マリアの子
真の基督教92
「神が由って以て世に来たり給うた人間性は神の子である。」
主はしばしば父が彼を遣わし、彼は父によって遣わされたことを宣言し給うた(マタイ10・40、15・24、ヨハネ3・17、34、5・23、24、36、37、38、6・29、40、44、57、7・16、18、28、29、8・16、18、29、41、9・4およびその他多くの記事)。彼はこの事を語り給うたのは、世に遣わされるとは降って人々の間に来ることを意味し、而してこの事は彼が処女マリアを通して取り給うた人間性によって為されたからである。人間性は実にまた神の子であるのは、それは神エホバを父としてみごもられたからである(ルカ1・32、35)。彼は神の子とも、人の子とも、マリアの子とも呼ばれ、神の子により人間性における神エホバが意味され、人の子により聖言(みことば)の方面の主が意味され、マリアの子によりその取り給うた人間性が意味されている。
主をマリアの子と呼び、神の子と呼ばないことによって教会に入って来た大なる罪は、彼の神性の観念が失われ、それとともに彼について、聖言の中に神の子として語られていることが凡て失われたということである。その後ユダヤ教主義、アリウス主義、ソツィニウス主義、カルビン主義が最初のうち続発し、遂には唯物主義が起り、それとともに彼はヨセフによりマリアの子であった、その霊魂は母から来た、それ故彼は神の子と呼ばれているが、実際はそうでないとの確信が起って来たのである。教職のみならず、平信徒も、マリアの子として考えられている主を単なる人間の子として考えていないかを反省されたい。このような考えはアリウスの教説が生まれた三世紀に既に基督教徒の間に流布していたので、ニケア会議は主の神性を擁護するために、永遠から生まれた神の子という教義を考案したのである。しかしこの考案によって当時主の人間性は実に神性に高められたし、今もなお多くの人々の間にそのように高められてはいるが、しかも、なおそれは、かの所謂実体結合説によって、その中の一人が他の一人よりも優れている所の二人の人間の間にあるような結合を理解している人々の間では高められてはいない。しかしこのことから生まれるものは単に人間性におけるエホバを礼拝することにのみ、すなわち、神人を礼拝することにのみ基礎づけられている全基督教会の全面的な破壊でなくて何であろうか。
何人も、主によって多くの箇所で宣言されているように、父の人間性によらなくては父を見或は彼を知り或は彼に来り、或は彼を信ずることは出来ない。もしこの宣言が無視されるならば、教会の高貴な種子は凡て卑賤なものにされてしまう、橄欖の種子は松のそれとなり、蜜柑、シトロン、林檎、梨の種子は、柳、楡、菩提樹、樫の木のそれとなり、葡萄は蘆に変わり、小麦と大麦とは籾殻となる。実に、霊的な食物は凡て塵の如くになり、単に蛇の食物にのみ適しくなるのである、何故なら人間における霊的な光は自然的なものとなり、遂には物質的な感覚的なものとなり、その物質的感覚的なものは本質的には人を欺き迷わす光であるからである。事実、人間はその時飛ぼうと試みても翼が切られていて地面に落ち、歩き回っても単に足許の物のみしか目に入らぬ鳥のようになり、己が永遠の生命に関する教会の凡ての霊的なものについては、占い師が考えるようなことを考えるのである。凡てこうした事柄は人間が主なる神、贖罪者、救い主を単にマリアの子として、換言すれば単なる人間として見なす時、必然的に生まれるに違いない。
或る者は主はその人間性の方面では単にマリアの子であったのみでなく、また現在もそうであると信じているが、しかし、この事において基督教界は欺かれている。彼はマリアの子であった事は真であるが、現在もそうであるというのは真ではない。何故なら、彼は母から得た人間性を贖罪によって脱ぎ去り、父から発した人間性を着け給うたからである。それ故主の人間性は神的なものであり、彼の中に神は人であり、人は神である。彼は母から得た人間性を脱ぎ去り、神的な人間性である所の父からの人間性を着け給うた事は、彼は決してマリアを己が母とは呼び給わなかったという事実から明白である。