十勝日誌 2002夏 3
▼デメーテル その1 その2 ▼小林満枝 日本画の世界 ▼第2回しかおいウィンドウ・アート展 ▼とかち環境アート ▼池田緑展 ▼とかち広域美術展 |
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小林満枝 日本画の世界 |
7月30日−8月18日 帯広百年記念館(緑ヶ丘2) |
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ことし1月に亡くなった日本画家の回顧展。 おだやかな視線で花や風景を見つめた37点が展示されていた。 といっても、単なるボタニカルアートにとどまらず、植物を再構成し、画面をつくりあげている。 たとえば、「かたかごの里」。朱の地に、紫色をおびた花を横一列にならべている。 「冥暗」は、朱色のミズバショウが、春のおとずれの鮮烈さを表現しているといえようか。 あるいは「春立ちぬ」。イタドリらしき絡みあう草花を描くことで、硬そうな生命を、いとおしそうに表現している。 風景では、「峠近し」の疎林の様子がいかにも十勝らしい。たしかに、日勝や狩勝の峠は、きびしい自然環境を反映して、木がまばらなのだ。 会場でいただいたチラシによると、1919年利尻島生まれ。 庁立岩見沢高女を卒業後、戦前から戦後にかけて道内の日本画壇を代表する存在だった本間莞彩に日本画をならう。 上京、結婚するものの、大空襲に遭って帯広に疎開。54年には「萌木会」を設立。 十勝で初の道展会員でもあった(68年)。 出品作は、つぎのとおり。 1969年:「木立」(F6) 70年:「冬閑」(P10)「下萌えの頃」(F50)「春きざす」(P25) 71年:「雪原」(P40)「根雪の終り」(F30) 72年:「峠近し」(F30)「秋気」(M10)「海霧来たる」(同) 73年:「雪原」(M10) 74年:「早春の雨山」(F50) 75年:「浜に咲く」(F100) 76年:「夏の花」(F25) 77年:「木下闇」(F20) 80年:「姥百合」(F30) 85年:「そよ風」(F25)「額紫陽花」(F15) 86年:「浄華」(F100) 87年:「春立ちぬ」(F50)「春立ちぬ」(M80) 88年:「あかとき」(F50) 89年:「冬麗」(F50) 90年:「かたかごの花」(M50)「かたかごの里」(F100) 92年:「春の園(アロエ)」(P30)「狭庭の幸」(F80)「ぼたん」(F10) 93年:「春蘭」(F6)「堅香子の花」(P25)「冥暗」(F50) 94年:「黒百合」(F4) 95年:「待春」(F50) 96年:「堅香子の花」(P30)「鉄線花」(F40) 98年:「春蘭」(F25)「叢(くさむら)」(F40) 89年以降:「西洋鬼灯」(P8) |
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第2回しかおいウィンドウ・アート展 | 7月20日−9月1日 鹿追町新町1〜3丁目アートロード商店街 |
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デメーテルが国内外の現代美術ですでに実績ある作家をあつめ、その関連行事や協賛企画がおもに札幌・十勝の若手作家の作品からなっているこの夏の十勝で、ほとんど道内のベテラン・中堅を中心に(1人だけ本州の画家=綿引展子さん=が出品)、絵画やガラス工芸などで構成した、ある意味では異例ともいえる展覧会。 しかし、その“異例さ”が功を奏したようで、ガラスの反射で見づらいとか、小品ばかりというハンディキャップを乗り越え、質の高い作品が集まった。 ま、当然の結果かもしれないが、「現代美術」のくだらない作品と、「絵画」「工芸」「彫刻」といった旧来の分野ではあるが良質の作品とをくらべたら、後者のほうが見ごたえがあるに決まっているのである。 もうひとつ、興味深かったのは、すべてではないが、それぞれの作品の下に、自筆とおもわれるみじかい解説がついていたこと。 いちばん人を食った解説は、バーナーで金属板にこげ跡をつけた「STL−T」「STL−U」を出品していた、版画界の奇才、一原有徳さん(小樽)。 この技法は誰がしても同じになるのです。みなさん、してみませんか。