西南の役で西郷軍に加わる
増田宗太郎は幼少の時から桜町の道生館に入り国学を学んだ。尊皇攘夷運動や自由民権運動やで諸国の志士と交わり、中津共憂社を結成した。一時期、福沢諭吉の慶應義塾に入り学んだともいう。村上田長によって、自由民権・主権在民を掲げた「田舎新聞」が創刊されると、編集長を務めた。明治十年、西南の役が勃発、同士と中津隊を結成し、西郷軍(薩軍)に加わった。
4月5日、熊本県の阿蘇郡で西郷軍と合流し、各地で奮戦するも、終に9月鹿児島の城山で没した。
鹿児島市の城山公園の下、南洲墓地には「中津隊士之墓」と「増田宗太郎の墓」がある。また、下正路の安全寺にも増田宗太郎の墓がある。中津公園地には、水島鉄也によって「西南役中津隊之碑」の大顕彰碑が建てられている。
<立て札より> |