ニューソート

 

バベルの塔(創世記11・4)

ニューエージ偽りのエキュメニズム

救う信仰自己愛

 

 

 

1.聖書

2.信仰の知識から考案する

. 教義的な聖いものによって自分自身のために名を作る

4.自然を拝し、そこから事物の起原を引き出してくる者

5.人間の心をその感覚的な性向と快楽と欲念に媚びることにより捕え、教義を用い

6.彼らは聖言を信じていないで、自分自身を信じている

7.偽りのエキュメニズム

8.諸宗教の合一、または折衷について共に思いめぐらした者らがおり(霊界日記)

9.涜神と冒涜とに陥らないわけにはいかない

10.単に民法と道徳律からそれらを行う者は一人として救われはしない

11.神的なもの〔神〕から発している物に類似したもの

12.基督教的異教主義

13.自分自身の理知から考案したものに重みを加えようとして、聖言を用いる

14.マーチン・A・ラーソン

15.自分は神を否定はしない、神を認めていると、いかほど外なる思考の中では考えていようとも、その者自身の内部では神を否定している

16.教会を斥ける者は、教会は天界に導く故、天界から自らを斥け、而して天界から閉め出される

 

 

 

 

1.聖書

 

 

創世記11・4

 

 彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。

 

 

 

申命記22・9−11

 

ぶどう畑にそれと別の種を蒔いてはならない。あなたの蒔く種の実りも、ぶどう畑本来の収穫も共に汚れたものとならないためである。 牛とろばとを組にして耕してはならない。 毛糸と亜麻糸とを織り合わせた着物を着てはならない。

 

 

 

エレミヤ22・13−14

 

災いだ、恵みの業を行わず自分の宮殿を

正義を行わずに高殿を建て

同胞をただで働かせ

賃金を払わない者は。
彼は言う。

「自分のために広い宮殿を建て

大きな高殿を造ろう」と。

彼は窓を大きく開け

レバノン杉で覆い、朱色に塗り上げる。

 

 

 

エレミヤ23・30−32

 

それゆえ、見よ、わたしは仲間どうしでわたしの言葉を盗み合う預言者たちに立ち向かう、と主は言われる。 見よ、わたしは自分の舌先だけで、その言葉を「託宣」と称する預言者たちに立ち向かう、と主は言われる。 見よ、わたしは偽りの夢を預言する者たちに立ち向かう、と主は言われる。彼らは、それを解き明かして、偽りと気まぐれをもってわが民を迷わせた。わたし は、彼らを遣わしたことも、彼らに命じたこともない。彼らはこの民に何の益ももたらさない、と主は言われる。

 

 

 

 

2.信仰の知識から考案する

 

 

天界の秘義1176

 

内的な事柄にかかわる知識とは彼らが教義的なものと呼んでいるものであって、彼らはまたそれを祭儀から区別しているのである。例えば、彼らの主要な教義は信仰のみが救うということであるが、しかし彼らは主に対する愛と隣人に対する愛とが信仰そのものであることを知っておらず、彼らが信仰と呼んでいる知識は、その知識によって人間が主から主に対する愛と隣人に対する愛とを受けることが出来るという目的以外のためには存在していないことを知っておらず、またそれが救う信仰であることを知っていないのである。前に述べたような礼拝を生み出し設立する者らは信仰を知識にのみ成立させる者である。

 

 

 

 

 

天界の秘義1313

 

「人の子らが建てていた」。これは、彼らが彼ら自身のために考案したところの、を意味していることは説明しなくとも明らかである。ここの『人の子ら』は教会の子らである、なぜなら教会の者ではなくて、信仰の知識を持っていない者らはこうした事柄を考案することは出来ないからである。このような者は聖い物を冒涜することが出来ないことは前に示した(301−303、593番)

 

 

 

天界の秘義735

 

 しかし単純な心で聖言を信じておらず、迷妄[妄想]と誤謬とを、それが自分の欲念を支持しているため、確認し、そうした動機に動かされて自分自身から、また自分の記憶知から多くの理論を集め、後にはそれらを聖言によって確認し、かくして自分自身に、誤ったものが真であると印象づけ、自分自身に説得する者のもとではそうではない。

 

 

 

天界の秘義3391「3」(太字は当方による)

 

 義もなしに[不義をもって]その家を建て、公道なしに[不当に]部屋を造る者に禍いあれ、彼は言う、私は私のために広い家を、大きな部屋と建てよう、と、(彼は)彼のために窓を切る、それは香柏で天井を貼り、朱を塗りつけられる(エレミア22・13、14)。

 

『義もなしに[不義をもって]家を建て、不正に[公道なしに]部屋を造ること』は、善くない、また真でないものから何らかの宗教体系を立てることを意味しており(『義と公道』が善と真理であることは前の2235番に見ることが出来よう)、『窓を彼のために切り[設け]、香柏の天井を貼り、朱を塗りつけること』は、知的な霊的な真理を誤謬化することを意味している。エルサレムの神殿の窓は知的なものに属し、かくて霊的なものに属しているもの以外の何ものをも表象しなかったのである。

 

 

 

 

. 教義的な聖いものによって自分自身のために名を作る

 

天界の秘義1308

 

 「わたしらはわたしらのために名を作ろう」。これは、かれらがそれによって権力に対する名声を得ることができるであろう、を意味していることは、『自己に名を作ること』の意義から認めることができよう、なぜならかれらは人は各々何かを礼拝しようとのぞんでいることを知っていたからである、なぜならこのことは凡ての者に共通していて、それは凡ての国民の間に存在しているからである。なぜなら宇宙をながめる者は、ましてや宇宙の秩序を考察する者は凡て何かの至高の存在を、または実体を承認するのであって、かれはかれ自身の繁栄をねがっているため、その実体を崇拝するからである。さらにこうしたことを指示するものが内部に存在しているのである、なぜならこうした指示が人間各々のもとにいる天使たちを通して主から流れ入っているからである。このようなものでなく、また神を承認しない人間は奈落の霊どもの支配下にあるのである。バベルの塔を建てる者らはこのことを知っているため、教義的な聖いものによって自分自身のために名を作るのである、なぜならもしそれを作らないならばかれらは礼拝されることができないからであり、このことが以下の記事に、もしそうしないならかれらは全地の面に散らされてしまうことにより、すなわち、かれらは承認されないであろうということにより意味されているのである。そしてこのことからこうした人間が頭を天に高く上げるに応じ、益々自分自身に名を作る[自分自身を有名にする]ことが生まれてくるのである。かれらの支配は何らかの良心を持っている者に対しては最大なものになっている、なぜならこれらの者をかれらはその欲する所に何処なりと導くからであるが、しかし良心を持たない者については、こうした者を凡て色々な外なる束縛によって支配するのである。

 

 

ヨハネ7・18−19

 

 自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜわたしを殺そうとするのか。

 

 

 

4.自然を拝し、そこから事物の起原を引き出してくる者

 

 

天界の秘義775

 

 もし霊的なものが自然的なものから万が一にも後退してしまうならば、自然的なものは無くなるであろう。凡ゆる物の起原は以下のようになっている、すなわち、すべての物は、全般的にも、個別的にも、主から発している。主から天的なものが発し、主から天的なものを通して霊的なものが発し、霊的なものを通して自然的なものが発し、自然的なものを通して形体的なものと感覚的なものとが発しているのである。そして、それらは凡てこのようにして主から発しているように、また主から存続している、なぜなら良く知られているように、存続は絶えず存在するようになることであるから。自然を拝し、そこから事物の起原を引き出してくる者のように、事物が存在し、生起するに至ることについてこれとは異なった考えを抱いている者らは、森の野獣の幻想でもかれらよりは遥かに健全であると言ってもよいほどにも狂った原理に立っているのである。自分は知恵では他の者に勝っていると自分自身に思われている極めて多くの者はこうした者である。

 

 

 

天界と地獄3

 

 教会内で主を否定して、父〔神〕のみを承認し、そしてそうした信念を確認した者らは天界の外にいる。そして彼らは、主のみが崇拝されている天界から、いかような流入も受けないため、彼らはいかような主題についても、真のことを考える能力を次第に奪われ、遂には唖のようになるか、または愚劣なことを語って、関節の力が抜けた者のように、腕をだらりとぶら下げながら、当ても無くぶらつき回っている。しかし、ソツニウス主義者のように、主の神的なものを否定して、その人間性のみを承認した者も同じく天界の外にいて、やや右の方へ連れ出されて、深淵の中へ引き下ろされ、かくして基督教世界から来る他の者たちから全く引き離されている。しかし自分たちは目に見えない神的な者〔神〕を信じており、それを凡ての物の存在の起原であった宇宙の実在と呼んでいるとは言うものの、主に対する信仰を斥けている者らは、彼らはいかような神も信じていないことを経験により示される、なぜならその目に見えない神的なもの〔神〕は彼らには自然の第一原理のようなものであって、それは思考の対象とはならないため、信仰と愛との対象ともならないからである。(*2)これらの者は自然主義者と呼ばれる者らの間へ放逐される。教会の外に生れて、異邦人と呼ばれている者たちの場合はそうではない、彼らについては後に更に述べよう。

 

