伝説紀行 為朝の巨石  玖珠町


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第244話 2006年02月12日版
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

玖珠の為朝

大分県玖珠町


2007.05.27

【参考資料:平家滅亡過程年表】

【保元の乱関連資料:年表・系図】

 童話の里公園から見上げる場所に、歴代森藩と玖珠の人々を護ってきた末広神社がある。境内には、「鎮西八郎射抜きの石」と伝えられる巨石(写真上)が置かれてあった。石の腹部には、鋭い鏃(やじり)を射ち込んだような傷が見える。
 鎮西八郎といえば、850年もむかしの人物である。と言うより、源頼朝・義経兄弟の叔父にあたる人物と説明したほうがわかりやすいかも知れない。その為朝が、都から遥か離れた豊後の山中で、何をしていたというのだろう。

為朝は源氏の御曹司

 第227話では、福岡県小石原村(現東峰村)に残る為朝伝説「塔の瀬の古塔」をお伝えした。
源為朝(みなもとのためとも)は、平安時代の保延5(1139)年に伊勢源氏(いせげんじ)の嫡流、源為義と摂津の遊女との間に生まれたと伝えられている。為朝は幼少の頃から、武士の作法などクソ食らえとばかりに暴れ周り、家中の嫌われ者だった。
 そんな息子を見かねた父は、13歳になったのを機に為朝を九州の豪族・阿蘇氏に預けた。他人の飯を食わせることで、一人前の武士に成長して欲しいと願う親心からだった。だが、彼の素行はますます激しさを増した。
 為朝は、自らを総追捕使と触れ回り、名前も鎮西八郎と名乗って阿蘇家を飛び出した。「源為朝こそ、九州中の武士を従える勇者なり」と天下に号令したようなものであった。彼は、たちまち肥後(熊本)や筑紫(福岡)の豪族らを叩きのめしていった。(以上、「塔の瀬の古塔」より)

玖珠では里人に慕われた

 為朝は何人かの供を従えて、そそり立つ大岩扇山の頂に立った。手には自慢の弓を携えている。大岩扇山は、角牟礼城(つのむれじょう)から北東に直線距離で1.5キロのところに聳える火山特有の荒々しい山である。


写真:角牟礼城址

 彼は、13歳で父のもとを離れ、九州各地を転戦し、20歳の頃に腰を据えたのが豊後玖珠の郡(こうり)、綾垣の里平の郷だったといわれる。
 小石原での為朝が、天下の暴れん坊で名を売っていたのに反して、豊後では、結構村人に慕われる存在だったようだ。
 為朝は、里にささやかな館を築くと、村人といっしょに開墾したり、守り神として永日山頂に妙見八幡を祭ったりしている。また、綾垣の里を見下ろす山頂に山城(角牟礼城)も築いた。外敵から我が身と里人を護るためである。
 大岩扇山の頂で、狩りをしたのもそんな日のことであった。

1500b先の獲物を狙う

「あれは何じゃ?」
 為朝が、手綱を引いている家来の甚助に訊いた。
「猪でございましょう」
 言われてよく見ると、彼方の物体はのっそりと動いている。


森城付近から望む大岩扇山

「それなら、予が射止めて見せようぞ」
 為朝が弓の弦に矢を番(つが)えて、力の限り振り絞った。目指す物体までの距離は凡そ830間(1500b)。講談か伝説ででもなければ、誰も信用してくれない距離である。
「お待ちください、旦那さま」
 甚助が必死で為朝の袖口を掴んだ。
「何故じゃ?」
「はい、あれなる生き物は、三島宮をお守りする神獣でございます。滅多なことをなさいませぬよう」哀願した。

射止めたものは・・・

 玖珠に来て鳴りを潜めていた為朝の本性が、ここに来て姿を現した。
「神がかりの猪などこの世にあってたまるものか」
 為朝の腕を離れた矢は、美しい彎曲を描きながらものすごい速さで三島宮に向かっていった。しばらく経って、彼方の森から音響とともに白煙が上がった。大岩扇山を下りた為朝一行が射止めた獲物に向かう途中、樹齢何百年もの大木が裂け、生臭さが辺り一面を覆っていた。本殿脇にたどり着いた為朝が、思わず息を呑んだ。
「予が射止めたのは猪ではなかったのか!」
「旦那さま、これなる岩が神を護ったのでざいます」
 為朝が放った矢は、人の背の高さもあろうかという大きな岩に突き刺さっていたのだった。
「これが、旦那さまに悪いことが起こる前兆でなければよいが・・・」
 寒気を覚えると言う為朝の後を走りながら、甚助は神に祈った。

 甚助の予感は、やがて的中する。父為義から、都の一大事につき帰還するようにとの知らせが届いた。都に戻った為朝は、父為義とともに崇徳上皇の軍に組み込まれ、源義朝(頼朝の父)や平清盛等を擁する後白河天皇軍と都の勢力を二分して激しく切り結ぶことになったのである。世に言う「保元の乱」だ。
 戦いは後白河勢が勝利し、為朝にとって唯一の心の拠り所であった父の首が刎ねられた。そして為朝は、伊豆大島に流され、その後、39歳の若さでこの世を去ることになった。(完)

 源為朝が一時滞在したという玖珠町の綾垣の里は、一面のたばこ畑の中に佇む静かな山里であった。為朝を伝える何かを訊こうと思うが、ご多分に漏れず、戸外に人がいない。為朝が築いたとも伝えられる角牟礼山の城址に登った。100bを超える石垣の真上に、本丸跡(頂上)があった。
 先日の雪が解けきれない山道は、滑って恐かった。
「もうすぐですよ」と声をかけてくれたのは、地元で郷土史を研究しているというご年配。「わずか1万4000石の小大名ですけんね、久留島の殿さんは。けっきょくこの山城には住まないままで明治維新を迎えてしまいなさった」。ご年配は、源為朝のことには興味を示さず、近世・つまり江戸時代の久留島藩と眼下に見える森城跡について、詳しく話してくれた。お陰で、思わぬ収獲を得た気持ち。頂上の本丸跡から綾垣の里を眺望した。藁でも焼いているのか、白い煙がまっすぐ立ち昇っていて、周囲の山々と背比べしているようにも思えたもんだ。

保元の乱:1156(保元01)年、平安末期の内乱。崇徳上皇と後白河天皇兄弟、藤原忠道と頼長兄弟の対立から勃発。上皇と頼長、それに源為義・為朝父子は、平忠正ら武士の力によって天皇方を討とうとする。だが、天皇と藤原忠道は、為朝と腹違いの兄弟である源義朝(頼朝の父)と忠正の甥である平清盛らの兵をもって、上皇方に先制の夜襲かけて勝利。
上皇は讃岐の国に配流、頼長は戦死、為義と忠正は斬罪。武士の政治的進出過程における重要な事件であった。

源為朝:(1139〜77)源為義の子で、平安末期の武将。豪勇で九州にあって勢力を奮ったので、鎮西八郎と呼ばれた。
保元の乱で父為義とともに崇徳天皇方に加わったが敗れて、伊豆の大島に流され、その地で死んだとされている。

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