聖母は天におられるか
1.マリア・ワルトルタ
2.ヴァッスーラ
3.グリニョン・ド・モンフォール
4.聖母から司祭へ
5.ジャン・マリ・ヴィアンネ
6,スウェーデンボルグ
1.マリア・ワルトルタ
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩 下/P370
生きる天であるあなたは、地上に、人間の中に三位一体をもたらし、司祭たちの女王で、キリスト者たちの母であるあなたは、教会を聖ならしめます。それから、私はあなたを迎えにきます。そうした時には、もはや、私があなたの中にではなく、あなたが私の国で私と一緒にあって天国をより美しくします。
聖母マリアの詩下P378
聖母が使徒ヨハネに:「私の生涯すべてが神の望みどおりで、神の望みへの私の従順があるだけでした。けれども、イエズスと再び一緒になりたいのは、“全くの”私の望みで、年来のものです。この地を去り、天で永遠にイエズスと一緒にいること!・・・そしていま、この望みの実現は近いと感じています・・・ヨハネ、そんなにうろたえないで。」
マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P268
天国は光、香りと調和であるが、その中で私の母の清さは天国の宝石となるでしょう。
マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P216
「わたしは最初であり、最後である」(黙示録1・17)
体において、考えられないほど美しく栄光化されたイエズスは、地球にいた時と違っており、違っていない。違っているのは、この世でいかに美しく、威厳があり、完全であろうとも、栄光化されたあらゆる体がもつ威厳と完璧さを帯びることは出来ないからだ。違っていないのは、肉の栄光化は人格の特徴を変質させないからだ。それゆえ体の復活では、背の高い者は背が高く、痩せている者は痩せており、逞しい人は逞しく、ブロンドの人はブロンド、茶髪の人は茶髪、などなどであろう。だが不完全さは消え去るだろう。神の国においては、もし人間が罪と死と、あらゆる類の苦しみ、病気、人間同士の憎しみをそこに持ち込まなければ、地上の楽園でそう定められていたように、すべては美、純潔、健康、生命だからだ。
地上の楽園は、栄光化された体をもつ者たちによって住まわれる天上の楽園の物質的な相似であった。地上の楽園の本来の外観は、天上の楽園、すなわち永遠の王国にもあるだろうが、それは超自然化されたかたちでそこにあるだろう。アダムの住まいを照らすために、神によって創造された諸々の光、太陽、月、星々には、永遠の太陽(黙示録21・23)が、雅な、いとも清かな月が、はたまた数知れぬ星々が取って替わるだろう。すなわち月を台にして天の最も美しい星々を冠に戴くマリアを、その光で包む神・光が、またその無原罪の純潔をもってサタンに勝った、星の名をもつ女マリア(黙示録12・1)が、はたまた、正しい人たちに繋がれて(マタイ13・43)、神の輝き、新しい天の星々となった聖人たちが取って替わるだろう。
2.ヴァッスーラ
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/8巻P152
96・3・25: ― 受胎告知の祝日
愛する者よ、来て学びなさい:誰が私をいちばん歓喜させたか?私をいちばん歓喜させたお方が誰か教えよう:それは 新たなエワ。そうです!太陽をまとい、月の上に立ち、頭には 十二の星を冠とする女性。 天とそこにあるすべて、地とその抱かれているすべて 海とそこにかかえるすべての造り主なる私は これらいっさいの上にこの女性を立てた。 天の元后は 常に至高者の玉座を前にしておられる。
天が地より高いと同じほど その名は偉大、その名は、光の衣装をまとう。 聖なる名:
神の母
を身に着けたお方に 世界はあまねく膝を屈めるように。 その無原罪の胎に、汚れない子羊なる、私を受け入れ、神殿のための神殿となって、我が誉れとなられた。来て 彼女を讃える新しい歌をうたうがよい、地上に住む皆よ、 神―人とも(*)なった私を身ごもった胎、祭壇であられる、汚れなき御心を たたえるがよい。 この太陽をまとう女性ほど 私の誉れとなった者はいない。 そうです! この女性は全き愛のうちに華麗な美をたたえ そこを通られるなら どの島々も、山々も、岡も、谷も泉も 深く頭をたれる。 そして昨日と同様 今日も、まこと麗しい愛が 地上を通られるときは、我が天使たちに付き添われ 天使たちの目は 御父の傑出した美である崇むべきお方、乙女のうちの最も聖なるお方を 絶え間なく誉め讃え、感嘆して眺める、このお方が地上を通られるときは、慈悲深く介入なされ、あなた方の懇願にお応え下さる。