ぎゃふん、という感じでしょ? でも、これって、かなりの程度まで現代美術とやらの本質を言い当てているんじゃないかという気も、同時にするのです。 あるいは、謎めいて、半ばこわれた人物像を特徴とする阿部国利さん(札幌。図像はこちらのサイトでどうぞ)。 今回は「タマゴが目覚めて」「二人の眠り」というアクリル画2点を出している。つぎのことばは、前者につけたもの。 無意識の中に過ぎて行く時間、この不安定な流れ個展会場でお会いしても、照れくさがって、あまり絵のテーマに立ち入った話をしない画家なので、貴重な証言だとおもう。 つぎに、現代美術のグループ展「水脈の肖像」などに参加している旭川の荒井善則さん。 木、ひも、ピアノ線、紙を使った立体「Soft Landing to Field A」「Soft Landing to Field B」を出品しています。 大地と樹々の中に生き、歴史に刻まれた痕跡を見つめ、繰り返す知への祭典おなじく「水脈の肖像」のメンバー柿崎煕さん(石狩)。いつもとおなじ、かろやかな形の立体「林縁から」をA、B、C、Dの4つ出しています。 植物の種子が自らの生命を伝える姿に触発されて制作しました。これは、すごく「なるほど!」っていう感じがしました。 意外だったのは、杉山留美子さん(札幌)。 札幌美術展での感動も新しい杉山さんだが、今回も同系列の、正方形の蝋キャンバスをふたつ上下にくっつけた作品をふたつ。 ひとつは、赤、オレンジ系統で、もうひとつは、抹茶、青系統だが、作品タイトルがなんと「草木国土悉皆成仏」っていうんです。 自己も環境も一体不二杉山さんって、こういう宗教的な感じのことは言わない人だとおもったんだけど。 ぎくりとさせられたのが、近年作品にどんどん深みをましている西村一夫さん(札幌)のことば。 今回は、オイルスティックとアクリルで麻布に描いた「One is One」「ロバと爆弾」の2点を出しているのだが、これは後者に附されたもの。 ツインタワーの犠牲者 見ごたえあるガラスの作品が多いのもこの展覧会の特徴で、とくに釧路管内鶴居村の嶋崎誠さん「日に捧ぐ」、江別市の米原眞司さん「生まれくるもの達」「スパイラル」は、ちからづよい作品でした。 ほかに、空知管内栗山町・中川晃さんが「青のひととき/青のどよめき」「見つめる顔/といかける顔」、小樽市・谷和行さんが「インセクト」を出しています。 ほかの出品者はつぎのとおり。地名のない人は札幌。 綿引展子(東京)「ブッダ」「マリア」「イスラム」「ファティマ」「キリスト」(絵画) 西本久子「ふぁー T」「ふぁー U」(染織) 田村佳津子「空のおく」「そら」(絵画) 野崎嘉男(岩見沢)「記シリーズT」「記シリーズU」(絵画) 川上りえ(石狩)「An Afterimage」(鉄による平面的な彫刻) 鵜沼人士「早春の教会」「待春」(絵画) 艾澤詳子「090501」「011298」(コラグラフ) 池田緑(帯広)「MASK SPACIMEN」(2点。現代美術) 後藤和司「Stream'02」(絵画) 大沼秀行(帯広)「萌芽(Germinate)」「マジックスクエア」(彫刻) 岡沼淳一(十勝管内音更町)「wind ward」(木彫) 村上陽一(帯広)「祥・花」(絵画) 中谷有逸(帯広)「涼景」(アルミ板を腐食させた平面) |
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ところで、鹿追の神田日勝記念館の前に、こんなかわいいパンダがいたので、おもわず写真に撮りました。 町内の園芸サークルかだれかの手になる“作品”でしょうか。 だれそれ制作で、題はなに、という札は立っていませんでした。 どうやらこれは「美術作品」とは認知されていないようです。 ところで、どれが「美術作品」でどれがそうでないと、いったいだれが決めるのでしょうか。 |
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とかちの環境アート2002 | 7月13日−9月23日 帯広市緑ヶ丘公園 |