この事は以下の記事に理解されるであろう。「イエスの母彼に言ふ。彼らに葡萄酒なし。イエス言い給ふ、女よ、我と汝とは何のかゝはりあらんや。我が時は未だ来たらず。」(ヨハネ2・3、4)さらに、「イエス(十字架より)その母と、その愛し給へる弟子の立つを見て、その母に言ひけるは、女よ、見よ、汝の子なり! かくて弟子に言ひ給ふ、見よ、汝の母なり!」(ヨハネ19・26、27)。而して一度彼は彼女を己が母として認めることを拒絶し給うた。或る者がイエスに告げて語った。「汝の母と汝の兄弟とは外に立ち、汝に会はんことを望む。イエス彼らに言ひ給ひけるは、我が母、我が兄弟とは神の言を聞きて之を行ふ者なり」(ルカ7・20、21、マタイ12・46−50、マルコ3・31−35)。このように、主は彼女を「母」とは呼び給はないで「女」と呼び、彼女をヨハネに母として与え給うた。他の記事では彼女は彼の母と呼ばれているが、しかし、主自身の口によってそう呼ばれてはいない。この事は更に彼は自らをダビデの子として認め給わなかったという事実によって証明される。何故なら我々は福音書にイエスがパリサイ人に向って次のように語り給うたのを読むからである。「汝らはキリストのことを如何に思うか。彼は誰の子なるか。彼ら彼に言う、ダビデの子なり。彼語り給ふ、さらばダビデは如何にして御霊に感じて彼を己が主と呼び、主我が主に言ひ給ふ、我汝の敵を汝の足台となす迄は我が右手に座せよと語りしや。さればダビデ彼を主と呼びたらんには、如何でその子ならんや。何人も彼に一言だに答ふることを得ざりき。」(マタイ22・41−46、マルコ12・35−37、ルカ20・41−44、詩篇110・1)上述の記事に私は以下の新しい事実を附加しよう。かつて私は母マリアと語ることを許された。彼女は或る時通り過ぎて、私の頭上の天界に、絹のような白い衣服を着けて現れた。それから彼女は暫く立止まって、以下のように語った。彼女は主の母であった、彼は彼女から生まれたからである。しかし、彼は神となり給うて、彼が以前彼女から得給うた人間性を凡て脱ぎ棄て給うた。それ故、彼女は彼を己が神として礼拝しており、何人も彼を彼女の子として認めることを欲しない。何故なら、神性の凡ては彼の中にあるからであると。
それ故上に述べた事柄から、エホバは始から終りまで、「我はアルファなり、オメガなり、始めなり、終りなりと、今在し、昔在し、後来り給う主全能者語り給ふ」(黙示録1・8、11)の言葉に従い人間であり給うという真理が明白に輝き出てくる。ヨハネは七つの燈台の最中に人の子に似た者を眺めた時、「その足許に倒れて死せる者の如くなりしが、彼その右手を彼の上に置きて言ひ給ひけるは、我は最初なり、最後なり」(1・13、17、21・6)「見よ、我速に来らん、各々にその業に従ひて報ゆべし。我はアルファなり、オメガなり、始なり、終りなり、最初なり、最後なり」(22・12、13)。またイザヤ書に、「エホバ、イスラエルの王、その贖い主、万軍のエホバかく語り給ふ、我は最初なり、我は最後なり。」(44・6、48・12)
真の基督教206
聖言の霊的意義を解く鍵である所の相応の科学は、それらの時代以後に啓示されなかったのは、原始教会の基督教徒達は極めて単純であって、それを理解することも利用することも出来なかったからである。それらの時代以後、暗闇が全基督教会を蔽ったが、それはまず教会内に流布した多くの異端的な見解の結果であり、その後間もなく現われた永遠からの三人の神的人格の存在に関する、また神エホバの子としてではなく、マリアの子としてのキリストの人格に関するニケア会議の教令と決議の結果であった。ここから現在の信仰義認の教義が生まれ、それによると人は三人の神に継続的に近づくのであり、これに現今の教会の凡ゆる物は、身体の手足が頭部に依存するように、依存しているのである。そして人々は聖言の凡ての物をこの誤った信仰を確認するために用いたために、霊的な意義は示されることは出来なかった。何故なら、もしそれが示されたならば、彼らはそれを同一の目的に用い、かくて聖言の聖さを冒瀆し、かくして完全に自らを天界から閉め出し、主をその教会から放逐したことであろう。
