バベルの塔
1.聖書
2.スウェーデンボルグ
3.聖母から司祭へ
1.聖書
創世記11・4
彼らは、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう」と言った。
2.スウェーデンボルグ
天界の秘義1302
4節「かれらは言った、さあ、わたしらはわたしらのために都と塔を建てよう、その頂きを天の中に建てよう、わたしらはわたしらのために名を作ろう、かりにもわたしらが全地の面に散らされないためである」。『かれらは言った』は、そのようになるようになったことを意味し、『わたしらは都と塔とをわたしらのために建てよう』は、かれらが教義と礼拝とを形作ったことを意味しており、『都』は教義であり、『塔』は自己を礼拝することであり、『その頂きを天の中に立てること』は、かれらが天界にある物を支配するまでにも、を意味し、『わたしらはわたしらのために名を作ろう』は、そのことによってかれらは権力のための名声を得ることができるであろう、を意味し、『かりにもわたしらが全地の面に散らされないためである』は、もしそうでないなら、かれらは承認されないであろう、を意味している。
天界の秘義1304
「わたしらは都と塔とをわたしらに作ろう。」
これはかれらが教義と礼拝とを形作ったことを意味していることは『都』の意義から、また『塔』の意義からも認めることができよう、それについては間もなく記そう。教会は隣人に対する仁慈が去って、自己愛がそれに代って起ると、信仰の教義はそれが自己礼拝に変えられることができないかぎり無価値なものとなり、いかようなものもそれが自己のためにならない限り、引いてはそれが自己礼拝にならない限り、礼拝の中に聖いものとして考えられないといった性質をもっているのである。自己愛は凡てこのことを伴っている、なぜなら他の者にまさって自分自身を愛している者は自分に服従しない者を凡て憎悪し、その者が自分に服従するようになった時以外にはその者には何ら恩恵を示しはしないのみでなく、更に何かにより抑制されない限りは、自分自身を神の上にさえ挙げるまでも突進するからである。これが自己愛がほしいままにされた時のその性質であることが、そのあるがままにわたしに示されたのである。これが『都』と『塔』により意味されるものである。自己愛とそこから派生してくる欲念はことごとく凡ゆる物の中でも最も不潔なものであり、また最も汚れたものであり、奈落のものそのものであり、ここからたれでもかくも絶対的な奈落のものを内にもった礼拝の性質はいかようなものであるに違いないかを結論づけることができよう。
天界の秘義1305
『都』は純粋なものであれ、また異端的なものであれ、教義を、または教義的なものを聖言していることは前に示した(402番)。
天界の秘義1306
『塔』は自己礼拝であることは『塔』の意義から明白である。自己礼拝は人間が自分自身を他の者の上に高めて礼拝されさえもするほどになる時存在している。それで傲慢と誇りである自己愛は『高いこと』、『高くそびえていること』、『もたげられていること』と呼ばれて、高い所にある凡ての物により記されている。例えばイザヤ書には―
人間のほこった眼は卑しくされ、人間の高ぶりも低くされ、エホバ御自身のみがその日高く崇められたもうであろう。万軍のエホバの日は凡てほこり高ぶっている者のうえに、もたげられている者凡ての上に臨んで、その者は卑しくされるであろう。また高くもたげられているレバノンの香柏の凡ての上に、バシャンの凡てのかしの木の上に、凡ての高い山の上に、もたげられている凡ての岡の上に、凡ての高くそびえた塔の上に、垣根をめぐらした壁の凡ての上に臨むからである(2・11,18)。
これは自己愛にかかわっており、自己愛が『高い』また『もたげられた』『香柏』『かしの木』『山』『岡』『塔』により記されているのである。
[2]さらに―
大いなる殺りくの日に、川が、水の流れが在り、塔は倒れるであろう(30・25)
これも同様に殺りくの自己愛を、礼拝の中で自己を高めることを意味している。さらに―
見よ、カルデヤ人の地を、この民はいなかった。アッシルはその基礎をズィームの中につくった、彼らはそのもの見の塔を立てるであろう、彼らはその宮殿をたてるであろう、かれはそれを廃墟にされるであろう(23・13)。
