に見ることが出来よう(32、200、254、297番)。『母』は主の王国、教会、神的真理を意味していることは「天界の秘義」の中に見ることが出来よう(289、2691、2717、3703、5581、8897番)、『日々の長いこと』は永遠の生命の幸福を意味し(8898番)、『尊敬』は愛の善を意味している(8897、前の288、345番)。この凡ては第三と第四の戒めは主に関係しているアルカナ〔秘義〕を、即ち、主の神的なものを承認し、告白することを、愛の善から主を拝することを含んでいることを明らかにしている。
霊界日記6070
ハーグに一人の説教家がいた。彼は信仰のみの教義を奉じていた。彼は他の者たちには全く竜のように現れ、いわば、子供を生み出そうとしている一人の女の前に立って、その子供が生まれる時、それを食い尽くそうとしているように見えた。新しいエルサレムである主の教会は表象的にはその女により示され、その教義はその子供により示されたのである。
グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心/山下訳/3
マリアは、神に、できるだけ自分をかくしてくださるように、できるだけ自分を、貧しく卑しくしてくださるようにと、熱心に祈っておられました。だから、神も喜んでほとんど全ての人の目から、マリアをおかくしになったのです。(中略)天使たちは天使たちで、マリアをつらつらながめては、しばしば互いにささやき合ったものです。「あの女は、どんなかたですか」(雅歌3・6)それほど神が、マリアを、全被造物の目から、おおいかくしておいでになったからです。むろん、神はときたま、マリアのお姿を被造物に、ホンのすこしばかり、かいま見せることもありました。しかしそれとても、マリアを、ますますかくしたいご意向から、そうなさったに過ぎないのです。
アグレダのマリア/神の都市/P104
いと高き御方は御自身の傑作である聖マリアを見て有頂天になったかのようにおっしゃいます、「私の浄配、私の最も完全で最も愛らしい鳩、我らの所に来なさい。汝は人間から産まれたから私は人間を創造したことを喜びとする。汝を我が浄配、全被造物の女王として選んだ理由が天使たちも良く判るであろう。我が独り子の光栄の母体となる我が花嫁が私の喜びであることを良く判るであろう。地救の最初の女王エワを不従順の理由で私が罰したのと反対に、至純な謙遜と自己卑下の聖マリアに最高の威厳を与えることも良く判るであろう。」
至聖なるマリアの準備の最終段階は、新しい性質、習慣と品格に於て、神の生ける姿に近くし、永遠なる御父と本質的に同じ永遠なる御言葉が入る鋳型となるためです。従って、至聖なるマリアという神殿はソロモンの神殿よりももっと美しく、純金で覆われ、神からのものに輝いています。御子の御母は可能な限り御父に似ています。私が全く驚嘆するのは、この天の御方の謙遜であり、この謙遜と神の御力の間の競争です。聖マリアは、神によりますます高く揚げられ、神の次の高みに達すると、自分をますます卑下し、最も下級の被造物の下に自分を置きます。全能者が聖マリアの謙遜に注目し(ルカ1・48)、全人類が「めでたし聖マリア」を唱えるべきです。
アグレダのマリア/神の都市/P118
手仕事の間も心の中で主にお願いし続けました。偉大なる女王は、先駆者聖ヨハネの産着や布団を縫いました。母である聖エリザベトは、この幸運を我が子のために謙遜に頼んだのです。聖マリアは驚くべき愛と謙遜で従姉妹の聖エリザベトに従いました。謙遜さに於て聖マリアは誰にも負けませんでした。永遠の御言葉の教えを実践したのです。御子は真の神でありながら僕になり(フィリッピ2・6)、聖マリアは神の御母、全被造物の女王でありながら、最も低い人間の召し使いになり、生涯、召し使いで居続けました。この天の物語は、我々の誇りに対する戒めです。私たちは世間の評判を気遣い、理性をほとんど全部なくします。世間から名誉を受けなくなると、理性を完全に失い、気違いになります。
アグレダのマリア/神の都市/P340
聖ぺトロの許可を得た後、長椅子を離れ、聖ぺトロの前に跪き、申されました、「私の主人、全宇宙の司牧者である聖なる教会の頭に、私は私的公的祝福を下さるようにお願いします。私は生涯にわずかな奉仕しかしませんでしたので、この婢をお許し下さい。聖ヨハネが私の着物や二着の上着を、私の世話をして下さった二人の婢に与える許可を下さい。」平伏し、キリストの代理者としての聖ぺトロの足に接吻し、たくさん涙を流し、使徒たちやそばにいる人たちに涙以上の感嘆を起こさせました。次に聖ヨハネのもとに行き、跪き、申されました、「私の息子、私の主人よ、主が十字架からあなたを私の息子として、私をあなたの母として任命されたのに、私は母としての義務を遂行できなかったことを許して下さい。あなたが息子として示して下さった御親切を心より感謝申し上げます。私をお造りになった神のおそばにいるため、あなたの祝福をお願いします。」