伝説紀行 塔の瀬の古塔  東峰村(小石原) 古賀勝作


【禁無断転載】

作:古賀 勝

第227話 2005年10月02日版
再編:2007.05.27 2017.10.29 2018.02.18
プリントしてお読みください。読みやすく保存にも便利です

 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢や居所なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしば。だから、この仕事をやめられない。

源為朝の母

塔の瀬の古塔

福岡県東峰村(小石原)

【参考資料:平家滅亡過程年表】

【保元の乱関連資料:年表・系図】

 村の中心部から小石原川沿いの国道を西へ、3キロのところに塔の瀬という集落が見えてくる。小石原中心部の三叉路を朝倉市に向かう山道に入り、50メートル進んだ川岸に、苔むした小塔を見つけた。
 村の物知り博士に尋ねたら、「鎮西八郎の母上の墓」だと。恥ずかしながらこのトシになるまで、鎮西八郎(即ち源為朝)がどんなおえらいお方なのかをよく知らなかった。勉強していくうちに、九州にはやたらと「為朝伝説(ためともでんせつ)」の多いことに気がつく。平家落人伝説と同様に、小石原川岸の為朝もまた、九州人による華やかな都人(みやこびと)への憧れなのか。はたまた、判官贔屓(はんがんびいき)か。いやいや、やっぱり為朝は実際に小石原までやってきていたのではないのか。

山また山を雅の女が

 行けども行けども山また山の中を、初老の女と下男らしき二人連れが登ってきた。
「もう少しでございますで・・・」と、男が主人を励ました。
「あの子も、無事でおれば16歳か。早く会いたいものよ」
 女の目的は、別れた息子と再会することにあるらしい。


写真は、古塔のそばを流れる源流

このような山中にはおおよそ不似合いの雅(みやび)な旅姿であった。陽も西の山に隠れて、暗くなった川岸の向こうに松明の燃え盛る様子が伺えた。男が主人を背負って、一気に浅瀬を渡った。

頼朝の叔父の出生は

「おお、ご立派になって」
 5年ぶりの再会に、母は成長した我が子にすがって泣くばかり。源為朝(みなもとのためとも)は、平安時代の保延5(1139)年に伊勢源氏(いせげんじ)の嫡流、源為義と摂津の遊女との間に生まれた子である。為朝誕生から遡ること16年前には、為義の嫡子として義朝(頼朝の父)が産声を上げた。為朝は幼少の頃から親に逆らってばかりだった。武士の作法などクソ食らえとばかりに暴れ周り、家中の嫌われ者で通した。
 そんな息子を見かねた父は、彼が13歳になったのを機に九州の豪族・阿蘇氏に預けた。他人の飯を食わせることで、一人前の武士に成長して欲しいと願う親心からであった。だが、父の期待とは裏腹に、為朝の素行はますます激しさを増した。

勘当された少年が…

 為朝は、自らを総追捕使と触れ回り、名前も鎮西八郎と名乗って阿蘇家を飛び出した。
鎮西とは、九州を治めるという意味。「源為朝こそ、すべての九州豪族を従える勇者なり」と天下に号令したようなものである。彼は、たちまち肥後(熊本)や筑紫(福岡)の豪族らを叩きのめしていった。


古塔周辺の山林

 そんな為朝の伸張を恐れる朝廷は、為朝の捕捉と都への護送を命じた。だが、為朝は朝廷の命令には従わなかった。彼は、得意の山岳歩行を生かして追っ手を逃れ、次なる強者への挑戦を重ねていくのである。
 肥後から筑後へ、小石原川を伝って塔の瀬に着いて陣を張ったすぐあとに、思いもかけない女が野営を訪れてきたのだった。一時も忘れたことのない生みの母親である。

父のため都に帰れ

「父がわしを九州にやったのは、わしが嫌いで勘当したのではなかったのか。それならそうと言ってくれればよいものを」
 為朝は、初めて父の本心を知って、これまでの自らの言動を反省した。だが、まだ腑に落ちないことがある。
「それほど体の強くない母上が、なぜ九州くんだりまでやって来たのじゃ? そのわけを話してくだされ」
「実は・・・」 そこでまた泣き崩れる母の言葉を、下男の良次が引き取った。
「旦那さまは、検非違使の官位をも剥奪されました。それも・・・」
「わしのことが原因だというのか?」
「さようでございます」
 3人の間で沈黙が続いた。
「それで、母上はわしにどうしろと言われるので?」