*2

いかような考えによっても認められない神的なものは信仰によっても受けられることは出来ない、4733、5110、5663、6982、6996、7004、7211、9359、9972、10067、10267。

 

 

 

 

5.人間の心をその感覚的な性向と快楽と欲念に媚びることにより捕え、教義を用い

 

天界の秘義1178

 

「かれはエホバの前に狩ることに力があった。」これはかれが多くの者を説きつけたことを意味していることは、仁慈から分離した信仰はそのようなものであることから、また聖言の『狩ること』の意義からも明白である。仁慈から分離した信仰は人間が容易に説きつけられるような性質を持っている。人類の大部分は内なるものとは何であるかを知っていないで、ただ外なるものを知っているに過ぎないのであり、大半の人間は感覚と快楽と欲念の事柄との中にとどまっていて、自分自身と世とを顧慮しており、それ故このような宗教に容易に捕らわれるのである。聖言の『狩ること』の意義から明らかであるのは、『狩ること』は、全般的に言って、説きつけることを意味しており、とくに、人間の心をその感覚的な性向と快楽と欲念に媚びることにより捕え、教義を用い、それをかれらがかれらの気質や他の者の気質に順応しつつかれら自身の好むままに、またかれら自身を高揚させ、豊かにもしようという目的から説明することにより―かくて説きつけることにより捕えることを意味しているためである。

 

[2]たとえばエゼキエル書にこのことが明白にされているのである―

 

  わたしの手の関節のことごとくに座ぶとんをぬいつけ、凡ゆる背丈の頭の上にベールを作って魂を狩る者には禍いあれ。おまえらはわたしの民のために魂を狩り、おまえら自身のために魂を生かしておくのか。おまえらはひとにぎりの大麦のため、またいく片かのパンのためにわたしの民の間でわたしを冒涜し、虚言に耳を傾けるわたしの民に虚言を述べて、魂を飛ばせるために用いるおまえらの座ぶとんに立ちむかって、それをおまえらの腕から引きちぎり、その魂を行かせよう、おまえらが狩って、飛ばせている魂を行かせよう、わたしはまたおまえらのベールも引きちぎって、わたしの民をおまえらの手から解き放とう、かれらはかさねておまえらの手に陥って狩られはしないであろう(13・18)

 

 『狩ること』の意義がここに説明されている、すなわち、それは説得することにより捕えることであり、またかれらがかれら自身のために、また他の者の気質に迎合して歪曲して、解釈するいくたの知識により捕えることであることが説明されている。

 

[3]ミカ書には―

 

 慈悲のある人間は地から滅んでしまった、人間の中には正しい者は一人もいない、かれらは凡て待ち伏せて血を求めている、彼ら各々はその兄弟を網をもって狩り、手で善を為さないで悪を為している、君は報酬を求めて、そのために審判き、大いなる人間はその魂の邪しまなことを口にし、彼らはそれを歪めている(7・2、3)。

 

 ここにも同じく『狩ること』により意味されていることが説明されており、すなわち、それは自己のために待ち伏せしていることであり、または誤ったものを真と呼び、邪しまなことを語り、歪め、かくして説きつけることである。ダビデの書には―

 

 舌[言葉]の人間は地には確く立てられはしないであろう、悪は暴力をふるう人間を狩って、これをくつがえすであろう(詩篇140・11)。

 

これは誤謬により説きつけ、欺こうとして悪いことを考え、しかも優しげに語る邪悪な者について言われており、ここの『舌[言葉]』は虚偽を意味している。

 

 

6.彼らは聖言を信じていないで、自分自身を信じている

 

聖書60

 

これと反対のことが、己が名誉を、またはこの世の富を仰ぎながら、誤った宗教の教義から聖言を読む者らのもとに起るのであり、ましてその教義を聖言から確認する者らのもとにはさらに起るのである。彼らに対しては聖言の真理はいわば夜の暗闇のようなものではあるが、誤ったものは日の光の中に在るようにも見えるのである。彼らは真のものを読みはするが、しかしそれを見はしない、その影を見るならば、それを誤謬化する。これらが主から以下のように言われている者らである、

 

 彼らは目があるが、見ない、耳があるが悟らない(マタイ13・13)。

 

なぜなら人間を盲目にするものはその人間自身のものと誤ったものを確認すること以外の何ものでもないから。人間自身のものとは自己への愛であり、そこから派生してくるところの自分自身の理知に対する自負[誇り]であり、誤ったものを確認することは光を装っている暗闇である。こうした人間の光は単に自然的なものであって、その視覚はうすぐらい所に妖怪を見る者のそれに似ている。

 

 

聖書115

 

しかし聖言がなくても人間は神の存在を、天界と地獄を、その他聖言から教えられている事柄を凡て知ることができると主張し、またそうした見解を確認もしている者がいるため、また彼らはそのことによって、たとえ唇でなくても、心の中で、聖言の権威と聖さとを弱めてもいるため、それで彼らと聖言から論じることは不可能であって、ただ合理的な光からのみ彼らと論じることしかできない、なぜなら彼らは聖言を信じていないで、自分自身を信じているからである。[こうした凡ての者に私たちは言おう]そのことを合理的な光から探求されよ、さすればあなたらは、人間の中には理解と意志と呼ばれる生命の二つの能力があって、理解は意志に服従しているが、意志は理解に服従していないことを知られるであろう、なぜなら理解は単に道を教え、示すにすぎないからである。さらに探求されよ、さすればあなたらは人間の意志は、その人間自身のものであって、これはそれ自身において観察されるならば、悪意外の何ものでもなく、そこから理解の中に誤ったものが発生してくることを知られるであろう。

 

[2]

 

[3]

 

天界の秘義896

 

「ノアは箱舟の蔽いを取りのけて見た。」

 

これはいくたの誤謬が除かれると、信仰の諸真理の光が存在し、それをかれは承認し、またそれに対する信仰を持ったことを意味することは、蔽いを除くことの意義から明白であり、それは光をさえぎっているものをとり去ることである。『箱舟』により再生することになっていた古代教会の人間が意味されているため、『蔽い』により天界を、または光を見させないようにさえぎり、妨害しているもの以外には何ものも意味されるはずはない。妨げたものは誤謬であった。それでかれは『見た』と言われている。聖言には『見る』ことは理解し、信仰を持つことを意味している。ここではそれはその人間が諸真理を承認し、その諸真理に対する信仰を持ったことを意味している。真理を知ることはそれを承認することとは異なっており、それに対する信仰を持つこととはさらに全く異なっている。知ることは再生の最初の事柄であり、承認することは第二の事柄であり、信仰を持つことは第三の事柄である。知ることと承認することと信仰を持つこととの間にいかような相違のあるかは以下の事実から明白である、すなわち、ユダヤ人やもっともらしい理論により教義的な物を破壊しようと試みる者のように、最悪の人間でも知ることはできても、承認しないのであり、信じない者でも承認して、ある状態では説教もし、確認もし、熱意をもって説きつけさえもするが、しかし信者でない者は一人として信仰を持つことはできないのである。

 

 

[2]信仰をもち、知り、承認し、信じる者たち、これらの者は仁慈を持っており、良心を持っている、それ故信仰はたれにもこれらの事柄がその者に真のものとなっていない限り、属性づけられることは決してできないのであり、すなわち、かれは信仰を持っているとは言うことはできないのである。それ故このことが再生することである。単に信仰に属したことを知ることは、その者の理性からも同意されなくては、人間の記憶に属したものである。信仰に属したものを承認することは或る原因により、また或る目的のために生まれた合理的同意である。しかし信仰を持つことは良心に属している。すなわち良心を通して働かれる主に属している。このことは他生にいる者達から非常に明白である。単に知るに過ぎない者の多くは地獄にいるのである。承認している者の多くの者もまたそこにいるのである。それは身体の生命の中では彼らが承認したのは或る状態の中にいた時のみのことであって、他生で彼らがかつて他の者に説教し、教え、説きつけもした事柄が真であることを知ると、非常に驚き、それが彼らが前に説教したところのものとして、その記憶によみがえる時にのみそれを承認するためである。しかし信仰を持っていた者たちは凡て天界にいるのである。

 

 

天界の秘義1304

 

「わたしらは都と塔とをわたしらに作ろう。」

これはかれらが教義と礼拝とを形作ったことを意味していることは『都』の意義から、また『塔』の意義からも認めることができよう、それについては間もなく記そう。教会は隣人に対する仁慈が去って、自己愛がそれに代って起ると、信仰の教義はそれが自己礼拝に変えられることができないかぎり無価値なものとなり、いかようなものもそれが自己のためにならない限り、引いてはそれが自己礼拝にならない限り、礼拝の中に聖いものとして考えられないといった性質をもっているのである。自己愛は凡てこのことを伴っている、なぜなら他の者にまさって自分自身を愛している者は自分に服従しない者を凡て憎悪し、その者が自分に服従するようになった時以外にはその者には何ら恩恵を示しはしないのみでなく、更に何かにより抑制されない限りは、自分自身を神の上にさえ挙げるまでも突進するからである。これが自己愛がほしいままにされた時のその性質であることが、そのあるがままにわたしに示されたのである。これが『都』と『塔』により意味されるものである。自己愛とそこから派生してくる欲念はことごとく凡ゆる物の中でも最も不潔なものであり、また最も汚れたものであり、奈落のものそのものであり、ここからたれでもかくも絶対的な奈落のものを内にもった礼拝の性質はいかようなものであるに違いないかを結論づけることができよう。