これはツロとその剥奪とについて言われている、他の言葉により表現されているもの見の塔はそこから発した幻想を意味している。エゼキエル書には―
ああ、ツロよ、わたしは多くの国民をおまえにむかって来させよう、彼らはツロの壁を滅ぼし、その塔を砕くであろう、わたしまたかれからその塵をかき落し、かれを乾ききった岩のようにしよう(26・3,4)。
その意義は類似している。
[3]礼拝における自己愛がまたは自己礼拝が『塔』と呼ばれているのは、『都』は(前の402番に示したように)教義を意味しているという理由によっており、都は前には塔により強固にされて、その塔の中には見張りの者[物見の者]がおり、また辺境にも塔があって、それはそうした理由から『見張りの者[物見の者]の塔』と呼ばれ(列王記下9・17、17・9、18・8)また『見張りの[物見の]の塔』とも呼ばれたのである(イザヤ23・13)。さらに、主の教会が『ぶどう園』にたとえられる時は、礼拝とその維持とに属した事柄はイザヤ書5・1、2、マタイ21・33、マルコ12・1に明白であるように、『ぶどうしぼり器』と『ぶどう園の塔』にたとえられている。
天界の秘義1307
「その頭[頂き]を天の中に」。これはかれらが天界に存在する事柄を支配するようになるまでも、を意味していることはすでに言ったことから生まれてくる。なぜなら『天に頭をもつこと』は、聖言の他の箇所におけるバベルの記事から、また『頭をもたげること』についてすでに言われたことからも明白であるように(257番)、自己をそこまでも高めることであるからである。自己愛は天界の生命とは全く和合しないものである、なぜなら凡ゆる悪が、憎悪のみでなく、復しゅう、残酷、姦淫がそこから生まれるからであり、ましてそれが礼拝に入って、それを冒涜するときは和合しないのである。それ故地獄はこうした人物から成っており、かれらはその頭を天に上げるに比例して、益々深く自分自身を下に突き落とし、その中に自分自身を投げこむ刑罰は益々恐るべきものとなっている。
天界の秘義1308
「わたしらはわたしらのために名を作ろう」。これは、かれらがそれによって権力に対する名声を得ることができるであろう、を意味していることは、『自己に名を作ること』の意義から認めることができよう、なぜならかれらは人は各々何かを礼拝しようとのぞんでいることを知っていたからである、なぜならこのことは凡ての者に共通していて、それは凡ての国民の間に存在しているからである。なぜなら宇宙をながめる者は、ましてや宇宙の秩序を考察する者は凡て何かの至高の存在を、または実体を承認するのであって、かれはかれ自身の繁栄をねがっているため、その実体を崇拝するからである。さらにこうしたことを指示するものが内部に存在しているのである、なぜならこうした指示が人間各々のもとにいる天使たちを通して主から流れ入っているからである。このようなものでなく、また神を承認しない人間は奈落の霊どもの支配下にあるのである。バベルの塔を建てる者らはこのことを知っているため、教義的な聖いものによって自分自身のために名を作るのである、なぜならもしそれを作らないならばかれらは礼拝されることができないからであり、このことが以下の記事に、もしそうしないならかれらは全地の面に散らされてしまうことにより、すなわち、かれらは承認されないであろうということにより意味されているのである。そしてこのことからこうした人間が頭を天に高く上げるに応じ、益々自分自身に名を作る[自分自身を有名にする]ことが生まれてくるのである。かれらの支配は何らかの良心を持っている者に対しては最大なものになっている、なぜならこれらの者をかれらはその欲する所に何処なりと導くからであるが、しかし良心を持たない者については、こうした者を凡て色々な外なる束縛によって支配するのである。
天界の秘義1309
「わたしらが全地の面に散らされないためである」。これはもしそうしないならかれらは承認されないであろうということを意味していることは今し方言ったことから生まれている、なぜなら『全地の表に散らされること』はかれらの視界から失われ、かくして受け入れられなくなり、承認されなくなることであるからである。
天界の秘義1311
「エホバは降られた」。
