バベル

 

 

自己愛支配を求める愛

 

 

 

天界の秘義1181

 

バベルは聖言に多く取扱われており、至るところにこのような礼拝が意味されている。すなわち外部は聖く見えるが、内部は汚れている礼拝が意味されているのである。しかし次章にバベルが取扱われているため、そこにこうしたことがバベルにより意味されていることが示されるであろう。また始めはこうした礼拝は後になって汚れたものになった程には汚れてはいなかったことも示されるであろう。なぜなら外なる礼拝の性質は正確に内部に順応しており、内部が無垢であるに応じ、外なる礼拝も無垢であるが、内部が醜いものになるに応じ、外なる礼拝も醜いものとなり、内部が汚れているに応じ、外なる礼拝も汚れているからである。約言すれば、この外なる礼拝の中にいる人間の中に世と自己を求める愛が存在するに応じ、益々その礼拝の中には生きた聖いものが少なくなり、自分自身と世を求めるその愛の中に隣人に対する憎悪が存在するに応じて、益々その礼拝には冒涜が宿り、その憎悪の中に悪意が存在するに応じてさらに益々かれの礼拝の中には冒涜が宿り、その悪意の中に詐欺が存在するに応じて、さらに尚益々その礼拝の中には冒涜が宿るからである。それらの愛とこれらの悪とが『バベル』により意味されている外なる礼拝の内部であり、そのことについては次章に述べよう。

 

 

 

天界の秘義1284

 

バベルは都を意味していないで、ある実際の事柄を意味しており、ここではその内部は汚れているが、その外なるものは聖く見える礼拝を意味しているのである。

 

 

 

天界の秘義1295

 

誤謬には二つの起原があり、一つは真理に対する無知から発し、他は欲念から発している。真理に対する無知から発した誤謬は欲念から発した誤謬ほど有害ではない。なぜなら無知の誤謬は人が幼少の頃からそのように教えられてきたということから起っているか、または種々の業務のために気が散って、真であると言われているものが本当に真であるか否かを点検しなかったということから起っているか、または真のものと誤ったものとについて判断をする能力をたいして持っていなかったということから起っているか、その何れかであるからである。こうした源泉から発した誤謬は、もしその人間が何かの欲念からその誤謬に向ってたきつけられて、それを弁護するほどにもそれをたいして確認もしないし、それでそれを自分自身に説きつけもしさえしなければ、たいして害を加えはしないのである、なぜならそのようなことをすることによりかれは無知の雲をぶあつなものにして、それを真理を認めることができないほどにも暗黒に変えてしまうからである。

 

 

 

天界の秘義1295[2]

 

しかし欲念の誤謬は誤謬の起原が欲念であるとき、すなわち自己への愛と世への愛である時存在する。例えばたれかが人心を捕え、これを指導するために教義の何かの点をとらえて、それを公言し、それを自己に有利に説明し、または歪め、またそれを記憶知から発した理論によっても、また聖言の文字の意義によっても確認する時のようなものである。ここから派生した礼拝はそれが外面的には如何ほど聖く見えるにしても汚れている、なぜなら内的にはそれは主を拝する礼拝ではなく、自己を崇める礼拝であるからである。こうした人間はまた如何ようなものをもそれが自己に有利になることができない限り、それを真のものとして認めもしないのである。こうした礼拝が『バベル』により意味されているものである。しかしこのような礼拝の内に育てられて、それが誤っていることを知りはしないが、仁慈の中に生きている者の場合は異なっている。かれらの無知には無垢が存在していて、その礼拝の中には仁慈から発した善が存在している。礼拝の冒瀆性は礼拝そのものよりもその礼拝の中にいる者の性質から述べられるのである。

 

 

 

天界の秘義1307

 

「その頭[頂き]を天の中に」。これはかれらが天界に存在する事柄を支配するようになるまでも、を意味していることはすでに言ったことから生まれてくる。なぜなら『天に頭をもつこと』は、聖言の他の箇所におけるバベルの記事から、また『頭をもたげること』についてすでに言われたことからも明白であるように(257番)、自己をそこまでも高めることであるからである。自己愛は天界の生命とは全く和合しないものである、なぜなら凡ゆる悪が、憎悪のみでなく、復しゅう、残酷、姦淫がそこから生まれるからであり、ましてそれが礼拝に入って、それを冒涜するときは和合しないのである。それ故地獄はこうした人物から成っており、かれらはその頭を天に上げるに比例して、益々深く自分自身を下に突き落とし、その中に自分自身を投げこむ刑罰は益々恐るべきものとなっている。

 

 

 

天界の秘義1308

 

 「わたしらはわたしらのために名を作ろう」。これは、かれらがそれによって権力に対する名声を得ることができるであろう、を意味していることは、『自己に名を作ること』の意義から認めることができよう、なぜならかれらは人は各々何かを礼拝しようとのぞんでいることを知っていたからである、なぜならこのことは凡ての者に共通していて、それは凡ての国民の間に存在しているからである。なぜなら宇宙をながめる者は、ましてや宇宙の秩序を考察する者は凡て何かの至高の存在を、または実体を承認するのであって、かれはかれ自身の繁栄をねがっているため、その実体を崇拝するからである。さらにこうしたことを指示するものが内部に存在しているのである、なぜならこうした指示が人間各々のもとにいる天使たちを通して主から流れ入っているからである。このようなものでなく、また神を承認しない人間は奈落の霊どもの支配下にあるのである。バベルの塔を建てる者らはこのことを知っているため、教義的な聖いものによって自分自身のために名を作るのである、なぜならもしそれを作らないならばかれらは礼拝されることができないからであり、このことが以下の記事に、もしそうしないならかれらは全地の面に散らされてしまうことにより、すなわち、かれらは承認されないであろうということにより意味されているのである。そしてこのことからこうした人間が頭を天に高く上げるに応じ、益々自分自身に名を作る[自分自身を有名にする]ことが生まれてくるのである。かれらの支配は何らかの良心を持っている者に対しては最大なものになっている、なぜならこれらの者をかれらはその欲する所に何処なりと導くからであるが、しかし良心を持たない者については、こうした者を凡て色々な外なる束縛によって支配するのである。

 

 

 

霊界日記6052

 

 支配を求める愛もまた、姦淫のように、それ自身の中に地獄を持っていることも信じられることはできない。この愛の中にいる者らは凡て悪の中に、そこから生まれる誤謬の中にいるのである。その理由は、支配を求める愛は心をその固有性の中に沈めてしまい、そのため心は主により引き挙げられることはできないためである。しかし天界がその中に存在している者はことごとく、たとえその人間は、たとえ知覚することはできないものの、その固有性から引き挙げられるのである。しかし自己愛を説明してみるに、その最高度のものは他の者たちを支配することを求める愛であり、またそれ自身の中には神的なもの[神]をさえも支配しようとする愛を含んでおり、これがバベルであり、そのことについては極めて多くの忌まわしい事柄が聖言の中に述べられている。支配を求める愛の性質を記してみるに、それは己が職務上の地位において他の者たちを支配することではなくて、その地位以外の所で、自分自身の領域で満足しないで、他の者たちを支配しようと欲することである。この後の性質と前の愛の性質とをさらに記して良いであろう、また、こうした愛の中にいる者らはことごとく、いかような顕職の者であろうと、地獄へ投げ込まれるのである。