保元の乱前夜の小石原で

 都の政治情勢は、崇徳上皇(すとくじょうこう)と後白河天皇という頂上での闘いの様相を呈していると母は告げた。
「それで・・・」
「そうでなくても平氏に押されて衰退の一途をたどる源氏を、御祖父上の義家さまの時のように強くしてもらいたいのじゃ、そなたに。そのためにも、嫡男の兄上(義朝)とは反対側の上皇方におられる父のもとに馳せ参じて欲しい。そして、そなたに源氏の血を継いで欲しい」
 母が遠路九州にやって来た理由(わけ)をやっと飲み込めた。だが、複雑な気持ちは未だ治まらない。
「わしが父を助けるということは、即ち兄上と切り結べということでございますか?」
 また、母子の間の沈黙が始まった。

目的果たして母はあの世へ

 翌朝、為朝が母の寝所に上がると、良次が目を腫らして待っていた。
「先ほど…」、母は亡くなったと言う。慣れぬ長旅と愛しい我が子にめぐり会えた安堵からか、母は微笑すら浮かべてあの世へ旅たったのだった。
「お坊ちゃまなら必ず源氏の再興を成し遂げられます。一刻も早く都へお戻りなさいませ」
 すがるように母の遺志を伝える下男の説得に、為朝はあとの弔いを頼んで、その日のうちに小石原の川原をあとにした。
 残った良次は、小石原川の岸に母の亡骸を埋めると、川原の石を積み上げて墓とした。
 年は進んで保元元(1156)年。崇徳上皇方と後白河天皇方による内戦が勃発した。世に言う「保元の乱(ほうげんのらん)」である。上皇が頼りにする武士団は源為義と弓の名手で鳴らした八男の為朝ら。一方天皇方には、為朝の実兄・義朝と伊勢平氏の嫡流平清盛(たいらのきよもり)が…。その後の源氏を衰退に導く「平治の乱」の序章であった。小石原の川辺の墓に額づく良次の耳に、そのような都での騒乱の噂が届いたものやら・・・。
 闘いは、奇襲戦法を採った後白河方が圧勝し、崇徳上皇は讃岐に配流。平為義らは六条川原で首を刎ねられた。そして為朝は、兄義朝の嘆願もあって命を救われ、伊豆大島に流される。
 その後の為朝、流された伊豆大島を脱出して琉球に落ち延びたという。本格的な「為朝伝説」がここから始まる。歴史的には、源為朝の没年は嘉応2(1170)年となっているから、39歳の若さでこの世を去ったということだ。(完)

 小石原と源為朝の関係を知るべく村中を歩きまわった。小石原川の周辺でキョロキョロして、ようやく為朝の母の墓なる古塔を見つけた。おそらく、尊敬する為朝の母と言うことで、後世になって地元の人が建てたものだろう。町史にも、塔の瀬が「小石原発祥の地」とあるくらいだから、看板くらい立てていてくれたらいいのに。
 その場所、福岡市民の水瓶である江川ダムの上流にあたる。体を一回転させて、すべて杉か雑木の切り立った山ばかりであった。為朝さんがどうしてこんな淋しい川原に陣を構えたのか、さすがの物知り博士にもわからないらしい。
写真:塔の瀬の民家
 川沿いの道も枝分かれした道は、その昔は英彦山参りのルートだった。塔の瀬の古塔脇の小川からかすかに聞こえるせせらぎの音が、旅人の疲れた体をどれだけ癒してくれたことか。
 

保元の乱:1156(保元01)年、平安末期の内乱。崇徳上皇と後白河天皇兄弟、藤原忠道と頼長兄弟の対立から勃発。上皇と頼長、それに源為義・為朝父子は、平忠正ら武士の力によって天皇方を討とうとする。だが、天皇と藤原忠道は、為朝と腹違いの兄弟である源義朝(頼朝の父)と忠正の甥である平清盛らの兵をもって、上皇方に先制の夜襲かけて勝利。
上皇は讃岐の国に配流、頼長は戦死、為義と忠正は斬罪。武士の政治的進出過程における重要な事件であった。

源為朝:(1139〜77)源為義の子で、平安末期の武将。豪勇で九州にあって勢力を奮ったので、鎮西八郎と呼ばれた。
保元の乱で父為義とともに崇徳天皇方に加わったが敗れて、伊豆の大島に流され、その地で死んだとされている。

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