 

 

7.偽りのエキュメニズム

 

聖母から司祭へ

1989.6.13

 

 ―教会は真理です。なぜなら、イエズスが信仰の遺産全部を完全に守る使命をおまかせになったからです。それは、教皇と、教皇と一致している司教たちからなる位階教会にこの使命をおまかせになったからです。

教会的フリーメーソンは、偽りのエキュメニズムをもって、この事実を破壊しようとしています。偽りのエキュメニズムは、すべてのキリスト教の諸教会は、それぞれ真理の一部分をもっているのであるからということで、それらを全部一様に受け入れなければならないと主張します。 このエキュメニズムは、キリスト教のすべての教会、中でもカトリック教会も含めて、統一させた世界的エキュメニカルな教会をつくろうとする計画をはげましています。

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/5巻P11、9巻]]E

 

さまざまな色に塗りたくられ、商人たちが崇めるように強いて 従わせようとするこの像は 私でない。 それは我が聖性と神聖の概念を卑しめる歪んだ人間的わざの発明、偽りのエキュメニズム、すべて聖なるものにいどむ挑戦。 この商人たちの罪ゆえに 私は苦しむ。商人となったこの司祭たちのために祈ってほしい、彼らの罪は重い。 我が真理の霊を彼らのうちに置いて、彼らが私の掟を守り 我が神聖をまことに敬うように 祈ってほしい。

 

 

8.諸宗教の合一

 

天界の秘義5117[13]

 

あなたはあなたの仲間のぶどう園に来たときは、心のままに、あくまでもぶどうを食べてよい、しかし器の中へ一つも入れてはならない(申命記23・24)。

 

これは異なった教義と宗教とを奉じている他の者たちと交わっている者はすべてかれらの仁慈の諸善を学んで、それを受け入れても良いが、しかしそれにしみ込んで、それを自分自身の真理と連結してはならないことを意味しているのである。『ぶどう園』は教会を意味しているため、それは教義または宗教の在る所を意味しており、『ぶどうの果』は仁慈の善であり、『器』は教会の真理である。

 

 

霊界日記5662

 

 そこの頭の上の高い所に、その山の非常な高所に、諸宗教の合一、または折衷について共に思いめぐらした者らがおり、彼らは、多くのものから一つの教会を作り上げることを決め、マホメット教徒も、その教徒が主を最大の予言者として、人類に知恵を教えるために遣わされた神の子として承認しているという根底に立って、同じくその中に含まれると欲する程にもなったのである。

 このように彼らは多くの教会から一つの教会を作ろうと願ったが、しかし彼らはそのことを単に信仰に属している教義的なものを通してのみ、知的なものを通してのみ行おうと考えて、愛と信仰とのものである生命を通して、かくて人間の意志的なものを通しては、行おうとは考えはしなかったのである。これらの者は終いには善を殆ど冒涜してしまう程にも進んで、聖言から、たれにでも適応させることが出来るようなものを探り出した。

 

 彼らは私のもとへ流れ入って来たが、そのことは冒涜に似たものとして経験された、しかし彼らは発見され、私は彼らと話して、その際、以下のように言うことを与えられた、即ち、あなたらはそのようなことで単なる偶像と彫像からさえも一つの教会を作ろうと願っている以上、それは悪いことである、なぜなら理知に属している事柄のみが考慮されて、意思に属している事柄が考慮されない時は、人間は黒檀のように、または生命を全く持たない石のような物に見えるからであり、もしあなたらがそうした物からあなたらの一つの教会を作ろうとするなら、あなたらはそうしたものに見えるのである。しかしそれに反して、もしあなたらがその中に生命を望み、従って、教会を構成するために映像ではなくて、人間を得ようとするなら、愛の、また仁慈の善を、かくて主から生命を受けることを顧慮しなくてはならないのである。

そのことが基礎として取り上げられる時、教会は一つのものとなるのである、なぜなら主はその時凡ゆる者を天界とその形とに従って配置され、凡ての者を一人の人間として提示されるからである。幾多の地球の全範囲内における主の教会はそうしたものであり、そこからは単に映像に過ぎない者らは投げ出されて、その大半の者は地獄にいるが、ただ或る程度教義的なものに従って生き、かくてその教義的なものを生命のものとした者たち、またはその教義的なものを自分自身の中に生きたものとした者たちのみは除外されているのである、と。

彼らは、高所におり、従って低い所へ流れ入り、単に教義的なものの中にのみいたからには、他の者たちにおける善を冒涜しないように、そこから投げ落とされてしまったのである。

 

 

天界の秘義1288

 

「かれらの言葉は一つであった」(創世記11・1)。

 

これは個別的にも一つの教義があったことを意味していることは前に言われたことから明白である。なぜなら『唇』は、前に示されたように、教義を全般的に意味し、『言葉』は教義を個別的に意味し、または教義の個々のものを意味しているからである。なぜなら個々のものは何物にも勝って主を愛し、自分のように隣人を愛するという一つの目的を目指しさえするなら、それは何ら一致しないものを生み出さないからである、なぜならそのときは個々のものはこれらの全般的なものの個々のもの[個別的なもの]であるからである。

 

[]『言葉』が仁慈にかかわる凡ゆる教義とそこから派生してくる信仰とを意味し、『いくたの言葉』が教義に属した事柄を意味していることは、ダビデの書に明白である―

 

 わたしはあなたの義の審判を学ぶとき、心を直くしてあなたに向かって告白しましょう、わたしはあなたの法令を守りましょう。なにをもって子供はその道を清くしましょうか。あなたの御言葉に従って心をくばることによります。わたしはわたしの心をつくしてあなたを求めました、あなたの教えからさまよわせないでください。わたしはあなたに向かって罪を犯さないように、あなたの御言葉を心の中に秘めました。ああ、エホバよ、あなたは祝福されたまう。わたしにあなたの法令を教えたまえ。わたしはわたしの唇をもってあなたの御口の審判をことごとくくりかえしました。わたしはあなたの証の道にいて楽しみました。わたしはあなたの戒めの中で思いをめぐらし、あなたの道を仰ぎます。わたしはあなたの法令を喜びます。わたしはあなたの御言葉を忘れません(詩篇119・7−16)。

 

 ここの『言葉』は教義を全般的に意味している。ここには『教え』と『審判』と『証』と『戒め』と『法令』と『道』と『唇』とが区別されていて、この凡てが聖言にまたは教義にぞくしていることが明白である。聖言では他の凡ての所でもそれらは同一の明確に区別された事柄を意味している。

 

[]さらに―

 愛の歌。わたしの心は善い言葉を欲した、わたしの舌は速やかに物を書く人のペンである。あなたは人の子らにまさってうるわしく、あなたの唇の上には恩寵[恵み]が注がれている。真理の言葉の上に、義しい優しい言葉の上に乗りたまえ、あなたの右手はあなたに驚くべき事を教えるでしょう(詩篇45・1,2,4)。

 

『真理の言葉の上に、義しい優しい言葉の上に乗ること』は真理と善との教義を教えることである。ここにも、聖言の他の所のように、『言葉』と『唇』と『舌』という語は明確に区別ある事柄を意味しており、それらが仁慈に関わる教義の事柄であることは明白である、なぜならそれが『愛の歌』と呼ばれているからである。この教義について人の子らに勝った恵みと驚くべき事柄を教える右手が述べられているのである。

 

[]イザヤ書には―

エホバはヤコブに言葉をつかわされた、それはイスラエルに止まった(9・8)。

 

『言葉』は内なる礼拝と外なる礼拝との教義を意味し、ここの『ヤコブ』は外なる礼拝を、『イスラエル』は内なる礼拝を意味している。

マタイ伝には―

 イエスは言われた、人間はパンのみによって生きはしない、神の御口から出る凡ての言葉によって生きる(4・4)。

 

さらに―

たれでも王国の言葉を聞いて、それに心をとめない時は、悪い者が来て、その心にまかれたものを奪い去ってしまう(13・19)。

 

また同章の20節から23節までに記された『言葉』を参照されたい。さらに―

 

天と地は過ぎ去るであろう、しかしわたしのいくたの言葉は過ぎ去りはしない(24・35)。

 

これらの記事では『言葉』は主の教義を意味し『いくたの言葉』は主の教義にぞくした事柄を意味している。

 

[]『いくたの言葉』は教義の凡ゆる事柄を意味しているため、モーセの書には、十戒の戒めは『いくたの言葉』と呼ばれた―

 

エホバは板石の上に契約のいくたの言葉を、十の言葉を書かれた(出エジプト34・28)。

 

さらに―

かれはその契約をあなたらに布れられ、それらを、すなわち十の言葉を行うようにあなたらに命じられた、かれはそれらを二板の板石の上に書かれた(申命記4・13、10・4)

 

さらに―

自分自身に心をくばり、あなたの魂を勤勉に守りなさい、あなたがあなたの目でながめたいくたの言葉を忘れないためである(4・9)。

 

その他。

 

 

メジュゴリエの証言者たち/シスター・エマニエル/ドン・ボスコ社/P105

 

