主は聖母を隠された

 

聖母の謙遜

 

 

1.聖書

2.マリア・ワルトルタ

3.グリニョン・ド・モンフォール

4.デボラ

5.スウェーデンボルグ

6.シルワン

7.アグレダのマリア

 

 

 

 

1.聖書

 

 

マタイ12・46−50

 

 イエスがなお群集に話しておられるとき、その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。そこで、ある人がイエスに、御覧なさい、母上と御兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。しかし、イエスはその人にお答えになった。「わたしの母とはだれか。わたしの兄弟とはだれか。」そして、弟子たちの方を指して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行なう人がわたしの兄弟、姉妹、また母である。」

 

 

 

ルカ11・27−28

 

イエスがこれらのことを話しておられると、ある女が群衆の中から声高らかに言った。「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は。」しかし、イエスは言われた。「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」

 

 

 

ヨハネ2・1−4

 

三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。 イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。 ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。 イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」

 

 

 

ヨハネ19・26−27

 

イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

 

 

 

2.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/天使館/P88

 

 マリアの胎内! マリアの心臓! いいや。神にもっとも心を奪われた頭脳といえども、純粋と愛のこの二つの完全さの奥底に降りることは出来ず、頂点にまで登ることは出来ない。わたしはわたしの親しい人々の中でも最も親しい人々のためにマリアの胎内と心臓とを照らす。ただしあなたたちは、完全な学問のあるところに至った時はじめて、マリアを理解するだろう。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/復活/P205

 

「そして私たちは、あなたのすべての行いを話し、それに書くべきでしょうか?」

「・・・もう言った事であるが、聖霊がその折々に話してよい事、あるいは黙すことについて、あなたたちを導くであろう。あなたたちは見たであろう。私は奇跡を行っていた時にベルゼブルと言われた。そして今、私がこんなにも超自然的に行ったと知ったら、何を言うだろうか? 私は尚更に冒涜されるであろう。そしてあなたたちはその時期の前に迫害されるであろう。そうであれば、話すべき時に至るまで黙っていた方がよい」

「けれどもその時が、証人である私たちが死んでいる時であれば、どうすればよいでしょうか?」

「私の教会では、何時でも司祭たち、預言者たち、諸聖者たちによって、神感されている奇跡があるであろう。すなわち、すべての人々が望んでいる勝利の教会は、教える教会を独りぼっちでおかず、また教える教会は戦う教会も教えるだろう。それは幾つものグループではなく、一つのものである。互に別れたものではなく、愛と目的の一致を見るべきである。そうする事により、愛徳を知り、その国である天国で、その喜びを味わう事ができる。教会の神秘体においては、すべてが愛のために、愛において行われるべきである。なぜならば神秘体に回り巡らされている愛は血である。その事態によって、あなたたちは天において報いを得られると言ったと同じく、霊的な業もそれを得させる。そして真に言うが、死者が平和に入れるように死者のために祈る事は・・・あわれみのための大きな業である。神はそのためにあなたたちを祝福し、その祈りで煉獄で恵まれた人々は感謝するであろう。肉体の復活の時に、その人々が審判者であるキリストの前に集まる時に、私が祝福する人々の中に、煉獄における霊魂の平和のために善業と祈りをささげた人々がいる事であろう。真に言うが、善業の一つでもその効果なくして残るはずはなく、そして多くの霊魂は、別に宣教せず使徒的役割でもなく、また、修道生活にも入らずして、ただ煉獄の人々に平和を、また生きる人々の回心のために祈り、善業をささげた人々だろう。それに知られざる聖職者たち、神だけが見ている犠牲となった霊魂は、自分の一生涯を兄弟たちと神の栄光のために愛の絶えざる犠牲をささげた事により、主の働き人としての報いを受けるであろう。真に言うが、永遠の生命に入るには、いろいろな道がある。その一つの道は今言った事で、私の心に重要である。聞きたい事があれば、また話してもよい」

 

 

 

聖母マリア/マリア・ヴァルトルタによるマドンナの生涯/上巻/天使館/P98

 

そしてマリアが世のために、私と共に、私を通して、崇高なる犠牲を成し遂げたその時になって、真の信仰と愛にあふれた信者たちは、ようやくマリアの名の真の意味を理解するのです。そして未来永劫、まことの信仰と愛にあふれた信者一人ひとりにこのことを悟る恵みが与えられます。偉大なる御母、聖なる乳母の御名、それはキリストのすべての子供たちをその涙で養い、天国の永遠の生命へと慈しみ育て上げるのです。

 

 

 

 

3.グリニョン・ド・モンフォール

 

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心/山下訳/3

 

