あなたがたのうちで一番偉い人は、仕える者になりなさい
(マタイ23・11、20・26))
マタイ20・25−28
そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのとおなじように。」
マタイ23・11−12
あなたがたのうちで一番偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
ルカ18・14
だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
ルカ22・26
しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。
天界の秘義5732
「そしてかれはその家を治めている者に命じて、言った。」(創世記44・1)
これはかれ自身から発した流入を意味していることは、以下から明白である、すなわち、『命じること』の意義は流入であり(5486番)、『その家を治めている者』の意義は、伝達したところの[それが伝達した]、である。流入がかれ自身から、すなわち、ヨセフの表象する内なる天的なものから発したことは明白である。『命じること』が流入であるのは、天界ではたれ一人命じられたり、または言いつけられたりはしないで、思考が伝達され、他の者は進んでそれに応じて活動するためである。何かが為されるようにと望む意志をともなった思考の伝達が流入であり、それを受ける者の側では認識であり、それで『命じること』によりまた認識が意味されている。(3661,3682番)。
[2]さらに天界ではかれらは考えるのみでなく、また共に語りはするが、しかしそれは知恵の事柄について考え、語るのであり、しかもその会話の中には一人が他の者に命じるものは何一つないのである、なぜならたれ一人主人となって、他の者を僕として見ようとはねがわないし、各々の者は他の者に仕え、奉仕しようとねがっているからである。
このことから諸天界にはいかような形の天界が在るかが明らかであり、それは主により以下のようにマタイ伝に記されているのである―
あなたたちの間ではそうであってはならない、たれでもあなたたちの間で偉大になりたい者はあなたたちに仕える者となり、たれでも最初の者になりたい者はあなたたちの僕とならなくてはならない(20・26,27)。
さらに―
あなたたちの間で最大の者はあなたたちに仕える者とならなくてはならない。たれでも自分を高くする者は卑しくされ、たれでも自分を卑しくする者は高くされるでしょう(23・11,12)。
心からその隣人を愛する者は、または利己的な目的をもたないで、他の者に善を為すことに歓喜と祝福とを感じる者は、すなわち、隣人に仁慈を抱いている者はそのことを行うのである。
天界の秘義1419
「わたしはあなたの名を偉大にしよう」(創世記12・2)。
これは栄光を意味していることは説明を要しないで明白である。外なる意義では、『名をなすこと』によりまた『栄光』により世的な事柄が意味されているが、しかし内意では、天的な事柄が意味されている。この天的なものは最も偉大なものになるために努めることでなく、凡ての者に仕えることにより最小のものになるために努めることであり、主御自身マタイ伝に言われているのである―
(20・26−28、マルコ10・44,45)
自分自身のものであることを望まないで、凡ての者に属することを望むことが愛の天的なものであり、かくて私たちが私たち自身のものである凡てのものを他の者に与えようと欲する、そのことのうちに天的な愛の本質が存在しているのである。
主は愛それ自身であられ、または諸天界の凡てのものの愛の本質と生命であられるため、主のものである凡ゆるものを人類に与えようとねがわれており、そのことが主が人の子は自分が生命を多くの者のあがないとして与えるために来たのであると言われたことにより意味されているのである。
このことから内意では『名』と『栄光』とはそれがその外なる意義においてあるものとは全く相違していることが明白である。それで天界では偉大なものにまた最も偉大なものになろうと欲する者は凡て斥けられているが、それはそのことが主から発している天界の愛の本質と生命とに相反しているためである。ここからまた自己愛ほど天界の愛に相反したものがないことが生まれている。これらのことについては前に経験から述べられたことを参照されたい(450,452,952番)。
天界の秘義1594[4]
それのみが天界的なものである相互愛は、人間が自分自身については以下のように言うのみでなく、またそのことを承認もし、信じもしていることにあるのである、すなわち、自分は全く無価値なものであり、卑しい汚れたものである、主はその無限の慈悲から自分を地獄から絶えず引き出され、遠ざけておられるが、その人間はその地獄の中へ自分自身を投げ込もうと絶えず努めている、いな、渇望しているのである。
かれがそのことを承認し、信じているのはそれが真であるためである、主がまたはたれか天使がかれが服従するためにそれを承認し、信じるように欲しておられるというのではなくて、かれが自分はまことにそうしたものであることを認めて、高ぶらないためである、なぜならそうしたことは排泄物がそれ自身を純金と呼ぶようなものであり、または糞のやまの上を飛んでいるはえが自分は楽園の鳥であると言うようなものであるからである。
それで人間が自分自身は自分が実際あるようなものであることを承認し、またはそのようなものであると信じるに応じて、かれは自己愛からその自己愛のいくたの欲念から後退して、自分自身を忌みきらうのである。かれがそのことを為すに応じて、かれは主から天界の愛を、すなわち、すべての者に仕えようとする願望から成っている相互愛を受けるのである。これらの者が主の王国の中で最大の者となるところの『いとも小さい者』により意味されている者たちである(マタイ20・26−28、ルカ9・46−48)。
マリア・ワルトルタ35・9/天使館第1巻P308
わたしの王国では、『小さき者』になることによって偉大となります。世の目に対して『偉大な者』でありたいなら、わたしの王国には不適格です。彼は悪霊たちのベッド用の藁屑です。世の偉大さは神の掟と正反対だからです。
世は常に、そのほとんどが非合法なやり方で、よりよい地位に就くために隣人を踏み台にして昇進し、踏み台にしたその隣人をぺしゃんこにする者たちを偉人と呼びます。支配するために殺し、他人の精神も体もずたずたにして殺し、地位と国々を強奪し、個人の富であろうと集団の富であろうと他人を搾取して肥え太ることに長けている者を『偉人』だと称えます。世は犯罪者、悪党をしばしば『偉い奴』と言います。いいや、違う。犯罪には『偉大さ』などないのです。『偉大さ』は善良さ、正直、愛、正義にこそあります。その悪魔的不正な内的果樹園からもぎ取ってきた有毒な果実をあなたたちに振る舞う、あなたたちの『偉人たち』がどんな人たちかを見極めなさい!