マリアナ諸島慰霊友好親善訪問  
   
 


         

空港を出るとまず大砲と火炎樹のお出迎え
 

同じ公園内に幾つかの日本人慰霊碑が建てられていた

そのなかの一つに父が属していたと思われる

「松本歩兵第50聯隊戦没者慰霊之碑」
がありました。

戦争とは本当に惨いものです、
国の命令で出征、そして・・運尽きて・戦死・・・運尽きて・・・・・・・・

なのに実態は何も知らされずに
ただ、そうであっただろう・・・・・・・との戦死の公報
遺体は確認したのか、遺品は何も無かったのか・・・・
それが戦争、敗者の悲しい実態です。


サンホセ村から北に延びる1本の道、
テニアン島のど真ん中を11キロにわたっての直線道路です。
名前を
「ブロードウェイ」といいます

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今日はいよいよ父の眠るテニアン島へ渡ります。
計画当初ではフェリーで1時間かけて行くはずでしたが
7人乗りのセスナ機に乗る事になりました。
サイパンとテニアンとは5KM隔たっています、たったの5キロですが島間の海流が早くて
フェリーは海路を遠回りに行くので1時間以上かかるのだそうです。
空を飛べば、あっという間の10分間で着いてしまいます・・・・・・・が、しかし・・・・・セスナ機????
生まれて始めての体験・・・・・・チョッと心配・・・・・・・

ブロードウェイを真直ぐに9キロ、10分くらいで着いた所が
日の出神社です。

戦前はサトウキビの生産が盛んで、
日本人による精糖工場「「南洋興発株式会社」
があり、日本人がたくさん働いていました。
日本の宗教や季節のまつり事などが盛んだったそうです

(財)日本遺族会企画の慰霊訪問
サイパン・テニアンへの旅

平成18年7月22日〜7月29日

第四日目

7月25日(火)

テニアン島へ

テニアン島はサイパン島の南5キロメートルにあり、南北20km、東西5km、
面積120平方kmのサンゴ礁の隆起により形成された石灰岩の島です。

いよいよ島内巡拝が始まります。

タガ遺跡     

空港からバスで程なくサンホセ村の近くにある公園の「タガ遺跡」に着く
古代チャモロ・タガ族が築いた石柱遺跡です。
3,500年前に建てられた物と思われるが
何の為にと言う事は未だ解明出来ないようです。
12基あったようですが、台風や地震で倒れていて
現在きちんと建っているのは
1基のみです。上に乗っている石はお椀ののような形ですよ。

サイパン空港のセスナ機搭乗口を出ると、スマートなセスナ機が
並んでいました。   あれに乗れる・・・・しかし小さい・・・・・
嬉しさ?と、不安・・・・・
まあ、いい経験と腹を据える。

添乗員の高橋さんが流暢な英語でパイロットと何か話している
乗客我々6人は、 フフフ・・・・体重調整でこうなりました
(残りの2人は痩せ型)???



名鉄フレミングホテルで少し早い昼食(割り子弁当)を食べて
テニアン島内慰霊巡拝に出発です。
1日目・2日目へ   3日目へ  5日目へ  6日目へ  7日目へ    
                                            

日の出神社

潮吹き海岸


さらに北へ進み、東ハゴイ海岸の岩場で波しぶきがドドーン!!ドドーン!
と数メートル高く上がっている。近くまで行くとその飛沫がかかって
塩辛い事、塩辛い事!
激しい波が打ち寄せて岸壁の空洞に入り込んだ波のぶつかり合いで
起こる現象との事でした。





近くに見える島はサイパン島です。


ここの島はあの忌まわしい原子爆弾を搭載してB29が飛び立った所です。
テニアン島を確保した米軍は直ちに滑走路を作りB29基地とした

B29エノラゲイがリトルボーイを搭載
1945年8月5日8時15分広島に原爆投下

8月9日ボックスカーがファットマンを搭載、長崎に投下

リトルボーイ(左)よりファットマン(右)は1.5倍大きかった
しかし地形の関係で広島は長崎より被害が大きかった。

写真も幾枚か飾られていた
驚いたことに、作業員たちはこの暑さの為か
上半身裸で作業をしている
どんな恐ろしい爆弾であるかなんて、知らされいないからだ

離陸まもなくテニアン島が見えてきました。

離陸して着陸まで   5〜6分の空の旅でした (((o(^。^")o)))


       テニアン空港です

食べ残しで失礼致しましたm(._.*)mペコッ
つい先に食べ始めてしまって、いつもしまった!!
と思った頃には このような状態です(^。^;)


 さて、   これから私達姉妹の父への慰霊祭・追悼の言葉をさせていただく地点

          西ハゴイ地区 
 
ここはジャングルの中です、東ハゴイから西ハゴイそして米軍上陸チュルビーチへと
出る一本の細い道路上

「昭和十九年九月三十日」この地で亡くなったお父さんの記憶は、昭和十×年生まれの私には何もありません。

お父さんは今のこの平和な時代から考えると、何故そんなに惨い死に方をしなければならなかったのだろうと、残念でなりません。

昔、母から聞いた “自転車の前かごにいつも乗せてもらってとても嬉しそうだったよ”と言うのがたった一つの父とのつながりです。

お父さん! 「テニアン島」はきっと未開のジャングルだったでしょうね。暑かったでしょうね。ひどい生活だったのでしょうね。

この地で最後に思った事は何ですか? きっと日本に残した母の事、そして私達子供の事だったのではないでしょうか。

尊いお父さんの犠牲のお陰で今年満九十才になる母と四人の姉妹は皆元気で曾孫や孫達に囲まれて幸せに暮らしています、どうぞ

ご御安心下さい。

母が八十八才の折りは、長女の八重子姉さん御夫妻の音頭で全員そろっての米寿のお祝いの宴を開きました。 

その時、今の幸せで居られる事の感謝の気持は勿論の事ですが、

誰も口には出さないものの心の中では 父に感謝と共に戦死という惨い現実の悔しさで一杯でした。

現在では、あなたの娘四人の夫婦で七人、孫十一人の夫婦で二十二人、曾孫二十人で、母を頂点に五十人の大家族になっています。

“お父さん本当にありがとう・・・”