これはかれらに対する審判を意味していることは前後の記事から明白であり、また『降ること』がエホバについて述べられるときの、その意義からも明白である、すなわち前の記事ではその主題は都とバベルの塔の建設であり、後の記事では、その主題は唇の混乱と四散であり、『降ること』がエホバについて述べられるときのその意義から明白であるのは、このことは審判が行われるとき言われるということである。エホバまたは主は何処にも現存され、凡ゆることを永遠から知っておられる、それゆえエホバまたは主については、文字の意義の場合をのぞいては、エホバは見るために降られたとは言われるはずはなく、文字の意義では人間における外観に応じてそのように言われているのである。しかし内意ではそうではない、なぜならこの意義では主題はそれがそれ自身においてあるがままに示されて、外観に応じて示されはしないからであり、それで今とり扱っている記事では『降って見る』は審判を意味しているのである。
[2]審判は悪がその最高に達した時の、または、聖言に記されているように、それが『終りに至った』ときの、または、『不法が終りに至った』ときの、状態について述べられているのである。なぜならこの間の実情は凡ゆる悪には極限があって、そこまではそれがすすむことを許されてはいるが、しかしそれがその極限を越えると、それはその悪の刑罰を招くということである。このことは個別的にも全般的にもそのようになっている。悪の刑罰はそのとき審判と呼ばれるものである。そして最初は主は悪が存在することを見られない、または認められないかのように見えるため―なぜなら人間は悪を行っても刑罰がない時は、主はその事で御自身を煩わされないと想像しているが、しかし刑罰を受けると、主は見ておられると考え、主は刑罰を加えられるとさえも考え始めるからである―それでこのような外観に応じて主は降って見られたと言われるのである。
[3]『降ること』が主について言われているのは、『いと高いもの』が主について述べられているためである、すなわち、かれはいと高いものの中におられると言われているが、このこともまた外観に応じているのである、なぜならかれはいと高いものの中にはおられないで、最も内なるものの中におられ、そのことが聖言では最高のものと最も内なるものとが同一の意義を持っている理由となっている。他方、審判または悪の刑罰は低い事柄と最も低い事柄の中に起るのである。このことがかれが降られると言われている理由を説明している。
天界の秘義1316
「見よ、民は一つであり、かれらは凡て一つの唇を持っている」。
これはかれらは凡て信仰と教義の一つの真理を持っていたことを意味していることは『民』の意義が信仰の真理であり、『唇』の意義が教義であることから明白である。『民』は信仰の真理を、すなわち信仰の真理の中にいる者たちを意味していることは前に示したところである(1259番)、『唇』は信仰の教義を意味していることはすぐ前に示したところである(1節)。凡ての者が社会の共通の善を、教会の共通の善を、主の王国をその目的とする時、民は『一つ』であり、その『唇も一つ』であると言われている、なぜならそのことが実際に行われている時は主はその目的の中におられ、凡ての者は主から一つのものとなっているからである。しかし主は人間自身の善をその目的としている人間のもとには到底現存されることはできないのであって、その人間は人間自身のものそのものにより社会の共通の善を、教会そのものの善を、また主の王国さえも歪めてそれを自分自身に向けてしまい、かくてそれが恰もかれのために存在しているかのようになってしまうためかくてその人間自身のものにより主は遠ざけられてしまうのである。かくてかれは主から主のものを取り去って、自分自身を主の位置においてしまうのである。こうした状態が人間を支配すると、それに似たものがかれの考える個々の思考のすべての中に存在し、その思考の最小の事項の中にさえも存在するのである、なぜならたれであれその人間を支配するものは何であれ、そのようなものになるからである。
