バビロン

 

 

 

天界の秘義3708(21)

 

「バビロン」は外なる礼拝を意味していることは、1182,1283、1295、1304、1306−1308、1321、1322、1326番に見ることができ、剥奪を生じさせるものもまたバビロンである、1327番。

 

 

聖母から司祭へ/1987.10.13/ファティマ最後のご出現の七十週年記念/香港

 

 あなたたちは、七十年ものあいだ、わたしの敵の奴隷制度のもとに生きてきました。

悪魔は、世界を罪深いバビロンの町に変化させるのに成功しました。

この町は、快楽と肉欲のさかずきで全世界の国々をまよわせました。

しかし今、このバビロンの奴隷制度の時代は終わろうとしています。

 

 

信仰49

 

聖言では国民と民族の名前は、また人物と場所の名前も教会の事柄を意味している。教会そのものは『イスラエル』と『ユダ』により意味されているが、それはその教会が彼らの間に設立され、色々な宗教上の主義はその周囲の国民と民族とにより意味され、教会に一致したものは善良な国民により、それに一致しないものは悪い国民により意味されたためである。教会がすべて時が経つにつれて堕落して陥る二つの悪い宗教上の主義[原理]があるが、その一つは教会の善を不善化するものであり、他の一つはその真理を誤謬化するものである。教会の善を不善化するものは支配を求める愛から発しており、教会の真理を誤謬化するものは自己の理知を誇る自負心から発している。支配を求める愛から発する宗教的原理は聖言では『バビロン』により意味され、『自己の理知』を誇る自負心から発する者は『ペリシテ人』により意味されている。

 

 

最後の審判とバビロンの滅亡54

 

[1]「バビロンにより何が意味されるか、その特質は何か」。バビロンにより宗教により支配しようと欲する者凡てが意味される。宗教により支配することは人間の霊魂を支配し、引いては彼らの霊的生命を支配し、その宗教の中に在る神的な物をその支配の手段として用いることである。支配を目的とし、宗教をその手段とする者は凡て全般的にバビロンである。こうした支配は古代に始まったゆえ、彼らはバビロンと呼ばれている、が、それはその始めに破壊された。その始まりはその都と頂きを天にまでも届かせようとした塔とにより記され、その破壊は言葉の混乱により記され、その混乱からその名のバベルが生じた(創世記11・1−9)。そこに述べられている事項が聖言の内なるまたは霊的な意義で意味していることは、「天界の秘義」(1283−1328)に説明されているのを見ることができよう。(中略)

 

仁慈と信仰とが存在しなくなり、自己愛がそれに代って支配し始めるとき、教会はバビロニアとなることを知らなくてはならない。なぜならこの愛は抑制されなくなるに従って、昂進し、地上で自分自身に従わせることの出来る者凡てのみでなく、天界をも支配しようと望み、またそれにも満足しないで、神の御座そのものにのぼって、自分自身に神の神的な力を移すのである。それは主の来たりたもう前にすらこうしたことを為したことは前に引用した聖書の記事から明らかである。しかしそのバビロニアは主により主が世に居られたとき、彼らが全く偶像崇拝者となったことにより、また霊界の彼らに対する最後の審判により破壊された。このことは予言的な言葉により、すなわち、そこではバビロンである『ルシファ』が地獄へ投げ込まれたこと、『バビロンは倒れた』ことにより、さらに『壁の上の文字』と『ベルシャザルの死』により、またネブカドネザルの夢みた像を砕いた『岩から切り取った石』により意味されている。

 

 

最後の審判とバビロンの滅亡55

 