 マリアの到来はまた、神の受肉を否定するニューエイジの混乱に対して非常に効果的な解毒剤である。メジュゴリエは霊的生活のリアリズムを再発見させることで私たちを助ける。マリアは空想的・妖精的な心性をもった誰かではない。聖母は何か非人格的なエネルギーを見てではなく、生ける神を見て生活の具体的な現実の中へ私たちを突入させられる。聖母は、新しい偽りの神々を作り出し、信じる者を毎日煙にまくニューエイジの悪魔払いから私たちを解放なさる。

 

 

 

 

9.涜神と冒涜とに陥らないわけにはいかない

 

 

天界の秘義301

 

人間が転倒した秩序の生命となって、自分自身から、また自分自身のものから生き、または賢明になることを望んで、(主から)生き、賢明になることを願わなくなると、信仰について聞く凡ての事柄についてはそれがそのようなものであるか、ないかと論じるのであり、そしてそうしたことを自分自身と自分自身の感覚と記憶知に属したものから行うため、必然的にそれは否定に陥り、従って涜神と冒涜とに陥らない訳にはいかないのであり、かくて彼らは遂には汚れたものと聖いものとを混合することにためらいはしなくなるのである。人間がこのようなものになると、その者は他生では救いの望みが些かも残らない程にも罪に定められるのである。なぜなら冒涜により混合したものはそのように混入したままに止まり、かくて聖いものについて何らかの観念[考え]が現れると必ず、それに連続した汚れたものの観念もまたそこに存在し、その結果その人間は呪われた者[地獄に投げこまれた者]の社会を除いてはいかような社会にもいることが出来なくなるのである。

 

思考の何らかの観念の中に、その観念に連結している結果現存しているものはことごとく、他生では、霊たちの世界の霊たちによってすら極めて精妙に認められており、天使的な霊によっては遥かに精妙に認められており、実にただ一つの観念から人物の性格が知られる程にも精妙に認められている。

 

汚れた観念[考え]と聖い観念[考え]とがこのように連結している時、その二つのものを分離することは奈落の拷問によらなくては―もし人間がそれを知るならば地獄そのものを避けるようにも入念に冒涜を避けるであろうが、そうした奈落の拷問によらなくては―不可能である。

 

 

 

天界の秘義5066

 

右手の者の言った答え―

主よ、何時私たちはあなたが飢えておられるのを見て、あなたに食べさせましたか、または渇いておられるのを見て、飲物を与えましたか。何時私たちはあなたが他国の方であられるのを見て、お泊めしたでしょう。または裸であられるのを見て、お着せしたでしょう。何時私たちはあなたが病まれ、または牢におられるのを見て、あなたのもとへ来たでしょう。

 

この答えは、もし彼らが主御自身を見たなら、その各々の者はことごとくこれらの務めを行ったことであろうが、それでもそれは主に対する愛から行いはしないで、主が宇宙の審判者となられるために、恐怖から行ったであろう、ということを意味し、かくて主のためではなくて、彼ら自身のために行なったであろうし、かくて内から、または心から行わないで、外から、ただ行為の上でのみ行ったであろうということを意味しているのである。これは人が偉大な、または富んだ者になることが出来るように、かねがねその恩恵を得ようと願っている王を見、それでその前に身を卑うする時のようなものである。聖い外なる礼拝を守っている者の場合もこれに似ている、彼らはその礼拝の中ではいわば主を見まつり、主の前に身をかがめ、かくして自分たちは永遠の生命を受けるであろうと信じてはいるものの、何ら仁慈を持ってはおらず、自分自身のためでない限り、たれにも善を行わず、かくてただ自分自身にのみ善を行うのである。彼らは外の形では非常な尊敬を込めてその王のご機嫌をとるが、心では彼を無視しているため、その命令を嘲っている人物のようである。こうした事柄、またそれに類した事柄が右手にいてそのような答えをしている者たちにより意味されていることであり、悪い者もまた外の形ではそれに似た事柄を為しているため、それで、左手にいた者らもまた殆ど同じようなことを答えたのである。

 

 

 

天界の秘義1458[3]

 

エゼキエル書には―

 

  神の幻の中に神はわたしをイスラエルの地につれてこられ、非常に高い山の上に置かれた、その上には南の都の建物のようなものがあった(40・2)。

 

 これは新しいエルサレムまたは主の王国にかかわっており、それは知恵と理知の光の中にあるため、『南』に存在しているのである。ダビデの書には―

 

  エホバはあなたの義を光のように、あなたの公正[審判]を真昼のように持ち出されるであろう(詩篇37・6)。

 

 更に―

 

  あなたは夜の恐怖のために、昼飛び来る矢のために、暗闇の中を歩む疫病のために、真昼の時に(または南の中で)荒らす破壊のために恐れはしない(四篇1・5,6)。

 

 『南の中で荒らす破壊のために恐れはしないこと』は知識の中にいるものの、それを歪める者らに臨んでくる堕地獄のために恐れはしないことを意味している。エゼキエル書には―

 

  人の子よ、あなたの顔を南の方に向け、南にむかって(あなたの言葉を)洩らし、南の森に予言し、南の森に言いなさい、南から北に至るまで凡ての顔はその中で焼かれるであろうと、(20・46、47)。

 

 『南の森』は真理の光にいて、それを消滅させる者を意味し、かくて教会の中にいるこのような性格の者らを意味している。

 

 

 

天界の秘義1458[4]

 

ダニエル書には―

 

  彼らの中の一人から小さい角が一つ突き出して、南の方へ、東の方へ、美の方へ非常に大きくなって、天の軍勢にさえも大きくなった(8・9,10)。

 

これは幾多の善と真理とに反抗して戦う者らを意味している。エレミア記には―

 

 あなたらの神エホバがそれを暗くされないうちに、あなたらの足が薄明かりの山々の上で躓かないうちに、かれに栄光を与えよ[栄えをきしまつれ]、あなたは光を求めるが、かれはそれを死の蔭に変えられる、かれはそれを暗闇にされるであろう、南の都は閉じられて、それを開く者は一人もいない(13・16、19)。

 

 『南の都』は真理と善の知識を意味している。オバデア書には―

 

 セパラドにいるエルサレムの捕らわれたものは南の都を嗣ぐであろう(20節)。

 

 『南の都』も同じく真理と善とを意味し、そこから彼らがその相続者となる真理と善そのものを意味しており、主の王国がここにとり扱われている。

 

 

 

 

10.単に民法と道徳律からそれらを行う者は一人として救われはしない

 

 

黙示録講解902

 

「黙示録」の他の多くの記事におけるように、ここに『業』が言われここに『彼らの業が彼らと共に従う』と言われているからには―それは霊的な生命を意味しているが―いかようにしてその生命が得られるかについて、またいかようにしてそれが現今の信仰により破壊されるかについて若干述べてみよう。霊的な生命はもっぱら聖言における戒めに従った生活[生命]により取得されるのである。これらの戒めは要約して十戒に与えられている、即ち、あなたは姦淫を犯してはならない、あなたは盗んではならない、あなたは殺してはならない、あなたは偽証してはならない、あなたは他の者の持ち物をむさぼってはならない、これらの戒めは行わなくてはならない戒めである、なぜなら人間がこれらの事を行う時、その業は善であり、その生命は霊的なものとなるからであるが、それは人間が悪を避け、それを憎むに応じ、善を意志し、[欲し]、行うためである。

 

 

 

黙示録講解902[2]

 

なぜなら人間を取り巻いている二つの対立したスフィア[霊気]が在り、一は地獄から発し、他は天界から発しており、地獄からは悪の、そこから発する誤謬のスフィアが発し、天界からは善の、そこから発する真理のスフィアが発しており、これらのスフィアは身体に働きかけているが、しかし人間の心に働きかけている、なぜならそれらは霊的なスフィアであり、かくて愛に属している情愛である。人間はそれらのスフィアの真中におかれており、それで人間はその一方に近づくに応じて、他方のものから遠ざかるのである。このことが人間が悪を避け、悪を憎むに応じ、善を、そこから発する真理を愛する理由である、なぜなら―

 

 たれ一人同時に二人の主人に仕えることはできない、人間はその一方を憎むか、または他方の者を愛するか、その何れかを行うからである(マタイ6・24)。

 

 

 

黙示録講解902[3]

 

しかし人間は宗教からこれらの戒めを行わなくてはならないことを知らなくてはならない、それらは主により命じられているためである、もし人間は何であれ何か他の考慮からそれらを行うなら、例えば単に民法または道徳律に対する顧慮から行うなら、かれは自然的なものとしてとどまり、霊的なものとはならないのである。なぜなら人間は宗教から行動するとき、人間は心情の中に、神、天界、天界と地獄、死後の生命が在ることを承認しているからである。しかし人間が単に民法と道徳律から行動するとき、かれは同じ方法で行動するであろうが、心情の中では、神、天界と地獄、死後の生命が在ることを否定する可能性が在るのである。そしてもしかれが悪を避け、善を行うならば、それは単に外なる形の中においてのみ行われるのであって、内なる形において行われるのではない、かくてかれは身体の生命の方面では外部ではキリスト教徒のようではありつつも、内部ではその霊の生命の方面では悪魔のようなものである。凡てのことは、人間は主から宗教に従って生きる生活によってのみ、霊的になり、または霊的な生命を受けることができることを明らかにしている。