[2]このことは身体の生命の中では他生における程には明白に現れない、なぜならそこではたれであれその人間を支配しているものはことごとく何かのスフィア[霊気]によってそれ自身を明らかに示しており、このスフィアはその者の周囲の凡ての者によって認められ、それがそうした性格を持っているのは、それがその人間の中にある個々の凡てのものから発散しているためである。凡ゆる事柄の中で自分自身を顧慮する者のスフィアはそのスフィアそのものに有利ならものをことごとくそれ自身に専有し、また、そこに言われているように、それをことごとく吸収してしまうためこうした人物は社会から追放されなくてはならないのである。しかし民が一つのものであり、唇も一つであるときは、すなわち、凡ての者の共通の善が顧慮されるときは、一人の人物は他の者の歓喜を決して自分自身に専有したり、または他の者の自由を破壊したりしはしないで、為し得るかぎり、それを増進させ、増大させるのである。これが天界の諸々の社会が一つのもののようになっている理由であり、しかもこのことはひとえに主から発している相互愛を通して起っているのであり、教会の実情も同一である。
天界の秘義1317
「そしてこれがかれらの為し始めるものである」。これは今やかれらが相違するようになり始めたことを意味していることは前後の関連から明白である。ここの『為し始める』ことはかれらの思考を、または意図を意味し、従ってかれらの目的を意味しているが、それもまた次に記されている言葉から、すなわち、『かれらが為そうと考えた凡てのものの中で何一つかれらから遠ざけられはしないであろう』から明白である。内意ではかれらの目的が意味されていることは、人間の目的以外には何ごとも主から顧みられはしないためである。人間の思考と行為とは何であれ―それは無数の方法で変化してはいるが、―もしその目的が善いものとされていさえすれば、それは凡て善であるが、それに反しその目的が悪であるなら、それはすべて悪である。人間が考えまた為す凡てのものを支配しているものは目的である。人間のもとにいる天使たちは主の天使であるため、人間の目的以外のものは何一つ支配してはいない、なぜならかれらはその目的を支配しているときは、またその人間の思考と行動をもまた、その思考と行動とは凡て目的から発しているため、支配するからである。人間における目的はその者の生命そのものであり、かれが考えたりまた行ったりするものはすべてその目的から生命を得ているのである、なぜなら前に言ったように、それらはその目的に属しているからであり、それで目的の如何が、その人間の生命の性質となっているからである。目的は愛以外の何ものでもない、なぜなら人間はその愛するもの以外のものは何ものをも目的とすることはできないからである。考えることと行うことが異なっている者でもその愛しているものを目的としている、すなわち、たばかりそのものの中にも、または欺くことの中にも目的があり、それは自己への愛であり、または世への愛であり、そこから派生してくるその者の生命の歓喜である。こうした考察からたれでも人間の愛のいかんがその者の生命の性質となっていると結論ずけることができよう。それでこれらが『為し始めること』により意味されている事柄である。
天界の秘義1320
「さあ、わたしたちは降ろう」。これは審判がこのようにして行われたことを意味していることは『降ること』の意義について前に(五節)言われたことから明らかである。ここに複数でわたしたちは降ってかれらの唇を乱そうと言われている理由は、それが審判を執行することであって、そのことは霊たちにより遂行され、実に悪霊らにより遂行されるということである。
天界の秘義1321
「そしてそこでかれらの唇を乱そう」。
これはたれ一人教義の真理を持っていないことを意味していることは、『唇』の意義から認めることができよう、それは教義であり、そのことについては前を参照されたい(一節)。ここから『唇を乱すこと』は教義にぞくした事柄を、すなわち、信仰の諸真理を乱すことであることが生まれてくる。内意では、乱すことはたんに暗くすることのみでなく、抹消し、消散させ、かくて如何ような真理も存在しないことを意味している。自己礼拝が主礼拝にとってかわると、そのときは真理はことごとく歪められるのみでなく、廃棄されさえもし、ついには誤謬が真理に代って、悪が善に代って承認されるのである。なぜなら真理の光はことごとく主からはっしており、暗黒はことごとく人間から発しており、そして人間が礼拝において主にとってかわると、真理の光は暗闇となり、その時は光は暗闇として、暗闇は光として人間から見られるのである。