マリアは、神に、できるだけ自分をかくしてくださるように、できるだけ自分を、貧しく卑しくしてくださるようにと、熱心に祈っておられました。だから、神も喜んでほとんど全ての人の目から、マリアをおかくしになったのです。(中略)

天使たちは天使たちで、マリアをつらつらながめては、しばしば互いにささやき合ったものです。「あの女は、どんなかたですか」(雅歌3・6)それほど神が、マリアを、全被造物の目から、おおいかくしておいでになったからです。むろん、神はときたま、マリアのお姿を被造物に、ホンのすこしばかり、かいま見せることもありました。しかしそれとても、マリアを、ますますかくしたいご意向から、そうなさったに過ぎないのです。

 

 

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心/山下訳/4

 

全被造物の目から、自分をかくしたい、とのマリアのねがいにこたえて、神なる御父も彼女に、一生のあいだ一度も、すくなくとも人目をひくような奇跡はおこなわれませんでした。マリアが、奇跡を行なうカリスマを、じゅうぶん持ち合わせていたにもかかわらず神なる御子も、マリアには、人前でほとんど、お話しをさせませんでした。彼女には、ご自分の神的知恵を、あふれるほど、与えておられたにもかかわらず。神なる聖霊も、使徒や福音記者に、マリアにかんしては、ホンのわずかしか、記録させませんでした。しかも、人びとにイエズス・キリストを知らせるため、マリアのご登場がどうしても必要な場合に限り、そうさせたのです。マリアが、ご自分のいたって誠実な妻であったにもかかわらず。

 

 

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心/山下訳/5

 

マリアは、芸術作品でいえば、神の傑作です。神だけが、マリアを知り、マリアを独占しておいでになるのです。マリアは、神の御子の感嘆すべき母です。神の御子は御母マリアのけんそんを、ますます、助成するため、生涯にわたって彼女を低くし、かくすことを喜ばれたのです。彼女を実名ではなく“女の方”という、まるで赤の他人みたいな呼び方で、あしらわれました。にもかかわらず、心の中では、すべての天使、すべての人にもまして、マリアを尊敬し、マリアを愛しておいでになるのです。マリアは、聖霊の『閉じた園』(雅歌4・12)です。マリアは、聖霊のいとも忠実な妻です。聖霊だけが、この閉じた園に、はいることがおできになるのです。マリアは、聖なる三位一体が、お住まいになる聖所です。

 

 

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心/山下訳/49

 

世の救いは、マリアをとおして開始されました。だから、おなじくマリアをとおして完成されるべきです。マリアは、イエズス・キリストが初めてこの世においでになったときには、ほとんど目立たない存在でした。当時の人々は神の御子について、まだ十分な知識もなく、ハッキリした認識も持ち合わせていなかったので、もしもマリアがさいさいお姿をあらわしたら、そのすばらしい魅力のために、人びとは先をあらそってマリアに、あまりに強く、あまりに人間的に愛着したにちがいありません。そのために、真理から遠ざかる危険があったのです。それほど神は、マリアの外貌までも神々しく装ってくださったのです。こうした推測はけっして、でたらめではありません。アレオパーグの聖デニスも、ちゃんと書き残しているとおりです。ある日、かれはマリアを見たのですが、もしかれがシッカリした信仰をもっていなかったら、またこの信仰が、そうじゃない、と教えてくれなかったら、かれはてっきり、マリアを“神”だと感ちがいしたにちがいない、と書いているのです。それはさておき、世の終わりにイエズス・キリストがおいでになる直前、つまりキリストの再臨の直前、マリアは聖霊をとおして、人びとに知られ、人前に姿を現さねばなりません。それはマリアをとおして、イエズス・キリストが、あまねく世の人に知られ、愛され、奉仕されるためなのです。聖霊が、ご自分の妻マリアを一生、ひたかくしにかくし、キリストが公生活にはいって福音をのべ伝えてからも、マリアをホンのわずかしか人間に出さなかった理由が、もうとっくに、なくなったからです。

 

 

 

 

4.デボラ

 

 

デボラ/生ける神よりあかされた英知/2巻下P135

 

私の望みは、あなたがたが私の優しい母の声を聞いてくれることだ。なぜなら彼女は、血を流す私の聖心にまで霊魂たちを導くために、この時代のために取っておかれた方だからである。

 

 

 

 

5.スウェーデンボルグ

 

 

スウェーデンボルグ/主について・アタナシウス信条についてP90

 

彼女が母であったため、何か神的なものを彼女に帰しはしないように、と主は言われたのである。

 

 

 

真の基督教94

 

