明日の勝負に勝てばいい。
いや、必ず勝って、ボブの妻の出産費用を返さなければならない。
「身体検査」で26万円を取り上げられた時、「こんな、はした金は要らない」と返されたのが610円。いくらかでも取り返さないと、俺も残りの日々、610円では食事さえほとんどできない。自由滞在のパック旅行には食事はついていなかったのだ。だいたい、関空から難波までの電車賃は800円だ。これでは、ボルネオでオランウータンを抱っこするなど、とてもかなわぬ夢ではないか。
「明日の4時に迎えに行くから、ホテルで待っていろ。完璧に打合せをして、Mr.マリックから金を取り返すんだ」
ボブが俺に命じる。そして、インドネシアでは賭け事は厳罰が科せられる事、バリ島の人間は「おしゃべり」だから、今日の事は一切誰にもしゃべらない事、でないと、逮捕されてしまうぞ、という事を、ボブは俺に強調した。そして、ホテルの名前とルームナンバーを確認され、予定が変わるかもしれないから、明日はホテルでじっとしておくように、といわれた。
ボブが俺に100ドル紙幣を1枚貸してくれた。それもまた手口なのだろうが、俺としては610円でこれからどうしよう!と思っていただけに、ありがたく借りる事にした。といっても、使うわけにはいかないんだけどね。
ボブの妻が入院している病院に、妹のサウィーがこれから行くので、ホテルの近くまで送ってやると車に乗せられた。やはりサウィーは、あれこれと俺に話しかけ続ける。その時、俺は、気を紛らわせてくれるサウィーは優しい人だなぁと思っていたのだが、これまたこの手の詐欺の手口らしく、車外の景色の記憶がほとんど残らなかったのだ。
クタビーチ沿いのホテルマハラニの脇道を入ると大通りに出るが、その通りに出たあたりにある大きな三叉路で車から降ろされた。バリ島の交通事情はきわめて悪かった。信号など誰も守らないし、平気で反対車線を走る車も多く、時には車線が左右逆転する事もあるほどだ。だから俺は、慌てて歩道へ走った。実は、車を降りる間際に、やっと「騙されたかもしれない」と思い始めていたので、車のナンバーだけは確認しようと思っていたのだが、そんな余裕は無かった。かろうじて車の特徴を目に焼き付けただけだった。
病院に行くというサウィーの乗った車を見送り、脇道を抜けてとぼとぼと歩いてホテルに戻る。一人になってみて、やっと「これは騙されたに違いない」との意が強まってきた。
正直言って、「明日の勝負に必ず勝ってやる!」という気持ちもむくむく湧いてくるのだが、「俺はまんまと騙されたのだ」という気持ちがだんだんとふくらんできて、心がなかなか整理できず、ホテルのロビーで、一人ソファーに座り込んでいた。その時、
たまたま、外出しようと通りかかった、例の若い日本人女性二人が声をかけてきた。
「kuro○○さん、どうしたんですか?何かあったみたいですね」
「いや、何もないよ。大丈夫」
と答えるしかなかった。俺自身、まだ整理しきれていなかったし、だいたいこの件を口外するわけにはいかなかったのだから。
でも、この時、この二人に偶然目撃された事が、後に俺を救う事になったのだから、俺は幸せ者なのだろう。