 

 

 

黙示録講解902[4]

 

これが真であることの証明をわたしは第三の、または最も内なる天界の天使たちから得ているのであり、かれらは最大の知恵と幸福の中にいるのである。いかようにしてあなたたちはそうした天使になられたのか、とたずねられると、かれらは以下のように言ったのである、すなわち、わたしたちは世に生きている間に汚れた考えを忌まわしいこととして認めたのであり、その汚れた考えはわたしたちには姦淫であったのであり、詐欺と不当な利得をも同様に見なしたのであり、そうしたものはわたしたちには窃盗であったのであり、また憎悪と復しゅうとを同様に考え、それらはわたしたちには殺人であったのであり、また虚偽と涜神とも同様に考え、それらはわたしたちには偽証であったのであり、他の事柄も同様であったのである、と。あなたは善い業を行われたか否か、と再びだずねられると、わたしたちは貞潔を愛したのであり、その貞潔の中にわたしたちがいたのは、わたしたちは姦淫を忌まわしいこととして認めたためであり、わたしたちは誠実と公正とを愛したのであり、その中にわたしたちがいたのは、わたしたちは詐欺と不法な利得とを忌まわしいこととして認めたためであり、隣人を愛したのは、憎悪と復しゅうとを忌まわしいこととして認めたためであり、真実を愛したのは、虚偽と涜神とを忌まわしいこととして認めたためである、などと言ったのである、さらにかれらは言った、わたしたちはこれらの悪がとり除かれ、わたしたちが貞潔、誠実、公正、仁慈、真実から行動したとき、それはわたしたち自身から行われたのではなく、主から行われたのであり、かくて何であれわたしたちがそうしたものから行った凡ゆるものは、恰もわたしたち自身から行ったかのようにわたしたちが行ったものの、善い業である事を認めたのであり、そうした理由の為わたしたちは主により死後第三の天界へ挙げられたのである、と言ったのである。かくて天界の天使たちの生命であるところの霊的な生命はいかようにして得られるかが明らかにされたのである。

 

 

 

黙示録講解902[5]

 

その生命が現今の信仰によりいかようにして破壊されるかを今述べよう。この時代の信仰は以下のものである、すなわち父なる神はその御子をつかわされた、御子はわたしたちの罪のために十字架の苦しみを受けられ、律法を成就することにより律法の断罪を取り去られたことが信じられなくてはならない、この信仰は善い業もなしに凡ゆる者をことごとく、死の最後の時間においてすら救うのである。子供時代から注ぎこまれ、後に説教により確認されたこの信仰により、たれ一人宗教から悪を避けず、たんに民法と道徳律からのみ避けるのであり、かくてそれらが罪であるために避けられるのではなく、それらは損害を与えるために避けられるのである。主はわたしたちの罪のために苦しまれた、主は律法がわたしたちを罪に定めることを取り去られた、これらの事柄を単に信じることが、または善い業も無しにこれらの事柄を信仰することが救うのであると人間が考えるとき、そのことは十戒の凡ての戒めを、聖言に規定されているような宗教の凡ゆる生命を、さらに仁慈を教えている凡ゆる真理を、無価値なものとして見なすことではないか、否かを考察されたい。それゆえこれらのものを分離し、人間からそれらのものを取り去られよ、人間の中に何らかの宗教が残されるか。なぜなら宗教はこのことまたはかのことを単に考えることに在るのではなくて、考えられることを意志し[欲し]、行うことに在るからであり、意志すること[欲すること]と行うことが考えることから分離されるとき、宗教は存在しないのである。このことから現今の信仰は、天界の天使たちの生命であり、キリスト教徒の生命[生活]そのものである霊的生命[霊的な生活]を破壊してしまうことが必然的に生まれてくるのである。

 

 

 

黙示録講解902[6]

 

さらに考察されたい、なぜ十戒の十の戒めはかくも大いなる奇蹟によりシナイ山から布告されたのであるかを。なぜそれらのものは石の二枚の板の上に彫り込まれたのであるか。なぜこれらの板石は箱の中におかれ、その上一面にケルブ[天使たち]と共に慈悲の座がおかれたか。それらの戒めがおかれた所は至聖所と呼ばれ、その中へアロンは一年に一度入ることを許され、しかもそのことには生けにえと香とが伴っており、もしアロンがこれらのもの無しに入ったとするなら、かれは倒れ死んでしまったであろう。またかくも多くの奇蹟がその箱により後に行われたのであるか。全地球に遍く凡ての者は同じような戒めについて知識を持っていないか。かれらの民法も同じことを規定していないか。凡ゆる王国における秩序のために姦淫、窃盗、殺害、偽証、十戒における他の事柄は禁じられていることを単なる自然的な光のみから知らない者があろうか。それならなぜその同じ教えがかくも多くの奇蹟により布告され、極めて聖いものとして認められたか。人各々ことごとく宗教から、かくて神から、単に民法と道徳律のみからでなく、かくて自己から、世の益のためにそれらのことを行うという理由以外のいかような理由が在り得ようか。このことがそれらがシナイ山から布告された理由であり、それらのものが聖かった理由であったのである、なぜならこれらの戒めを宗教から行うことは、内なる人は清め、天界を開き、主を容認し、人間をその霊の方面で天界の天使とするからである。そしてこのことが宗教からこれらの戒めを行うところの、教会の外側にいる諸国民でも凡て救われるが、単に民法と道徳律からそれらを行う者は一人として救われはしない理由である。

 

 

 

黙示録講解902[7]

 

さて現今の信仰はこの凡ての戒めを抹殺してしまわないか、否か、をたずねてみられよ、その信仰は、主はわたしたちの罪のために苦しまれた、主は律法を成就することにより律法の断罪を取り去られた、人間は善い業なしにこの信仰により義とされ、救われる、ということである。あたりを見まわして、現今キリスト教界にこの信仰に従って生きないいく人の者がいるかを知られよ。かれらはわたしらは弱くて不完全な人間であり、罪の中に生まれている、といったことを答えることをわたしは知っている。しかしたれが宗教から考えることができないか。そのことを主は人間各々の者に与えており、宗教からこれらの事を考える者のもとに、その者が考えるに応じ、凡ゆる事を行われるのである。そして以下のことを知られよ、すなわち、宗教からこれらのことを考える者は、神、天界、地獄、死後の生命が在ることを信じはするが、宗教からこれらの事柄について考えない者は―わたしは断言するが―それらの事柄を信じはしないのである。

 

 

 

神の摂理322

 

社会的な人間とは自分の国の法律を知り、それに従って生きる者であり、道徳的な人間はこれらの法律を道徳的な原理、徳として採用し、それに従い合理的に生きる者である。如何にして社会的な道徳的な生活が霊的な生活を受ける器であるかを私は説明しよう。この法律にたんに社会的な道徳的な法律としてのみでなく、また神的な法律として服従されよ、さすれば諸君は霊的な人間となられるだろう。殺人、他人の妻との姦淫、窃盗、偽証、掠奪を禁じる法律を持たないほど野蛮な民族は殆ど存在しない。社会的な道徳的な人間は良い社会人となりまたそのように見られたいために、これらの法律を守るが、しかし彼がこれらの法律を神的なものとして認めないなら、彼はたんに社会的な道徳的な自然的な人間にすぎない。他方もし彼がその法律をまた神的なものとして認めるならば、彼は社会的な道徳的な霊的な人間になる。その相違は後者は地上の王国の善良な社会人であるのみでなく、また天界の王国の善良な社会人であるに反し、前者はたんに地上の王国の善良な社会人であって、天界の王国の善良な社会人ではないということである。

 

 

 

天界の秘義195

 

 最古代の人々は人間の中の凡ての物を獣と鳥にたとえたのみでなく、それをそのように名づけもしたが、こうした話し方の慣わしは洪水の後の古代教会の中にすら残り、予言者の間に保存されたのである。人間の感覚的なものをかれらは『蛇』と呼んだのは、蛇は地に密着して生活しているように感覚的な物は身体に最も近接している物であるからである。ここからまた感覚の証明に基礎づけられているところの、信仰の諸々の秘義に関わる理論はかれらにより『蛇の毒』と呼ばれ、その理論家自身は『蛇』と呼ばれたのであり、そしてこうした人物は感覚的なものから、すなわち、(地的な、形体的な、世俗的な、自然的な物といった)目に見える物から大いに論じるため、『蛇は畠の凡ての野生の動物の中最も鋭敏であった』と言われている。

 

 

 

天界の秘義195[2]

 

同じく詩篇の中にも、理論により人間をたぶらかす[欺く]者を語って―

 

 彼らは蛇のようにその舌を鋭くする、その唇の中には蝮の毒がある(詩篇140・3)

 

さらに―

 

 彼らは母胎から道に迷い、いつわりを言う。その毒は蛇の毒に似ている、彼らは口ごもる者の声を、呪文を唱える賢い者の声を聞くまいとして耳をふさいでいるつんぼの毒蛇に似ている(詩篇58・3−6)。

 

 その人々は賢い人の語るところを、または賢い者の声を聞こうとさえもしない性格をもっているが、そうした性格の理論はここでは『蛇の毒』と呼ばれている。ここから古代人の間に、『蛇はその耳をふさぐ』ということが諺となったのであった。

