支配を求める愛

 

 

自己愛バベル

 

 

 

 

霊的な生命・神の聖言−遺稿―(黙示録講解からの抜粋)P117

 

 自己の愛〔自己を求める愛、自己愛〕の中におりそこから支配を求める愛〔支配愛〕の中にあり、その後で聖言の、教会の礼拝の聖いものにより主権をむさぼり、獲得し、遂には行使する者らは汚す〔冒涜する〕者らである。なぜなら自己のために、即ち、卓越し、その結果尊敬されるために、一種の自己礼拝のために、支配を求める愛の歓喜は奈落の歓喜であるからである。更に、それは地獄を遍く支配しているのである。なぜなら地獄ではたれもが最大のものになることを欲しているに反し、天界ではたれもが最小のものになることを欲しており、奈落の歓喜から聖いものを支配することはその聖いものを汚す〔冒涜する〕ことであるからである。

 しかしこの第二の種類の、教会の聖いものの冒涜は前の種類の教会の聖いものの冒涜のようなものではない。己が中に己が霊的な心を開かれることにより天界との交流が開かれた者たちが前の〔第一の〕種類の冒涜に陥るのであるが、これに反し霊的な心が開かれてはいない、または霊的な心を通して天界との交流が行われていない者らはこの第二の種類の冒涜に陥るのである。なぜなら支配愛〔支配を求める愛〕の歓喜が人間の中に宿っている限り、その心は開かれることは出来ないし、また天界との交流も彼には有り得ないからである。

 更に、これらの冒涜者らの死後の運命は前の者らの運命とは相違しているのである。前の者は、すでに言ったように、幻想のため絶えず精神が錯乱しているが、しかしこれらの者は主を憎み、天界を憎み、聖言を憎み、教会を憎み、その凡ての聖いものを憎んでおり、彼らは主権が彼らから取り去られ、かくて彼らの状態がその対立したものに変化するため、こうした憎悪に陥るのである。彼らは何か火のようなものとなって現れ、その地獄は大火のようなものとして現れている、なぜなら奈落の火は自己愛から発した支配に対する欲念以外の何ものでもないからである。これらの者は最悪の者の間にいて、悪魔と呼ばれているが、他の者らは悪鬼と呼ばれている(黙示録講解1055番)。

 

 

 

 

 

続最後の審判61

 

 人間はその両親から植えつけられた悪を、または遺伝的な悪を持っていることは知られてはいるが、しかし、それは何から成っているかを知る者は少ない。それは支配を求める愛から成り、これに自由が許されるに従って、それは迸り出て、遂には凡ての者を支配し、終いには神として祈られ、拝まれようとする欲念で燃え上りさえするものである。この愛がエバとアダムとを欺いた蛇である。なぜならそれは女に次のようなことを言ったからである。

 あなた方がその木の実を食う日には、あなた方の眼は開いて、あなた方は神のようになることを神は知っておられる(創世記3・4、5)。

それ故人間が手綱を緩められてこの愛に突入するに従って、彼は神に背を向けて、彼自身に向き、無神論者となる。そのとき聖言に属する神的真理は手段として仕えるかもしれないが、支配が目的である故、その手段は単に彼に役立つためにその心に在るに過ぎない。これが支配愛の中間度と究極度に在る者が凡て地獄にいる理由であり、地獄にはこのような性質を持っていて、人が神について語るのを聞くに我慢の出来ない者がいるのである。

 

 

 

 

 

天界と地獄407

 

 身体の生命の中で他の者たちを支配する権能を持っていたある一人の者が他生でもまた支配しようとの欲望を依然持っていたが、彼は以下のように告げられた、あなたは永遠の他の王国におり、地上のあなたの支配は終わったのであり、天国では誰もその持っている善い真のものによらなくては、またその者が世におけるその生活から浴した主の慈悲によらなくては尊ばれないのであり、またこの王国も地上とは異なっていないで、ここでも人間はその富と君から受ける恩恵から尊ばれており、ここの富は善と真理であり、君から受ける恩恵は人間が世におけるその生命に応じて主から受ける慈悲である。もしこのことに反してあなたが支配しようと望むなら、あなたは他の方の王国にいる以上、反逆者となる、と。こうした事を聞くと彼は恥じたのである。

 

 

 

 

天界の秘義9039

 

天界にいて信仰の真理からこの上もなく理知があり、また知恵のある者たちは、力の一切を主に帰して、何一つ自分自身には帰してはいないほどにもへり下っており、彼らは光栄と喜びとを支配することにはおかないで、仕えることにおいており、彼らはこうした状態にいるときは他の者にまさって支配しているのであり、また光栄と喜びを覚えているのであるが、それでもそれは支配を求める愛から発しているのではなくて、他の者に仕えることを求める情愛であるところの、愛と仁慈とに対する情愛から発しているのである。なぜなら主はへり下っている者たちのもとへ力をもって流れ入られるが、自負の念でふくれ上がっている者らの中へは流れ入られはしないからである。それは前の者は流入を受けるが、しかし後の者はそれを斥けてしまうためである。

7489−7492

 

 

 

霊界日記6052

 

 支配を求める愛もまた、姦淫のように、それ自身の中に地獄を持っていることも信じられることはできない。この愛の中にいる者らは凡て悪の中に、そこから生まれる誤謬の中にいるのである。その理由は、支配を求める愛は心をその固有性の中に沈めてしまい、そのため心は主により引き挙げられることはできないためである。しかし天界がその中に存在している者はことごとく、たとえその人間は、たとえ知覚することはできないものの、その固有性から引き挙げられるのである。しかし自己愛を説明してみるに、その最高度のものは他の者たちを支配することを求める愛であり、またそれ自身の中には神的なもの[神]をさえも支配しようとする愛を含んでおり、これがバベルであり、そのことについては極めて多くの忌まわしい事柄が聖言の中に述べられている。支配を求める愛の性質を記してみるに、それは己が職務上の地位において他の者たちを支配することではなくて、その地位以外の所で、自分自身の領域で満足しないで、他の者たちを支配しようと欲することである。この後の性質と前の愛の性質とをさらに記して良いであろう、また、こうした愛の中にいる者らはことごとく、いかような顕職の者であろうと、地獄へ投げ込まれるのである。