[2]さらにこうしたものが正確にそうした人物の死後の生命であって、誤謬の光はかれらには恰もそれが光であるかのようになるが、しかし真理の光はかれらには暗闇のようになるのである。しかしかれらは天界に近づくとき、こうした生命の光は暗闇そのものに変化する。かれらは世にいる限り、実に真理を雄弁に、また熱意をうわべに見せてさえも語ることができ、そしてこうした人物は絶えず自己を反省しているため、かれらはかれら自身には自分が語っているように考えているように思われるのであるが、しかしかれらの目的そのものは自己礼拝であるため、かれらの思考はその目的から、かれらは真理をその真理の中に自己が存在しないかぎり承認はしないということを引き出しているのである。真理を口にした人間がこのような性質を持っているときは、その者は真理を持ってはいないことは明白であり、このことは他生には極めて明白である、なぜならそこではこうした人間は身体の生命の中で告白した真理を承認しないのみでなく、それを憎悪し、迫害もし、しかもそれはかれらの傲慢または自己礼拝が取り去られていないのに全く正比例しているからである。
天界の秘義1322
「互にその仲間の唇を聞かないことにしよう」。
これは凡ての者が相違しており、一人が他方の者に反抗していることを意味していることはその言葉そのものから明白である。『互に他の者の唇を聞かない』ことは他の者の言うことを承認しないことであり、内意では他の者の教えることを、すなわち、その者の教義を承認しないことである、なぜなら『唇』は前に示したように(1節)、教義であるからである。かれらは実際それを口では承認はするが、しかし心では承認はしない、しかし口で同意することは心の不同意がある時は無意味である。このかんの実情は他生の悪霊らの実情と同一であり、かれらも善良な者と動揺にいくたの社会に区別されているが、しかし(互に他に)類似した幻想と欲念とに引きつけられることによって共に連結されており、かくて真理と善とを迫害することにおいては一人のものとなって行動しているのである。かくてかれらがよってもって結合されている何らかの共通の興味[関心]があるが、しかしこの共通のきずなが解消されるや否や、かれらは互に他に襲い掛かり、かくてかれらの歓喜はかれらの交友をまたは交友たち責め苛むこととなるのである。この世におけるこうした教義と礼拝の場合もそれに類似している、すなわち、この世界の者らは教義と祭儀とに関わるものを極めて和合的に承認はしているが、しかしかれらをともにむすびつけている共通の興味[関心]は自己礼拝であって、かれらがこうした共通の興味を共に分かつことができるかぎり、それを承認はするが、しかしその共通の興味を共に分かつことができないかぎり、またはそれを分かつことを望むことができないかぎり、分離してしまうのであって、それは今し方前に言ったばかりの理由によっているのである。すなわち、こうした性格の者は一人として如何ような真理も持ってはいないで、各々真理に代えて誤謬をもち、善に代えて悪を持っているのである。それでこのことがかれらが『互にその仲間の唇を聞かないこと』により意味されているものである。
天界の秘義1326
「それでかれはその名をバベルと名づけられた」。これはこうした礼拝を、すなわち、バベルにより意味されている種類の礼拝を意味していることはこれまで言われたことから明白である、すなわち、それは自己愛を内部に宿しているところの、それゆえ汚れた冒涜的なものである凡てのものを宿した礼拝を意味しているのである。自己愛は人間自身のもの以外の何ものでもなく、これは如何に汚れたものであり、また冒涜的なものであるかは人間自身のものについて示されたことから認められることができよう(210、215番)。自己愛、すなわち、自己を求める愛から、または人間自身のものから、憎悪、復しゅう、残酷、姦淫、詐欺、偽善、不敬意といった、凡ゆる悪が発しており、それで自己への愛または人間自身のものが礼拝の中に存在していると、こうした悪がその愛から発している量と質との相違とに従って、その中に存在しているのである。ここから礼拝の冒涜が凡て発している。事実、自己への愛から、または人間自身のものから発した何かが礼拝に導入されるのに正比例して、内なる礼拝は去ってしまうのであり、すなわち、内なる礼拝が存在しなくなるのである。内なる礼拝は善を求める情愛と真理を承認することにあり、自己への愛が、すなわち人間自身のものが近づいたり、または入ってくるに比例して、善の情愛と真理の承認とは去ってしまうか、または消え去ってしまうかするのである。聖いものは、丁度天界が地獄とともになることができないように、冒涜的なものとは決して共になることはできないで、一は他から去ってしまわなくてはならないのである。こうしたものが主の王国にける状態と秩序である。このことがその礼拝は『バベル』と呼ばれて、単に一種の死物に過ぎない、事実その内部は屍のようなものであって、それが拝されている者らの間には内なる礼拝は存在していない理由である。このことから内にこのような内なる礼拝を含んでいる外なる礼拝の特質はいかようなものであるにちがいないかが明白である。
