くまの日記 6月

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6月○×日
城跡シリーズその3 横須賀城跡
掛川の南西 大須賀町にあります。
横須賀城は 家康が高天神城奪還のために築いた城で、 高天神城からは、西に6Km位の所にあります。
横須賀城を本拠として 高天神城のまわりに六つの付け城(砦) を築き 包囲したわけです。
家康は 高天神奪還後は 高天神に代えて 横須賀城を 遠州の海側地域のおさえの城とした。(山側、東海道側は掛川城)  攻城の為の城をそのまま統治の城とした例も珍しいらしい。 明治維新で廃城になるまで続いた。
行って見ると 民家のそばに いきなり石垣があり ちょっと不思議な光景です。

 玉石の石垣が見事です。

ところで、 横須賀城主(第十代?)で 老中の井上主計頭は 浅野匠守よりづーと前(70年位前)、 殿中刃傷沙汰第一号の主人公(被害者)だったらしい。
相手は 目付 豊島刑部少輔で ことの起こりは 豊島さんが 井上さんの息子の嫁さんに  大阪町奉行の島田さんの娘を世話して 婚約あい整ったんですが、 そこに あの春日局から 別の縁談が持ち込まれた。
なにせお局様ということで ほとんど命令ですから、井上さんもOKしちゃって 婚約破棄。
ありそうな話です。
これに怒ったのが面目丸潰れの豊島さん 殿中で 「武士に二言はないぞ」 とさけんで 井上さんに脇差で切りかかり殺害、自分もその場で自害。止めに入った 某も巻き添えでで死亡。
豊島家は嫡子切腹 お家は断絶。井上家はお咎めなし。
島田さんも責任を感じて切腹。
豊島家の処分が 嫡子の切腹だけで済んだのは 武士たるもの 遺恨をそのままにしてはいけない という考えがあったからのようです。

6月××日
「片葉の葦」をもとめて 今年一番の暑さの中 浜松まで行ってきました。
浜松は頭陀寺町の白天神社境内に鎌研池と言うのがあります。
頭陀寺のあたりは 昔は 豪族松下某の領地で、 なんと あの秀吉が 日吉丸のころ この松下某に奉公していたらしい。 とにかく 日吉丸がこの辺りを走りまわっていたのは事実らしい。
鎌研池というのは、日吉丸が この池で鎌を研いだということで、 切れ味を試すために 辺りの葦の葉を切った。それも  葦の片側の葉だけを ネライすまして切った。 切りまくった。 そのため この辺りの葦は片葉になっちゃった という話です。

 池の水は枯れています。池が小さすぎる・・・。

 一応 片葉ですね。

この池も探すのにメッチャ苦労しました。
頭陀寺は狭い区域ですが 公園で子供を遊ばせていた 美人 ヤンママ?に聞いても首をかしげるだけでした。
神社といっても本当に小さな祠があるだけです。

6月△日
遠州七不思議シリーズいよいよ最後 「片葉の葦」
これは 探すのに骨がおれました。 片葉の葦も 三度栗と同様 植物の変異種で その名の通り 葉っぱが茎の片方にしかない葦です。 これも 全国何処でもあるらしい。
万葉集では「浜萩」というのが 片葉の葦のことらしい。
しかし 探すとなるとなかなかありません。
浜松のお寺の境内にあると聞いて去年二箇所も歩いてまわりましたが いずれも 片葉どころか 一本の葦も生えていませんでした。
掛川市内を流れる逆川の土手にも葦は群生してますが なかなか片葉はありません。
先日 隣町の菊川町の観光案内を見ていたら   応声教院というお寺にある とありましたので早速行ってきました。
確かに 葦が生えていましたが ほとんど普通の葦で 片葉といえそうなのは 数本あるだけでした。 全部片葉を期待していたので ちょとがっかり。
この程度なら 逆川の土手にもあったかも。