真の基督教342
これらの記事は真に基督教徒であることを願い、キリストによって救われんことを願う者は凡て、イエスは活ける神の子であると信じなくてはならないことを示している。彼はマリヤの子に過ぎないと信ずる者はその心に彼に関して有害な、救を破壊する種々の観念を植え付けるのである(92、94、102番)。このような者に就いては、ユダヤ人について言われた以下の記事が述べられるのである。彼らは彼の頭に王冠に代えて茨の冠を載せ、彼に酢の飲物を与え、而して「若し汝神の子たらば、十字架より降りよ」と叫び(マタイ27・29、34、40)、或は悪魔の如く彼を試み、「若し汝神の子ならば、命じてこれらの石をパンとならしめよ」或は「若し汝神の子ならば、自らを下に投げよ」(マタイ4・3、6)と語ったのである。かかる人間は彼の教会と神殿とを汚し、之を盗賊の巣窟とする者である。彼らはキリスト礼拝をマホメット礼拝のようなものにして、主の礼拝なる真のキリスト教と唯物論に区別をもうけない。彼らは人が馬車或は橇に乗って薄い氷の上を通り過ぎ、氷は重みのために砕けて、一同氷の水の中に沈み込むに譬えることが出来、或は、人が葦と藺草(いぐさ)とでボートを造り、それに瀝青を塗り、海に出た時、砕けて、一同が溺死するに譬えることが出来よう。
真の基督教536
宗教的な動機から善を為す者は凡て、死後、永遠から存在する三人の神的な人格に関わる現今の教義を、それに相応する信仰と共に斥け、救い主にて在す主なる神に心を向け、喜びを以って新しい教会の教義を受ける。然し、宗教から仁慈を行わぬ者は、鐵石のような頑なな心を持っている。これらの者は先ず三人の神に近づき、後に、神のみに近づき、後には如何なる神にも些かも近づかない。彼らは救い主に在す主なる神を、単にヨセフとの結婚によるマリアの子としてのみ見上げ、神の子としては見上げない、次いで彼らは新しい教会の凡ゆる善と真理とを廃棄し、間もなく龍の霊共に加わり、彼らと共に、所謂基督教国の最端に在る荒野、或は洞窟に向って追い立てられ、暫くして、新しい天界から分離され犯罪に向って突進し、地獄に投ぜられる。かくの如きが、宗教的な動機から仁慈の業を為さない者達の運命である。
真の基督教827
上述の記事に私は特に注意すべき一つの事柄を附加しよう。主の母マリヤは嘗て白衣を着けて私の頭上を通り過ぎた。彼女は暫くの間立ち止り、主は実際彼女から生まれ給うたのであるが、しかし神となられて、彼女から得給うた凡ゆる人間性を脱ぎ去り給うた、それ故彼女は主を自分の神として礼拝しており、主に在る凡てのものは神的なものである故、何人も主を彼女の子として語ること願わないと話したのである。
スウェーデンボルグ/主について・アタナシウス信条についてP90
人間はことごとく以下のことから、また以下のことのために、その父から名づけられて、父の息子と呼ばれている、すなわち、人間各々の生命はその父から発し、その着物は母の中に与えられており、そこから人間各々はことごとく父から名づけられ、母から名づけられはしないのである。それ故、主の父が主の神的なものであられたことが知られるとき、なぜ教会の中で主は『マリアの息子』であると言われるのであるか、そのことから、主はかくて単なる人間として生まれられたとの、またその人間的なものの方面では神ではなかったとの信念が発してくるのである。
スウェーデンボルグ/主について・アタナシウス信条についてP90
母については主もまた言われたのである―
彼女は主を生んだために祝福されはしない、しかし聖言を聞いて、それを守る者たちは祝福されている(ルカ11・27、28)。
彼女が母であったため、何か神的なものを彼女に帰しはしないように、と主は言われたのである。
主は父から出て来られて、世へ来られたのであり、父へ帰られるのである。 (ヨハネ16・27,28、またヨハネ14・12、16・5、10、16、17、30、17・8、それからまたヨハネ10・9、イザヤ25・9)。
主は天から降られた(聖言から)。
新しい教会の教典P80
八、しかし主の母マリアは後に教会を表象したため、その点で彼女は主の母と呼ばれなくてはならない