 又来ます・・・きっと・・・三女 ・・・


西ハゴイ地区、ここが ”父の戦死したらしい”場所です。
姉と私はこの地にて追悼の慰霊をしていただきました。 
 
気丈にしていたつもりでしたがいざ父への追悼の言葉を述べようと
祭壇の前に立ったとき
 心も身体も硬直状態・・・・・始めの一声が出ません・・・・・・・・
気を取り直し・・・・・・・・気を取り直し・・・・・・
文は読んではいるのですが・・・・・・・・果たして声は出ていたのか・・・・・・・・・
兎に角”お父さん”母子共この62年間無事に過ごす事が出来ました
・・・・・どうぞ御安心ください・・・・・・・・・この事を伝えたかった 

          
”ありがとう”  と   ・・・・・・・・

全員で黙祷し、般若心経を唱え
御一緒した一人の方のハーモニカの美しい音色と共に  
”ふるさと” を  
 この地に眠る国籍を越えた戦没者にとどけよ、捧げよと涙の合唱いたしました。   
涙・涙の巡拝でした。   !!ありがとう!!

深いジャングルの中に建てられた日本軍の
「第一航空艦隊司令部跡」


一番奥はその中でも特に頑強に鉄筋と分厚いコンクリートで固められた部屋は勿論参謀本部と見られる。

2階建てになっていますが今では鉄筋も破損してコンクリートが
剥がれ落ちてしまったりして危険なため
近寄り禁止となっています。
今回はバスの中からの見学でした


1944.7.24日、夜明けからテニアン港方面へ見せかけの攻撃
すでにその頃北部のウナイチュルに艦隊集結、米軍上陸作戦が開始されていた
日本軍は全く予期していなかった、突然の視界一面に広がるアメリカ軍に
抗戦するすべも無かった。
この日からたったの7日間でテニアン陥落
その後のテニアンの悲劇は玉砕に至るまで言葉を絶する修羅場でした。

チュル・ビーチ

この様に美しい海岸で61年前に起きた事、想像するのにも難しい、
父もきっとこの海岸から
美しい海と、空を見ていたに違いありません。

ガイドのMIHOさんが砂浜に手の平を当てて ”ほら綺麗でしょ、
これが 
”星の砂よ” と見せてくれました。
私もそっと手の平をいっぱい広げて当ててみる、
綺麗な星型をした細かい砂が手の平いっぱい!!

この海岸の砂を一握り頂いて帰ろう
日本へ父の代わりに持って帰ろう
そして、母にも分けてあげよう・・・・・・・・・・・・

爪楊枝の先です。    拡大鏡を当てて撮影しました。

ラソー神社(羅宗神社)と書かれた碑         お一人の方の慰霊祭

原爆搭載地点

1999年に私が見たときは、↓の写真この地点はすっかり埋め込まれていて
ただ「原爆搭載の地点」という標識が立っていただけでしたが
今回この様な立派な施設になっていたので驚きました。


1999年に来た時には(下の写真)中に入り階段で2階へ行くことが出来ましたが
たった7年の間にここまで破壊が進むとは、これから先はここの存在さえ忘れられて行くのでしょう。

ラソー神社から坂道を登り高台に出る、そこには砲台跡があった、
崖の下には大砲の様なものが転がっていた。

そしてそこは美しい景色が一望出来る・・・・・・
サイパン島も見えました。


今日は一日中良い天気でした、気温も高かったと思う、

今回の目的であります父への追悼も終わって、姉と私はチョッとナイーブになっていました。

ホテルは1998年に建てられた「テニアン ダイナスティーホテル&カジノ」といって
素晴らしいホテルです前回来た時もこのホテルでした。

室内と部屋から見たホテルの左半分の外観です。

夕食は「嵯峨野」での日本料理でした。  日本にいるかと勘違いしそうです
そのくらい日本びいきのテニアンです。

お料理を見てください。 中央の品がメインです、左は肉料理、右はエビなどの天麩羅

姉がお肉を全く食べれない体質なので、今回の旅行を決める時に随分悩んでいました

お茶漬け・ふりかけ・うめぼし・海苔、等々持参でやっとの事で決心したようです
当然、旅行中に出てくるお料理は殆どだめのようです

朝はバイキングでおかゆ、ごはん、味噌汁などがあったので何とか食べていました。

そんな姉を見かねて
添乗員さんが姉の為に
別メニューを用意してくれました。
本当に御迷惑をお掛け致しました。

行き届いた団長様や添乗員さんのお心遣いに、今回の旅行に一緒に行こうよと
半無理やり誘った私も感謝・感謝でした。

夕食後ホテルの庭を通ってタガビーチへ行く
ご一緒した中のお一人が、戦地より見た南十字星が綺麗だったとのお父様のお便り
を伝に、今回の旅行の一つに是非父の見たテニアンからの南十字星を見たい!
との思いを遂げるために
全員で一緒に見ようと出掛けました。

あいにく少し曇っていて、星は見えていても南十字星を見る事は出来ませんでした。

ホテルの隣にあるカジノのネオンです。

空の旅−1 
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空の旅ー2