 

 

 

天界の秘義206

 

自分の目は開いており、自分は神のように何が善であり、何が悪であるかを知っていると、自分自身を愛すると同時に世の学問にすぐれている者にもまさって強く信じる者があろうか。しかもその者ら以上に盲目の者がいようか。彼らに尋ねてみるのみで、彼らは霊の存在を知りさえもしておらず、ましてや、そのことを信じていないことが明らかとなるであろう。彼らは霊的な天的な生活の性質を全く知っておらず永遠の生命を認めてはいない、なぜなら彼らは自分が死んでしまう獣のようなものであると信じており、また主を認めないで、只自分自身と自然のみを拝しているからである。彼らの中で、そうした表現を警戒しようとする者らは、その者らの知りもしない自然の何か最高の存在が凡ての物を支配していると言っている。それは原理であって、彼らはそれを感覚と記憶知の物により多くの方法で、確認しているが、敢えてそれと同じことを全宇宙の前にもやってのけようと試みるであろう。こうした人間は神としてまたは人間の中最も賢明な者として認められようとねがってはいるものの、もし自分自身のものを何ら持たないことは如何ようなことであるかを知っておられるかと尋ねられるならば、それは単に想像の作り事であって、無知な物を抑えつけておくのに役立つであろうと言うであろう。もし認識とは何であるかを知っておられるかと尋ねられるならば、彼らはただそれを嘲笑するのみで、それを狂的なたわごとであると呼ぶであろう。これが彼らの知恵であり、こうした『開いた目』を彼らは持っており、こうした神々が彼らなのである。こうした原理は昼よりも明らかであると彼らは考えて、それを出発点とし、歩みつづけ、そうした方法で信仰の諸々の秘義について論じるが、その結果は暗黒の深淵でなくて何であろう。これらが他の凡てに勝って世をまどわす『蛇』である。しかし最古代教会のこの子孫は未だこのような性格をもっていなかったのである。このようなものになったものは本章の14節から19節に取扱われている。

 

 

 

天界の秘義653

 

 実情は以下のごとくである、人間は改良されつつあるときには―それは争闘と試練とにより遂行されるのであるが―かれの知識と理性のいくたの物以外には何物をも刺激しない底の悪い霊らがかれと交わり、欲念を刺激する霊らは全くかれから遠ざけられている。なぜなら悪霊らには二種類あり、一は人間の推理[色々と推理すること]に働きかけ、他は人間の欲念に働きかけるからである。人間の推理を刺激する悪霊らはその者の凡ゆる誤謬を持ち出し、それらが真であるとかれに説きつけようと努力し、真理を誤謬に変えさえもするのである。人間は試練におかれた時は是らと戦わねばならない、しかしその人間に接合している天使たちを通して、戦われるのは実に主である。誤謬がこれらの争闘によって分離され、いわば散らされるや否や、その人間は信仰の諸真理を受け入れる備えがなったのである。なぜなら誤謬が支配している限り、誤謬のために妨害されて、人間は決して信仰の諸真理を受けることができないからである。信仰の諸真理を受ける備えがなると、その時始めてかれの中に仁慈の種子である天的な種子が植えつけられることができるのである。仁慈の種子は誤謬が支配している土地には決して植えつけられることはできないのであり、ただ真理の支配しているところにのみ植えつけられることができるのである。

 

 

 

天界の秘義654

 

このことは現今諸教会に知られていることに、すなわち、信仰は聞くことによって生まれるということと一致している。しかし信仰は信仰に属したいくたの事柄を、または信じなくてはならないいくたの事柄を知ることでは決してない。それは単なる記憶にすぎないが、信仰は承認である。しかしながら信仰の第一義的なものが人間の中に存在していないかぎり、何人のもとにも承認は存在していないのであって、信仰の第一義的なものとは仁慈であり、すなわち、隣人に対する愛と慈悲である。仁慈が存在しているとき、その時承認または信仰も存在している。そのように把握していない者は地が天から離れているようにも遥かに信仰の知識からは離れているのである。信仰の善である仁慈が現存しているとき、信仰の真理である承認も現存しているのである。それゆえ人間が知識、理性、理解のいくたの事柄に応じて再生されつつあるときは、それは土地が―すなわちかれの心が―仁慈を受ける備えをなすためであって、後には仁慈から、または仁慈の生命から、かれは考え、行動するのである。その時かれは改良され、または再生するのであって、その前ではない。

 

 

 

天界の秘義666

 

 『契約』は再生と再生に関わるもの以外には何物をも意味していないことは、聖言の種々の記事から明白であり、そこには再生させたもうものは主のみであり、再生した人間により仰がれて、また愛と信仰のすべてにおける凡てであられるものは主のみであるため、主御自身が『契約』と呼ばれたもうている。

 

 

 

天界の秘義666[]

 

主は契約そのものであられるからには、人間を主に連結するものは凡て契約に属していることは明白である―例えば愛と信仰、また愛と信仰に属した凡ての物は契約に属している、なぜならこれらは主に属し、主はそれらの中におられ、かくてこれらのものが受け入れられるところには、これらのものの中に契約そのものが存在しているからである。これら[愛と信仰]は再生した人間以外には何人の許にも存在しておらず、再生した人間のもとでは再生させたもう方または主に属したものはことごとく契約に属しており、または契約である。

 

 

 

天界の秘義671

 

再生していない人間は真理の理解を、または善の意志を持っておらず、たんにそのようなものであるように思われて、普通の言葉でそのようなものであると言われているものを持っているに過ぎないのである。しかし再生していない人間は理性と知識のいくたの真理を受けることはできるが、しかしその真理は生きてはいないのである。

 

 かれはまた異邦人の中に、また獣の中にすら存在しているような、一種の意志のいくたの善を持つことができるが、それらもまた生きてはいないのであって、それらは単に類似物に過ぎないのである。人間の中のこのような幾多の善はその者が再生し、かくてその幾多の善が主により生かされない中は生きてはいないのである。他生では生きているものと生きていないものとは極めて明白に認めらていれる。生きていない真理は物質的な、繊維のような、閉じこめられた物として、生きていない善は木のような、骨のような、石のような物として直ぐに認められている。しかし主により生かされている真理と善とは開いており、生命に満ち、霊的な天的なものに満ち、実に主からさえも開かれて明らかになっており、しかもこれは凡ゆる観念の中にも、凡ゆる行為の中にも、実にその何れもの最小のものの中にさえも行われている。

 

 

 

天界の秘義680

 

 諸善と諸真理とは人間の真実な食物であることは各人に明白であるに相違ない、なぜならそれらを欠いた者は生命がなくて、死んでいるからである。人間は死んでしまうと、その者の霊魂を養う食物は悪から発した歓喜と誤謬から発した愉悦であり―これは死の食物であり―また身体的な、世的な、自然的なものから発したものであって、その中にもまた何ら生命はないのである。

 

さらに、こうした人間は霊的な天的な食物とは何であるかを知っていないため、聖言に「食物」または「パン」が記されている時は常に身体の食物が意味されていると考えるのである。例えば主の祈りの「日毎のパンを私たちに与えてください」という言葉は単に身体を支えるもののみを意味していると考えており、その考えをおしすすめる者はそれはまた衣服、財産等といった身体の必要な物を含んでいると言っている。

 

かれらはそれ以外の何らかの食物が意味されていることを鋭く否定さえしているが、それでもその前後の言葉は単に天的な霊的なもののみを意味しており、主の王国が語られていることを明白に見ているのであって、さらにかれらは主の聖言は天的な霊的なものであることを知ろうと思えば知ることもできるのである。

 

 

 

天界の秘義681

 

天的な霊的な食物の性質は他生で最も良く知られることができるのである。天使達と霊達の生命がこの世界に在るような食物によって支えられてはいないで、主がマタイ伝4・4に教えておられるように『主の御口から出る凡ての言葉』により支えられている。真理は主のみが凡ての者の生命で在られ、天使たちと霊たちが考え、語り、行う凡てのものは全般的にもまた個別的にも主から来ており、悪い霊らの考え、語り、行っていることもまた主から来ているということである。この後の者が悪い事柄を語りまた行っている理由は、かれらは主のものである諸善と諸真理をそのように受けて歪めてしまうということである。受容と情愛は受容体[受容する者の形]に応じている。このことは太陽の光を受ける種々の物にたとえることができよう、その或る物はその受け入れた光をその物の他の部分の形、決定、配置に応じ、不愉快な忌まわしい色彩に変えているが、他のものはそれを快い美しい色に変えるのである。全天界と霊たちの全世界は主の御口から発出している凡ゆる物によりこのようにして生きており、そこから各個人はその生命を得ており、全世界と霊達の世界のみでなく、全人類もそこからその生命を得ているのである。わたしはこうした事柄は信じられないであろうことを知っているが、それでも数年に亘る連続した経験からわたしはそれらがきわめて真実であることを主張することができるのである。霊達の世界の悪霊等はそれがそうであることを信じようとはしない、それでそのことが再三かれらに―そのありのままに―証明されたが、ついにかれらはそれが真実であることを憤怒をもって認めたのである。もし天使と霊と人間がこの食物を奪われるならば、かれらは一瞬に息が絶えてしまうであろう。