言わせてほしい:我が聖心は あなた方の天国。 楽園であって、あなた方の王国。嗣業の地、永久の安息地。こんなにも愛しているこの心に 近づきなさい そうするなら、我が心より、あなたの心に豊かな祝福を注ぎ出し、その霊魂を 春の晴れわたった日のような無上の祝福に変え、象牙の塔、私だけの天国に変えよう。 この私の愛を誰が疑い得よう?ああ、愛する者よ、私の愛を疑うたびごと、我が悲嘆によって太陽は暗やむ・・・・今日は、大いなる愛をもって、御母(**)のお心を顕示したい、
* イエスは神でもあるので、「も」とおっしゃったのです。
* *「御母」とイエスが発音された時、そのお心が愛で溶けてしまわれるのを感じました。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち8巻P163
96.4.3
我がヴァッスーラ、この時の終わりの 小さな教え子よ、御母のみ心について 天より一つの教えを授けて筆記させる・・・以前も述べたように、御母のみ心と私の心は深く一致し 一つとなっている。乙女のうちなる乙女、最も聖なる者、今や永久に天国におられる、私の御母は、天国でも:私の母と呼ばれ続けている。
神なる、私が聖霊によって身ごもり 乙女マリアから生まれるために下り来たとき、私は 我が天国に入った! 一方の天国からもう一つの天国に入り、片方の王座からは もう片方の王座に移った。母のみ心は、うちにも外にも輝き放つ、神聖な燭台に光る 明かりのようだった ♡ 私はこの楽園に迎え入れられ 誉れを受けた。エワによって失われ汚されたものが 乙女マリアの全き従順と謙遜を通して取り戻され聖化された。 そしてこの女性を通して、私が地上を治めるときがふたたび来よう。地上の我が支配は 一人ひとりの心のうちに築かれる。我が霊はふたたび、あふれるほど豊かに注がれ、今の不毛は肥沃な地に変容する。
ヴァッスーラ/あなたは預言を無視しますか/P132
そしてこれからご紹介するのは、聖母マリアについて、御子イエスが言われたことを筆記したものです。創造物のうちの誰が、聖母マリアの心に匹敵するかを私たちに問うところから始まります。非の打ち所のない聖母と肩を並べられる人間など、一人もいません。恩寵の点でも、神の天使の誰よりも抜きん出ていらっしゃいます。このときのメッセージはとても愉快でした。聖霊によってイエスを御懐妊になる以前の聖母マリアのことで、天使たちが互に声をかけて話し合っているのが分かったからです。神はこうおっしゃいました。
「だから 私の天使たちが大勢集まって こんな具合に 互に尋ねあっているのだよ。 <あのヴェールの奥の人は、誰だろう?>、<なぜ山の稜線は、あの女性が通り過ぎるときに、深々と頭を下げてお辞儀をするのだろう?>、<神がとてもお気に召してる 心に汚れ一つないあの女性は誰だろう?>、<神の創造物のほとんどが、彼女が通り過ぎるときに、視線を落とすのを見た?>、<泉のようにその恩寵で庭園を肥沃にして、生ける水の泉であられるあの女性は何者?>、<とても心が純粋な、気高い愛で昼も夜も、夜も昼も神にあこがれ、神と完全に結ばれているあの女性は誰でしょうか?>、<豊かな美徳と恩寵に恵まれながら、とても慎ましやかで、至高の神の目をとらえて離さない あのおとめは誰だろう?>。私の天使たちの多くは感嘆のあまり なにも言えず、沈黙を続けていたよ。」(1996年3月19日)
3.グリニョン・ド・モンフォール
グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心/山下訳/3
マリアは、神に、できるだけ自分をかくしてくださるように、できるだけ自分を、貧しく卑しくしてくださるようにと、熱心に祈っておられました。だから、神も喜んでほとんど全ての人の目から、マリアをおかくしになったのです。(中略)天使たちは天使たちで、マリアをつらつらながめては、しばしば互いにささやき合ったものです。「あの女は、どんなかたですか」(雅歌3・6)それほど神が、マリアを、全被造物の目から、おおいかくしておいでになったからです。むろん、神はときたま、マリアのお姿を被造物に、ホンのすこしばかり、かいま見せることもありました。しかしそれとても、マリアを、ますますかくしたいご意向から、そうなさったに過ぎないのです。
グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心/山下訳/27
恩寵は自然を完成し、栄光は恩寵を完成します。だとすると、イエズス・キリストが地上で、マリアの子であったように、天国でもおなじくマリアの子であるということは、たしかな事実です。当然の結果として、イエズス・キリストが、すべての子らの最も完全な従属と服従を、天国でもそっくりそのまま、すべての母親の中の最高の母親マリアに対して、持ち続けておられるということは、これもたしかな事実です。
4.聖母から司祭へ
1974.8.15 聖母被昇天の祭日
よりいっそう母であるために天国にいます
今日は私の祝日です。天国は歓喜に満ちています。聖三位は、ご自分の最も純粋な光が私に反射しているのをごらんになって喜んでいられます。
私はよりいっそう母であり、皆の母であるために、肉身も共に天国にいます。
聖母から司祭へ1975.9.15
確かに私は天国にいます。わが子のそばにいて、また聖三位の光と天使や聖人の中にあって私は完全に幸福です。しかし母なる私の役目、あなたがたと私を結ぶそのつとめは地上でなお続いています。
私があなたがたの母である限り、あなたがたの悲しみは、私の悲しみでもあります。
聖母から司祭へ1994.8.15
天のすべての天使たちは、無上の喜びを感じて、喜びの賛美歌をうたい、自分たちの元后であるわたしに、大きな尊敬を現して、ひれ伏します。
聖人たちのすべての軍団は、わたしが栄光に輝く美に包まれた体をもって、わたしの子の側にいるのを見て、さらにいっそう大きな幸福を感じます。今はまだ、天の母だけに与えられているが、いつか後で、自分たちの体も清められ、このように輝かしい栄光を受けるだろうと考えて喜んでいます。
煉獄のすべての霊魂も、祈りと苦しみのうちにあって、特別な慰めを受けています。なぜなら、わたしの栄光ある体を見ることで、自分たちの清めが、ますます強められ、天国の栄光のうちに、わたしと一致することへの憧れが、いよいよ激しくなるからです。
5.ジャン・マリ・ヴィアンネ
聖ヴィアンネの精神P210
皆さん、慰め多い考えです。天国では私共は誰と一緒でしょうか。私共の父である神様と一緒です。私共の母である聖母と一緒です。私共の友である天使、諸聖人と一緒なのです。
十戒の第四の戒めは、両親は尊ばれなくてはならない、である。
この戒めが与えられたのは、両親に対する尊敬は主に対する愛と隣人に対する愛を表象し、かくて意味したためである、なぜなら天界の意味における『父』は、即ち、天界の父は主であられ、天界の意味における『母』は、即ち、天界の母は教会であるからである、『尊敬』は愛の善を意味し、彼らが得る『日々の長いこと』は永遠の生命の幸福を意味している。そのようにこの戒めは天界で理解されており、そこでは主以外いかような父も知られておらず、教会でもまたある主の王国以外にはいかような母も知られてはいないのである。なぜなら主は主御自身から生命を与えられ、教会を通して栄養を与えられるからである。天界の意味においては世における父は意味されることは出来ないのであり、実に人間が天界の観念[考え]の中にいるときは、父は言われることが出来ないことを主はマタイ伝に教えられている―
人間を地上であなたらの父と呼んではならない、なぜなら諸天界におられるあなたらの父は一人であられるからである(マタイ23・9)。
『父』は神的善の方面の主を意味していることは前に見ることが出来よう(32、200、254、297番)。『母』は主の王国、教会、神的真理を意味していることは「天界の秘義」の中に見ることが出来よう(289、2691、2717、3703、5581、8897番)、『日々の長いこと』は永遠の生命の幸福を意味し(8898番)、『尊敬』は愛の善を意味している(8897、前の288、345番)。この凡ては第三と第四の戒めは主に関係しているアルカナ〔秘義〕を、即ち、主の神的なものを承認し、告白することを、愛の善から主を拝することを含んでいることを明らかにしている。