太宰治 投稿者:地区内教会一信徒 投稿日:2025/06/29(Sun) 05:57 No.442
芥川、太宰、三島、川端…。大森さんの以前の投稿によって、著名な作家たちが自死していることを思い出しました。 また、「パトグラフィ―U 太宰治」(430)では、中公新書を出典とした 「彼はある意味では、幾度も再生の喜びを味わった幸福な人間であり、幾度も死を経験した不幸な男でもあった」という 記述等にとても納得のいく思いがしました。
友人の影響を受けて私が太宰治の作品を多く読んだのは、約半世紀前の一時期に限られています。その後、現在に至るまで彼の作品を読み返すことはほとんどありませんでした。 しかし、先週の日曜日にたまたま次のような一文を目にしました。 また芥川龍之介は死の枕辺に聖書を置いていました。太宰治は「聖書一巻によって日本文芸史は二つに分けられる」とまで語っています。 特に太宰は、内村鑑三の弟子・塚本虎二が編集発行していた雑誌『聖書之知識』を十年以上購読していますから、 自分の問題として、キリスト教を捉えることができていたといえるでしょう [佐藤裕子 『礼拝と音楽』174(2017年夏号)p.36]
もしかすると、これはシンクロニシティということでしょうか…? それをきっかけとして「人間失格」を改めて読んでみたくなり、数日前から実行しています。ただし、本でなくスマホで朗読を聴いています。
Re: 太宰治 - 大森嘉彦 2025/06/30(Mon) 14:23 No.443 貴重な情報をありがとうございます。太宰の文学の側面に、キリスト教的な文言が、結構あって、自身を救われる価値のない罪人と捉えているような表現を、眼にした事が、過去の自分と重なるので、余計に人間失格は、私に訴えてくるのでしょう。あと、グッド・バイの短編ともエッセイともつかない美男子と煙草と言う短編で、太宰が浮浪少年の足を取って居る写真に就いて、キリストの真似をして、足を洗ってると言う誤解に、ただ浮浪少年の足の裏を見ただけだと、返していたのが記憶にハッキリと残されています。
礼拝と音楽を、目にされたのは、私は偶然ではないと考えます。自分の周りの環境が、呼応して、キリストのシンクロニシティを体感されたのではないでしょうか。クリスチャンは、呼応により良い事が起こっても、奇跡を願う割に、偶然のせいで片付けてしまう傾向がある気が致します。教会内一信徒さまは、これだけのノックを、いと高き方から受けたのです。 実は私の方は、大した事では無いのですが、あの太宰の文を書いた朝、テレビ朝日を観ていたら、太宰の事が、クイズでやってたので、そら、また来たか、と構えてしまいました。こう言う事が、かなり多く、霊的には、いと高きお方から、可愛がられて居るのかも知れません。
貴重なご報告ありがとうございます。礼拝と音楽のくだりをパソコンに転記して、芥川と太宰の件を残したいと思います。
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