 

 

 

天界の秘義794

 

「そして水は非常に甚だしく地に強められた。」これは誤謬のいくたの信念がこのように増大したことを意味していることは『水』について直ぐ前に言われ、示されたところから、すなわち、洪水の水または氾濫は誤謬を意味しているということから明らかである。ここには、誤謬または誤ったものの信念がさらに増大したため、『水は非常に甚だしく強められた』と言われているが、それは原語では最上級となっているのである。

 

誤謬とは誤ったものの原理であり、信念であり[誤ったものを原理とし、それを信念としたものであり]これらが洪水以前の人々の間に甚だしく増大したことは前に彼らについて言った凡てから明白である。(その誤った)信念は人が真理を欲念に混ぜ合わせる時、または自己と世を求める愛を真理に支持させる時、無限に増大するのである、なぜならその時無数の方法でかれらは真理を歪曲し、これを強制して(自己と世を求める愛に)一致させるからである。なぜなら自分自身のために誤った原理を吸引した者であって、または形作った者であって、たれがその原理をその者が学んだ多くの物により、実に聖言によってさえも、確認しないであろうか。異端であって、その異端を確認するためにこのようにいくたの物を把えないものがあろうか。また(その異端に)一致していないものを、それが一致するように、それをこじつけ、色々な方法で説明し、歪めさえしないものがあろうか。

 

 

 

天界の秘義794[2]

 

例えば、仁慈の善がなくても、信仰のみが救うという原理を採用した者を考えてみられよ。かれは教義の全体系を聖言から織り出すことができないか、しかもそれを主が言われていることを、すなわち『木はその果によって知られる』、『凡て善い果を結ばない木は切られて、火に投げ入れられる』(マタイ3・10、7・16−20、12・33)という御言葉を些かも顧慮しないで、または考察もしないで、または認めさえもしないで、やってのけるのである。自分は何一つ善は行ってはいないのに、真のことを知ってさえおれば救われる、ということ以上に悦ばしいことがあろうか。人間が支持する欲念はことごとくその者の意志の生命を形作り、誤謬の原理または信念はことごとくその者の理解の生命を形作るのである。これらの生命は信仰の諸々の真理がまたは教義的なものが諸々の欲念の中に浸される時一つのものとなるのである。かくて人はことごとく己がためにいわば霊魂のようなものを形作り、死後かれの生命はそのようなものになる。それ故人間には真であるものを知る以上に重要なことはない。人間が真のことを知り、それをそれが歪曲されることができない程にも充分に知る時、それは欲念の中にそれ程浸される筈はないし、このような致死的な結果を生む筈もないのである。人間は永遠に至るその生命以上にさらにいかような物をその心に抱くべきであろうか。もし身体の生命の中にかれがその霊魂を破壊してしまうならば、かれはそれを永遠に破壊してしまわないか。

 

 

 

天界の秘義798

 

人間のもとにある残りのものについては、事実は既に述べたように、誤謬の諸原理は、ましてや洪水以前の人々の許に在ったような誤謬の信念は、その残りのものをそれが持ち出されることができないほどに、また持ち出されても、直ぐに誤謬化されてしまったほどにも全く閉じ込め、隠し去ってしまったということである。なぜならそれが信念の生命であって、それは凡ゆる真理を斥けて、誤謬をことごとく吸引するのみでなく、近づいてくる真理をことごとく歪曲してしまうからである。

 

 

 

 

11.神的なもの〔神〕から発している物に類似したもの

 

 

天界の秘義8870〔2〕

 

 神的なもの〔神〕から発している物に類似したものにより意味されていることをここに述べなくてはならない、なぜならこの物がこの節の以下に、また次ぎの節の初めに取り扱われているからである。神的なものから発している事柄に類似したものは、人間が口で神的な事柄を話し、また実際神的なもの〔神〕により命じられているような事柄を行いもして、自分らは善と真理との中にいるという信念を生み出させはするものの、心では全くそれとは異なったことを考えており、悪以外には何事も欲していない時、その人間により作られるのであり、偽る者、偽善者、詐欺漢はこうしたものであり、これらの者は神的なものから発しているものに類似したものを作る輩である。他生では悪霊らは神的なものから発している事柄に類似したものを作り、外なる物の中で似通ったもののように見えるものを現出させはするが、その中には神的なものは何一つ存在していないのである。偽る者、偽善者、詐欺漢は他生でこうしたことを行うことを学んでおり、全般的に自分の考えていることとは異なったことを話し、自分の欲していることとは異なったことを行うといったことを再三やってのけ、そうした習慣を身につけてしまった者はすべて(こうしたことを行うことを学ぶのである)。ある者はこうしたことをやってのけて名声を得ようと願っているが、それも自分が善良なものに見えて、他を欺くためのものであり、またある者は(他の者を)押さえつけようとの目的から(そうしたことを行うのである)。

 

 

 

 

12.基督教的異教主義

 

 

天界の秘義9020

 

「必ず彼は死ななくてはならない」(出エジプト記21・16)。これは堕地獄(の状態)を意味していることについては前を参照されたい(9008番)。信仰の諸真理を悪に適用し、かくてそれらを自分自身から遠ざける者らは地獄に堕ちることは、彼らは前にはそれらを承認したためである。なぜならひとたび承認された信仰の真理が後になって悪に適用〔応用〕されると、それは悪から発した誤謬と混合し、従って冒涜が生れるからである、それが冒涜であることは以下の9021番に引用されている記事から認めることが出来よう。これが更によく理解されるために、そのことを例をあげて説明しよう。凡ての者を支配し、世を得るために主に属している事柄を、特に人間における天界の生命に属している事柄を気ままに、好き勝手に処理しようと望んでいる者らがそれを確認させるものを主の御言葉から引き出す時、その者らは霊的な意義における『盗人』である、なぜなら彼らは聖言から真理を盗み出して、それを悪に適用するからである。彼らが悪であることは、彼らの目的とするものは主権と利得であり、霊魂の救いではないためである。こうした人物が今悪に適用しているところの聖言から発した真理を前には主権と利得を何ら顧みないで承認したとするなら、彼らはその真理を冒涜するのである、なぜなら彼らはそうしたことを行うことにより自分自身から霊的な生命をことごとく剥奪するからである。彼らが彼ら自身から霊的な生命を剥奪することは、彼らが独りとなって、彼ら自身から考え、彼ら自身の間で話し合う時、彼らは真理を何ら信じておらず、主も、天界も、地獄も信じてはいないという事実から明らかである。にも拘らず彼らは他の者にもまさってそうした事柄をその口にすることは、支配と利得とを求める熱意が彼らをそうしたことに、己が目的に至る手段として、駆り立てるためである。これは特に基督教的異教主義を支配しており、そこでは聖別された人間の像が展示されて崇拝され、その前で彼らは跪いて、平伏してもいるのである。彼ら自身さえもが、迷わせ、説きつけようとして詐欺から、そうしたことを行っているのである。

 

 

 

 

13.自分自身の理知から考案したものに重みを加えようとして、聖言を用いる

 

 

天界の秘義8941

 

そして彼らの中で(己がものを)確認するために聖言を用いた者らはその心の中に聖言を無意味なものとしているが、しかし聖言が一般の人々のもとでは非常な権威を持っているため、自分自身の理知から考案したものに重みを加えようとして、聖言を用いて、そうしたことに仕えさせているのである。この凡てから祭壇は石を切ってはならないことによりその霊的な意義で意味していることを認めることが出来よう。

 

 

 

 

14.マーチン・A・ラーソン

 

日本教文社/マーチン・A・ラーソン/ニューソート/第二章 源流・スウェデンボルグ

 

P26

 

エマニュエル・スウェデンボルグという名前に、大部分の人びとは―教養ある人びとでさえ―妙な微笑を浮かべるだけか、さもなくば何の反応も示さないかである。というのも彼は一般に知られていないか、あるいは連綿と続く時の砂丘にどんな重大な、恒久的な痕跡もとうて残しえなかったただの自己欺瞞の夢想家としか―あるいは文字どおりの狂人としか―見なされていないからである。

 それにもかかわらず、事実この人物は、西洋の道徳的、宗教的、知性的な発展に、直接的にも間接的にも巨大な影響を及ぼしてきたのである。他の誰にもまして、彼は中世や改革派のキリスト教の古びた信条や教義を粉砕することによって、ニューソートとして知られている有力な思想のみならず、さまざまな大きく力強い教派においてますます異彩を放つようになっている、多くの根本思想をも先導した先駆的指導者であった。

 

 

 

P29

 

 ユニテリアン主義への彼の神学の浸透は、1842年以降ウィリアム・E・チャニングの衣鉢を継いだセオドア・パーカーの場合にいっそうよく例証される。パーカーはスウェデンボルグの宇宙論そのものの言葉で、自分の非人格的な神に繰り返し呼びかけている。「汝、中心の火、いっさいのものの輝ける光よ」と彼は巨大な太陽を神と同一視する一節で感嘆の声をあげる。他の節で、普遍的流入の教説を述べた後、彼は以下のよに断言する。「かくして人間の霊魂は、全世界の巨大な中心である火や光と、つまり『宇宙の天然磁石』と交流し、それによってその力を回復して若返り、それで祝福され強められるのだ」。パーカーの説教と祈りにはスウェデンボルグ派の諸概念がちりばめられているが、こうした諸概念はこのようにして、またウィリアム・E・チャニングやラルフ・ウォルドー・エマソンの諸著作をとおして、あらゆるユニテリアンの思想の、さらにはまた、その程度こそ小さいが、多くの教養あるアメリカ人の思想の必須の構成要素となっている。