 しかし「黙示録」に取扱われているバビロンは、主が来られた後に起り、教皇派のもとに在ると知られている現今のバビロンである。このバビロンは、主が御自身を示されたとき、世に示された教会の内的な諸々の善と真理とを冒涜しているゆえ、主が来られる以前に存在したバビロンよりもさらに邪悪であり、またさらに忌まわしいものである。それは如何に邪悪であり、如何に忌まわしいものであるかは以下のあらましから明らかとなるであろう。彼らは救う力を全く持たない主を承認して、これを崇拝している。すなわち彼らは主の人間性とその神性とを全く分離し、主の人間性に属した主の神的な力を彼ら自身に移しているのである。なぜなら彼らは罪を赦し、天界に送り、地獄に投げ込み、その欲する者を救い、救いを売りつけ、かくて神的な力にのみ属するものを彼ら自身に横領するからである。また彼らはこうした力を行使する故、彼らはその基督の代理者と呼んでいるところの彼らの中に最高者から最低の者にまでも至る移譲により、彼ら自身を、各々その地位に従って神となし、かくて彼らは彼ら自身を主と認め、主を主のためでなく、彼らのために崇めていることが推論される。彼らは単に聖言を不善化し、誤謬化するのみでなく、人々を真理の光に些かも浴させまいとして、聖言を彼らから取り上げ、さらにこれにも満足しないで、ローマの法令の神的なものは聖言の神的なものにも優っていると認めて、聖言を抹殺し、かくて凡ての者を天界への道から閉め出している。なぜなら主を承認し、主を信じ、主を愛することは天界への道であって、聖言はその道を教えるものであり、ここから聖言を手段として主が居られないなら、救いは存在しなくなるからである。彼らは神的真理から発する天界の光に代って無知が存在するように、凡ゆる努力を傾けてそれを消滅させようとし、その無知が甚だしいほど、それを悦んでいる。彼らは聖言や聖言から来ている教義を含んだ書物を読むことを禁じることによって、天界の光を消滅させ、単純な者には理解されない、また神的真理を何ら持たない言語のミサによる礼拝を定め、さらに暗黒そのものであって、光を遠ざけ、消散させる誤謬をもってその世界を満たしている。彼らはまた同じように一般人は祭司の信仰の中に、引いては他人の信仰の中に己が生命を得て、己が信仰の中にそれを得ないと彼らに説きつけている。彼らはまた内なるものを持たない聖い外なるものに礼拝の凡てを置いて、内なるものを空しくしている。なぜならそれは善と真理との知識を欠いているからである。しかし外なるものは内なるものから発しているゆえ、神的礼拝は、それが内なるものである限りにおいてのみ外なるものである。その他、彼らは色々な種類の偶像崇拝を引き入れている。彼らは聖者を作り、これを増し加える。彼らはこれらの聖者が崇拝され、またこれらの者に殆ど神に捧げられるように捧げられる祈りを見ても黙認し、至る所に彼らの偶像を建て、彼らにより為された夥しい奇蹟を誇り、彼らを町、神殿、修道院に置き、その墓から取り出した骨を聖いものとしているが、しかしそれは極めて汚らわしいものである。かくて彼らは凡ての者の心を神礼拝から人間礼拝へ外らしている。さらに彼らは、非常に狡猾な予防手段を講じて、何人をも暗闇から光へ、偶像礼拝から神礼拝へ入らせない、なぜなら彼らは修道院を増し加えて、そこからスパイと監視人とを凡ゆる方面へ遣わし、思考と意図の告白でもある心の告白を強制し、もしたれかが告白しようとしないならば、これを地獄の火と煉獄の拷問とで威嚇し、教皇の王座と彼らの王権とを敢えて糾弾しようとする者は、これを宗教裁判と呼ばれる恐るべき牢獄に閉じ込めるからである。すべてこれらの事を彼らは、世とその財宝とを所有し、贅沢に暮らし、最大な者となり、他の者を奴隷にしようといったただそれだけの目的から行っているのである。しかしこのような支配は地獄に対する天界の支配ではなく、天界に対する地獄の支配である。なぜなら支配しようとする愛が、人間に特に教会人に宿るに応じ、地獄が支配するからである。この愛は地獄を支配し、地獄を作っていることは、「天界と地獄」の著作(551−565)に見ることができよう。こうしたあらましから、彼らはそこに教会を持たず、バビロンを持っていることが明らかとなるであろう。なぜなら教会は主御自身が拝されて、聖言が読まれるところに存在するからである。

 

 

マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/天使館/P94

 

 マリアよ、これからわたしは貴女の手を取り、ヨハネの書のいちばんわかりにくい箇所に案内する。注釈者たちは、この書物のなかの『大バビロン』が誰かを、自分自身に、また誰であれ群集に説明するため、多岐にわたる推論によってその能力を使い果たした。無関係ではなかった人間的見方で熱望された出来事、あるいは降り掛かった出来事によって刻印された衝撃は、多くの物事にバビロンという名前をつけた。

 

 だが彼らはどうして『大バビロン』が地球全体であるとは決して考えなかったのだろうか?もしわたしが、人間の住む世界としての地球しか創らなかったとすれば、わたしはまことに小さな限られた創り主なる神であろう!わたしはわたしの意志の一鼓動をもって無から無数の世界を起こし、それらを光り輝く粉塵のように、無限の天空のなかに投じたのだ。

 

 あなたたちがそこでかくも傲慢で、かくも残忍に振る舞っている地球は、無限の空間のなかで回転している無数の粉塵の一粒にすぎないし、いちばん大粒の粉塵ではない。しかし言うまでもなくいちばん腐敗している粉塵なのだ。澄んだ夜々に、あなたたちの目を楽しませる幾百万の世界に無数の生命が充満し、の完全さがあなたたちに現れるであろう時、あなたたちはふたたびと合体した霊魂の知的視覚をもって、この諸世界の驚異を見ることができるだろう。

 

 地球は、地上と地獄のすべての権力者と姦淫の罪を犯した大淫婦、また地球の住人たちは自分自身、すなわち肉体と霊魂を、地上のたった一日の勝利のために売ったのではないのか?

 

 そうだ、そういう事なのだ。地球とその住人たちが勝ち誇るために同盟を結んだとまったく同じように、地球の犯罪は冒涜の全名称を持っている。七つの罪は、地球と地球人たちをの牧草地に移動させるの頭上の戦慄すべき飾り物のようであり、隠喩的な数字の十本の角は、どんな代価を支払ってでも、その残忍な貪欲さが欲するすべてをせしめようとして成し遂げた無限の極悪非道を証明している。