[2]こうした礼拝が『バベル』であることはバベルを記している聖言の色々な所から明白である、例えばダニエル書には、バビロンの王ネブカドネザルが夢に眺めた像は―その頭は黄金、胸と腕は銀、腹と腿は銅、脚は鉄、足は一部は鉄、一部はねば土から成っていたのであるが―真の礼拝からついには『バベル』と呼ばれるような礼拝が生まれてくることを意味しており、それで岩から切り出された石が鉄、銅、ねば土、銀、金を粉砕してしまったのである(ダニエル2・31−33、44、45)。バビロンの王ネブカドネザルが立てて拝した金の像はそれ以外の何ものでもなかったのである(ダニエル3・1から終りまで)。それに似たことがバビロンの王がその君らとともにエルサレムの神殿から持ってきた金の器で酒を飲み、金、銀、銅、鉄、石の神々を拝し、そのために壁に文字が現れたことによっても意味されているのである(ダニエル5・1から終りまで)。同じようなことがまたメヂア人のダリウスが自分を神として拝さなくてはならないと命じたことにより意味され(ダニエル5・1から終りまで)、同じくダニエルが夢に見た獣によっても意味され、(ダニエル7・1から終りまで)、ヨハネが黙示録に記している獣とバビロンによっても意味されているのである。
[3]こうした礼拝が意味されまた表象されたことはダニエル書とヨハネ黙示録のみでなく、予言者の書にも明白である。例えばイザヤ書には―
その顔は焔の顔である。諸々の天の星とその星宿とはその光を輝かさない、陽はのぼってくるが暗くなり、月はその光を輝かさない。そこにはズィームが臥しており、その家にはオヒームが満ちている、夜のふくろの娘らはそこに住み、サチルスはそこにおどり、イームはその宮殿に、竜は快楽の建物の中に答えている(13・8,10,21、22)。
これはバビロンについて言われていて、こうした礼拝の内なるものは欲念である『焔の顔』により記されており、信仰の諸真理である『星』が『その光をはなたない』ことにより、聖い愛である『陽が暗くなる』ことにより、信仰の真理である『月』がかがやかないことにより、『ズィーム』と『オヒーム』と『ふくろの娘』と『サチルス』と『イーム』と『竜』がかれらの礼拝の内部であることにより記されているのである、なぜならこうしたものは自己への愛に、すなわち、人間自身のものに属しているからである。それでまたバビロンはヨハネの書には『淫行と忌まわしいものとの母』と呼ばれ(黙示録17・5)、また『竜の住居、凡ゆる不潔な霊のおり、凡ての不潔なまた憎むべき鳥のおり』と呼ばれており(18・2)、その凡てから、こうしたものが内部にあるときは、善または信仰の真理のいかようなものもありえないのであり、情愛の諸々の善と信仰の諸々の真理とが去ってしまうに応じて、こうしたものが入ってくることが明白である。それらはまた『バビロンの神々の彫像』と呼ばれている(イザヤ21・9)。
[4]こうした礼拝の中にあるものは自己への愛であり、または人間の固有のものであり、またはそれは自己礼拝であることはイザヤ書に明白である―
バビロンの王にこのたとえを予言しなさい、おまえは心の中で言った。わたしは天へのぼろう、わたしは神の星の上にも王座をあげよう、わたしは北の側で、集会の山に坐ろう、わたしは雲の頂きの上にも登ろう、わたしはいと高き者のようにもなろう、と。それでもおまえは地獄へ投げおとされるであろう(14・4、13−15)。
ここに『バビロン』は神として拝されようと欲している者を意味していることが、すなわち、それは自己礼拝であることが明らかである。
[5]さらに―
ああ、バビロンの処女である娘よ、降って、塵の中に坐れよ、ああカルデヤ人の娘よ、王座なしに、地の中に坐れよ。おまえはおまえの邪まをたのんだ、おまえは言った、たれもわたしを見ない、と。おまえの知恵とおまえの知識それがおまえを迷わせた。おまえは心で言った、わたしのみ、他にわたしのようなものはたれ一人いない、と(47・1、10)。