 

 

 

P32

 

 しかし、彼は何にもまして宗教の改革者、革新者であり、また史上最も非凡な啓示者である。ここでわれわれが関心を抱くのは彼の活動のこの局面である。彼は宗教運動の多種多様な逸脱者たちの壮大な源流であり、とりわけニューソートの始祖である。彼の著作の途方もない広大さをみれば(エマソンは彼を文学の古代巨象[マストドン]と呼ぶ)、各人がその好みによっては無視するかもしれない単一の細目でさえ、宗派や教派の源泉となるほど、創造力をはらんだものであることがわかる。

 広範な運動や哲学のすべては、偉大で独立した何人かの思想家に源を発する。このことは、すべての要素が一つのそびえ立つ知性に由来するということを意味するのではなく、そうした人物が現実にある材料を有機的に組み立て、それに自分自身のいくつかの要素を加え、それらはすべてを独自の方法でまとめ上げるということを暗示する。ピタゴラスが西洋の古代宗教に対して、マルクスが社会主義に対して、ダーウィンが進化論に対して、フロイドが精神分析に対して、それぞれ為したことを、エマニュエル・スウェデンボルグは多様な現代の宗教運動に対して、とくに、実験室の実験と同様に事実に基き実証可能とされる、健康、繁栄、幸福、そして人間的充足の宗教であるニューソートとして知られる形而上学の体系に対して為したのである。受容された教説を自分の科学や哲学に結合させることによって、スウェデンボルグは殉教者セルヴェトス・ヴィラノヴァヌスの目的であったキリスト教の大変革を達成したのである。

 

 

 

P48

 

 道徳的な異教徒の救済に対してどんな妨げもないし、彼らはキリスト教の聖典ないし秘蹟を欠くという理由でけっして断罪されはしない。どんな個人であれその救済の達成を可能ならしめるものは、その人の信条、教理、あるいは信仰ではなく、むしろ当人の道徳的性質なのだと、彼は主張した。

 

 

 

P53

 

 それゆえ神は、光、熱、生命、活動力、そして生成力の源泉である。それで神は遍在し、存在するすべての対象に流入する。これはミカエル・セルヴェトゥスの中心命題であり、また彼の一神論神学の根幹であった。スウェデンボルグの神は、どんな特殊な願いを許すようにも影響も説得もされえない、あるいは個人的な訴えを聞きえない。神はパーソナリティーではなく、創造力、宇宙法則、普遍的実体だからである。スウェデンボルグのうちにわれわれは、正統派の説くどんな摂理も、あるいは歴史的なキリスト教に知られたどんな摂理も見出さない。またわれわれは、神への嘆願に関する、すなわち病気や人間性の問題の解決としての神の効力に関する、ただの一語も見出さない。

 

 

 

P54

 

 スウェデンボルグは、神を、目にみえたり、その右手に子が坐ったりする人間であると考える人びとをあざ笑う。神はけっして「白髭を生やした老いた聖人」ではない。キリストは力であって、ただの人間とか一個の人格ではない。

 したがって神は被造物ではなく、非人格的で、宇宙の根源実体であり、創造者、贖罪者、および再生者として一貫して啓示されたものである。しかもこれらの三者は、一なる神の三つの属性ないし三つの活動なのである。

 

 

 

P59

 

 それでは再生はいったいどのようにしてなされるのだろうか。それは次のように書かれている。再生のためには真に倫理的な生活を送り、「十戒」に従い、民法を守り、そして仁愛と隣人愛の生活を送ることだけが必要である。しかもわれわれはこうしたことを、どんな種類の方便や外的な圧力のゆえでもなく、それがわれわれの内なる意志に一致するがゆえに、為さねばならないのである。手短に言えば、内なる選択から実行される善き倫理は最高の宗教を構成し、それはただわれわれに、隣人を自分自身のごとく愛し、他人に自分がしてもらいたいように他人にも為せ、と指示するだけである。なぜならこれがわれわれの根源的本性だからである。

 

 

 

同P65

 

かくして天界や地獄は、ニューソートに浸透しその基礎となっている概念であるが、それは心の状態ないし状況にほかならない。

 

 

 

P70

 

スウェデンボルグは生活を愉快にするものや富を賞賛する一方、贈り物や施し物の形をとったあらゆる種類の仁愛や、自らを支えようとする意志のないどんな人間に対する扶養をも非難した。誰もが社会的に役立ち、生産的でなければならないのであり、そうでなければ、誰もが組織された共同体で生活を享受するどんな権利ももたない。社会には個人に対する借りがない。事情は逆である。こうしてここにスウェデンボルグは、ニューソート運動を支配してきた倫理規範の哲学的基盤を宣言する。

スウェデンボルグが、倫理的生活と公民的な法律の遵守が霊的な再生へ至る道であると明言したとき、彼は現世的な倫理規範に基いた一つの教派の基盤をすえたのである。

 

 

 

P74

 

それでは、広範な影響を西洋の宗教思想に及ぼし、現在ではアメリカのいくつかの重要な教派の中核となっている、スウェデンボルグの創造的な思想とは何であったのだろう。

 その重要な思想のうちから以下のようなものをあげてみよう。

 

(1)神は非人格的(インパーソナル)で唯一(ユニテリアン)である。また神は、宇宙に住むあらゆる被造物に分配される、宇宙に実在する生命力(life-giving force)である。すなわち神は事実上、宇宙の実体である。

 

(5)われわれが自分たち自身の社会の最善の倫理規範を実践するなら、死後の刑罰の恐怖を抱く必要は全然ない。

 

(13)この神的流入を受容することの失敗、ないし拒絶は、われわれのほうで理解が及ばないか、あるいはわれわれの自由意志の誤用であるにすぎず、したがって罪は、実際にはたんなる過失や無知の一形式なのである。

 

(18)このすべてが真実であるなら、―その信奉者の安泰、健康、幸福、成功、および繁栄がその目的であるような、一つの科学的な宗教が明らかに存在可能である。

 

 

 

P76

 

超絶主義者(Transcendentalist)であったエマソンは、スウェデンボルグを神秘家と呼んだ。スウェデンボルグの体系はニューソート一般の体系と同様、神秘的と呼ばれてしかるべき一つの本質的要素に基いており、この神秘的な本質的要素がその体系を独自なものとなり、その体系の原理的な基盤を構成し、その体系を諸他いっさいと区別している、ということを、われわれは認めなければならない。というのはこの体系では、宇宙が生命、エネルギー、力に満ちている、と考えられているからである。神と同一であるこの宇宙は、生きとし生けるものに生命力を与え、その力は人間にも及ぶ。

 

 

 

 

15.自分は神を否定はしない、神を認めていると、いかほど外なる思考の中では考えていようとも、その者自身の内部では神を否定している

 

 

天界と地獄506

 

しかし世では悪に生き、何ら良心を持たず、従って神的なもの〔神〕を否定した者らの状態は全く反している、なぜなら悪に生きる者はすべて、自分は神を否定はしない、神を認めていると、いかほど外なる思考の中では考えていようとも、その者自身の内部では神を否定しているからである、それは神を承認することと邪悪なことを行うこととは相反したものであるためである。こうした人物は他生では、その内部の状態へ入って、その言葉を聞かれ、その行為を見られると、逆上しているように見える、なぜなら彼らはその悪念から凡ゆる憎むべき業、他に対する軽蔑、冷笑、冒涜、憎悪、復讐を爆発させるからである、彼らは陰謀を企て、ある者はそうした種類のものが何か人間の中に在り得るとは殆ど信じることも出来ない程の狡猾さと悪念とを抱いている。

 

 

 

 

16.教会を斥ける者は、教会は天界に導く故、天界から自らを斥け、而して天界から閉め出される

 

 

真の基督教384(2)

 

基督教国にあっても主と聖言を斥ける者は、たとえ道徳的な生活を送り、信仰に就いてさえ合理的に語り、教え、また書くにしても、何等信仰を持たない。

 これは前に述べた凡てから推論される。何故なら、真の唯一の信仰は主に対する、また主から発する信仰であり、若し、そうでないならば、それは霊的な信仰ではなく、自然的な信仰であり、而して単に自然的な信仰は信仰の本質を欠如していることが示されたからである。更に、信仰は聖言から由来し、他の如何なる起源をも持つことは出来ない。何故なら、聖言は主から来り、主は聖言の中にいまし、それ故、主は自らは聖言である(ヨハネ1・1、2)と語り給うからである。かくて、主と聖言とは一である故、聖言を斥ける者は主をもまた斥け、更に主か或は聖言かその何れかを斥ける者は、主からその聖言によって存在する教会をも斥け、更に教会を斥ける者は、教会は天界に導く故、天界から自らを斥け、而して天界から閉め出される者は呪われた者の間にあり、何等信仰を持たないことが推論される。