主をマリアの子と呼び、神の子と呼ばないことによって教会に入って来た大なる罪は、彼の神性の観念が失われ、それとともに彼について、聖言の中に神の子として語られている事が凡て失われたということである。

 

 

 

スウェーデンボルグ/真の基督教/94

 

現今の基督教会では我らの救い主なる主をマリアの子と呼ぶのが習わしであって、神の子は永遠から生まれた神の子の意味でない限りは、主を神の子とは殆ど呼ばないのである。是はロマ・カトリックが母マリアを他の凡ての者に勝った聖者となし、凡ゆる聖者の女神或いは女王として崇めた為である。

 

 

 

 

6.シルワン

 

 

シルワンの手記/P66

 

 神の母よ、あなたが地上で主とともにどのように暮らしたか知りたい。しかし、それを聖書の中で打ち明けてくださることをお望みではなかったので、その秘密は沈黙に包まれている。

 

 私がまだ若い修練者であったある日、神の母のイコンの前で祈っていた。するとイエススの祈りが私の心に湧き出で、その後ずっと心に留まっている。ある日、聖堂で、預言者イザヤの言葉を聞いた。「洗い、浄めよ」と。そのとき、私は、神の母はたった一つの考えだけでも罪を犯したことがあろうか、と自問した。そして、私が祈っている間、はっきりと次のような声が心の中に響いてきた。「神の母は一つの考えによってだけでも罪を犯したことがない」と。このように、聖霊は私の心の中で、聖母の清さを証してくださった。

 

 神の母の一生は、聖なる沈黙に包まれている。しかし、その愛が全世界に及ぶことと、彼女が聖霊において地上のすべての民を見てあわれんでくださることを、主は教会に知らせてくださった。

 

 いと清き神の母の、罪人に対する愛がどれほど偉大なものであるかを、すべての人に知ってもらいたい。私は、それを体験した。私は神の母を知らなかったが、聖霊は彼女を知らせてくださった。四十年前に、神の母は罪人だった私を訪れ、教えてくださった。惨めな私は、そのことで死んでしまうはずだったが、彼女の声を聞いて、次の言葉を深く心に留めた。「あなたがやっていることを私は望みません。」その声は決して忘れられないほど、優しく快く愛に満ちていた。罪人である私は神の母の恵みといつくしみをどのように感謝してよいのか、いまでも分からないでいる。

 

 

 

 

7.アグレダのマリア

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P22

 

この至聖にして至純なる御母が、時の初めから、そして時の始まる前に、神の聖心の中に生まれたのを知って、全能なる神を私は心から崇めます。御母があらゆる被造物より尊敬され、誉め讃えられるべきことは、アレオパギタの人のディオニシウスの言う通りです、「神が御母を創造し、賢い神性の姿に創造できたのは神であるという信仰がなければ、乙女なる御母が神御自身であるかも知れないと私は思い始めるかも知れない」と。御母の創造は、天地全体の創造よりももっと尊いこと、天地全体よりももっと大きな宝物であることを十二分に知らされた私は、この事実が一般の人々に知らされていないことを悲しみます。

 神の御計画は、聖母マリアに聖性、完全、賜物と恩寵が御子により与えられることです。

 

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P320

 

 聖マテオは二、三日後に最初の福音を書き始める前に、高間の奥の部屋で祈り、主の歴史の初めについて啓示を願っていると、偉大な威厳と光輝の玉座に腰かけられた聖母が、ドアが閉められているのに入って来られます。聖母は彼に立ち上がるようにおっしゃいます。彼は立ち上がり、聖母に祝福を願います。聖母は申されます、「私の僕なるマテオよ、あなたが福音を書くという幸運を頂き、神の祝福により福音を書き始めるようにいと高き御方が私をお遣わしになりました。あなたは聖霊の御助けを頂きます。私の全心からそれを請い願います。しかし、人となられた御言葉の受肉と他の神秘を現すため、そして、主の教会の基礎として世界に主の信仰を確立するために絶対必要なこと以外は書かないで下さい。この信仰が樹立された後で、主の強力な御手が私になさった神秘と祝福を信者たちに示す他の人々を、後ほど主は見つけられるでしょう。」聖マテオは聖母の指示に従う意志を明らかにし、福音を作成するとことを聖母と話していると、聖霊が目に見える形で降りて来られます。聖母のそばで聖マテオは書き始めます。聖母が去られた後、書き続け、ユダヤで書き終えます。ヘブライ語で書き、完成したのが我らの主の四十二年目です。