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(註 Internet Explorerをお使いの方は、なるべく「文字の大きさ」を「中」にしてご覧ください。それ以外の場合はレイアウトが崩れます) 道立美術館や動物園のある緑ヶ丘公園のなかに、立体作品を散在させたもの。 9人の立体のほか、松本道子 Dance インスタレーションというのが24日にあったらしい(よくわからん言葉ですが)。 メンバーは十勝在住で、多分この手の野外展示はお手の物なのだろう。まずまず、おもしろい催しになっていた。 順路にしたがって公園内をひとまわりすると、1時間ちかくかかる。筆者は、高橋英双「phe nom enon」を見ないでしまったので、やや短くてすんだが、それでもかなりいい運動になった。 もっともなー、いまは地方に行けば行くほどみんな車に頼って、歩かなくなっているからなあ。地元の人が、これらの作品群を見ているかどうかは、わかりません。 鈴木隆「無題」 「公園に点在する切り株、枯れ木に光を当て、その亡骸を通して命の尊厳を確認する」という作品。 しかし、こんなことをすると、かえって切り株だということがわからなくなるんじゃないのか。 大沼秀行「生き物たちの遊び場」 カラスが仲間だとおもって寄ってきそうな、軽快な彫刻。これも、何体か散らばっておかれている。 このへんから先は「彫刻の径(みち)」となっていて、石の彫刻がいくつもならんでいるが、さすがに設置30年を経てかなり傷みが出てきている。石川治「弓人」などの題と作者名が読み取れるが、この作者たちはいまどこでなにをしているのだろう。 さて、橋本勇「空と大地(生命の循環)」は、うっそうと茂った林の中に、置き忘れたストーンサークルの中にあった。 ということで、写真にはとりづらかった。 木の枝でつくられた土俵のような円環の外側には、イーゼルに立てかけられた都市の空の写真が8つならんでいた。 都市と自然の対比ということなのかもしれない。 そして、中空には、木の枝やつるでこしらえた円が配置され、下の円環とつるで結び合っていた。 円環の中央には、枯れかかった幹が、心棒のようにすっくと立っていた。 佐野まさの「命の水プロジェクト」 透明な樹脂製の円筒が林の中にいくつも立っている。 中には水が入っている。 十勝に住む人の、体内に含まれている水の量をあらわしているのだ。 シンプルではあるが、人間の体がいかに多量の水によってつくられているかという事実をあらためて認識させてくれるインスタレーションである。 また、おなじ人間でも、大人と子ども、あるいは体格によって、その水の量がかなり異なるということも、ひと目でわかる。 パンフレットには 「人もまた体内に水を蓄え、植物を内包する森である」 と書かれてある。 もちろん、雨が降って水の量が変わらないように、円筒の上にはふたがしてあります。 米山将治「環境のプラネット」 パンフレットには「街路樹剪定材であそぶ」とあるので、あそびの作品らしい。 連日の雨で、芝生が湿地帯のようになっていた。 吉野隆幸「スキです Tokachi」 スキです、なので、一般参加者が紙にキスマークを付けたものをとりこんだ作品らしい。 写真は省略。 池田緑「Silent Breath」 おっとここにもあったか、マスク。 公園の、道路沿いの針葉樹の並木にも、一般の人々が参加して6月23日におこなわれたワークショップのさいに取り付けられたマスクがずらり。 梅田マサノリ「Absence 不在」 どこをさがしてもないので、「さすが不在」とおもっていたら、幹の上のほうに、いくつかの人体に似た彫刻がとりつけられていた。 トルソはまだしも、リアルな顔だけが幹から視線をこちらにおくっているのは、けっこう不気味なものがある。 パンフレットには 日常の中にある見えない部分とありますが、なんのことなんだか筆者の頭ではよくわかりません。 もっとも、十勝の自然はうつくしい。 こんなところにすんでたら、あんまりストレスを感じなさそうだなー、とよそ者らしい身勝手なことをおもってしまった。 ただ、こんなことを言うと、みもふたもないのだが、こんなにうつくしい場所にわざわざ芸術作品とやらをもちこまなくてもいいのにな、という気になったのも事実だ。 筆者が公園内をあるいていていちばん感動したのは、左の写真の、ゆるやかな下り坂だった。 じつになにもない風景だが、こういうところに、美をかんじてしまうことがある。 (しまらない結末ですいません) |