保元・平治の乱関連年表

西暦 和暦 月日 事    項
1086 応徳3 白河上皇、院政を始める。初めて北面の武士を置く。
1101 康和3 対馬守源義親が鎮西で暴行。義親、讃岐に配流。
1107 嘉承1 義親、出雲に逃れ反乱。平正盛、義親を討つ。
上皇、源平両氏に延暦寺・園城寺僧徒の入京を防がせる。
1113 永久1 永久の強訴事件に際して白河院の命を受けて出動して衆徒を防いだ。
1129 大治4 平忠盛、院の昇殿を許される。山陽・南海の海賊追捕。
1139 保延5 源為朝、生誕。
1146 久安2 平清盛、正四位に叙し、安芸守となる。
1150 久安6 関白藤原忠通の別邸を襲って氏長者の印たる朱器台盤を奪う。
1154 久寿1 源為義、子為朝の九州での濫行により解官される。家督を嫡子義朝に譲る。為義と義朝は不仲だったといわれる。
1156 保元1 7.10 保元の乱。源為義は、子の頼賢や為朝ら一族を率いて崇徳上皇方につく。
後白河天皇方は源義朝・平清盛らであり、上皇方破れ、崇徳上皇は讃岐に配流される。
敗戦後為義は、子の義朝に降伏する。だが、為朝は打ち首。
崇徳・後白河両軍、賀茂川を挟んで対峙。
7.11 未明、後白河天皇方は、清盛300騎・義朝200余騎・義康100余騎に分れて崇徳側の白河北殿を奇襲。
義朝、火を放ち上皇方が敗走。保元の乱終結。
為義・忠正ら武将、打ち首。崇徳上皇、讃岐に配流。為朝は弓が引けぬよて伊豆大島に流罪。
1158 保元3 後白河上皇の院政始まる。
1159 平治1 平治の乱。藤原信西、自殺。信頼、斬首。
1160 永暦1 源義朝、尾張で没。子頼朝、伊豆に流される。
1170 嘉応2 源為朝、没。

保元の乱・平治の乱関連説明

保元の乱

保元元(1156)年 崇徳上皇と後白河天皇の兄弟、関白藤原忠通、弟頼長の対立がからみ、上皇が源為義らの武力を頼んで天皇方に挑戦、敗北した。院政の混乱と武士の進出を示す事件。

平治の乱

平治元(1159)年 保元の乱後、源義朝は平清盛と勢力を争い、藤原と信頼結ぶ。清盛一行が熊野参詣の留守中京都に挙兵。三条殿を襲って後白河上皇を内裏に移した。しかし、清盛の反撃を受けて、上皇と二条天皇は脱出し、義朝・信頼は敗死。この後、政権は平氏に移る。

源為朝(鎮西八郎)

1139〜70年 河内源氏の武将、源為義の八男として生まれる。母は摂津国の遊女だった。
生まれつき素行が粗野で、13歳の時勘当されて九州に追放された。
九州では豊後の阿蘇氏の婿となり、自ら「鎮西総追捕使(鎮西八郎)と名乗って暴れまわった。朝廷は為朝の逮捕命令を出すが、これに従わなかったために、父為義が解官される。
これを聞いた為朝は、一転京都に戻る。
保元の乱では、父とともに崇徳上皇方に参加。後白河上皇かたに夜襲を食らい、為朝が自慢の弓で平清盛や実兄の義朝(頼朝の父)を撃退する。結局崇徳上皇方が破れ、為朝は伊豆大島に流罪。
流された伊豆でも、国司に反抗して追討され、八丈島で切腹自害した。

源為義

1096〜1156 源義親の子・源為朝の父。平安時代末期の河内源氏の武将。
為義の子供には、上から義朝・義賢・義憲・頼仲・為宗・為成・為朝・為仲・行家がいる。
養父(叔父)義忠の暗殺事件のあと、河内源氏の家督を継いだ。叔父暗殺の嫌疑を受けた大叔父義綱を討ち、その功で「左衛門尉」となる。のち「検非違使」となり、六条判官と呼ばれる。
台頭する平家を代表する平忠盛(清盛の父)と凋落する源氏を代表する源為義。この二人は同年の生まれである。歴史上での為義は、没落していく源氏の棟梁である。そして、彼の孫、源頼朝は源氏復興の棟梁として対照的に存在する。

源義朝

1123〜60 源為義の子。保元の乱に後白河上皇方に属し、夜襲で勝利をおさめる。後に平清盛と争い平治の乱を起こす。敗れて東国に逃れる途中、終わりで暗殺される。源頼朝の父。

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