 福音史家マルコは、主の生誕後四十六年目に自分の福音をヘブライ語でパレスチナで書きました。書き始める前に自分の書き始める意図を聖母に知らせ、神の啓示を得て下さるように聖母に願うことを守護の天使に頼みました。聖母はお聞きになり、主は直ちに天使たちに、最も美しい光輝く玉座に聖母をお乗せし、聖マルコの許にお連れするように命じました。聖母の前に平伏し、聖マルコは言いました、「救世主の御母なる全被造物の女主人様、私は御子と御身の僕であり、御身の御来訪の価値がない者です。」聖母はお答えになります、「あなたが仕え、愛するいと高き御方は、あなたの祈りが聞き届けられ、聖霊があなたの福音を書くにあたってお助けになることを保証するため私をお遣わしになったのです。」聖母は聖マテオにおっしゃったように、聖母御自身のことは書かないようにおっしゃいました。即座に聖霊が目に見える輝く姿となり、聖マルコの上に御降りになり、お包みになり、内的啓示により満たされました。聖母のおられる間に聖マルコは書き始めました。その時、聖母は六十一歳でした。後に、聖マルコはローマの信者たちのためにもラテン語で書きました。

 聖母が六十三歳になられた年、聖ルカはギリシャ語で福音を書きました。聖ルカが書き始めようとした時、聖母が出現されました。人となられた御言葉の受肉やキリストの自然な母としての威厳について書くことになりました。聖霊が聖ルカの上に御下りになり、聖母のそばで聖母から直接事実を教わりました。聖母が玉座に腰かけておられる姿を書くことは、聖母の御要求通りしませんでした。その時、聖ルカはアカイアに住み、長い間、聖母と一緒でした。

 最後で四番目の福音史家、聖ヨハネは主の暦で五十八年の時、聖母の被昇天の後、ギリシャ語で、異端や誤謬に対し書きました。聖母の被昇天の後、ルシフェルたちは御言葉の受肉の信仰を弱めるため異端の種を撒いたのです。この信仰は過去において彼らを征服したからです。このため聖ヨハネは我らの救世主キリストの真で疑うことのできない神性を論証したのです。

 聖ヨハネが書き始めようとした時、聖母は天から降って来られました。全階級の何千もの天使たちがお供しました。聖母はお話しになります、「ヨハネ、私の息子、いと高き御方の僕よ、全人類が御子を永遠の御父の御子として、真の神として、そして真の人間として認めるようにあなたが書く時が来ました。私の神秘や秘密を書く時はまだ来ていません。世の中は、私を偶像崇拝するかもしれませんし、ルシフェルは救い主や聖三位の信仰を頂く人々を混乱するかもしれません。聖霊があなたを助けるでしょう。」聖母は聖ヨハネを祝福し、聖ヨハネを生涯守ることを約束し、天にお昇りになりました。聖母が神の知識と神の知的幻視により高められるにつれ、教会に対する世話と気配りも多くなりました。日々、信仰は地上に広がりました。真の御母なる先生として、使徒たちのことを心から気遣いました。聖ヨハネと聖小ヤコボ以外は全員、会議後エルサレムを離れました。聖母は使徒たちが外国で苦労することを心配しました。司祭として、御子の使徒として、教会の創立者として、教義の説教者として、いと高き御方の光栄に仕える者として選ばれた者としての使徒たちに最高の崇敬の気持ちを持っていました。聖母は天使たちに、使徒たちや弟子たち全員の世話をし、苦労している時は慰め、困難に当っては助けるように指名しました。使徒たち、弟子たちが今何をしているか、着物が不足していないか、天使たちに報告してもらいます。聖母は、彼らがエルサレムを出る時、着ていた物と同じ着物をいつも着れるように手配されました。これは御子の着ておられた物と同じ形と色の着物です。天使たちの手を借り、御自身の手で上着を織り、天使たちに、旅に出ている使徒たちに届けてもらいました。使徒たちは主と同じような格好で、主の御教えや御生涯について説教しました。食物に関しては、彼ら自身で托鉢するか、自給するか、施し物をもらうか自分たちで決めさせました。

 異邦人、ユダヤ人や、悪人たちをいつも唆す悪霊たちによる迫害から、使徒たちは天使たちにより助けられます。聖母の御名により、天使たちは人の姿になって彼らに現れ、慰めます。時には心の内部に働きかけます。牢獄から救い出したり、危険や罠について警告したり、旅に付き添い、場所や人に応じて何をすべきか教えたりします。天使たちは全てを聖母に報告します。聖母は、大変な労働をされ、使徒たちの全労働よりももっとされます。聖母が使徒たちや教会のために奇跡を行なわない日も夜もありません。これら全ての他に聖母は使徒たちに手紙を何回も書きます。天からの勧告や教義、慰めや力づけのための手紙です。