エレミヤ記には―
ああ全地を砕くところの砕く山よ、見よ、わたしはおまえに対抗する、わたしはおまえに手をのばして、おまえを岩からころがりおとし、おまえをもえる山としよう。たとえバビロンは天に登るとも、その力の極みをかたくしようとも、それでもわたしから荒らす者らがそのもとへ来るであろう(51・25、53)。
この記事からもまた『バビロン』は自己礼拝であることが明白である。
[6]こうした人物は真理の光を持たないで、全的な暗黒をもっていることは、すなわち、かれらは信仰の真理をもっていないことはエレミヤ記に記されている―
エホバがバビロンにむかって、カルデヤ人の地にむかって語られた御言葉。北からかれの上に一つの国民がのぼってきて、その地を荒れすさばせ、一人としてその中に住む者はないであろう、人から獣に至るまでもかれらは引き裂かれてうごき、去ってしまうであろう(50・1、3)。
『北』は暗闇を、または真理が皆無であることを意味し、『人もおらず、獣もいない』ことは善が皆無であることを意味している。(更に下記の28節のバベルについて参照されたい、そこにはカルデヤ人がとり扱われているのである)。
天界の秘義1327
「そこでエホバは全地の唇を乱された」。これはこの古代教会の状態を、すなわち、内なる礼拝が死滅しはじめたことを意味していることは『全地の唇』と言われて、前の七節のように『都と塔とを建て始めた者らの唇』とは言われていないことから明白である。『全地の面』により教会の状態が意味されている、なぜなら『地』は(前の662、1066番に示されたように)教会であるからである。洪水後の諸教会については実情は以下のようであった、すなわち、これらの教会には聖言にとくに記されている三つのものがあったのであり、すなわち、ノアに因んで名づけられた第一古代教会と、エベルに因んで名づけられた第二古代教会と、ヤコブに因んで、その後ユダとイスラエルに因んで名づけられた第三古代教会があったのである。
天界の秘義1327[2]
ノアに因んで名づけられたこれらの教会の初期の場合の習わしのように、それはそれに続いて起った諸教会よりも害われてはおらず、また罪もなかったのであり、そのことはまた本章の第一節からも明白である、即ち、それはその会員の凡てが仁慈を本質的なものと考えていた結果、『一つの唇』を持っていた、即ち、一つの教義を持っていたという記事から明白である。しかし時の経過につれ、他の諸教会のように、この第一古代教会も堕落し始めたのであって、このことは主として彼らの多くの者が他の者よりも優ろうとして、自己礼拝を渇望し始めたという事実から起ったのである、このことは四節から明白である、なぜなら彼らは『私らは私らのために都と塔とを建て、その頭を天の中に置こう、私らは私らのために私らの名[名声]を作ろう』と語ったからである。教会内のこうした人間は一種の酵素のようなものに、または大火を引き起こす松明のようなものにならないわけにはいかなかったのである。聖いものを冒涜する危険がそこから切迫したため(571、582番を参照)、主の神的摂理の下に、この教会の状態は変化し、かくてその内なる礼拝は死滅してしまい、その外なる礼拝のみが残ったが、そのことがここにエホバは全地の唇を乱されたという記事により意味されているのである。このことからまた以下のことが明白である、すなわち、バベルと呼ばれているような礼拝は第一古代教会にはあまねく行われはしないで、それに続いて起った諸教会に行われたのであり、その時人間は神として拝され初め、とくに死後、神々として拝され初めたのであり、そこから異邦人の多くの神々が起ったのである。
天界の秘義1327[3]
内なる礼拝が死滅して外なる礼拝が残ることが許された理由は聖いものが冒涜されないためであった、なぜなら聖いものを冒涜することは永遠の堕地獄の状態を伴うからである。信仰の諸知識を持っていて、その真理を承認している者以外の者は一人として聖いものを冒涜することは出来ないのである。信仰の知識を持っていない者はそれを承認することは出来ないし、ましてやそれを冒涜することは出来ない。冒涜することが出来るものは内なるものである、なぜなら聖いものは内なるものの中に宿っていて、外なるものの中には宿っていないからである。こうした実情は、悪を行うが、悪を意図してはいない者の場合と同一である。その者には、丁度周到な意図から悪を為さない者には、または理性を欠いている者には悪は帰せられることが出来ないようにその者の行う悪は帰せられることは出来ないのである。かくて死後の生命があることは信じないが、しかも外なる礼拝を行う者は永遠の生命に属した事柄を冒涜することは出来ない、なぜなら彼はそうした生命があることは信じないからである、しかしそうした事柄を知り、また承認している者らの場合は全く異なっている。