なにはともあれ片葉です。

 応声教院 山門。 重文です。

応声教院は 例の桜ヶ池の奥の院 と言われている由緒ある古いお寺です。桜が池の北西約12Kmのところにあり、 皇円阿闍梨 や法然上人ゆかりの寺です。
皇円阿闍梨が化身した「大蛇の鱗」というのが保管されているらしい。
ここの片葉の葦の伝説には あの熊谷蓮生坊も絡んでいますが 長くなるので 省略します。
このお寺には 三度栗もあるということでしたが、 看板だけで 木は枯れていました。
どうも 3Km位西の三沢というところに本物の三度栗があるらしいのを 観光用? に一本 寺に移植したらしい。
三沢にも一度行ってみよう。 家康の伝説とは別らしい。

 枯れ三度栗。看板も朽ち果てて・・・

片葉の葦の伝説では 2月に訪れた袋井の妙日寺の話 があります。
この地の 貫名重忠は 源平合戦で平家に味方したことで 頼朝によって 遠く安房に配流の身となったが、 重忠を慕って このあたりの葦の葉が みんな東に向かってなびいたという。
配流先で生まれた子が 後の日蓮ということです。
妙日寺の境内に 今も片葉の葦があると 言うことでしたが 2月だったせいか 見当たりませんでした。

もう一つ 片葉の葦の伝説のあるお寺が 浜松にあるらしいので 今度行ってきます。
  

6月×日
城跡めぐり第二弾。高天神城。
高天神城は 武田と徳川の攻防で有名です。掛川の南 大東町にあります。
  「高天神を制するものは遠州を制する。」といわれる遠州の軍事上の要所です。
元は今川の城だったのが 徳川の手に渡り、西を狙う武田の備えとした。 信玄も一度は攻めたが(1571年) 落とせず引き返したという難攻の城です。
その後、勝頼は 大軍で城を包囲し猛攻。 城を守る徳川方小笠原某は 浜松城の家康に再三の 援軍要請するが 家康は信長の援軍到着するまで 浜松を動かなかった。
やっと 信長の援軍が到着するが、時すでに遅し、小笠原某は家康を見限って武田に降伏、 城は武田の手に。城は武田流に整備された。(1574年)
家康が動かなかったのは 前々年に 信玄が遠州に進攻してきた時 信長からは動くな と言われていたにもかかわらず、信玄の老獪な挑発的軍事行動に 三方が原に誘い出されて(三方が原の合戦)、 大敗を喫し、信長に怒られたから。(とこのまえのNHKの「今日のその時」で 言ってました。)
しかし、有名な長篠の戦(1575年)で 勝頼が 信長 の鉄砲に敗れたあとは 家康の反撃が始まり 諏訪原城も落城 二俣城も徳川方に奪還され  武田の形勢不利。
家康は 最後まで残った高天神城奪還のため 小笠山砦 をはじめ六つの砦を築いて 高天神城を完全包囲 兵糧攻めにし ついに落城した。(1581年)
篭城武田軍の猛将岡部某は 勝頼に見捨てられた感じだが 最後まで戦い 討ち死にしたという。
ほとんど孤立状態の城を落とすのに なんと6年もかかったんですね。 いかに難攻な城だったかが判ります。
この後 翌年には武田家は滅亡することになります。

 高天神城。 名前がいいです。森林浴にいいです。

本丸跡
搦手門

どんなに 蟻の這い出る隙もない包囲網でも 落城の時に 城を脱出して 甲府まで戻った侍もいるようです。
武田軍の軍監横田甚五郎。甲府の勝頼に落城の模様を報告した。
甚五郎抜け道。二の丸の近くにある。

6月○日

城跡めぐり。
戦国時代には ここ遠州は 武田と徳川が奪いあったところで、 多くの城跡があります。
まず、諏訪原城跡。
諏訪原城跡は 大井川を越えて 金谷の石畳を登った 牧の原台地の北にあります。
駿河を制した武田信玄が 遠江攻略の拠点として この地に砦を築いたのが始まりらしい。(1569年)
その後 信玄の遺志を継いだ勝頼が 本格的な城として整備(1573年)、 遠州に大攻勢をかけることになる。 自然の地形を利用した大規模な山城で 堀の跡など当時のまま 残っていて 武田の築城術を示す貴重な史跡のようです。 今は雑木林に覆われて 素人には良く判りません。
大井川を背にし 遠州に向かって 扇形に堀をめぐらしてあります。
 大手門跡

 堀の跡。壁の如く切り立っている。


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