スマホの件についてと徒然。 投稿者:大森嘉彦 投稿日:2025/08/18(Mon) 16:49 No.468
前回スマホに打ち込んでもいない文字列が、入力されていると書きましたが、これは、私の思い違いと今は考えます。何故なら、私は思索したものを、メモ帳にアーカイブして、時系列に仮保存しているのですが、未完の思索がスマホ画面を持っている時開いて、バグの文字列が上書きされたと取れば、何の矛盾も有りません。この事は、以前の文章を書き込んだ直ぐ後に、気が付きましたが、訂正の文章を入れようとすると、スマホが加熱して緊急停止してしまうことから、今日やっと入力出来たと言うことなのです。
以前書いたシンクロニシティとは、何か感じが全く違うとは、確か当日書いた投稿に記載した覚えがありますが、単なる思い違いです。
私はリアリストです。現象が、起これば、ファクトを求めます。今までのシンクロニシティは、整然とした符合が認められ、尚且つ科学的なファクトを求めようが無い現象で、芥川のシンクロニシティとの違いは、大半が、キリストに相関しているもので、思い違いの挟まる猶予が全く無い、出来事なのです。
大事な事と思われるような符合は、牧師様にお話をしましたが、あまり私の事で、ご迷惑をかけられないと思い、総てを報告したわけでは有りませんし、総てを覚えている訳でも有りません。
キリストのシンクロニシティに就いて、教会(教団)が、どう言う見解を持っているのかも分かりません。
一つ考えている事は、神性は霊であり、言葉を持たないと言う事です。
プロテスタントは聖書のみと言う原則があって、聖書は言葉で構成された構造と見ることができると思います。以前にも書きましたが、文字列と言うものは極めてデジタル的なもので、ポンペイのモザイックに似て、ある一点だけを抽出して見ても、意味が分かりません。そこには俯瞰すべき距離が必要です。
ある事実をデジタル的に抽出したとして、すなわちあった事を総て文字列にすると、極めて内容が平坦になります。大事な物は、文字列に置き換えにくいもので、その時の感情、抑揚や空気感と言う様なものは総て行間に在るものです。行間を読む事が聖書を学習するのには一番難しそうに思えます。構造的な問題です。
私には聖書は私達に与えられた答えでは無く、分厚い宿題を与えられて居るように思えます。神となった、イエスさまは、言葉を理解し、時に言葉を紡ぐ事もあるのでしょうが、言葉の有限性に一番気が付かれたのではないでしょうか。
さて、私に起こる事案の数々は何方によるものでしょうか?
天の父さま イエスさま 聖霊 それとも天使さま?
こちらに書き込む事により、お力に少しはなっているのでしょうか?あまり人の見ない場所の様ですが。
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