天界の秘義1327[4]
そしてこれが内なるものを知り、これを承認するようになって、しかもそれを冒涜するよりも、むしろ快楽と欲念の中に生き、そうしたものにより自分自身を内なる事柄から遠ざけることが人間に許されている理由である。こうした理由からユダヤ人は現今自分自身を現今自分自身を貪欲の中に浸すことを許されているが、それはそのことによりかれらは内なるものを承認しないようにそこから更に遠ざけられるためである、なぜならかれらはもし内なるものをかりにも承認するとするならば、それを冒涜しないわけにはいかないといった性格を持っているからである。貪欲は最も低い地的な欲念であるため、それ程人間を内なるものから遠ざけるものは何一つない。教会の中の多くの者の場合も同一であり、また教会の外の異邦人の場合も同一である。この後の者は、すなわち異邦人は凡ての者の中でも最も冒涜を犯すことはできないのである。それでこれがエホバは全地の唇を乱されたとここに言われている理由であり、またこの言葉が教会の状態が変化して、その礼拝は外なる礼拝となり、凡ての内なる礼拝を欠くようになったことを意味している理由である。
天界の秘義1327[5]
これに似たことがイスラエル人が、後にはユダヤ人が陥ったバビロン捕囚により表象され、また意味されたのであり、それについてはエレミヤ記に以下のように記されている―
バビロンの王に仕えようとしない国民と王国、またたれであれバビロンの王の軛の下にその頸を置こうとしない者、その国民の上にわたしはかれがその手をもってその者らを滅ぼしつくすまで剣と飢きんと疫病をもって報復しよう(27・8)。
『バビロンの王に使え、その軛の下に頸を置くこと』は信仰の善と真理とを知り、承認することを全く剥奪され、そのことによりまた内なる礼拝をも剥奪されることである。
天界の秘義1327[6]
(前略)
なぜなら自己を拝する者は、前に示されたように、信仰の真理を何ら持っていないからである。真のものをことごとくかれは破壊し、荒廃させ、捕内の中へ携え去るからである。それでバビロンは『破壊する山』と呼ばれている(エレミヤ記51・25)。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P231
‘02・6・1
正義を教えられた後は 霊魂を次の層(レベル)に引き上げる。 その層に あなたは生まれる以前にもう 招かれていた、ここで聖霊は恵みによってあなたを引き上げ 我が救いの計画を一部担わせて 使徒とする。 そのレベルでは 我が受難(パッション)に向う道をあなたに示す。 私に仕えるうえは、あなたは 情熱(パッション)をもって仕えよう。 あなたを世界に送って見回らせ 真理を宣言させる。 この非キリスト教化した世代をキリスト教化し バベルの塔を打ち壊して、その中でバアルを拝んでいた背教者たちを皆 悔い改めへと導くようにあなたに頼もう。 あなたはこの全てを 片手に十字架 片手にはロザリオを持って 成し遂げよう・・・
3.聖母から司祭へ
聖母から司祭へ1991.11.21
―わたしの汚れなき心の神殿の中で、ますます深い沈黙へと、あなたたちを養成します。
これらの時に、わたしの敵は、ことばとさわがしい声と映像をもって、人類をまどわすのに成功し、世界を新しいバベルの塔にしています。でも、あなたたちは、かえって、深い沈黙の証をするように召されています。
それは、神のみことばだけを受け入れるための沈黙、このみことばを心の中で思いめぐらし、愛をもって守るための沈黙、その完全な光のうちにこのみことばを生き、すべての人にこれを与えるための沈黙です。すなわち、あなたたちは生活をもって話しなさい。生活はあなたたちの言葉となります。渇いている人々の霊魂は、これほど無味乾燥な無限の砂漠に、光と命を与えるためにおりてくる天の露のように、このみ言葉を受け入れます。