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 増田宗太郎誕生の地|川村矯一郎の碑|田信の碑


 ●増田宗太郎誕生の地
【増田宗太郎】
西南の役の中津隊長.
中津藩士増田久行と国学者渡辺重名の娘刀自の長男としてこの地で生まれた。
福沢諭吉とは再従兄弟にあたり、家もすぐ近くである。

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●増田宗太郎誕生の地
西南の役で西郷軍に加わる 
 増田宗太郎は幼少の時から桜町の道生館に入り国学を学んだ。尊皇攘夷運動や自由民権運動やで諸国の志士と交わり、中津共憂社を結成した。一時期、福沢諭吉の慶應義塾に入り学んだともいう。村上田長によって、自由民権・主権在民を掲げた「田舎新聞」が創刊されると、編集長を務めた。明治十年、西南の役が勃発、同士と中津隊を結成し、西郷軍(薩軍)に加わった。
4月5日、熊本県の阿蘇郡で西郷軍と合流し、各地で奮戦するも、終に9月鹿児島の城山で没した。
鹿児島市の城山公園の下、南洲墓地には「中津隊士之墓」と「増田宗太郎の墓」がある。また、下正路の安全寺にも増田宗太郎の墓がある。中津公園地には、水島鉄也によって「西南役中津隊之碑」の大顕彰碑が建てられている。
<立て札より>
●増田宗太郎誕生の地/大分県中津市弓町




 ●川村矯一郎の碑
【川村矯一郎の碑】
明治・大正期の教育者。
神戸商業講習所・東京外国語学校付属高等商業学校で学び、卒業後教師となった。神戸高商(現神戸大学)の創立委員となり、初代校長を勤め初期の商業教育に尽力した。
●川村矯一郎の墓/大分県中津市下小路安全寺内




 ●田信宅址碑
【田中田信】たなかでんしん(1748-1824)
漢方医。画家。「鱧の骨切り」発明者。料理研究家。
中津銘菓けんちんの考案者。
国内で初めて中国料理の解説書「卓子式」を著し、
その中国料理「巻蒸」が銘菓けんちんを考案させた。

 この碑は大正10年10月
「中津1品会」により建立、
碑文を揮毫したのは
頼潔(頼山陽三世の孫)
であり、碑文のあるこの
公民館は田中田信の
住居跡地でした。

●田中田信の碑/大分県中津市片端町南部公民館内


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