貝原益軒 一日に10里(40km)近くを、歩く! | ||
【黒田藩の史跡調査】 1694年5月6日 現在の行橋付近から出発、築城の城井宇都宮氏の城跡を視察し、 椎田まで40km程を歩いた。 翌7日、宿を出発し高瀬の辻を通り、羅漢寺を詣で、 中津城下の友人で医師の香月牛山(がつきぎゅうざん)宅に泊った。 その距離も40km程である。(高瀬の辻より) |
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【貝原益軒って?】 江戸前期の儒学者・教育者・本草学者。 名は篤信。損軒とも号。 筑前福岡藩士。松永尺五・木下順庵・山崎闇斎を師とし、 朱子学を奉じた。 【著】 「慎思録」 「大疑録」 「大和本草」 「益軒十訓」など。 |
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行基 東大寺大仏像建立の指導者 | ||
【日本仏教祖師の一人】 (生:670~没:749) 地方庶民の間に特異な勢力を持ち、技術知識を生かして 大衆を糾合し、土木工事を興していた。 |
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増田 宗太郎 (生:1849.2.23~没:1877.9) | ||
【増田宗太郎 人相書】 西南の役当時、大分県の出した人相書。 魁首 大分県豊前国中津町 士族 二十五、六歳 丈/五尺位 色/白き方 眼/鋭き方 鼻/小高し 眉/濃き方 口/並体 髭/多き方 音声/静かなる方 顔/少し長き方 頭/断髪但し左右を分つ 姿/やさしき方 痘痕なし 【雑学】 ●西郷に惚れた、宗太郎。 西南戦争のとき、中津隊を率いて西郷軍に加わった増田宗太郎は、敗北直前、隊を解散して官軍に降伏し、隊員たちを逃がす。しかし自分だけは西郷と行動を共にして死ぬと言った、そして隊員たちに、こう言っている。 「私は西郷さんに会ってしまった。君らはまだ会ったことがないから離れられるが、一度会ってしまったらあの人とは離れられない。不思議な人だ。私は西郷さんのところに行くほかはない。」 後に西郷軍に合流し、壮烈な戦死をとげた。 ●福沢諭吉 暗殺計画。 明治になって、宗太郎は西洋派で諭吉を暗殺しようと家の周りでねらっていましたが、諭吉は来客と朝まで酒を飲んでいた為、増田は機会を逃し諭吉は助かった逸話が残っています。参考 福翁自伝 しかし、宗太郎と諭吉は再従兄弟の間柄で、家も隣と言えるほど近所でした、 明治時代の物騒なこと・・・。 ![]() |
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